ぱんくず介護録

在宅介護事情。

黄色

2014-08-31 23:49:17 | じじの帰天
この地元は今の時期が一番過ごし易い。
朝晩冷え込んでよく眠れる、湿度は何処かに吹き飛んでよく晴れる、
晴れた日の昼間はからりとして爽快な秋晴れ。
今、暖房入れた。


主日礼拝にて教会に来た。




かつてじじ宅にあったハイビスカスが教会の風除室で黄色の花を咲かせている。
卵焼きみたいな黄色。




招詞 詩編66;1~4
讃美歌21 1、381
暗唱聖句 コロサイ3;15
詩編交読 詩編51;1~13
祈り
讃美歌21 445
聖書朗読 マタイ6;9~15
説教
讃美歌21 542
献金
祈り
頌栄 28
祝祷


礼拝の後、午後から勉強会があるとかで昼食があった。
教会の婦人が蒸かして来たかぼちゃ。
凄い粉の吹き方だ。
なかなか出来ないのだこういう蒸かし方は。



ほくほくしてウマい。
製作者自ら辛口評価、ダメ出しする。

「いやーこのかぼちゃほくほくし過ぎ。
 喉詰まりしそうだわ。」

いや、こういうのがウマいのです。


私は勉強会には参加せず徒歩にて一度帰宅。
途中電気店に寄る。

綱渡りのような均衡

2014-08-26 22:51:03 | じじの帰天
今日は遅番。
寒くて目が覚めた。
冬が近づいている。

・・・・・

昼休みにめでたくピロシキと「ねぎべえ」を嚥下した直後、
荒れ荒れになった。
私は残った通常業務を一人で全部やる事になって発狂しつつ小走りの一日だった。

私が自分の父親の葬儀と事後処理のため10日間仕事を休んで職場に復帰してみたら、
その間に亡くなった人も入院した人もいる。
自分の父親も含め、持病を抱えた高齢者の日常は紙一重というか綱渡りのような均衡によって
辛うじて維持されている現実がある。
さっきまで元気だったのに・・・という事。


(追記;
 帰宅後自分は死んでいたらしい。
 室内の照明が眩しく、つけっぱなしの暖房で鼻の穴がカピカピになって
  目が覚めたら午前2時だった。)


じじが亡くなる前に購入したままずっと聴いていなかった英神父様のFEBC放送
「私たちの巡礼ーイグナチオの生涯を道しるべに」を聴いている。
聴きながら、考え込む。

見つかった書類は回収

2014-08-25 22:23:25 | じじの帰天
早出勤務にて早朝出勤。
雲が重たいのう。
予報では晴れるって言ってたけどな。

・・・・・



昼休み、指定した時刻に件の管理業者は私の職場に現れ、
元じじ宅の補修にかかった費用の内訳を見せて寄越した。
じじが入居時に支払った敷金との差額を返還金として私宛に振り込んだと言って
紛失していた振込先指定の書類を持ってきたので回収した。

ごたごた

2014-08-24 22:06:07 | じじの帰天
仕事が終わった後で元じじ宅の委託管理業者に電話したら
携帯の電源が入っていないというアナウンスが入る。
日曜日だからって、これでは万一火災などが起こっても対応出来ないのではないのか?



家主宅に直接問い合わせすると、家人が出て

「困りましたねぇ…"何かあったらこちらで解決しますから"
 って言ってたんですよねぇ。
ま、何もそんなに大ごとにしなくても…」

などと言う。
「こちらで解決する」とはどういう意味か、顧客の個人情報を書いた紙を
何時何処でどういう状況で紛失したのか、そもそも電話もつながらない状態で
言ったとおりに探しているのか、ちゃんと調べて説明するよう申し入れた。
電話を切った後、折り返し連絡が来た。
家主側からも電話してみたがつながらないので家人が直接会社に行って見て来ると言った。


・・・・・


しばらくして管理業者が激怒して私に電話してきた。

「探せったって、探しても見つからないんですよ!
 週明けまで時間くれるんじゃないんですか!?
  もういいですよ何かあったら全部こっちで弁償しますから!」

逆切れの開き直りか。
自分のミスを顧客にぶつけて何ぶち切れてるんだ。
今、「弁償する」と言ったが個人情報の紛失が金で解決できるとでも
思っているんですかと突っ込むと今度はしばらく無言、その後
「とにかく時間下さい、何とか探し出しますから」と言う。

