本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

書き残していなかったという事実

2015-11-24 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 書き残していなかったという事実
 さて、私は
 もしこの時期に賢治が病気になって下根子桜から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していないはずだ。……②
ということを前回述べたが、このことをここでは検証してみよう。

 まず、賢治関連の物書きの中でこの時の療養中の賢治のことを一番よく知っている人物はもちろん、実質的には賢治の主治医だったとも言われている医者佐藤隆房であり、彼の著書における次の証言
 賢治さんは…(投稿者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聴かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~より>
と、
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~より)>
は既に引用したものである。そしてその頃、佐藤隆房は豊沢町の賢治の実家にしばしば立ち寄っていたことはよく知られていることだから当時の賢治に直接会っていたことは当然のことであろう。問題はこの佐藤ではなくて、上掲の三人の場合である。

 その観点から言えば、一番先に挙げられるのが関登久也であり、彼の著作でそのようなことを書き記している可能性があるのは、
(1) 『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2) 『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3) 『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4) 『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
であり、これ以外ではほぼなかろう。
 ところがそれぞれを瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに〝(4)〟の中だけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥の身になりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
               <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95pより>
 しかしこの記述は、かつてのほとんどの年譜にあった昭和3年の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び前掲の佐藤隆房の証言の二つを踏まえた記述と思われるし、この〝(4)〟からは新たな重要な情報は得られないし、関本人が賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。

 それでは次は、物書きの中で一番このことを知っていてしかも書き残していそうなもう一人の森荘已池の著書からである。彼は、
 …昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました。
               <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202pより>
ということは述べている。しかし同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点では既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森のこの記載内容は前掲の「賢治年譜」や佐藤の前掲書を基にしていると判断できる。そして、やはり目新しい重要な記載内容はないし、その他の彼の著作にもこのことに関してこれ以外の重要事項は私が知る限り書き残していないし、もちろん森本人が賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。
 そしてもう一人の藤原嘉藤治だが、彼にしても同様であり、結局は、本来ならば下根子桜から撤退までして病臥しているという賢治を必ずや見舞いに行くであろうと思われるこの三人の中の誰一人として、その時に賢治を見舞ったとは一切書き残していなかったという事実があるということを私はほぼ100%検証できたようなので、どうやら〝②〟は正しかったと言えそうだ。

 ではこの三人はどうしてそれを一切書き残していなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄についての例のエピソード、
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものである。したがって、関、森、嘉藤治が見舞いに行ったということを書き残していないことも変であるが、賢治にまつわる多くのことを書き残している関も森もこのエピソードについてすら一言も書き残していないから(それともそれは私の管見故?)、これもかなり奇妙なことである。

 すると気付くことがある。それはあの阿部晁が、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に次のように書いていることから推察されることである。
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳三升(根子切手)
              <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)168pより>
つまり、阿部は昭和3年9月22日に「牛乳三升(根子切手)」を携えて豊沢町の実家を訪ねて賢治を見舞っていた。となればなおさらに、例えば、嘉藤治は菊池を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというからとても気掛かりであったであろうし、菊池が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」と述べているくらいだから、普通に考えれば、嘉藤治もそのことを知って何度か賢治の実家に見舞いに行ったか、行こうとしたであろう。
 そこで冷静に考えてみれば、阿部は豊沢町の実家に賢治を実際見舞いに行ったというのに、そのような嘉藤治を含む関、森の三人が全くそのことを揃いもそろって公に書き残していないという理由は、この三人も実は見舞っていたのだが地元花巻では当時賢治を公に見舞うということは禁じられていたからであったと解釈すれば、すなわち、昭和3年8月以降の賢治はしばし謹慎中の身だったからその見舞いを公に書き残すことはできなかったのだと解釈すれば全てがすんなりと理解できる。そして一方、阿部は地元の人間ではあるものの、自分の日記だから書き残せたのだと。

 それからもう一つ気付くことがある。それは、菊池は書き残していたというのに関、森、嘉藤治はそうではなかったことの違いが、当時菊池は東京に住んでいた、その他の三人は地元花巻に住んでいたという違いと符合するということにである。ではそのことは何を意味するのだろうかということを少しく思い巡らしてみると、地元の三人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという可能性が高いことにも気付く。実家に戻ったのは賢治が重病になったからだと名目上はなってはいるが、佐藤隆房が言っているように賢治はそれ程重病ではなかったから、もし直に見えてしまうとその差違を菊池に気付かれてしまうことを危惧したから菊池の場合には面会を謝絶されたと言えそうだ。そしてまた、菊池は賢治の「自宅謹慎」を詳らかに知らなかったのであのような追想をためらわずに書き、一方、この三人は実は賢治を豊沢町に見舞っていたのだが、菊池の場合とは違って、賢治は謹慎中の身であることをよく知っていたが故に地元の三人は見舞ったことを公に活字にすることを憚ったという可能性が高いということにである。

 大体この辺りが、当時賢治を見舞ったということを関、森、嘉藤治の三人が揃いもそろって一切書き残していなかった理由であったとしてもそれ程大きな間違いはなかろう。となれば、これで先の〝②〟の理由付けもかなりの程度できたので、これからは〝②〟から末尾の「はずだ」の部分を削除して、改めて
 もしこの時期に賢治が病気になって下根子桜から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していない。……②
と修正してもほぼ間違いがないだろう。よって、
 この三人は療養中の賢治を見舞ったということを一切公には書き残していなかったという事実がある。
とほぼ言い切れたし、おのずから仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであり、当局から命じられてその演習が終わるまで実家に戻って謹慎していた。……①
の妥当性もさらに増したと言える。

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