ぱんくず介護録

在宅介護事情。

腕時計

2014-10-29 23:38:47 | じじの帰天
夕方になって、三日月よりもやや太った月が出ている。




じじの細々した遺品を入れた木箱を開けてみると、
本人が生前最も大切に肌身離さなかった腕時計が止まっていた。
電池が切れている。
そうか。
葬儀の時はまだ動いていたんだけどな。
前回この腕時計の電池交換したのはいつだったろうか、
じじがこの腕時計を買ったという昔馴染みの時計店を私は訪ねた記憶がある。
それと古い懐中時計の電池を替えて来いと言ってヘルパーを困らせ、
結局私が夜になってこの時計店を訪ねたのはもう4年も前の事になるのか。
あの時のように古い時計店を訪ねた。
ごめんくださいと声をかけると店主が出て来た。
第一級職人の店である。
電池交換の間しばし店先で待つ。
すぐ終わった。
会計を済ませると、店主が私の顔を見て言った。

「何処かで会った事が…井上さんではありませんか?
 この腕時計、うちから買って頂いたものです。」

ああ。
店主はじじを憶えていてくれた。
何年か前にも電池交換で訪ねた事がある事、じじはこの腕時計を
最初の脳梗塞を乗り越えた記念に購入して以来15年間肌身離さず愛用していた事、
本人は今年の7月に亡くなったが今さっき腕時計が止まっているのを見つけたので
大事にしていたものだから動かしておいてやろうと思って持参した事を
私は手身近に話した。
じじが若く働き盛りの現役だった時代からの付き合いのあった時計店だ。
また止まったら持参するのでその時はお願いしますと言って店を出た。


買い物をして、珈琲店に寄る。
仕事の終わるのが遅くて閉店に間に合わない事が多く飲みに来るのも久しぶり。
カウンターに再び動き出したじじの腕時計を置き、
じじのカップでブレンドを注文した。



かつてじじはこのカウンターで左手首にこの腕時計を着け、
自分のこのカップでブレンドを飲み、店主や奥さんと談笑し、
同行のヘルパーさん達に自慢話を披露して、日々の珈琲時間を楽しんでいた。
身に付けていた腕時計と愛用のカップだけがあって、本人はいない。


私は私のカップでフレンチを飲みながら、じじの時計店にまつわる思い出話を
奥さんと話し込んだ。


2010年の年明け1/2の初淹れの日に
すぐお隣だからと言って車椅子を押して店に連れて来ようとしたら
そんなに深くない雪でも車椅子のタイヤが埋まってしまって断念し、
諦めきれなくてタクシーを呼び、車椅子を畳んでトランクに乗せ、
敷地を一回りして店の入り口に着けて貰い、介助してやっとじじをこのカウンターまで
連れて来たのだった。
私がじじとこのカウンターで一緒に飲んだのはあれが最後だった。


その後はヘルパーの介助で何度かじじは店を訪れていたが立位すら難しくなって
ヘルパーの介助にも限界が来て飲みに来るのを断念し、代わりにじじ宅で
デイの無い日はヘルパーが必ず珈琲を淹れてくれていた。


じじが最後にこの店で珈琲を飲んだのは、2011年の1月18日、
不穏、暴言、ヘルパーへの理不尽な要求が多くなっていた頃、
じじはヘルパーの退室した時を見計らって脱出した。
立位もままならないのに自力で壁伝いにやっと伝い歩きで移動し、
エレベーターで階下に降り、昼間でも氷点下の厳寒期にコートも着ないで
外に出て建物の壁伝いにこの珈琲店まで来ようとして立ち往生しているのを
店を出て来た常連客が発見し店主に知らせてくれた。
「時計店に行く」と言って興奮するじじを店主が店に誘導してくれてカウンターに座らせ、
おやつと珈琲を出してじじを宥め、私に連絡してきた。

「おねえちゃん、父さんば怒らないでくれ、な?」

じじにとってはあれがこの店で珈琲を飲んだ最後だったと記憶する。
店主の顔を見てすっかり気分が和んだじじは店で話し込み、
その隙に店主がじじ宅に車椅子を取に行き、散々喋って気が済んだところで
店主に車椅子を押して貰って無事帰宅していた。
それ以降、じじははADLが落ち認知症も進んでこのカウンター席に座る事はなかった。


店主もじじもいないが、彼らが愛用していた物と空間とジャズと珈琲の香りは
彼らがいた時と変わらず今もある。


奥さんは昨夜国営放送で見た在宅の老々介護の番組を見て感極まった事を
私に話してくれた。
そこから死生観の話が出て長く話し込んでしまった。

二重線

2014-10-12 23:01:31 | じじの帰天
わかった。
じじの父親の最後の消息。
「区」も「条丁目」も無かった昭和38年当時の「札幌市平岸910番地」は
「札幌郡豊平町字平岸910番地」だった。
検索、検索、グーグルマップ・・・何だこれ平岸霊園!?

いや違う、霊園に隣接した墓場と道路挟んだ向かい側に精神科の医療機関がある。
当時の市立札幌病院の精神科部門がここに集約されていたらしい。
そうか。
じじの父親は私達の間借り部屋を出て所在不明になった後、
重い心疾患と肺癌のため大学病院や市立病院、国立がんセンターを転々としていた。
重症化し終末期に進行するにつれ孤独と病苦から死に至る不安と恐怖に陥り、
精神に変調をきたしたのだろう。
随分前に法事の席で親族から聞いた事があった。
遠方の実弟に「支離滅裂で悪意ある手紙」を送り付けて親族から絶縁されていた。
一番年上の実息であるじじとも没交渉、後妻の子供二人は高校生と小学生、
誰も頼りに出来ない、誰からも見放された孤独の中で重い心疾患と肺癌の治療をしていた。
元気だった時は人の弱みに付け込んでまでも金儲けに明け暮れ、
愛人を囲い、子供には利用価値だけを求めた結果、
人知れずそのような病苦と孤独の中で晩年を迎え入退院を繰り返していた。
祖父の末妹である大叔母が生前何度も口にしていた
「札幌の南の外れの鉄格子のある精神病院で死んだのよ」
と一致する。
現在の平岸は大都会であるが、昭和30年代当時は札幌市の南の外れ、
市営墓地が大半を占める郊外の一角だったらしい。