「何処で失くしたか見当たらないんですよー」などとのらりくらりしていたのが
この狼狽えようは、この3日間まともに探していなかったと思われる。
そのまま月曜になってから「とにかく振込先の口座番号を教えろ」の一点張りで
押し通すつもりだったのが家主の家人にまで話が及んで慌てたのか。
呆れた話だ。


電話を切ってすぐ私は上司に連絡して事情を話した。
明日早朝の業務が一段落したら9時に銀行に出向いて口座凍結の手続きをし
これまで自動引き落とししていた支払いを全部別の口座に変更するのに
午前中時間がほしいと話すと「それは早くした方がいい」と了解してくれた。


早朝出勤なのでもう就寝しようとしていたら管理業者から着信。

「ありましたー!」

そうですかよかったですね。
さっき私は明日朝一で口座凍結するために仕事を抜ける相談を上司としたところですよ。
(そう、よかったですね見つかって。
見つけ出さなければ私は銀行に行ったその足でこの問題を消費者センターに持ち込むつもりでした。
勿論ちゃんと名指しでね。)

業者は明日元じじ宅の敷金から清掃と補修にかかった費用を差し引いたものを
振り込んでから紛失したと騒ぎになった書類を持って私の勤務先に来るという。
随分嬉しそうだな。
電話口でころころ声色を変えるんじゃないよ還暦過ぎたおっさんが聞き苦しい。


あーあ。
明日朝一番で上司に謝らないと。
週末の夜遅くにとんだお騒がせもいいところだった。
何だか最後の最後までバタバタ落ち着かないなぁ。

管理人は連絡を寄越さない

2014-08-23 22:52:24 | じじの帰天
朝から引き籠って夕方までずっと書類整理していた。
部屋の中が少し片付いてきた。


午後から晴れてきたので夕方になって珈琲を飲みに出掛けた。
奥さんと世間話をする。



歯医者に行かねばならん話。。。。orz


一昨日私の銀行口座を書いた書類を紛失した元じじ宅の管理人は昨日も今日も
一向に何も連絡を寄越さない。
明日こちらから電話を入れよう。

見当たらない!?

2014-08-21 20:43:22 | じじの帰天
寒い。
寒くてベッドから出られない。
毛布二枚に包まっても寒い。


・・・・・


遅番であったがあまりの荒れ荒れぶりにブチ切れ30分の残業で切り上げ、
振り切って帰宅。
さて晩飯何食うかな。


今日一日寒くて四肢が冷えてやっきりこいた。
冷えで神経痛が起こりそうだ。
あと少しで、来月には秋の彼岸が来る。
それ過ぎたらまた冬が来るんだな。


ついこないだ正月明けたと思ってたのに。


ところで、今日勤務の終わった時に携帯を見ると、
引き払ったじじ宅の家主が委託している管理会社の社長から着信していた。
折り返し電話してみると、

「えーと、先日のお部屋の補修と内装終わりまして、
 その費用が入居時の敷金から出しても幾らか余ったのでお振込みのために
  お使いの銀行の口座番号を伺いましたが」

はい。
紙に書いてお渡ししました。
どうかしましたか。

「それが見当たらないんですよぉ」

それは私の口座番号を控えた書類を紛失したという事ですか?

「まぁ、そういう事なんですよ、それでもう一度口座番号を教えて貰えますか?」

お断りします。
軽く考えて貰っては困ります。
顧客の個人情報ですよ。
どういうつもりですか。

「はいー、すみません、でも何処行ったか見当たらないんですよ」

戻ってくるお金は後でも構いません。
そんな事よりも口座番号を書いた紙を探し出して下さい。

「いやーでも探すったって・・・」

探して下さい今すぐ!!


それ以上は問答無用で電話切った。
最後の最後にろくでもない。
あれで還暦過ぎてるのかほんとに。(呆

宛名印刷を依頼した

2014-08-19 23:02:18 | じじの帰天
朝焼けだ。
これから降りそうだな。




先月葬儀で世話になった葬儀社に親族知人に送る挨拶状の宛名印刷を依頼してきた。
じじが撮った写真でハガキ作った。
これで事務的な事は一段落なのかな。


雨降って来たけど写真整理に使う黒い台紙が足りないので買い足すため出かける。
草花が既に秋だ。






さて黒い台紙を買いに行く。
1軒目の文房具店はA4の黒い紙が品切れだった。
私が先日全部買い占めたからな。
2件目の紙専門店には黒い紙はあるが超大判。
しかし店で有料て裁断してくれるというのでA4サイズで200枚にして貰った。
次回また足りなくなったらこうやって裁断して貰う方がいいかも。


