本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(1p~5p)

2015-12-17 08:00:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》









              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。*******************************
はじめに

 この度、巷間そうは言われているけれども、高瀬露は〈悪女〉などでは決してないことを実証できた。そしてそれよりはむしろ、露は《聖女》の如き人だったということがわかったのでここにその報告をしたい。

 現状では、なぜか高瀬(小笠原)露は巷間<悪女>とされている。
 例えば、宮澤賢治伝記の研究家として評価の高い境忠一は、
 (賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
  聖女のさましてちかづけるもの
  たくらみすべてならずとて
  いまわが像に釘うつとも
  乞ひて弟子の礼とれる
  いま名の故に足をもて
  われに土をば送るとも
  わがとり来しは
  たゞひとすじのみちなれや
<『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43)316p~より>
と述べていて、賢治は露のことをこのように厳しく〔聖女のさましてちかづけるもの〕に詠んでいる、と境は断定している。
 そして境のこのような見方は彼一人にとどまらず、森荘已池もこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕について、
 その女人がクリスチャンだったので「聖女」というように、自然に書き出されたものであろう。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、     
昭24)101pより>
と似たような見方をしている。つまり、「その女人(=高瀬露)」はクリスチャンだ、クリスチャンは「聖女」だ、だからこの詩の「聖女」は露であるという論理で捉え、露は聖女のふりをして賢治に近づいて行ってその足で賢治に土をかけたと解釈し、そう認識していることになる。そして、私の知る限りでは多くの人達がそう認識しているようだ。
 さて、いわゆる<露悪女伝説>がなぜ起こったのか、その真相は今のところ私には定かではないにしても、少なくともこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕が大きな要因の一つになったということは否定できなかろう。それは境や森をはじめとして多くの賢治研究家がこの詩を基にして、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做していると判断できそうだからである。
 しかしながら、果たして賢治自身は露のことをこの詩で詠んでいたのだろうかと私は疑問に思う。それはまず、露がクリスチャンだということを当時賢治は知っていたし、さらには露のことを賢治自身が「聖女」と表現していたことさえもあった((註一))のだから、常識的に考えて賢治は露のことを「聖女のさまして」とは言わないだろうと考えられるからである。
 そして次に、もし、クリスチャンだから「聖女」だという論理に従うならば、クリスチャンである露は「聖女」その者なのだから「聖女のさまして」とは普通言わない。逆に、露がクリスチャンであることを知っている賢治が露のことをもし「聖女のさまして」と詠んだとするならばそれは揶揄であり、賢治の人間性が問われることになる。それゆえ、「聖女のさましてちかづけるもの」とは少なくとも露以外の人物であったとした方が妥当であると考えられる。
 さらには、一般に露が賢治から拒絶され出したのは昭和2年の夏頃以降と言われているようだから、もしこのことが事実であったとしたならば、佐藤勝治が言うところの「このようななまなましい憤怒((註二))の文字」が使われている〔聖女のさましてちかづけるもの〕を、それから4年以上も経った後の昭和6年に賢治が露をモデルにして詠む訳が無い、というのが常識的な見方であろう。仮にもしそのような賢治であったとするならば、その執念深さは度を超しているので問われるのは露どころか賢治の方だということになる。この点から言っても、この「聖女のさましてちかづけるもの」は露であるという判断は危うい。
 よって、以上のことだけからしても、常識的に判断すればこの「聖女のさましてちかづけるもの」とは露以外の人物であるという可能性が高いと言える。換言すれば、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕の誤解によって、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做され、延いては<悪女>の濡れ衣を着せられてしまった可能性の高いことが導かれる。しかも、露以外にもっと「聖女のさましてちかづけるもの」に当てはまるある女性がいたというのにもかかわらず、である。
