本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「賢治と羅須地人協会に暮らした千葉恭」

2016-02-09 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
 平成27年9月21日の『賢治祭』において、「賢治と羅須地人協会に暮らした千葉恭」というテーマでスピーチさせていただいた。時間が10分ということだったので話し足りなかったこともあり、本ブログにおいてはそれらのことも付け足しながら以下に報告したい。








******************************(以下テキスト形式、映像は割愛)******************************
 まず千葉恭とは、この集合写真(省略)の中の、この人物です(省略)。この千葉恭についてこれからお話しをさせていただきます。
恩師岩田純蔵先生の一言
 さて、今から約50年ほど前のことですが、賢治の甥が私達を前にしてあることをぼやきました。
 その甥とは賢治の妹シゲの長男である岩田純蔵教授のことであり、岩田先生はたしか日立製作所からだったと記憶しておりますが、その当時岩手大学へ教授として招かれ、その岩田先生の所属する講座の私は学生でした。
 そしてある時岩田先生は、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを私達を前にしてぼやいたのでした。
 一方私は当時、尊敬する人物はと問われれば、間髪を入れずそれは宮澤賢治です。啄木は破滅的でいわば微分的な生き方をしましたが、賢治は積分的な、求道的でストイック生き方をしたからです、と答えておりました。
 そこで、この岩田先生のぼやきは気になってはいたのですが、仕事をしている頃の私にはそのことを調べてみる時間的な余裕はありませんでした。

羅須地人協会に寝泊まりしていた恭
 それが、今から9年ほど前に定年となり、花巻に住んでいながら賢治のことを殆ど知らなかった私はそれを知るための時間がやっと持てるようになったので、少し賢治のことを調べ始めました。
 そんなある日、『校本全集第十四巻』所収の「賢治年譜」を見ていたならば、いわゆる「羅須地人協会時代」の大正15年7月25日の項(省略)の中に
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
と述べてあるのを見て私は目を疑いました。その時代の賢治は独居自炊だったとばかり思っていた私は、えっそれじゃその時代の賢治は実は「独居自炊」だったとは言えないのではなかろうか、という疑問に襲われたのです。

豊富な恭の著作・乏しい恭の情報
 そこで私は、この恭とは如何なる人物だったのだろうか思って調べてみました。「賢治年譜」には資料として恭の著作はいくつか引用されているし、以下のような恭の著作等もありました(省略)。
 ところが、千葉恭なる人物そのものについての記述はあの膨大な『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)には一切ありません。また、例えば原子朗氏の『宮澤賢治語彙辞典』の中にも千葉恭の項どころか、一言の言及すらありません。
 あれだけ膨大な『校本全集』や『新校本全集』の出版がなされているというのに、恭はどこの出身で何時ごろから何時ごろまで羅須地人協会に寝泊まりしていた、ということさえもなぜ明らかになっていないのだろうかと訝った私は、同時に恩師岩田先生の件のぼやきを思い出し、これがその一つの現れなのか解釈し、恩師のためにもこれは絶対明らかにせねばならないと決意したのでした。

恭は真城村出身
 そうこうしているうちにやっと、宮澤賢治研究家のある一人が恭は「気仙郡盛町の出身」であると述べていることを知ったので、私は現地を探し回ったりしたのですがその生家は見つかりませんでした。途方に暮れていることを私が安藤勝夫さんにお話ししたところ、牛崎敏哉さんならばそれに関して知っているはずだということで訊いていただいたところ、牛崎さんから「千葉恭の息子さんが胆沢町に住んでいる」ということを教えてもらったのでした。その方が千葉満夫さん、恭の三男であり、その方にお会いでき恭の生家は実は真城村折居だということがわかったのでした。

羅須地人協会に寄寓・帰農
 しかしながら、恭が賢治と一緒に過ごしていた期間はわかりませんでした。ただし、恭自身は
・次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
・二人での生活は実に惨めなものでありました。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
と述べています。
 また、三男の満夫氏は
 父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことなどから、恭はある時穀物検査所勤めに見切りをつけ、羅須地人協会で賢治と一緒に暮らし始めたのであろうと私は推理しました。
 また、盛岡の農政事務所から、恭は大正15年6月22日に穀物検査所花巻出張所を辞職したということも教えてもらえました。
 一方で、恭は
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが…
とも言っており、恭は下根子桜を去り、真城村の実家に戻って帰農し、村で農學校を卒業して働いてゐる青年三十二名と「研郷会」なるものを組織して、
 農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。
ということも述べており、「羅須地人協会」、というよりは、その規約も作ったということですから松田甚次郎の「鳥越倶楽部」あるいは「最上共働村塾」のような組織をつくって、甚次郎同様いわば「宮澤賢治精神」を実践していたとも言えそうです。