ひゃーザンザン降り。
雨に頭を叩かれてるみたいだ。
傘差しても靴の中までずぶ濡れ。






休みの日だと言うのに何だか疲れた。
横になりたいけどまだ布団乾燥機がベッドを乾かし中。
あと90分待たねば寝られない。

こだわり

2014-08-17 22:30:09 | じじの帰天
昼休み、携帯を見るとじじの写真で印刷を依頼していた挨拶状が出来たと
写真店から連絡が入っていた。
帰りに受け取って行こう。
あと残るは挨拶状を送付する宛名印刷を何処に頼むかだ。
自分のPCとプリンタでやってみようかとも考えたが、写真を官製はがきにしたもので
紙送りでもしトラブったらリスクが高い。
印刷の専門家に依頼した方がいいと考える。
何処に頼めばいいのかな・・・帰りに珈琲店に寄って奥さんに相談してみよう。


・・・・・


何とか時間通りに仕事終わった。
写真店に寄って出来上がった挨拶状を受け取る。


・・・・・


図案となった写真はじじが21年前に撮った6羽のタンチョウの写真である。
本人はそれらの写真作品を自らトリミングして年賀状にしていた。




当時は元気で気ままに独居生活しながら連日湖や山や湿原に車を走らせていた。
デジカメの登場する以前のアナログ世代のじじにはタンチョウの写真にこだわりがあって
空の青が深く澄んで鮮やかである事、
飛翔するタンチョウの先頭の一羽の風切り羽が扇のように綺麗に開いている事、
頭上を飛ぶ白いタンチョウの腹は逆行で撮りながら雪の反射で白い事、
という三つのこだわりがあった。
しかし野生の生き物であるからマイナス20℃以下の原野でカメラを構えるじじの思惑など
タンチョウにとっては与り知らぬ事、じじの思った通りには写ってくれない。
しかしそれを日に何時間も粘って自分で納得のいく瞬間を捉えると本人は満足して
額縁にしたり年賀状に使ったりしてきた。


今回じじ宅を引き払う時に遺品の中からフィルムが見つかった。
飛翔するタンチョウの3羽のと、6羽のと、本人が大変気に入っていた2枚。
じじのこだわりを三つとも満たしている写真が手前の3羽のタンチョウで
本人にとっては瞬間を捉える最も難易度高かった写真作品であり大層気に入っていたものだ。
これを最後の挨拶状に使ってやりたかったが、
年賀状のように文字数少ないなら使えても挨拶状だと画面に文章を挿入する余地がない。
文字は白抜き文字にするので文字と鳥とが重なると読めなくなる。


結局、奥の6羽の写真の方が今回の図案としては適している気がした。
空の青が3羽の写真よりも6羽の方が濃く深い青色をしており、
6羽の鳥が整った弧を描いて画像全体に飛翔感があり。
画質としてはより至近距離から撮影した3羽のが良好であるが、全体像では6羽の方かな。


古い年賀状を出して来てトレーシングペーパーに挨拶文を手書きして合わせ、
6羽の方を挨拶状の図案に使う事に決めた。
文字の入ったところを写真店のPC画面で見て最終的によしとした。


写真店の人によると、同じフィルムの実物を使っても
実際はがきにしてみると、年賀状にした当時と今とでは時間的な経過が長く
現像技術が格段に進歩しているため当初この年賀はがきには表れていなかった
タンチョウの頭の赤い部分が今日出来たものにはちゃんと現れている。
フィルムの保存状態も良好でカビが生えたりしていないのもよかったと褒めてくれた。
じじが長年仲良くして貰った写真店だ。
これが最後の利用になる。
ありがとう。
長い間お世話になりました。


・・・・・


早番勤務の後は大抵空腹で、脚足が棒のように疲れている。
珈琲店で珈琲を待ちながら
奥さんに宛名印刷を頼める印刷屋を知らないか聞いてみた。
葬儀社に相談したら全部やってくれたというので、じじの担当者に
電話で問い合わせたら宛先となる名簿さえきちんとしていれば手配してくれるという。
明後日の休みに名簿と出来上がった葉書とをセットで持って行く事にした。
よかった。


