本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『羅須地人協会』について再考

2016-09-22 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 さて、私論を今後展開するのために一度ここで『羅須地人協会』について再考しておきたい。
 そもそも、『羅須地人協会』等について一般にはどのように定義されているのだろうか。次の二つの辞典から引用させて貰う。

『新 宮沢賢治語彙辞典』では
 「羅須地人協会」という項目があり
 (1926年)四月一日、花巻川口町下根子に独居生活を始め、教え子二〇余名とともに北上川沖積地開墾のほかレコード・コンサート、楽器の練習会等、農業指導と文化活動とを兼ね備えた一種の「新しき村」(武者小路実篤にちなんでそう言う)実践を試みた。これがいわゆる羅須地人協会で、八月二三日(旧暦七月一六日、盆の中日)を期して会の創立記念日とした。
             <『新 宮沢賢治語彙辞典』(原子朗著、東京書籍)より>
と記載されていた。同項目においては、この他に〝国民高等学校〟や長々と〝「羅須」の意味の諸説〟について記述されているが、残念ながら羅須地人協会そのものについては上記のことしか書かれていない、素っ気ないものである。

『宮澤賢治イーハートヴ学辞典』では
 この辞典では「羅須地人協会」という項目はなく、その代わり
  「羅須地人協会活動」
  「羅須地人協会における音楽と舞踏」
  「羅須地人協会における創作・生活」
の3項目がある。
 そこで、今回の私の今回の考察の対象はまさに羅須地人協会の活動なので、上掲の3項目中の「羅須地人協会活動」についてだけ引用させてもらう。ただし同書で〝…との証言がある〟とか〝…たという〟等の部分は除き、同書が推理していることや断定している事柄だけ、つまり同書が主張していることや事実であると述べている事柄だけを、である。
 羅須地人協会活動
 羅須地人協会の設立について、この年の旧盆16日にあたる8月23日には何も行われなかったが、賢治はこの年の夏を協会の設立の時と考えていたのである。
 1926(大正15)年3月の花巻農学校依願退職直後の岩手日報に「新しい農村の/建設に努力する/花巻農学校を/辞した宮沢先生」という見出しの元に賢治の談話が掲載された。現代の農村の「経済的」「行きつまり」打開のために「農村経済」を研究して、「同志の方が二十名ばかり」と「幻灯会」「レコードコンサート」を開いたり、「自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぷつの物々交換」をしつつ、「生活即ち芸術の生がい」を送りたい、という願望を語っている。翌昭和2年1月の「農村文化の創造に努む」には、賢治の活動を、「賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人協会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた/地人協会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化のに対抗し農民の一大復興運動を起こす」のが主眼で、「同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのである」「これがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにある」と報じた。「物々交換の制度」や「協会員は家族団らん生活を続けて行くにある」という原始共産制やコミューンを思わせる表現が官憲の憶測を呼んだと推定され、それを危惧して活動が停滞する結果を迎えた。この時期の活動については岩手日報の記事<投稿者註*2>に賢治の羅須地人協会の構想がほぼ過不足なく語られていたと見られよう。すなわち、ゆるやかな共同体組織で、農村文化を興隆し、生活の基礎となる農業生産の増産をはかり、「明るい」生活を創造しようとする活動である。賢治自身の羅須地人協会の活動は産業組合に匹敵する一つの単位として想定されていたと考えることができる。
