夕方になって、三日月よりもやや太った月が出ている。
じじの細々した遺品を入れた木箱を開けてみると、
本人が生前最も大切に肌身離さなかった腕時計が止まっていた。
電池が切れている。
そうか。
葬儀の時はまだ動いていたんだけどな。
前回この腕時計の電池交換したのはいつだったろうか、
じじがこの腕時計を買ったという昔馴染みの時計店を私は訪ねた記憶がある。
それと古い懐中時計の電池を替えて来いと言ってヘルパーを困らせ、
結局私が夜になってこの時計店を訪ねたのはもう4年も前の事になるのか。
あの時のように古い時計店を訪ねた。
ごめんくださいと声をかけると店主が出て来た。
第一級職人の店である。
電池交換の間しばし店先で待つ。
すぐ終わった。
会計を済ませると、店主が私の顔を見て言った。
「何処かで会った事が…井上さんではありませんか?
この腕時計、うちから買って頂いたものです。」
ああ。
店主はじじを憶えていてくれた。
何年か前にも電池交換で訪ねた事がある事、じじはこの腕時計を
最初の脳梗塞を乗り越えた記念に購入して以来15年間肌身離さず愛用していた事、
本人は今年の7月に亡くなったが今さっき腕時計が止まっているのを見つけたので
大事にしていたものだから動かしておいてやろうと思って持参した事を
私は手身近に話した。
じじが若く働き盛りの現役だった時代からの付き合いのあった時計店だ。
また止まったら持参するのでその時はお願いしますと言って店を出た。
買い物をして、珈琲店に寄る。
仕事の終わるのが遅くて閉店に間に合わない事が多く飲みに来るのも久しぶり。
カウンターに再び動き出したじじの腕時計を置き、
じじのカップでブレンドを注文した。
かつてじじはこのカウンターで左手首にこの腕時計を着け、
自分のこのカップでブレンドを飲み、店主や奥さんと談笑し、
同行のヘルパーさん達に自慢話を披露して、日々の珈琲時間を楽しんでいた。
身に付けていた腕時計と愛用のカップだけがあって、本人はいない。
私は私のカップでフレンチを飲みながら、じじの時計店にまつわる思い出話を
奥さんと話し込んだ。
2010年の年明け1/2の初淹れの日に
すぐお隣だからと言って車椅子を押して店に連れて来ようとしたら
そんなに深くない雪でも車椅子のタイヤが埋まってしまって断念し、
諦めきれなくてタクシーを呼び、車椅子を畳んでトランクに乗せ、
敷地を一回りして店の入り口に着けて貰い、介助してやっとじじをこのカウンターまで
連れて来たのだった。
私がじじとこのカウンターで一緒に飲んだのはあれが最後だった。
その後はヘルパーの介助で何度かじじは店を訪れていたが立位すら難しくなって
ヘルパーの介助にも限界が来て飲みに来るのを断念し、代わりにじじ宅で
デイの無い日はヘルパーが必ず珈琲を淹れてくれていた。
じじが最後にこの店で珈琲を飲んだのは、2011年の1月18日、
不穏、暴言、ヘルパーへの理不尽な要求が多くなっていた頃、
じじはヘルパーの退室した時を見計らって脱出した。
立位もままならないのに自力で壁伝いにやっと伝い歩きで移動し、
エレベーターで階下に降り、昼間でも氷点下の厳寒期にコートも着ないで
外に出て建物の壁伝いにこの珈琲店まで来ようとして立ち往生しているのを
店を出て来た常連客が発見し店主に知らせてくれた。
「時計店に行く」と言って興奮するじじを店主が店に誘導してくれてカウンターに座らせ、
おやつと珈琲を出してじじを宥め、私に連絡してきた。
「おねえちゃん、父さんば怒らないでくれ、な?」
じじにとってはあれがこの店で珈琲を飲んだ最後だったと記憶する。
店主の顔を見てすっかり気分が和んだじじは店で話し込み、
その隙に店主がじじ宅に車椅子を取に行き、散々喋って気が済んだところで
店主に車椅子を押して貰って無事帰宅していた。
それ以降、じじははADLが落ち認知症も進んでこのカウンター席に座る事はなかった。
店主もじじもいないが、彼らが愛用していた物と空間とジャズと珈琲の香りは
彼らがいた時と変わらず今もある。
奥さんは昨夜国営放送で見た在宅の老々介護の番組を見て感極まった事を
私に話してくれた。
そこから死生観の話が出て長く話し込んでしまった。
じじの細々した遺品を入れた木箱を開けてみると、
本人が生前最も大切に肌身離さなかった腕時計が止まっていた。
電池が切れている。
そうか。
葬儀の時はまだ動いていたんだけどな。
前回この腕時計の電池交換したのはいつだったろうか、
じじがこの腕時計を買ったという昔馴染みの時計店を私は訪ねた記憶がある。
それと古い懐中時計の電池を替えて来いと言ってヘルパーを困らせ、
結局私が夜になってこの時計店を訪ねたのはもう4年も前の事になるのか。
あの時のように古い時計店を訪ねた。
ごめんくださいと声をかけると店主が出て来た。
第一級職人の店である。
電池交換の間しばし店先で待つ。
すぐ終わった。
会計を済ませると、店主が私の顔を見て言った。
「何処かで会った事が…井上さんではありませんか?