珈琲飲みながら奥さんとしばしじじの写真の話をした。
じじは元気だった頃に自分で額縁にした写真作品を時々持ち込んで
店内の壁の一画に展示させて貰っていた。


私は小学3年の頃から自分の父親の写真雑誌やニッコール年鑑を日常的に、
手近な絵本代わりにして眺めていたので写真とはこの年鑑に載っているような
「誰も見た事のない視界を撮ったもの」が写真だと思っていた。
(今思い返すと小学生の分際で生意気な子供だったよ自分と言う子供は。)
その点父親の撮る風景写真は子供だった私の眼には誰もが目にする凡庸な風景画であり
誰が撮っても不細工にならずそこそこ平均的に色も綺麗で、
しかし退屈でつまらんと思っていた。
それでつい最近まで、正確に言うと私が携帯電話のカメラ機能を使って
そこいらのものを自分自身で撮る事を覚えた2007年頃までは、
ずっとそう思い込んで自分の父親の撮る自然風景写真を全く認めていなかった。
今はそれが幼稚な思い込みであったと思う。
風景写真を撮り始めると光の角度によって変わる色彩の魔力に取り憑かれる。
色が面白いのだ。

花火の記憶

2014-08-16 23:54:28 | じじの帰天
部屋の中全体が掃き溜め状態だな。
頑張って片づけよう。
これら写真の山をまずどうにかしないと。


この、大昔の分厚いアルバムが邪魔だ。
大して枚数を収録出来もしないのに頁が分厚いボール紙で重たい。
枚数入らないからこの厚ぼったいアルバムの冊数が増えて最悪だ。
しかも写真の保存としてはあまりよろしくない。
褪色、変色、湿気、結露、台紙の糊による写真の劣化など多数。
でも昭和40年の時代はこういうアルバムが主流だったな。
昭和20年代に粗末な厚紙に切り目を入れ写真を一枚ずつ嵌め込んだものの方が
写真は変質せず保存状態が良い。


・・・・・(作業中)


ぅがー2000円出て来たアルバムに貼られて。
ぼろぼろの紙幣だ。

 



じじは何でこんな事をしたのだこれらの紙幣に。


百円札は懐かしい。
子供の頃百円札持って駄菓子屋に行くのが夢だった。
糸の付いたくじ飴と、マンボとか言うニッキの棒と、紙袋一杯10円の南部せんべいの耳と、
一個5円バラ売りだったサイコロキャラメルと、マンガのキャラクターの風船ガムと、
鉄腕アトムのシール入りだったマーブルチョコレートを買いたかった。


五百円札も馴染み深い。
小学生だった夏休みの早朝6時頃になると遠くでイカ売りの声がした。
母親が私にアルミのボウルと五百円札1枚渡して寄越し、
「500円分買っておいで」
と買いに行かせた。
声のする方角に歩いて行くと、煤けたジャンパーを来たおじさんが
道端に木箱と自転車を停めていた。
言われた通り五百円札1枚渡し、これで買えるだけ下さいと言うと、
おじさんは「おまけしといちゃる」と言ってボウルに朝獲ったイカを
12か13匹くらい入れて寄越した。
私はそれを持って歩いて帰宅した。
母親は不満そうに「何だ、500円でこれっぽっちかい」と言った。
イカはその夜に刺身とフライとして夕食のおかずになった。
母親はイカのゴロを塩漬けして自家製の塩辛も作った。
昭和40年代の500円の貨幣価値は、今で言えば幾らくらいに相当するだろうか。


よし。
これで分厚いアルバム一冊やっつけたぞ。
写真ではなく古い紙幣や旧国鉄時代の記念切符や記念入場券が満載であった。


・・・・・


買い物に出たが急ぎ帰宅、買ったものを自宅に放り出し
蚊に刺されない服装に着替えて近所の川まで歩く。
毎年恒例の花火大会を見に行く。


もう始まっている。






まだ妹が生まれていなかった2歳頃、私と両親はこの川のすぐ近くに間借りしていた。
三人で歩いてこの川まで花火を見に行った夜の記憶が今も残っている。
頭の上で赤いスターマインか地響きを立てて炸裂した。
そう、ちょうどこんな巨大で赤いのが。



私はびっくりして泣いたが、両親は笑っていた。


何十年も経ってこの地に戻って来た時、私は夜勤で花火見物どころではなく
在宅介護もまだ初めの頃のじじは自分でベランダから花火を眺めていた。
だんだん自力で歩けなくなって床を這うようになって、
先月まで入居していたエレベーターのある一室に転居してからは
じじはあの飾り窓からここで上げられる花火を眺めていた。
去年はあの老人病院で寝たきりになって見られなかった。
私は一人でここまで見に来て花火の写メをたくさん撮った。
翌日画像をPCに落として病室に持って行き、じじに見せた。
スライドショーにしてやるとじじは病室のオーバーテーブルに乗せたノートPCに見入っていた。