 1925年夏頃「教師をやめて本統の百姓になって働きます」という意志をもらすようになり、その準備として、弟宮澤清六が家業を新規開業して家を継ぎ、自分は農学校を退職し、家を出て農村に入ることを、両親をも含めて納得させていった。このように社会的・世俗的地位や立場を整理した上で1926(大正15)年4月、「ひとりの農民」として花巻町下根子桜での活動にはいったのであった。なお、これに先立って、同年1月からは花巻農学校に開設された岩手国民高等学校において「農民芸術」の講義を担当しているが、これは、羅須地人協会の講義「地人芸術概論」(昭和2年1月頃の集会)の基礎を創ることともなっていた。
 羅須地人協会の活動は、賢治が農学校を退職した独居自炊・自耕自作の生活に入った1926年の春頃から、農学校時代の教え子や賢治の下根子桜の住居周辺の青年たちとともに始められた。最初の年の農繁期には、<農民芸術>につながる文化的活動を中心に行っていた。夏の後半からは、「肥料の講演や何かであちこちの村へ歩」いたのち、収穫も終わった11月19日には集会案内を配り、本格的な羅須地人協会の活動を開始しようとした。また実際に講義の際に壁などに貼られた49葉に及ぶ「〔教材用絵図〕」が作成されている。これらは、稲作を中心とする農業農業をするにあたって実践的農学・農芸化学を学ぶための教材であり、羅須地人協会の講義が、農学、科学に基づいた知識と技術による増産と安定的生産量の確保をめざしたものであることを語っている。また先の集会案内にあった「冬間製作品」は農民服、帽子、木工、木琴、ルパシカの紐などが考えられていた。その外に会合では被服修理・食料品加工・美術工芸品制作なども話しあわれたということであるが、これらは農閑期の副業を充実させることで協会員の経済生活の向上をはかるものとして計画されたものであった。
 これ以外にも、肥料の講演や肥料設計も羅須地人協会の農業関係の主たる活動の一つと見ることができる。現存の設計表の枚数や証言からも、持続的な活発な活動であり、羅須地人協会の時期の活動の一つの柱になっていたことが伺える。
 構造的に疲弊する農村における生産性の向上が、経験や勘ではなく科学的知識や技術にもとづいてなされ、あわせて稲作のみに頼らない経済を作り上げることが、疲弊からの脱出を可能にするという新年に基づいた活動の具体相である。このような生産力の増大・維持とともに、農村生活を「明るく」するものとして求められたのが、農民芸術の理念であった。農業労働自体の中に芸術を発見したり、農業労働自体を一つの芸術とすることが「明るく生き生きと生活」することになるという理念であるが、その実践としての協会の活動では、農民楽団や農民劇団などが試みられ、しし踊りのような踊りを踊ったり、童話の読聞かせをし、さらには農民芸術の講義、エスペラントの講習など様々な文化・芸術活動を行っていた。
 宮澤賢治は、1928(昭和3)の上京・大島行きから帰郷後、うち続く天候不順の中で奔走して遂に病臥、冬には肺炎を起こして十得な状態になった。このような身体の不調により羅須地人協会の活動は中絶することになった。
             <『宮澤賢治イーハートヴ学辞典』(天沢退二郎・金子務・鈴木貞美編、弘文堂)より>

「下根子桜時代」の活動リスト
 この二つの辞典、特に後者から、「羅須地人協会」における賢治の活動と、〝『家の光』の共同主義=農業改良主義〟や〝犬田卯の「農民文学運動」〟とは似ているところが少なくないと感じた。
 そこでこれらの辞典の記載内容に従って、「下根子桜時代」(下根子桜に賢治が住んでいた時代)に賢治が行っていたことや、行おうと思っていたこと、「下根子桜時代」の賢治の活動を以下に並べてみたい(ただし、今後の考察の準備のために「羅須地人協会」の文字部分は赤色の「羅須地人協会」にしてみる)。
・賢治は大正15年8月23日を羅須地人協会の設立の時と考えていた。……①
・大正15年4月1日付『岩手日報』に「新しい農村の建設に努力する」という見出しの記事が載り、
 現代の農村の経済的行き詰まり打開のために農村経済を研究し、同志約20名と「幻灯会」「レコードコンサート」を開いたり、自分達が額に汗して作った農作物の交換をしつつ、「生活即ち芸術の生がい」を送りたい、
と賢治は答えていた。
・昭和2年1月31日付(以前は昭和2年2月1日付といわれてきたもの)『岩手日報』に「農村文化の創造に努む」という見出しの記事が掲載される。
・その内容は