今のようながん治療や癌の疼痛コントロールのノウハウが浸透していなかった時代、
苦痛や恐怖から不穏や譫妄に陥った患者に対する緩和ケアすらない時代、
余程騒いで周囲に迷惑だったのだろう、肺癌末期であったのが精神科に移された。
今現在の精神科医療とはかけ離れていた昭和30年代の精神科病棟、
じじの父親がそこで尊厳ある療養生活を送ったとは考え難い。
病苦と孤独の果てに鉄格子の中に入れられて死んだのか。
一人の患者としてはこれ以上無いほどに痛ましい末路だ。
しかし当然と言えば当然の結果と言える。


じじの父親は目先の損得には抜け目ない、悪い意味で頭のいい人物だったと思われる。
改製原戸籍を取り寄せてみてそう思った。


曽祖父は一族の長として、生まれた子も孫も全員戸籍に登録し、
夭折した者も離別した者も曽祖父はありのまま手を加えずに残しているが、
その家督を相続した息子である祖父、つまりじじの父親は違っていた。
じじの父親は利害損得で実子の戸籍に手を加える事に躊躇の無い人物だった。


祖父は後妻と新戸籍を改製し前妻腹の長男であるじじや全盲の姉という厄介者を削除し、
別々の妻に産ませ夭折した子供達も削除して、初めから生まれてすらいなかった事にし、
数回ある協議離婚歴という再婚に不都合な記述も謄本だけでは見えないようにしている。
実際曽祖父の改製原戸籍を取り寄せないと戸籍謄本から彼らの存在を知る事は出来ない。
じじの実妹などは、一度記載した「長女」という出生の項目欄だけでなく、
「○年○月○日出生、父井上**届出」の記録そのものを後から二重線で抹消している。
つまり、初めから生まれていない事にしたのである。
生まれなかったのだから死んでもいない事になるが、
この実際の長女の出生の記録を戸籍上抹消した後で、
祖父は13年後に3番目の後妻と再婚して生まれた女児を次女ではなく
「長女」として出生届を出している。


当初は長男として生まれたじじの戸籍も同様である。
「長男」の「長」の字を削って消した痕跡がはっきりと残っている。
ただじじ本人が当時生存していたので生まれなかった事には出来ず、
じじの戸籍は中途半端に宙に浮いた状態の戸籍になっている。
本来長男として出生したじじが「長男」の記載を抹消された事によって、
祖父が3番目の後妻との間に設けた第二子の男児が長男となる筈だった。
しかし1歳で亡くなっており出生の記録すら残されていない。
(じじは近年この子供も祖父の第三子で次男、3番目の後妻の第一子として
家系図と親族の過去帳に名前と死亡年月日を書き込んでいる。)
じじが20歳の時に3番目の後妻が生んだ男児を、祖父は「長男」として届出している。


祖父は5人の子の親になりながら子供らの戸籍を自分の再婚のために都合よく書き換え
それを使いこなして通用すると本気で思っていたらしい。
なるほど、親族でさえ何かの手続きで戸籍謄本や抄本を手にする事はあっても
曽祖父の改正原戸籍など見る機会はない。
まして戦時中から終戦前後の事だ。
人目にさえ付かなければ不都合な事実を知る者達は時間と共に老いて死に、いなくなる。
じじの妹や異母弟は、彼らの父親である祖父の改製原戸籍の何処を見ても出て来ない。
一歳下の実妹がいた事や、3番目の後妻の最初の子供が男の子で1歳で夭折した事、
じじが実妹と異母弟妹全部で5人兄弟の長男であった事実は一切出て来ない。
しかしじじ同様、彼らも確かにこの世に存在していたのだ。
彼らは一度はこの世に生を受けて名前を付けられたが、ただ幼い時に死んで、
その後の父親の進路に不都合だと末梢されたのだ。


これは親が子を利用価値のみで評価し翻弄した実例である。
そこに一般的な親子の情愛は微塵も無い。
あるのはその子供に利用価値があるかないか、好都合か不都合か、それだけだ。


曽祖父が彼らの出生を見届け死亡を看取り届け出をした証拠はこうして今も残る。
貧しかったと聞くが曽祖父は一族の親として自覚ある人物だったらしい。
その息子である祖父は再婚や商売に不都合だと曽祖父の出した届出を二重線で抹消した。
子供を資産として利用価値を基準に考えた場合、祖父にとっては再婚にも商売にも好都合、
その後の家督相続の行方にもこれは合理的と言える。
合理的で、そして非情である。
羽振りのよかった頃の祖父にとって、子供は「資産」の一つに過ぎなかった事がわかる。
自分の血を分け、身から出た子供をここまで粗末に扱ったのだ。
晩年弱った時、自分の子に看取られ安心安全安楽な最期を迎える命綱を自ら切断した事に
計算高く頭のよかった筈の祖父は気付かなかったのかも知れない。
自分で自分を病苦と孤独の地獄に突き落としたのだ。
一人の人間として、何と痛ましく無残な最期だろう。