 実は、常識的に考えてみれば賢治はこうだったのではなかろうか、と思われるところはやはりそうだったということをこれまでに私は幾度か経験してきた。
 例えば、
(1) 羅須地人協会時代の賢治は独居自炊だと巷間言われているが、そうとは言い切れない。
(2) 賢治は昭和2年11月頃チェロ上達のために上京したが、その猛練習が祟って病気になり、3ヶ月弱後帰郷した。
(3) 昭和3年8月、賢治は凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していた。
等がそれにあたり、それぞれについて次の拙著、
(1)『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
(2)『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』
(3)『羅須地人協会の終焉-その真実-』
においてその真実を実証的に明らかにしてきた。そしてわかったことは、巷間言われている賢治関連の「現通説」の中には真実でないものが少なからずあるということである。
 それはまた、この<悪女伝説>の場合も例外ではなさそうだ。なぜなら、前述したように、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露以外の人物である可能性も高いことがまずわかったし、関連する証言や資料等を私が今まで少しく調べてみたところ、それらはかなり危ういものが多かったからである。
 そこで、本書ではこの<悪女伝説>について可能な限り実証的に検証しながら、次章以降その真相に迫ってみたい。
第一章 露に関して新たにわかったこと
「向ふの坂の下り口」に露の家があった
 ご存知のように、宮澤賢治が下根子桜に移り住んでから約一年後の昭和2年4月21日に詠んだであろう詩の一つに〔同心町の夜あけがた〕がある。それは次のようなものだ。
                  一九二七、四、二一、
   同心町の夜あけがた
   一列の淡い電燈
   春めいた浅葱いろしたもやのなかから
   ぼんやりけぶる東のそらの
   海泡石のこっちの方を
   馬をひいてわたくしにならび
   町をさしてあるきながら
   程吉はまた横眼でみる
   わたくしのレアカーのなかの
   青い雪菜が原因ならば
   それは一種の嫉視であるが
   乾いて軽く明日は消える
   切りとってきた六本の
   ヒアシンスの穂が原因ならば
   それもなかばは嫉視であって
   わたくしはそれを作らなければそれで済む
   どんな奇怪な考が
   わたくしにあるかをはかりかねて
   さういふふうに見るならば
   それは懼れて見るといふ
   わたくしはもっと明らかに物を云ひ
   あたり前にしばらく行動すれば
   間もなくそれは消えるであらう
   われわれ学校を出て来たもの
   われわれ町に育ったもの
   われわれ月給をとったことのあるもの
   それ全体への疑ひや
   漠然とした反感ならば
   容易にこれは抜き得ない
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である
   見給へ新らしい伯林青を
   じぶんでこてこて塗りあげて
   置きすてられたその屋台店の主人は
   あの胡桃の木の枝をひろげる
   裏の小さな石屋根の下で
   これからねむるのでないか
<『校本全集第四巻』(筑摩書房)72p~より>
 さて、この記述内容に従えば、賢治は当時としては極めて珍しかった高価なリヤカーに「青い雪菜」や「六本のヒアシンス」を載せて同心町(向小路)を北に向かっていた。しかし、雪菜やヒアシンスは今朝もまた売れそうにないし、そろそろ「向ふの坂の下り口」が近づいてきたから、そこまで行ったならばいつものようにそこで待っている子供にこのヒアシンスの花を呉れてやろうか、などと考えて賢治はこのように詠んだのだろうか。
 では、賢治はなぜこの詩の中で次の連
     向ふの坂の下り口で
         ~
     いつもの朝の恒例である
を「字下げ」したのだろうか。
 素朴に考えれば、賢治がこの部分を「字下げ」したということは、ここで詠んでいることは他の部分とは異なる心情を詠んでいたのであろう。そこで逆に「字下げ」以外の部分を概観してみると、下根子桜に移り住んでからもう一年が経ったというのに、未だに地元の人たちとはあまり馴染めず、周りから浮き上がっている賢治の疎外感がまず感じ取れる。ということは、この「字下げ」による転調の狙いは、それとは逆のことを賢治はそこに込めたかった、つまり、「向ふの坂の下り口」とは賢治の疎外感を一時(いつとき)忘れさせてくれる所、賢治の心が救われる場所であるということを詠み込みたかったのではなかろうか。