この腕時計、うちから買って頂いたものです。」
ああ。
店主はじじを憶えていてくれた。
何年か前にも電池交換で訪ねた事がある事、じじはこの腕時計を
最初の脳梗塞を乗り越えた記念に購入して以来15年間肌身離さず愛用していた事、
本人は今年の7月に亡くなったが今さっき腕時計が止まっているのを見つけたので
大事にしていたものだから動かしておいてやろうと思って持参した事を
私は手身近に話した。
じじが若く働き盛りの現役だった時代からの付き合いのあった時計店だ。
また止まったら持参するのでその時はお願いしますと言って店を出た。
買い物をして、珈琲店に寄る。
仕事の終わるのが遅くて閉店に間に合わない事が多く飲みに来るのも久しぶり。
カウンターに再び動き出したじじの腕時計を置き、
じじのカップでブレンドを注文した。
かつてじじはこのカウンターで左手首にこの腕時計を着け、
自分のこのカップでブレンドを飲み、店主や奥さんと談笑し、
同行のヘルパーさん達に自慢話を披露して、日々の珈琲時間を楽しんでいた。
身に付けていた腕時計と愛用のカップだけがあって、本人はいない。
私は私のカップでフレンチを飲みながら、じじの時計店にまつわる思い出話を
奥さんと話し込んだ。
2010年の年明け1/2の初淹れの日に
すぐお隣だからと言って車椅子を押して店に連れて来ようとしたら
そんなに深くない雪でも車椅子のタイヤが埋まってしまって断念し、
諦めきれなくてタクシーを呼び、車椅子を畳んでトランクに乗せ、
敷地を一回りして店の入り口に着けて貰い、介助してやっとじじをこのカウンターまで
連れて来たのだった。
私がじじとこのカウンターで一緒に飲んだのはあれが最後だった。
その後はヘルパーの介助で何度かじじは店を訪れていたが立位すら難しくなって
ヘルパーの介助にも限界が来て飲みに来るのを断念し、代わりにじじ宅で
デイの無い日はヘルパーが必ず珈琲を淹れてくれていた。
じじが最後にこの店で珈琲を飲んだのは、2011年の1月18日、
不穏、暴言、ヘルパーへの理不尽な要求が多くなっていた頃、
じじはヘルパーの退室した時を見計らって脱出した。
立位もままならないのに自力で壁伝いにやっと伝い歩きで移動し、
エレベーターで階下に降り、昼間でも氷点下の厳寒期にコートも着ないで
外に出て建物の壁伝いにこの珈琲店まで来ようとして立ち往生しているのを
店を出て来た常連客が発見し店主に知らせてくれた。
「時計店に行く」と言って興奮するじじを店主が店に誘導してくれてカウンターに座らせ、
おやつと珈琲を出してじじを宥め、私に連絡してきた。
「おねえちゃん、父さんば怒らないでくれ、な?」
じじにとってはあれがこの店で珈琲を飲んだ最後だったと記憶する。
店主の顔を見てすっかり気分が和んだじじは店で話し込み、
その隙に店主がじじ宅に車椅子を取に行き、散々喋って気が済んだところで
店主に車椅子を押して貰って無事帰宅していた。
それ以降、じじははADLが落ち認知症も進んでこのカウンター席に座る事はなかった。
店主もじじもいないが、彼らが愛用していた物と空間とジャズと珈琲の香りは
彼らがいた時と変わらず今もある。
奥さんは昨夜国営放送で見た在宅の老々介護の番組を見て感極まった事を
私に話してくれた。
そこから死生観の話が出て長く話し込んでしまった。