皆既月蝕の夜

2014-10-08 23:42:44 | じじの帰天
ほぼ定時に遅番勤務終わって明日の準備までして職場を出たら、
赤銅色の月が欠けて消え入りそうになっていた。



写メ撮ってみたけど、ゴミみたいなもんにしか写らんの。(笑


自宅に着いたらもう闇に消える寸前だった。




赤錆のような月。
何となく左が明るくなってきた。




帰宅したら、
先日札幌市役所に取り寄せたじじの父親の最後の改製原戸籍謄本が届いていた。


左側が光り始めた。




昭和38年当時の札幌市平岸910番地とは今の札幌市のどこら辺だろう?
札幌市にまだ「区」が無かった頃だ。
ネットで検索しても見つからない。


じじの父親が死んだ時、死亡届を提出したのは知人と聞いていたが、
氏名の上に「家屋管理人」と記載されている。
祖父は札幌市内の何処かで間借りしながら入退院を繰り返していた。
病状悪化して転院に転院を重ね、死んだ時も部屋を借りたままだった事が伺える。
身寄りが無いと言って部屋を借り、入院していたとは親族から聞いて知っていた。
祖父が死んだ時、病院側が連絡出来たた先は家主か
間借り部屋の管理人しか情報が無かったであろう。
病院から知らせを受けた家屋管理人は仕方なく遺体を引き取って必要な手続きを取り
当時の札幌市役所に相談して祖父を荼毘に付し、部屋に残された遺品の処理に困ったのか、
祖父に親族が本当に一人もいないのかどうか、市の保護課や戸籍住民課に相談して
何とか調べたものと思われる。
遺品の中の書簡や書類から息子であるじじとその妻子の存在が判明したのだった。


その時の事を私は朧げながら憶えている。
じじと母と2歳の私が住む間借り部屋に、会った事のない叔母さんとお婆さんが
遠路遥々やって来て泊まって行った。
おばさんは狐の顔の付いた襟巻を身に付けていた。
狐が自分のしっぽを噛んでいる毛皮の襟巻だった。
私がその狐の顔を「わんわん」と呼んで放さなかったので、
おばさんは諦めてそのまま帰って行った。
後日、母はその狐の襟巻を小包で送っておばさんに返した。


狐の襟巻のおばさんは祖父の一番下の妹で、じじにとって一番若い叔母、
私にとって大叔母だった。
もう一人の、会った事のないお婆さんは祖父の姉で全盲だった。
じじにとって母親代わりの伯母、私にとって大伯母である。
この全盲の大伯母も行く先が無く親族宅や施設を転々としていた。
祖父が死んだ時、全盲の大伯母は札幌市白石町(当時)の福祉施設に身を寄せていた。
そこから親族に宛てた口述筆記の手紙を何通も書いている。
職員が代筆してくれたもののようだ。
行方の知れない祖父の事を心配し、祖父が後妻との間に設けた二人の子供達の
行き先を案じて親族の誰彼に送った手紙が残っていた。
7月にじじの遺品整理をした時、私はそれらを祖父の手紙と共に廃棄した。


祖父が死んだという知らせを受けたじじは
当時斜里町にいた狐の襟巻の大叔母と一緒に札幌に出向き、
白石の施設の大伯母を連れて祖父のいた部屋の管理人という人を訪ねた。
じじは自分の父親の遺品や残した僅かな金銭を受け取らず全て処分したと
後になって親族達から聞いた。
じじは祖父の遺骨を持って全盲の大伯母と狐の襟巻の大叔母とを連れて
曽祖父母のいた山奥の村を訪ね、墓所に遺骨を納めた。
札幌から山奥の村までの長旅の途中、全盲の大伯母と狐の襟巻の大叔母は
私達の間借り部屋に一泊したのだった。


狐の襟巻の大叔母とは私の大学進学の時に再会した。
私が受験している最中にじじは狐の襟巻の大叔母と共に
特養に入居していた大伯母を訪ねた。
全盲の大伯母がじじの持参したシュークリームを一口食べて

「ああ、おいしい」

と言った。
じじは感極まって泣いたという。
後になってからじじと狐の襟巻の大叔母と、双方から聞いた。
私はその年の暮れに全盲の大伯母の病床を見舞ったが
膀胱癌の終末期で言葉を交わす事は出来ず、手だけ握って退室した。
それからしばらくして大伯母は不遇な82年の生涯を終えた。


今日手元に届いた祖父の改製原戸籍を見る。
じじと全盲の大伯母とを自分の戸籍から削除して
祖父、後妻とその娘、息子とで4人一家族として新たに編製した戸籍は
後妻が協議離婚によって削除され、
娘、息子の親権者を祖父として3人家族として編製し直し、
娘が婚姻によって削除され、
祖父が死亡して削除となり、
残るは13歳の息子だけになった。
未成年にして養育者不在となった息子には市役所経由で後見人が付いた。
その後は後妻が就職したという理由で母親として親権者となり、
息子が成人した時に母親である後妻の姓を名乗って戸籍を再編製したため
息子も祖父の戸籍から削除された。
こうして祖父がじじと全盲の大伯母とを除外して設けた4人家族の戸籍は
筆頭者はじめ全員が削除され、完全に消えた。
まるで植物の枝の一本が腐り落ちるかのようだ。
枝の根元から腐食し地面に落ちて朽ち果て滅んだかのように見える。


自分の父の父親の、最後の消息を辿り読み取る皆既月蝕の夜。

じじ帰天から3か月

2014-10-06 22:27:38 | じじの帰天
じじが逝って今日で3ヶ月。
まだ写真の山が残っている。
時間作ってはコツコツ整理しているんだけどな。
まだ1993年の1月のものまでしか作業は進んでいない。


寒い。
室内も暗いし。
午後から雨なんだと。


朝からドクヘリが頭上を行ったり来たりしている。
低空飛行で轟音を発てるため勤務先の高齢者達の中には
空襲と勘違いして動揺する人もあり。


室内が冷え込んでいるので暖房の室温を上げ、湯を沸かし珈琲を淹れ、
「普通の」日常生活がある事を噛み締める休日。
曇りのち雨。
間もなく雨と風が来る。
それらが去ったら視界の色が一変するだろう。


雨降り出したけど出かける。
近所のコンビニで密林でポチった本を受け取り、近所花屋に行く。
じじが亡くなって3ヶ月めだし、花を新しくしようと思って。


近所の花屋、葬式の花輪作成中でごった返していた。
秋だからって菊ばかり。
3ヶ月の命日で仏花っぽいのが嫌ならユリでコーディネートしましょうかと
店のおばさんが言うけど、ユリは臭いからもっと嫌だ。
菊の方がまだましだ。
イキの良さげな白のトルコキキョウ2本だけを少々購入し、一度帰宅。
これに合うものを他の店で探そう。
花瓶の水に浸けて再び外出し、不要なCDをリサイクル屋に買い取って貰った。