 そのようなことに思いを巡らしていた頃、私は幸運にもある地図を見ることができて、やはりそこには賢治のそのような想いが少なからずあったのだということを確信した。というのは、この「向ふの坂の下り口」とは賢治にとって極めて象徴的な場所であったことがその地図によってわかったからだ。もう少し具体的に言えば、今でもこの「向ふの坂の下り口」、つまり向小路の北端は下り坂になっているのだが、なんと、
   その「坂の下り口」に高瀬露の家が当時あった。
ということを知ることができたのだった。
 実は、露の生家については上田哲が論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―<悪女>にされた高瀬露―」の中で、その住所が
   花巻町向小路二十七番地
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学、平8)85pより>
であるということは既に明らかにしていた。ところがそこが具体的に一体どこなのかについては今まで誰も公には明らかにして来なかった。
 それがたまたま、下根子出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っており、幸運にも私は「そこ」が特定できた。同地図によれば、「そこ」、すなわち「花巻町向小路二十七番地」とはまさにこの「向こふの坂の下り口」のことだったからである。
 そこでこの詩〔同心町の夜あけがた〕の記述に従えば、賢治はこの連において 「いつもの朝の恒例である」と詠んでいるから、彼はしばしばこの「坂の下り口」で立ち止まっていたであろうことが窺える。さらには、この「字下げ」はその場所が賢治にとって心が救われる場所であったということを示唆しているようだから、その場所には露の家だけがあるわけではなくてその他の家ももちろんあるにはあるのだけれども一つの可能性として、露の家のある「坂の下り口」に立ち止まればそこでは鬱屈した賢治の心が救われたという見方ができる。
 したがって、賢治はある時期から露を拒絶し出したと一般には言われているようだが、少なくともその頃の賢治にとって露はかなり気になる存在であったということをこの「字下げ」は暗示していると共に、賢治が「字下げ」した訳はそこに露への想いを込めかったためだったという可能性も浮かび上がってくる。
 どうやら、賢治にとって「向ふの坂の下り口」とはかなり象徴的な場所であったであろうことだけは、これでもはや間違いなさそうだ。
 さて、賢治の詩友で、深い親交があった森荘已池の著書『宮沢賢治の肖像』の中に「宮沢清六さんから聞いたこと」という一節があり、次のようなエピソードが紹介されている。
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。二階の窓から顔を出した兄へ、「おもしろいお客さんを連れてきた」といいましたら、兄は「ホウ」と、喜んで、私とロシア人は二階に上ってゆきました。
 二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。リムスキー・コルサコフや、チャイコフスキーの曲をかけますと、ロシア人は、
「おお、国の人――」
と、とても感動しました。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭49)236pより>
 この清六の証言からは、賢治が下根子桜に住まっていたある日、賢治は露を招き入れて二人だけで二階にいたことがわかる。なぜなら、当時そこに出入りしていて、オルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば露がいるし、それ以外の女性でこれ等のことが当てはまる女性は考えられないからだ。もちろんこの清六の証言に従えば、この当時、賢治と露の関係はオープンであり、しかも親密で良好であったということもわかる。
 さらに清六は次のようなことも証言しているということを、他ならぬ露の教え子A氏(昭和十年代に遠野尋常高等小学校で露に担任してもらったという)から最近教えてもらった。
 それは、〝ポラーノの広場のうた〔「ポラーノの広場」の歌(四)〕〟に関する
 この歌の原曲は、明治三十六年初版の『讃美歌』(前出)の第四百四十八番『いづれのときかは』で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本全集第六巻 校異篇』(筑摩書房)225pより>
という記述があるということをである。よって、賢治は露から讃美歌『いづれのときかは』を教わっていたということを清六が証言していたということになる。
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