去年も、その前の年も、その前の前の年も、花火が上がる度に思った。
これがじじにとって最後の花火になるかも知れない。
そう思っていた。

珈琲店の奥さんが言う。
花火は悲しい、一瞬だけ物凄く綺麗でその一瞬で終わり、
だから花火は悲しい、と。

仕事で夜勤が多かったりじじのADLが重たくなって自分の自由時間が確保できず
好きなように河川敷に見に来られなかった数年間は、いつか介護生活が終わったら
一人でこの河川敷に見に来て真下から頭上で炸裂する花火を見上げようと思っていた。
今、私はその通り見上げている。




シイタケみたいな、いやタンポポの綿毛を目指したのかなこの花火。




これは地味で音だけでかい。




これはリンゴを表現したそうだ。




これはウニっぽいが多分そんなつもりではないだろうな。











こんな、長く下に延びる枝垂れ柳と呼ばれる花火も昔からある。
2歳頃に見た憶えがある。




仕掛け花火、来た。
このナイヤガラと呼ばれる仕掛け花火も2歳当時の記憶として残っている。








放送席で地元の歌手か何かかな、若いおにーさん達が紹介されて
「マリモで盛り上げたーい!」
って叫んでるよ。
で、歌を歌ってる。
大音響で何だかよくわからんけど盛り上がって下され。











この赤いのはさっきの緑色のと色違いかな。


















これは細く長く伸びて、長持ちしてなかなか消えない、見た事ない花火だ。
火薬の種類が違うのだろうな。









橙色で暗めだけどよく伸びて完全に消えるまで時間がかかる。
江戸時代の花火を再現したという花火が何年か前にテレビで紹介されていたのを
見た事あるが、それだろうか?
今よりも火薬の種類は少なくて橙色の暗めの花火がその当時の主流だったと放送で言っていたな。
それだろうか?
でもこれは橙色ほど暗くない山吹色系だな。


ぼさっと見ているとどんどん上がる。




アナウンスがはいった。

「いよいよグランドフィナーレでございます」











ああ。
終わった。


この過疎地にこんなに人がいたのかと思うほどの人出で、
コンビニに届いていた映画DVDを受け取って、ほんの5分の距離を30分かかって帰宅した。


昼間の写真整理作業の続きに取り掛かる。
作業はまだまだ終わらない。

じじの写真作品(昭和45年頃)

2014-08-15 21:11:00 | じじの帰天
帰宅して写真整理の続き。
昨夜出て来た昭和45年頃のじじの写真作品には面白いのが結構ある。
じじの写真が上手いかどうかは知らないが、
今の時代の編集可能なデジカメ写真よりも緊迫感がある。


尾岱沼のオオハクチョウの群れのスナップ写真に紛れて出て来た、
座礁したまま残骸と化し雪と氷の海に埋まった船。




普段私が散歩する市内の川の橋の上から真冬の川面を撮った写真。





今の時代、市内の川がこんなに厚い氷に覆われる事はない。
ハス氷が張る事はあってもこんなに分厚くない。
44年の歳月の間にどれほど温暖化したかがわかる。


何だか眠くて起きていられない。
まだ21時過ぎたばかりというのに。
明日一日休みだし、少し寝よう。

写真整理は終わらない

2014-08-14 22:27:51 | じじの帰天
昨夜は寒かった。
晴れて日差しは強いが秋風が冷たい。


・・・・・


仕事終わって、疲れたので何処にも寄らずに帰宅した。
OTTAVAを聴いている。
久しぶりだ。
ジョスカン・デ・プレも斎藤さんも。
ペロタンの楽曲聴いてると成仏しそうになるから困る。
迂闊にぼーっと聴いているとタマシイ抜かれるよ。
ペロタンのオルガヌムが好みで何枚か既に持っているが、
今放送の中で流れていた楽曲がよかったのでポチった。


OTTAVA聴きながらじじの遺品写真整理作業中。
昭和45年8月15日の運動会のスナップ写真出て来た。
何年前だ・・・・44年前の明日ではないか。


大量のSL写真も出てきた。。。。。orz


明日可燃ゴミの日だから
この分厚くて収納力ないアルバムを廃棄すれば私の部屋も少しはすっきりする。
・・・と思う。


分厚く重い昔ながらのアルバムから剥がし、残すものと捨てるものとを選別し、
残すものを自然風景写真とスナップ写真とに分け、時系列に並べてA4の黒い台紙に貼り直して
ファイルに収納している。
この作業が進む事によって徐々に私の部屋の床が現れてきた。