道の途中にもう一軒花屋がある。
ここは仏花臭くない店である。
さっき買っといた白のトルコキキョウに合わせてアルストロメリアの新種と孔雀草。



こんな具合。


花屋の店主と立ち話した。
先日買ったバカでかい薔薇は長持ちして1週間経ってもまだ咲いている。
しかし薔薇の匂いがしない。
見た目も薔薇よりは牡丹みたいで薔薇らしくない。
あれほど立派なのでなくてもっとささやかな昔ながらのただの薔薇でよかったんだけど。
私がそのように言うと店主は

「昔からあるただの薔薇は売れないから、生産者がもう作っていない、
 昔からある品種は飽きられてしまって消費者が買ってくれない、
 だから栽培する方も、飽きられないように
 どんどんいろんなものとかけ合わせてるからどの花も殆ど無臭のものばかりで、
 薔薇に限らず匂いの無い花が多いんですよ。」

そうだったのか。
あんなにバカでかい薔薇が3本も満開なのに
自室内で薔薇の匂いが全くしないのは何でだろうとずっと思っていた。


花に匂いが無くてどうするよ。
かけ合わせてかけ合わせて、見た目はごてごてと野暮ったく香りも無い薔薇とか
やはり香りの全くないミニチュアの造花にしか見えないスプレー薔薇ってどうなの。


何だか、がっかりするなぁ。

鬼畜の系図

2014-10-03 18:38:56 | じじの帰天
うたた寝したまま朝を迎えたらしい。
室内の照明とPCと暖房が点けっぱなしだ。
雨降りで部屋が暗すぎる。



雷が来るのかな。


前々から確認しようと思っていた事を今日、する。
じじが帰天してまもなく3ヶ月になる。


じじの葬儀の後、
遺品の中から紫色の、大昔に「ブルーコピー」と呼ばれた書類が出て来た。
古い戸籍謄本の写しである。
戸籍筆頭者はじじの父親、私から見ると父方の祖父である。
じじは祖父の隣の欄に「男」と記載され息子として出生の届け出をされている。
じじは祖父から見て長男でも次男でも三男でもなく「男」と記載されている。
じじの次には祖父の姉である全盲の大伯母の名前が「姉」として記載されている。
大伯母の次には三番目の後妻の名前が「妻」として記載され、
更にその次にはこの後妻の産んだ娘が「長女」と記載され、
最後に同じ後妻の産んだ息子が「長男」と記載されている。
この後妻の産んだ「長男」が生まれた時、じじは20歳だった。
改製原戸籍謄本を取り寄せてみると、色々な事が見えて来た。
改製原戸籍には登場する後妻とその娘、息子は家系図にも記載されているが、
家系図作成時に彼らの名を書き込んだのはじじである。


じじの母親は入籍せずにじじとその妹を産み、
1歳になった娘を授乳中に死なせたために息子をも取り上げられて
身一つで家から追い出された。
じじは当時家長だった曽祖父はじめ親族一同の中で「長男」「跡取り」として認知され、
親族は今でもじじを「長男」と呼ぶ。


じじの子供時代は実の父母との接触の無い状態で祖父母に養育される生活をしていた。
父親は博打好きで旧満州に出征し帰還した後は今で言う闇金のような事をして荒稼ぎし、
計算高く頭の切れる、人に恨まれるような事も平気でする人物だったと聞く。


じじは祖父母亡き後「長男・跡取り」と呼ばれながら
養育者に事欠いて叔父叔母達の家庭を転々としていたが、
11歳の時に再婚間もない父親と後妻の新居に引き取られた。
後妻はこの頃男子を一人産んだが1歳で死亡している。
この死んだ男子の名前は腹違いの兄であるじじの手で家系図に名前を記されているが
戸籍には登場せず生まれなかった事になっている。
引き取られた当時、じじは後妻から食事を与えないなどの虐待を受けたと親族から聞いた。


じじが14歳の時に後妻が女子を産んでいる。
この頃のじじの父親は悪どい商売で相当ぼろ儲けしていた。
じじは父親の稼業を忌み嫌い、蒸気機関士となったが19歳の時に機関車に右下肢を挟まれ
骨髄炎を併発し後遺症が残るほどの大怪我をして約3年間もの入院療養生活をした。
じじが20歳の時には後妻が3人目の子供を産んだ。
男子であり、父親と母親との間に生まれた次男であるが戸籍上は「長男」と記されている。
この頃、全盲の大伯母や親族の誰彼が大怪我の後遺症で復職出来るかどうかだったじじに

「身辺に気をつけなさい、あの後妻が男子を産んだから。」

と家督を横取りされ殺されかねないかのような危惧を孕んだ耳打ちをしている。
今になってみるとじじは父親の薄汚い稼業を蔑み、継ぐ気など元々なかったので
そんな姑息な耳打ちは要らぬ世話だった。


その頃だろうか、じじと全盲の大伯母は祖父の戸籍から抹消されている。
じじの父親、つまり私の祖父は後妻と娘と息子と4人家族で戸籍を新編製したのだった。
これは一見して後妻と共に新しく家庭を作って元の妻の子供を排斥したかに見えるが
実はそうではない。
親族らの話によるとじじの父親は後妻と2人の子供とで4人家族として新しく戸籍を設け、
自分の全盲の姉と自分の最初の妻の子供であるじじとを血縁の一家族とする事で、
終戦直後のどさくさに紛れ行方不明の第三者の土地を非合法に入手しようとしていた。
その企みが上手く行ったのかどうかは知る術もない。