 賢治は今度花巻在住の青年約30名と共に羅須地人協会を組織し、新たな農村文化の創造に努力することになった。協会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化のに対抗し農民の一大復興運動を起こすのが主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活に立ち返ろうというものであると賢治は言う。そのために、収穫時には各自持ち寄った収穫物の物々交換制度を設け、農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団欒の生活を続け行きたいとのことである。……②
・(この項目の筆者杉浦静氏によれば)羅須地人協会はゆるやかな共同体組織であり、その活動は農村文化を興隆し、生活の基礎となる農業生産の増産をはかり、「明るい」生活を創造しようとする活動である。賢治自身の羅須地人協会の活動は産業組合に匹敵する一つの単位として想定されていたと考えることができる。
・「物々交換制度」や「協会員は家族団らん生活を続けて行くにある」という原始共産制やコミューンを思わせる表現が官憲の憶測を呼んだと推定され、それを危惧して活動が停滞する結果を迎えた。……③
・大正15年1月に開設された岩手国民高等学校において賢治が担当した「農民芸術」の講義は、羅須地人協会の講義「地人芸術概論」(昭和2年1月頃の集会)の基礎を創ることともなっていた
羅須地人協会の活動は、賢治が農学校を退職した独居自炊・自耕自作の生活に入った1926年の春頃から、農学校時代の教え子や賢治の下根子桜の住居周辺の青年たちとともに始められた。……④
・その内容は
 最初の年の農繁期には<農民芸術>につながる文化的活動を中心に。同年夏の後半からは「肥料の講演や何かであちこちの村へ歩」いたのち、収穫も終わった11月19日には集会案内を配り、本格的な羅須地人協会の活動を開始した。
・実際に講義の際に壁などに貼られた49葉に及ぶ「〔教材用絵図〕」が作成されており、これらは、稲作を中心とする農業農業をするにあたって実践的農学・農芸化学を学ぶための教材であり、羅須地人協会の講義が、農学、科学に基づいた知識と技術による増産と安定的生産量の確保をめざしたものであることを示唆している。
・集会案内にあった「冬間製作品」は農民服、帽子、木工、木琴、ルパシカの紐などが考えられていた。
・会合では被服修理・食料品加工・美術工芸品制作なども話しあわれたというが、これらは農閑期の副業を充実させることで協会員の経済生活の向上をはかるものとして計画されたものであった。
・肥料の講演や肥料設計も羅須地人協会の農業関係の主たる活動の一つと見ることができる。現存の設計表の枚数や証言からも、持続的な活発な活動であり、羅須地人協会の時期の活動の一つの柱になっていたことが伺える。……⑤
・構造的に疲弊する農村における生産性の向上が、経験や勘ではなく科学的知識や技術にもとづいてなされ、あわせて稲作のみに頼らない経済を作り上げることが、疲弊からの脱出を可能にするという新年に基づいた活動の具体相である。
・このような生産力の増大・維持とともに、農村生活を「明るく」するものとして求められたのが、農民芸術の理念であった。農業労働自体の中に芸術を発見したり、農業労働自体を一つの芸術とすることが「明るく生き生きと生活」することになるという理念である。
・その実践としての協会の活動では、農民楽団や農民劇団などが試みられ、しし踊りのような踊りを踊ったり、童話の読聞かせをし、さらには農民芸術の講義、エスペラントの講習など様々な文化・芸術活動を行っていた。
・賢治は昭和3年の上京・大島行きから帰郷後、うち続く天候不順の中で奔走して遂に病臥、冬には肺炎を起こして十得な状態になった。このような身体の不調により羅須地人協会の活動は中絶することになった。
 

「羅須地人協会活動」の気になること
 さて、これらのリストを概観してみてまず気になることが二つある。
 その第一は、①と④の関係であり、そこには矛盾があるのではなかろうかという点である。なぜなら、賢治は「羅須地人協会」の創立を①のように考えていたようだから、少なくとも「羅須地人協会」の活動はこの日(大正15年8月23日)以降の活動になると思うからである。さらには、この日から「羅須地人協会」の実質的な活動が始まっていた訳でもなく、それは〝収穫も終わった11月19日(11月22日?)〟に集会案内を配ったことによって初めて「羅須地人協会」の活動がスタートしたと考えるのが妥当だと私は判断している。