あと何冊残ってんだろ。。。。。orz 

召天者記念礼拝、納骨

2014-08-10 22:32:36 | じじの帰天
曇って肌寒い。
今にも降りそうな重たい雲だ。


台風が西日本縦断しようとしている。
三重県で56万人に避難指示、徳島で浸水被害が出ているニュース見た。
慌てて三重県在住の教会仲間にメールで安否確認、徳島の親族にはまだ。
浸水被害が深刻だと言うニュースが出ている時に電話してもそれどころではなかろう。
ここの地域はまだ明るい曇り空で、降り出す気配はまだなし。


じじ、私の汚い部屋も今日が最後だよ。




さあ、時間だ。
教会に行こう。


タクシー呼んで遺骨を抱いて乗り込むと、
かつてじじがヘルパーと一緒に教会通いしていた頃によく利用した運転手さんだった。
ヘルパーが介助するのに協力してくれて、車椅子を畳んでトランクに積んでくれたっけ。
長い間じじの教会通いに協力してくれた事に感謝を伝え、
我儘一杯の大威張りで車に乗せて貰ってたのにこんな姿になってしまいましたと言うと、
運転手さんも当時の色々なエピソードが印象に残っているのか、
教会までのほんの数分間の道程で思い出話がたくさん出た。


じじ宅の居間にあった鉢植えが教会の玄関前に置かれている。

 



ハイビスカスは蕾が増えた。
随分たくさん。


今日は大勢人が集まっている。




じじの遺骨と遺影を礼拝堂の講壇の奥に置いた。


召天者記念礼拝。




・・・・・


讃美歌(21)206
  七日の旅路守られ歩み、今日またここに集まり祈る
  御恵みの日よ、安息の日よ
  ・・・
  巡り来る度ここに集まり神の言葉に養われる日
  御恵みの日よ、安息の日よ



讃美歌(21)
  花彩る春を この友は生きた…
  緑萌える夏を この友は生きた…
  色づきゆく秋を この友は生きた…
  雪輝く冬を この友は生きた…

この讃美歌の歌詞、
昨夜整理しながら眺めたじじの残した自然風景写真を思い出させられる。


聖書朗読(ルカ15;1~10)
説教


讃美歌(21)459
  飼い主我が主よ 迷う我らを若草の野辺に伴い給え…


献金
祈り


礼拝の後、仕出しの弁当を皆で食べた。
じじと同年代の方が遺族の中にいらして、しばらくお喋りした。

「うちの娘はもうちょっと生きててもよかったねぇ。」

娘さんの享年が今の私の年齢であった。
遺族がじじと同年代で、故人が私と同年代とか、もっとずっと若かった場合もあって
やりきれない思いがする。
自分の子供の墓参りをする高齢の親の気持ちは想像がつかない。
私が先でなくてよかった。
じじを看ていた時ずっと思っていた事だ。


雨が降り出す気配はまだないが、降って来ては困るので早々に車に分乗して霊園に向かった。
向かう途中、じじの撮った写真と同じ景色が一瞬見えた。


雲はあるけど薄日が差して明るい。
私がじじの遺骨を抱いて立っていると、
教会の重鎮を長年務めた高齢の教会員が私の顔を見つめて静かに言った。

「今生きてる人こそが大事よ。」

讃美歌(何番だったか忘れた)
説教
祈り

牧師先生が納骨堂の壁にじじの名札を入れた。
納骨された召天者達の末尾にじじの名前が入った。
じじの遺骨を置き、その前にもじじの名前を書いた札を立てた。
ガラス戸が閉じ、施錠した。


また来年来るよ。


教会仲間の車で戻って来る途中、頼んで寄り道して貰った。
じじが写真に撮った湿原が見える。
ここから撮った写真もあったのを昨夜私は見たのだ。




・・・・・


一度帰宅し、着替えてから写真店に行く。
じじの撮った写真の中から選んだ一枚で挨拶状のハガキを作成して貰う。
お盆を挟むのでしばらく時間がかかるという。
私は住所録をまとめないと。


帰宅して、再びじじの自然風景の写真を整理する。



多過ぎてなかなか進まない。

空が赤い

2014-08-09 22:14:43 | じじの帰天
三連休初日、じじの残した写真アルバムを整理している。




主に道東の自然風景写真であるが、青は徹底的に冴えた青で、
多分マイナス20℃以下の中で湿原や鶴居村や摩周を撮っている。
よくヒグマやエゾシカと遭遇しなかったものだ。