じじは足の後遺症のため夜学で経理を身に付けて経理に配置換えされ、
薄給ながら自活していた。
闇金稼業で金満家になった祖父は戦後誰もが貧しかった時代に
身に付ける下着、ワイシャツ、背広全てがイニシャルの刺繍入りのオーダーメイド、
手にロンジンの腕時計、懐には常に分厚い札束を持ち歩き、葉巻を吹かしながら
人の横面を札束で叩くような者になっていたと当時を知る親族の誰もが言う。
愛人と呼ばれる女が何人いたかもわからないほどおり、
その中の一人に入れ揚げて後妻や娘、息子のいる家庭を顧みなくなった。
金銭を愛人に注ぎ込んで家庭に金を入れなくなっていたのか、
祖父と後妻との壮絶な喧嘩は日常茶飯事だった。


この頃じじは結婚している。
婚礼の新郎の母親の席に座ったのは祖父の愛人であり、後妻ではなかった。
祖父はじじの婚礼のために衣装や家財道具など大枚叩いて贈ったが、
あの息子にはこれだけの事をしてやった、これだけのものを買ってやった」
と言葉に出した事にじじは腹を立て、贈られた家財道具一切を送り返した。


後妻の娘と息子達はそれまでじじを実の兄だと思っていたと言うが、
祖父と後妻の夫婦喧嘩の最中の会話のやり取りで初めて腹違いの兄である事を知る。
夫婦は協議離婚するが離婚に至るまでの修羅場は後妻の子供達にとって地獄となった。
協議離婚の協議で何を揉めたかと言うと、祖父も後妻も、高校1年の娘を引き取りたがり
小学校1年の息子を引き取りたがらなかった。
高1の娘を引き取れば働かせる事も出来るし家事をさせる事も出来る。
小1の息子を引き取れば家事はおろか働かせる事も出来ないし養育する手間と金がかかる。
2人の子供のうち娘を引き取れば得をし、息子を引き取れば損をする、
つまり血を分けた実の父母達は夫婦どちらがどの子供を引き取るかを利用価値で、
利害損得を巡って激しく争った。
まさに鬼畜である。


結局後妻はどちらの子供も要らないと言って出て行った。
後妻の放棄した娘と息子、二人の子供の親権は祖父のものとなった。
改製原戸籍謄本の他にもう一通の祖父の戸籍謄本があり、
それには協議離婚により後妻は除籍して親権は祖父に、3人家族として記載されている。
後妻はその後別の男と暮らし始めた。


この頃には祖父の商売に陰りが見えてきていたのか、愛人に注ぎ込み過ぎたのか、
経済的に困窮し始めていた事が祖父の残した手紙から読み取れた。
親権者である父親は愛人の元におり、
後妻の娘と息子は養育する人もなく親族の間を転々とし
いよいよ誰も引き受ける者が見つからない彼らは
新婚間もないじじ達の間借り部屋に居候したがすぐに出て知人の元に行った。
祖父の知人という人物は霊媒師兼孤児を集めて面倒を見ているという老婆で、
彼らはその老婆の元に一時身を寄せた。
この頃祖父は愛人に毒殺され損ない、全財産を持ち逃げされ無一文の身一つで
じじ達夫婦の間借り部屋宅に転がり込んで来た。
愛人という女は後日見つかった時、既に別の男と一緒に暮らしており、
持ち逃げした財産の大半を使い果たしていた。


じじと、母と1歳の私と、病身の祖父と、4人で狭い間借り部屋で暮らした期間、
じじの薄給では家計が賄えなくなり、母は市内にいる兄達に金を借りて歩き、
やっとその日その日を食いつなぐ生活が続いた。
ただでさえ親子として関係の成立していない父親と息子であった祖父とじじが
狭い部屋でじっと無言で会話も無く険悪な空気で貧しい食卓を囲む。
母は1歳の私が祖父の傍に這って行くのを見咎め、金切り声を上げて祖父を排斥した。
これは母本人から聞いた。
祖父はそういう生活に耐えられなかったのだろう、
「出て行くから汽車賃を寄越せ」と言って幾らかの金銭を持って出て行った。


その後、祖父の所在が札幌にある事を突き止めたじじは自分では出向かずに
女房に様子を見に行かせた。
母は1歳の私を連れ鈍行列車で13時間かけて札幌に出向き、祖父を訪ねた。
「何しに来た、帰れ」と母を追い帰す祖父の傍には後妻の息子が小学校にも行かず
菓子やおもちゃを買い与えられ、祖父の博打を眺めていた。


しかしこの後、祖父はいよいよ健康状態が悪化している。
書き残した手紙の差出人住所は札幌市内の大学病院2箇所と市の中心部の総合病院。
文章の中に何度も登場する病名が「大動脈弁閉鎖不全」「僧房弁狭窄」「鬱血性心不全」、
そして「肺癌」。
入退院を繰り返すうちに一度は引き取ったものの養育出来なくなった小学生の息子を
祖父は高校生で居候生活していた娘の所に送っている。
娘は高校を卒業して就職したが、職が決まった途端に母親である後妻が現れ
「私がこの娘を引き取る」と言い出した。
娘は一度は母親の所に行くには行ったが母親は見知らぬ男と暮らしており娘の居場所はなく
下宿を借りて弟と共に暮らし始めた。
初出勤を目前にしたある日、今度は彼女の父親である祖父が病身のため札幌に来いと言ってきた。
療養中の身の回りの世話をしてくれと祖父は娘に要求した。
娘はそれを断った。
まだ就職したばかり、それを蹴って都会に出ても自分に仕事を見つける事は無理だと、
まして病人の世話をしながら働くなど、そんな職が見つかる筈もない、
父と娘二人して収入も無く共倒れする訳には行かないと言って断った。