 その第二は、⑤についてである。はたして上記の〝肥料の講演や肥料設計〟が〝羅須地人協会の時期〟の活動の柱の一つと言えるのだろうか、ということがである。一般には、『岩手日報』の報道内容②が賢治の「羅須地人協会」の構想を過不足なく述べている、と言われているようだから、この②に従うならば、「羅須地人協会」の活動は③が指摘するように昭和2年1月31日付『岩手日報』の報道を境にして停滞し始めたということになるだろう。そして、「羅須地人協会」の活動は昭和2年の4月頃には途絶したであろうと私は認識している(〝昭和2年2月1日後の賢治(後編)〟参照)から、「羅須地人協会」の活動はせいぜいこの4月頃までだったと私は判断している。そして、この活動が停滞していくとともに逆に盛んになっていったのが施肥指導・肥料設計という賢治一人の活動だったのではなかろうか。
 それゆえ、内容②が「羅須地人協会」の構想を過不足なく語っているものであるとするならば、一方で私は「羅須地人協会」の活動は昭和2年の4月頃に途絶えてしまったと考えているから、〝肥料の講演や肥料設計も羅須地人協会の農業関係の主たる活動の一つと見ることができる〟と言えるのだろうかという疑問を抱く。たしかに下根子桜時代にそれらが行われていたということは事実であろうが、それが「羅須地人協会」の〝主たる活動の一つ〟とまではたして言えるのだろうか。〝肥料の講演や肥料設計〟が〝主たる活動〟であったのはそれこそ「羅須地人協会」の活動が停滞していった後のことなのではなかろうか。

用語「羅須地人協会活動」について
 こうなると、やはり用語「羅須地人協会」の定義が問題となってくる。因みに上記のリストの中にあるいくつかの羅須地人協会は、皆同じことを意味している訳ではなくて、意味が違っている箇所もある。それは巷間使われている用語「羅須地人協会」も同様である。つまり、その定義も十分になされぬままに「羅須地人協会」という言葉が独り歩きをしていて、一人一人に各自の「羅須地人協会」があったり、個人の中でも味が揺れ動いていたりしている場合もあると私は感じている。しかし、「羅須地人協会」に関する実り多い議論や考察を行うためには、「羅須地人協会」という用語に共通理解が必要だ。
 ついでに言えば、明らかに
    「羅須地人協会活動」≠「下根子桜での活動」
である。もう少し正確にいえば、
    「羅須地人協会活動」⊂「下根子桜での活動」
だと思う。少なくとも
    〝「羅須地人協会活動」=「下根子桜での活動」〟は成立しない。
と思うのである。
 さりながら、「羅須地人協会活動」とはそもそもどんな活動のことをいうのか。大雑把には、
    「羅須地人協会活動」≒②
と私は捉えているし、
    「羅須地人協会活動の時代」=大正15年11月22日頃~昭和2年4月10日
と判断しているので、「羅須地人協会活動」を次のように規定したい。
「羅須地人協会活動」:宮澤賢治は大正15年11月22日頃~昭和2年4月10日頃に下根子桜の宮澤家別宅で、花巻在住の青年等と共に新たな農村文化の創造を目指した活動のことをいい、その趣旨は当時悪弊と見られていた都会文化に対抗して農民の一大復興運動を起こすことであり、田園生活を愉快に過ごせるようになろうという活動であった。そのために具体的には、収穫時には各自持ち寄った収穫物を物々交換する制度を設けたり、農民劇・農民楽団を創設して協会員が家族団欒の生活を続けて行けるようする等の活動をしたりした。……◎
 そして、「下根子桜時代」(大正15年4月1日~昭和3年8月10日頃のこと)における賢治の公的活動としては
「下根子桜での活動」=「羅須地人協会活動」+「稲作のため等の講義」+「肥料の講演や肥料設計」+「子供達への読み聞かせ等」
であると私は思っている。
 ただし、
   「羅須地人協会活動の時代」=大正15年11月22日頃~昭和2年4月10日頃
とはしたものの、「羅須地人協会時代」についてはもっと長期間であるとしている人もあるようなので、私の場合には、
   「羅須地人協会時代」=「下根子桜時代」(=大正15年4月1日~昭和3年8月10日頃)
として、今後用語「羅須地人協会活動の時代」と「羅須地人協会時代」は使い分けてゆきたい。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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