大昔の時代の写真用アルバムは、今もそうだろうか、
大判の正方形で一頁一頁が分厚いボール紙で表面に糊が仕込んであって
写真を貼ったら上から透明フィルムを被せるタイプのものばかりで、
枚数は大した入らないのに一冊が重たくてでかくて見るにも収納にも不便だ。
それで一枚ずつアルバムから剥がす。


ひたすら単純作業。。
明日の納骨の天気が心配だ。


朝からずっと引き籠って写真整理ばかりしているのはよろしくない。
珈琲店に行く。


珈琲を頼もうとしたら空が燃えるみたいな色をしているので
珈琲を置いて高い場所から見て見た。


あーあ。





赤いなぁ。
明日雨降りますと言わんばかりに赤い。


明日雨降らないでほしい。
頼むよ。

黄色

2014-08-07 23:59:34 | じじの帰天
今日も早出にて早朝出勤、仕事していてあまり意識していなかったが
昼間雨が降り始めると風が冷たくなった。
蒸し暑いからと言って窓を開けていたら寒くて腕や肘関節がきりきり冷えて痛んだ。


・・・・・


ほぼ定時に仕事を終え、バスで帰宅。
降りたバス停の傍に花屋があって、ひまわりを買い足した。
昨夜スーパーで買って飾った花がどうしても自分の趣向によって雑草臭過ぎて
遺骨の周囲に置くと野ざらしっぽくなったので花らしいものを追加してみた。




個人的に、切り花とか生け花は好きではない。
そこいらの空き地で勝手にぼうぼう茂っている訳の分からない草花を見る方が好みである。
それでもじじが存命だった頃にはベランダの鉢植えの花の他に、
室内で季節感のある切り花をわざわざ買って来て生けたりもした。
認知症が進行していたので日付は無理でも暦に合わせて季節の行事を意識させる目的で。
正月の松の枝と白菊と千両か南天の赤い実とか、
春には桜の枝とか菜の花とか、秋には竜胆と鬼灯と薄とか、
冬には黄色のフリージアの束を大きな花瓶でどさっと無造作に水に挿していた。


じじの遺骨の傍らにひまわり、反対側に黄色の薔薇。
納骨までは生花を絶やさないでおこう。




この黄色の薔薇は、6月にじじが急変する前日に父の日だからと言って
じじの床頭台に飾ったプリザーブドの黄色の薔薇と同じ薔薇だ。
よくできた卵焼きみたいな黄色。(笑




黄色の花は色が温かくていい。
雨の日でも室内がぱあっと明るくなる。


本当は、空色の朝顔を添えてやりたいが、残念ながら切り花にならないし、
朝顔の鉢植えの手入れが出来るほど私は部屋にいないので断念している。


明日も、明後日も、納骨の日曜日も予報では大雨らしい。
土砂降りであれば召天者記念礼拝そのものが延期となると
私の勤務が問題になって来る。
人手不足で簡単には休みを取れない。
既に納骨の日程に合わせて休みを確保してから勤務表を作っているので動かせない。
困ったな。
風が一気に強く吹いて晴れ間が来ないかな。
天気に注文つけても仕方のない事だが。

じじの帰天から1ヶ月

2014-08-06 22:10:17 | じじの帰天
日付の変わる頃、叩き付ける雨が降り出した。
鬼蜘蛛が巣網をたたんでどこかにいなくなると、必ず雨が降る。
確実に降る。


雨の音が聴こえる。
アントニー・デ・メロの本の中の言葉を思い出す。

 ひと粒の雨の音に
  心をとどめてみよう。
 そうすれば、
 人類の歴史に及ぼす
  自分の人生の意味が
  わかるだろう。
      (アントニー・デ・メロ
           『心の歌』女子パウロ会より)


・・・・・


早番にて早朝出勤。




じじが死んで今日で1ヶ月。
もう1ヶ月になるのか。
まだ昨日のような気がする。
私の部屋に安置した遺骨を見ても実感が無い。


・・・・・


定時に仕事を終えて帰宅した。


実際、固定電話や公共料金の解約と清算がまだ全部は終わっていない。
じじの部屋は無くなっても私の部屋に整理すべき写真の山がまだ。


先日、残業の後食料品の買い出しをしていたら、
じじが最後にいた病院の脳外科のスタッフの一人であり、
私とは某所で同級生だった友人とばったり遭遇した。


脳外科から消化器外科に移動して3日目に亡くなったので脳外科のスタッフは皆驚いたらしい。
じじの担当だと言って看護計画を詳しく説明してくれたり、
細かい体位変換やじじの意識レベルを向上させるべく落語や小学校校歌のCDを活用したり、
じじのためにエアマットを調達してくれた受け持ちの若い看護師はどうしているだろう。
よろしく伝えてほしいと言ってその場でしばらく立ったままその話をした。