この後の祖父の消息は、祖父の弟に当てた手紙の束から推測するしかないが、
内容がどんどん卑屈に悲観的になって「天涯孤独」「一人ぼっち」という単語が
文章の随所に何度も登場している。
病状の悪化と共に身体的苦痛と不安や恐怖が増大し精神的に破綻しつつあったのか、
後になるほど内容が支離滅裂になって、悪意を含む内容に弟の怒りを買い絶縁されている。
そして、その後の消息は不明である。
今日私が市役所で取り寄せた戸籍謄本から知る事の出来る祖父の消息は、ここまで。
死亡した正確な日時も場所も全く分からない。
分かるのは、自分の子供を利用価値でしか評価しなかった親の末路、
あぶく銭でほろ儲けしても金目当ての女しか寄って来なかった、
思い上がって身を持ち崩し、金も健康も失い、子供からも親族の誰からも見捨てられ
重篤な心疾患を三つ抱え贅沢な葉巻の吸い過ぎで肺癌を発病し、苦痛と孤独のうちに
精神を病んで人知れず死んでいたという事だけである。
市役所から取り寄せた祖父の改製原戸籍を見て、しばし考え込んだ。
親が子供を粗末に扱うとはこういう事だ。
私は今その証拠を自分の目で見ているのだ。


祖父の知人を名乗る人物がじじを探し当てたのは私が2歳の時だった。
じじが知らせを受け取った時、祖父は既に死んでいた。
当時札幌の南の外れに当時あったという「鉄格子の付いた精神病院」で。
死因は「心筋梗塞だった」と後年じじは私に言った。


「大動脈弁閉鎖不全」「僧房弁狭窄」「鬱血性心不全」という重大な心疾患を持ち、
「肺癌」を発病し、騒いで周囲に余程の迷惑をかけたのだろうか、
医療は癌治療も発展途上で苦痛を軽減するノウハウすら無かった時代、
行き付いた最後は「鉄格子の付いた精神病院」の中で心筋梗塞で、
3人いる子供達のうち誰一人傍に来る事なく誰にも看取られずに死んだ。


新編製された改製原戸籍では祖父の第五子、後妻が生んだ第三子で実質上の次男が
「長男」となっている。
それでも親族の間では後妻の子供は圏外であり、
曽祖父の時から「跡継ぎ、長男」と呼ばれたじじが「長男だから」と言われて
祖父の葬儀と死後の事後処理をしている。
その後の大伯母の葬儀もじじが執り行っている。
墓参りなども同様、「長男だから」。


古い、紫色に変色したブルーコピーの新編製された戸籍謄本を目にした時の
じじの心情を推察すれば、
これまで長年葬儀や墓参で関わって来た曽祖父、祖父らの墓について

「俺が死んだらあの墓には入れてくれるな」

と真顔で私に言ったじじの言葉の意味が理解できる。
長男と言ってもただ祖父の第一子、曽祖父の初孫というだけで、
実際は戸籍上でも実生活でも父親から粗末に扱われ、
子供として受けるべき親の愛情や養育の恩恵を何一つ受ける事なく
ただ血縁に縛られて「家」の名前のついた墓石の世話を負わされる理不尽。
今回じじが帰天した事を知らせる挨拶状を受け取った親族の中には

「長男だったろ?墓はどうするの?あなたは跡を継がないのかい?」

と言ってきた人もあった。
くだらない事だ。
継ぐべき家督がある訳でもなし、ただ直系というだけで死んだ後までも
親子関係すら成立していなかった父祖の墓石なんぞに生きている者が縛られてたまるか。
墓石は所詮ただの石、その下には焼いた死人の骨があるだけだ。
それもじじや腹違いの妹弟の子供時代をずたずたに蹂躙し
彼らが高齢にになってまでも残るほどの深い心理的な傷と後遺症を負わせた者の骨が。
この墓には主に祖父と曽祖父母と夭折した親族の遺骨が入っており、
じじが子供の頃に親代わりとなって養った、じじが生涯恩義を感じ続けた叔父叔母達や
その親族には各々自分達の墓がある。
じじが負っていたのはそのような血の通った生活時間を共有しなかった父親の
「家の墓」である。
じじにとってその墓の下にいる者は愛慕や崇敬の対象とはなり得ない。
血族だろうと何だろうと、生前の関係が全てである。
生きているうちにどれだけの事をしたかされたか、どれほどの時間を共有し
どれほどの苦楽に共感したか。
それが全てだと私は思う。


自分の子供を自分の子供として認め、手をかけて養う事も、
逆に子供が自分の親を自分の親として最後まで関わり看取る事も、
いずれもこの世に生きているうちにやらなければ何の意味も無い。
死んで焼いた骨になってから墓石を花で飾り立ててさめざめ泣いたところで何になるか。
親子でも何でも人間対人間が向き合い最低限の関係が成立していれば
このような結果にはなり得ないのだ。
墓の世話をするべき人は他にちゃんといるではないか。
新しく書き換えた戸籍に「長男」と祖父の手で指定した者が。
しかしその「長男」は後年になって姓を変え、
彼にとって母方のすなわち祖父と協議離婚した後妻の姓を名乗っている。
息子であるじじとの親子関係を切ったのは祖父自身である。
今までじじが祖父の死後の尻拭いをして来た事自体が不条理だったのだ。
子孫をこれほど粗末に扱った者の墓を死んで骨になったからと言って
当の子孫が生きたまま背負わされ縛られ続ける理不尽が他にあるか。


生活時間を共有し苦楽を分け合った日々の思い出を偲ぶ親子家族の墓や
この世の生涯を生き抜いて天国に凱旋した信仰の先輩者達の墓と、
子孫を自分の欲得に都合よく利用し翻弄した者の墓石を同列に置いて崇敬しようなどとは
私は断じて思わない。
生前に子孫を粗末にした者の墓は荒れ果てていい、朽ちるだけ朽ちて野晒しの石屑になれ。


じじも私も信仰告白し洗礼を受けたキリスト教徒である事を電話で話したら
家名と墓にこだわる親族はそれ以上何も言わなかった。

「いや、いいんだ、だからどうこうしろって事ではないんだ」

じじが晩年にになってキリスト教への入信を強く希望して牧師に申し出たのは
血族の呪縛から解放されたかったのであろう。
じじにとってキリストへの信仰は解放であった。
血族の呪縛からの解放。


今日、私は札幌市役所に問い合わせ、祖父の除籍謄本を郵送で取り寄せる手続きをした。
週明けには郵送で届くだろう。
欠落した消息を補い、確認する事でやっと完結する事が出来る。
ずっと引っ掛かっていたものが。