協会に寝泊まりの裏付け
 一方で、不思議なことに恭が羅須地人協会に寄寓していたという客観的な資料は当初何一つ見つかりませんでした。
 ところが私はある時、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』を見ていて、〔施肥表A〕の〔一一〕(省略)に記されていた「場処 真城村 町下 反別 8反0畝」から、これは恭が賢治に頼んだ肥料設計書ではなかろうかろいうことに気づきました。場所が真城村と書いてあったからです。そこで、長男の益夫さんにお訊きしたところ、まさにこの「町下」に当時千葉家の田圃があったということを教えてもらえました。
 さらには、同〔一五〕には〝真城村堤沢〟と、同〔一六〕には〝真城村中林下〟と書いてありましたから、これらの地名の町下、堤沢、中林下は恭の実家の近くではなかろかと思って調べてみましたならば、下の地図(省略)でおわかりのように予想どおりでした。
 したがって、
と、したがって、この三枚の施肥表は恭を含む「研郷会」のメンバーの家の田圃に対する施肥表であるとしてもほぼ間違いないでしょう。あわせて、これらの〔施肥表A〕はいずれも「昭和3年度用」ですから、恭は昭和2年に羅須地人協会の寄寓を止めた後も、賢治の許に時折訪ねてきたであろうことが容易に想像できます。
 次に、『拡がりゆく賢治宇宙』の中では次のように書かれていて(省略)、
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
とあります。私はこの記載を知って「したり」とほくそ笑みました。〝千葉恭〟の名前がそこにあったからです。
 そこで、私は恭の三男満夫さんに「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねたところ、「はい持っていましたよ」という答えでした。しかも、長男の益夫さんは、そのマンドリンがあることが理由でその柄が折れてしまったということも具体的に教えてくれました。
 また、この「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、…(略)…が加わることがあった」という証言は阿部弥之さんが平来作本人からから直接聞いたものであるということです。
 したがって、『拡がりゆく賢治宇宙』の〝時に、マンドリン・平来作、千葉恭〟の記載内容はほぼ間違いなく事実でしょう。
 ただし、「旧校本年譜」同様『新校本年譜』でも、「しかし音楽をやる者はマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり」とどういうわけか断定的表現をしているものの、相変わらず「千葉恭」の名前だけは抜け落ちています。
 それから、次のようなトマトに関するエピソードを恭の長男益夫氏の夫人から教わりました。
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういう訳かお義父さん(千葉恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった、お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだったそうです。
 そういえば、
 開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
と恭は語っておりますから、さもありなんと思ってしまいます。
 以上これら①~③により、恭が羅須地人協会に寝泊まりしていたことのある程度の裏付けができたと思います。

恭の羅須地人協会寄寓期間
 その他にも同夫人は
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
ということも教えてくれました。
 一般に、恭本人が
賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
と語っているせいか、恭の羅須地人協会寄寓期間は『半年説』が主流のようです。しかし、長男の奥さんに対してはそうではなくて〝7~8ヶ月くらい〟であったと義父の恭は喋っていたということなのでしょう。
 一方で、恭は「松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた」ということも証言していますからそれは昭和2年3月8日のことなので、大正15年6月22日に穀物検査所を辞めたことなどを基にすれば
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
という仮説が立てられます。そして、実際に検証してみたところその仮説の反例が見つからなかったので、この仮説の検証ができました。そこで、平成23年に拙著『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』にてそのことを私は公にしました。幸い、この仮説の反例はその後も提示されておりませんので一定程度妥当なものであると言えます。
<補足> もう同拙著の在庫はないのですが、本ブログ中の『賢治が一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』でそれがご覧いただけます。
 なお恭と、賢治の愛弟子の一人である澤里武治は共に同時期に鎌田旅館に下宿していましたし、恭が羅須地人協会で賢治と一緒に暮らしていた頃は、武治もしばしばそこに出入りしていましたから、恭がでたらめなことを著作に書いていたとすればそれは必ずや武治等から指弾されたでしょうが、そんなこは今のところ一切知られておりません。

かつては「独居自炊」とはいわれていなかった
 これで、下根子桜時代の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れないことがほぼ明らかになったと思います。
 実際にこのことに関して調べてみますと、羅須地人協会時代の賢治が「独居自炊」と表現されるようになったのは、始めからそうだったわけではありません。具体的には、昭和28年以前の「賢治年譜」には「独居自炊」という言われ方は全くされておらず、それが初めて公的に使われたのは、私が調べてみた限りでは、高村光太郎の随筆『獨居自炊』(省略)が昭和26年に発行された後の、昭和28年発行『昭和文学全集14 宮澤賢治』(角川書店)所収の小倉豊文が編纂した「賢治年譜」においてであり、それ以降この四文字の「独居自炊」が常套的に使われ出したのは昭和52年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』からです。つまり、「独居自炊」といういわれ方が定着したのはどうやら昭和52年以降のようです。

結論
 したがって、「羅須地人協会時代の賢治」は「独居自炊」であったとは実は言い切れないことがこれでさらにたしかなものになったと思います。そしてもちろんこのことが事実だったとしても、賢治にとってそれは何ら不都合なことではありません。逆に、賢治にそのような仲間がいたと、しかもその仲間は甚次郎同様に「賢治精神」を実践しようとしていたといえそうだからなおさら喜ぶべきことだと私は思います。

 なお、千葉恭に関する先の拙著を高名な宮澤賢治研究家のお一人に謹呈したところ、同氏からは「これまではほとんど無視されていた千葉恭に、はじめて光が当たりました」という評を頂きました。実際このことのみならず、「羅須地人協会時代の賢治」についてはわかっていないことや疑問点が少なくないので、今後さらに究明され、検証されねばならないと私は思います。
(完)
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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