脳外科の人々は一生懸命じじに関わってくれて、
じじの最期の日々に手厚い看護を受ける事が出来て有り難かった。
ただ、まだじじが脳外科にいた時、消化器外科に移動する2、3日前に
本人の顔に死相が出ていたのを私は見た。
病棟の看護課長も病室に来て、じじの顔貌が急激に変わったと深刻な表情で私に告げた。
看護課長も私も、終末期にある人々の最期の時に何度も立ち会う経験をして、
これまでに見て来ている。
死が間近に迫っている人の何か予兆のような、昨日と状態は何も変わらず同じなのに
何故か眼窩が異様に落ち窪んで骸骨が皮膚の表面に浮き出て見えるような、
表情筋が全部緩んだような、寂しく陰鬱な、気高いような、しかし無機的な、
何とも言葉で表現し難いあの特有の顔貌を、あの日じじは私達に見せていた。
その翌日から少し1、2日だけは持ち直して表情はっきりし、発語もあった。
しかしその時既に両手背が水風船みたいにぱんぱんに浮腫んで皮膚が透けていた。
CHFの末期によく見かける症状だ、心臓がくたびれている、もうダメなのかなと思った。
抗痙攣剤を投与して共同偏視も無くなり、経鼻胃チューブから食物繊維とオリゴ糖を
滴下注入で試したら便も出るようになって消化管も使えるとNSTの評価もよく、
これから消化器外科で胃瘻造設し本格的に経管栄養を開始出来る、
栄養状態が改善すれば仙骨の褥瘡は治癒し、予備力も回復出来ると展望が開けているのに
そのために必要な準備をして他科同士で調整しているのに
私は胃瘻造設後の受け入れ先の医療機関探しと、見つからない場合の在宅看護の準備とを
並行してするためにMSWとの面談の日程を組んで、万事が前進しているのに、
じじの顔に死相が表れた。
その顔を見て、じじの残り時間がもう秒読みの段階に来た事を私はその時実感した。
そのためか、帰宅してから泣けて仕方がなかった。
病状はいつもと変わらないのに、バイタルやその他のデータに大きな変動が出た訳でもないのに
終わりがいつになるかは知らなかったが、じじが死ぬ数日前は無闇に泣けた。
死んだ後よりも死ぬ前の方が闇雲に悲しくて、根拠なく涙が出た。

「気管がゴロゴロ鳴って、痰が絡んで絡んで、
 吸引しても吸引しても痰が多くて取り切れなくて苦しそうで…」

と脳外科でじじの世話をしてくれた友達は私に言う。
確かに、肺炎がひどかった。
昨年老健で食事介助中の誤嚥から重篤な呼吸不全に陥って一度持ち直し、その後
再発と病状改善とを繰り返しながら生き延び、老人病院に転院して
長期臥床中の不適切な体位変換によってまた肺炎が再発した。
呼吸状態が悪かったのは余力が残っていなかったのと、肺に水が溜まっていた事もある。
それでもあの状態でもう数日生き延びていたら。

・・・・・

もしじじがあと1日か2日生き延びていたら。
更に残酷な目に遭わせる事になったのは間違いない。
あと数日生き延びていたら、呼吸状態と喀痰の多さから気道閉塞の危険を予測し
気管切開を、じじの気管に穴を開ける事になったであろう。
穴を開けた喉から吸引し、腹に穴を開けて胃瘻を造設し栄養する。
おそらくじじは嫌がったであろうし私は患者の家族としてむごい選択に葛藤した事だろう。
右を選んでも左を選んでも一生涯後悔するような、地獄の選択を迫られた事だろう。


この次の日曜日はじじの遺骨を連れて教会て主日礼拝をし、
その後午後から他の遺族と共に教会の墓地に出向き、墓前礼拝の場でじじの納骨をする。
それまでは狭くて汚い私の部屋に、不格好で無造作に活けた花で飾って安置してある。


予報では雨続きだけど、納骨の日曜日、天気大丈夫かな。