肥大化した薔薇

2014-09-30 22:04:11 | じじの帰天
昨日友達に花を送った時、じじの遺影の傍に飾る花も買って来た。
牡丹みたいに大ぶりな薔薇。
もっと普通のささやかなのでよかったんだけどケバい色か寒い色のが多くて
結局色でこんなのを選んでしまった。



ちゃんと最後まで咲くんだろうか。
随分頭が重そうだが。

何でこんな事になるんだろう

2014-09-28 21:49:29 | じじの帰天
晴れたり曇ったり。
三連休二日目、教会行く前に室内の埃払い。
掃除機かけてから教会に行く。


教会に来たのは1ヶ月ぶりかな。
日曜休みは月一回程度あれば御の字、日曜が休みだったとしても
前日の仕事が荒れ荒れで日曜には足腰立たず自室で伏せって体力温存する事もある。




じじのハイビスカスは赤花は目下休憩中、黄花は幾つか蕾を付けている。


礼拝堂で週報を貰って目を通し、愕然。
今月に入って私は一度も教会に来ていなかったためまだ聞かされていなかった。
教会仲間の息子さんが亡くなっていた。
釣りをしていて海に転落し行方不明だったのが8日後に隣町で漁業関係者に発見された。
友達は一人で一生懸命働きながら子供二人を育てていた。
亡くなった息子さんは今年高校卒業し就職したばかりだった。
何でこんな事になるんだろう。


招詞;詩編67;1~4
讃美歌(21) 56、560
詩編交読;詩編115;1~18
祈り
讃美歌(21)
聖書朗読;Ⅱコリント5;15
説教
讃美歌(21)513
献金、感謝の祈り
頌栄;讃美歌(21)28
祝祷


礼拝の後、教会の仲間に聞くと話してくれた。
友達は葬儀の間気丈だったという。
駆けつけてくれた息子の高校の同級生や部活の仲間や、
春に彼が入社したばかりの職場の人々に、母である友達は言ったという。

「皆さんどうか食事していって下さい、
 私はもうこの子に成人式も結婚式もしてやれないから、
 せめて今日は賑やかに、盛大にしてやりたい…」


だめだ泣けてくる。


卒業して、就職して、何もかもこれからだった。
母親の肩の荷が一つ下りて、力強い協力者となる筈だった。
棺の中の布で隠された顔は最後の別れに一目見る事も叶わなかった。
希望である我が子を突然失った人にかける言葉が見つからない。
我が子を失った人はどうやって朝を迎えるのだろう。
毎朝どうやって、何を目指してこれからの毎朝を生きるのだろう。
子供のいない朝を。


自分の父が老いて病んで徐々に枯れ、
苦しんで死んでいくのは長く惨く辛いものだったが
若い人が生きたまま引き裂かれるように突然いなくなってしまうのは辛すぎる。
私がここに来てこれで4回目だ。
若い人とのこんな酷い別れは。


じじは教会に通っていた頃、あの子を「野球やってるお兄ちゃん」と呼んでいた。
「今日は来ていたぞ」「今日は来なかったな」と言って顔を見るのを楽しみにしていた。
何でこんな事になるんだろう。
辛過ぎる。


今日は礼拝の後でゲストを囲んで会食があったが、所用のため参加せず帰ろうとすると、
教会仲間が自作のおはぎを私の分も作って来たと言って手渡してくれた。
会食に参加しないのは所用もあるが理由はそれだけでなく、
勿論歯の具合がよろしくない事もあるにはあるが、
本当の理由は息子を惨い別れ方で失った友達の心情を思うと人前で泣きそうだったからだ。


帰宅。
じじが大好きだった教会仲間のおはぎ。



私が帰ると言うので取り分けて包んでくれたのだった。


牧師先生と教会役員をしている友達と電話で話した。
お花でも…香典を送ろうと思うが添える手紙の文面が思いつかない。
言葉が出て来ない。

秋の彼岸だから

2014-09-19 21:34:19 | じじの帰天
はー仕事終わった。
今日も橋に寄って行こう。
煮詰まった環境でイラつきながら働いて帰って寝るだけの生活はよろしくない。
気分転換が必要だ。
外気に当たらないと。
日光にも。


昨日よりも雲が多い。
橋に観光客が集まって皆で写メ撮っている。
秋の彼岸だからな。




太陽は沈む前に雲に遮られた。
バスで帰宅。


花を買おう。
挨拶状を見た親族や父の友人達から「お花でも…」と香典が送られて来たので
その通りに花を遺影の周りに飾っている。
今日は花を替えよう。


バスを降りて生花店に行くと閉まっていた。
しかたない、近所のスーパーの花屋に行くか。
何じゃーやたら菊とユリと仏花セットばかりで一般的な花が殆ど売っていないではないか。
菊とユリは自室には置きたくないぞ。
特にユリはダメだユリは。
見た目がどうあろうと匂いの悪いものは除外。
生活の場にあっていい植物ではない。
葬式の仏花みたいにならないよう菊とユリを除外すると選択肢が極端に制限される。
花屋の花ってこんなに貧しい種類しかないものだっけ?


とりあえず限られた選択肢から同系色を強引に組み合わせて買ってきた。
この季節にワレモコウすら売ってないんだからどうしようもない。
普段なら絶対に選ばない下品な色のぶさいくなバラと同系色のカーネーションとユーカリ。
こんなのしか売ってないんだよ。



でも仏花セットよりはましか。
こんな配色の花を自室に置くのは今回限り。
私の眼には好みではないが、亡きじじはこういう色の花を喜んでいたからいいのかな。





しかし、見た目がまずくても香りは大変よい。
植物も見た目ではないのだな。

じじの親族と電話で話す

2014-09-17 22:16:56 | じじの帰天
歯科受診の後、 一度帰宅してもっと温かいジャケットを着込んで再び出かける。
市役所へ。
今はここには書かないがじじの遺品の中から変なものが見つかったので
じじの父親、つまり私から見て祖父の除籍謄本を出して調べる。


太陽は現れたり雲に隠れたりしている。




珈琲店に行くと高齢の常連客が来ていて奥さんも加わって世間話をした。
風が冷たくなってきた。


じじの親族から郵便物が届いており、お礼の電話入れた。
考えるべき事が色々ある。

敬老の日

2014-09-15 23:54:00 | じじの帰天
遅番にて出勤。
世の中は祝日なのだな。


そうそう、今日は敬老の日だった。
去年の今頃はあの老人病院で寝たきりだった。
最後の敬老の日は一昨年で、じじは頭頂部に出来た新たな脳梗塞のため入院中だった。
病室でリハビリを拒否してふてくされていたので気分転換に車椅子を押して
敷地内を風に吹かれながらぐるっと一周し、外来ホールのテーブルで
持参した「長生き餅」をじじは喜んで黙々と食べていた。
あれがじじにとって最後の敬老の日だった。
ちょっとした事でも何でもこうして「最後の***」として思い出す。

写真整理の続き

2014-09-11 21:37:54 | じじの帰天
日勤にて出勤する。



まだ雲が重たい。

・・・・・

平々凡々に仕事を終えて帰宅、今日は体力に少し余裕があるので
じじの残した写真の残骸整理の続きをする。

・・・・・

1970年当時の市内を撮った写真が多数あり。
これはよく私が散歩する市の中心部の川の少し上流の岸壁から鉄橋を撮ったものだ。
川に船と筏、鉄橋には蒸気機関車が貨車を引っ張って走っている。



・・・・・

1970年から1979まで、9年分だけ片付いた。
今日はこの辺でやめとこう。

雨続き

2014-09-10 21:10:43 | じじの帰天
蒸し蒸し湿っぽい曇り空。
今日は日勤だと思ってのんびり普通に起床したらニュースが。
私の母教会や知人が数多く住んでいる北海道石狩地方に大雨特別警報が発令され、
70万人に避難勧告が出ている。
既に冠水している所が多いらしいが、今日一杯こんな状態が続くとニュースが言っている。
地下鉄や地下街は特に危なそうだ。


札幌は1981年の夏に豊平川が氾濫寸前になったのをよく憶えているが
今回はその時よりももっと凄い状態のようだ。
1981年の大雨の時も地下鉄は動いていた。
しかしこういう時は危ないからやめた方がいい。
水が流れ込んだら逃げ道ないんだよ。


こちらも雨まだ降り始め、これから来週の火曜日まで雨続きの予報。
仙台でもお江戸でも冠水していたのか。
恐るべし。


災害に備えるにしても、
地震の場合と津波の場合と大雨による水害の場合と台風や竜巻の場合とで
避難場所や避難誘導の経路、非常持出袋の中身でも備えるものが違っている。
防災準備の見直しをしなければ・・・そうか、じじはもうこの世にいないのだった。
こんな時にまだ自分の頭が切り替わっていない事を思い知らされる。


雨のためか眠くて目を開いていられない。
寝よ。

満月は見えず

2014-09-08 23:51:54 | じじの帰天
帰りのバスの中から一瞬だけ、大きな橙色の満月が見えた。
そしてすぐ雲に隠れた。


帰宅。
自室にはじじの遺影の周囲にススキ飾りたかったが、
近隣の生花店は二軒ともまだ入荷せず手に入らなかった。
ほおずきとワレモコウはある。
月見まんぢぅや月見団子は省略。

じじの写真整理

2014-09-07 23:58:44 | じじの帰天
朝から晴れていい天気であるが風が生ぬるく蒸していると思ったら
向こうから積乱雲がもくもく盛り上がってこっちに向かって来つつある。




体力温存のため引き籠ってじじの残した写真整理、最後の大山をやっつける。



やっつけながらこの15年間旅をして来た気がすると思った。
その出発点がいつ何処からだったか初期の日記ブログ記事を読み返して、
ああ、そうだったと思い出した。

・・・・・

1964年から2004年までのじじの写真の山を整理している。
古いシートから取り出しただけで一日終わってしまった。

三尺玉

2014-09-06 21:32:40 | じじの帰天
じじの残した写真の残骸整理。
いつまで続く泥濘ぞ。


夕方から市の中心街の川で花火大会がある。
去年は老人病院に転院して寝たきりのじじに見せようと、
現地に見に行って写メ撮って来たのだった。
翌日PCに落としてスライドショーをしたらじじは見入ったが
あの時からもうベッドを起こした座位の姿勢が辛そうだった。
一年経って、写メ撮ってももうじじがいないのと疲れが溜まって
現地の人混みに揉まれたくないのとでこの度は見に行かない。
馬鹿でかい三尺玉なら市内の何処からでも見えるしわざわざ見に行かなくてもいい。


雲はあるが天気は悪くなさそうだ。




珈琲店に何年かぶりで高齢の常連客と出合った。
随分痩せて心身共に弱り切っている様子だった。
何年も顔を見ないでいるうちにご本人は弱り、店主もうちのじじも世を去った。


そうだ、じじが逝って今日で2ヶ月が過ぎたのだ。
早いなぁ。


・・・・・


微かに花火の音がする。
遠目で視野の開けた場所から街の方角を見る。




クラゲの妖怪みたいにのっぺりと三尺玉が見えた。
この一発は現地よりも遠く離れたこの場所からの方がよく見えた。
8月16日の別の川の花火大会の方が斜面になっていて見易くて好みである。
しかし泥臭い地元事情があるのかだんだん縮小傾向なのが寂しい。
市内で年々スポンサーがこっちの馬鹿でかい三尺玉の方に流れて盛大になっている。
空洞化どころか廃墟と化した市の中心街に市民や観光客を呼びたいらしい。
出店もたくさん出して地元の農産物とか乳製品とかテントで販売したりもしている。
そこで帰りの道が混雑して足止めされた人々が何か買って金を落としてくれる。


風が冷たいな。
寒い。
何もしないのに左の膝が痛む。
これも歯のせいか。