本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(132p~135p)

2016-01-19 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ようにして下根子桜から花巻駅に行った賢治は、少なくとも三ヵ月間滞京してチェロの練習をすると決意して、一人澤里に見送られながら花巻駅を発った。
のであると。

4 3ヶ月間滞京
 では、「○澤」の残り
 滞京中の先生は、私達の想像することも出来ないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
について次に少しく考えてみたい。
 やはり約3ヶ月間滞京
 この証言からは、昭和2年の11月頃から「少なくとも三ヵ月は滞京する」予定だったチェロの勉強だったが、それは想像を絶するものだったということが分かる。
 昭和2年の年頭のにあたって賢治が立てた一年の計「本年中セロ一週一頁」だったが、計画どおり取り組んではみたもののその腕前は一向に上がらない。これではならじと思い立って昭和2年の11月頃、少なくとも3ヶ月間滞京しながらチェロの先生について本格的にチェロを習おうと決意して上京した。
 だが、滞京中毎日やっていたその学習は、最初はボーイングだけ、「右手」の勉強だけだった。そして次がやっと糸をはじくことであったということをこの証言は示唆している。とてもではないが「左手」の学習であるポジションの学習には達していなかったであろうことが推測される。
 おそらく澤里武治の証言「そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです」どおりだったのであろう。
 なんとなれば以前にも触れたように、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも
 遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』
(中丸美繪著、新潮文庫)156pより>
と述懐しているからであ。賢治の場合はなおさら推して知るべしである。
 となれば、澤里の証言
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
は否定できなかろうし、かつての『賢治年譜』はおしなべて
  昭和3年1月 …栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったことはこの澤里の証言「お疲れのためか病気もされた」をまさしく裏付けていることになりそうだ。
 つまり、賢治は昭和2年の11月頃に上京して、「予定の三ヵ月」より少し早めに帰郷したと澤里は証言している訳だから、その帰郷はほぼ昭和3年1月頃となろうし、その頃の賢治はかつての「賢治年譜」で「漸次身體衰弱」となっていたのだから時期的にも見事に符合しているし、その身体症状も似ているからであるからである。
◇やはり賢治は昭和2年の11月頃に上京、その後約3ヶ月間滞京していた。
となるのではなかろうか。
 「現通説」の自家撞着
 ここまでの考察により、「○澤」全体もまた仮説「♣」を裏付け
ているということを私は確信した。また、この「○澤」をそのま
ま素直に用いれば多くのことを全く合理的に説明できるということも分かった。
 例えば、だから賢治は少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃の間の約3ヶ月間」の賢治は詩を全く詠んでいなかったのだ。その約3ヶ月間、賢治はチェロを猛勉強をしていたがために多忙であり、詩を詠む余裕などはなかったからだ、というように。
 一方で、「○澤」は「現通説」の反例となっているのではなかろうかということにも気付かされる。「現通説」は「○澤」の一部を
使って構成されているが、「不都合な部分」には頬被りしているという指摘をされかねない。
 なぜならば、そのような部分
 ・少なくとも三ヵ月は滞京する。

 ・先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、  とうとう病気になられ帰郷なさいました。
については「新校本年譜」では一切の言及がなく、「現通説」ではほぼ無視されている。
 ところがこれを無視しないとなると「現通説」は矛盾を来し、
自家撞着現象を起こす。「○澤」に基づきながら、それによって「現
通説」自身の辻褄が合わなくなってしまうからであり、そのことについては先に説明したとおりである。
 私の最終結論
 さてここまで考察してきた結果、 
 「○澤」を典拠としているはずの「通説○現」だが、この証言に基
づく限り「通説○現」を含む現在の「宮澤賢治年譜」は自家撞着に
陥っているとしか私には思えない。
 やはり、この「○澤」等を素直に生かして合理的に推論すれば、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
という結論に達せざるを得ないし、こう結論すれば他の証言や資料とも何ら矛盾を来さなくなる。これが現時点での私の最終的結論である。
 自説を修正したのか
 ところで、横田庄一郎氏は
 花巻駅まで賢治のチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(中略)…だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラ
ジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)68pより>
ということを理由にして、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を澤里が一人見送ったのは「大正十五年十二月」のことであると判断している。
 ここで私は不安におそわれる。はたして澤里が晩年「大正十五年」と言っていたのは、自分の証言「どう考えても昭和二年十一月頃」が記憶違いであったことを晩年になって認めて修正したからなのだろうか、という不安にである。
 緘黙する澤里
 一方で、横田氏の前掲書には次のようなことも記されている。
 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>
 このことに従えば、澤里はある時点から晩年のある時点までは賢治に関する発言を封印していたということになる。そういえば以前にも触れたことだが、澤里武治の長男裕氏が
 父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。
と私に教えてくれたことがあった。また同様に、板谷栄城氏が『賢治小景』が述べていた『「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます。』という澤里のエピソードを思い出してみれば、澤里が一時期緘黙していたのも宜なるかなと思う。
 それが再び賢治のことを澤里が語り出したのは宮澤清六の許しを得てからだということになる。ということは、単に「沢里は賢治を尊敬するあまり、…思い詰めていた」のではなくて、それ以外にも賢治のことを澤里が語ることを躊躇わせるものがあったということであろう。だから、澤里が後に語り出したということは、澤里の矜恃と気骨であったかもしれない。
 あまりにも理不尽
 さて、昭和31年に『岩手日報』紙上に連載された『宮澤賢治
物語』において公に紹介された「○澤」であったが、それが昭和
32年に単行本として出版された段階ではこの証言は意味が全く逆になるように改竄されたということは以前に詳述したところである。
 心の底では、「どう考えても昭和二年十一月ころ」のことであったと確信していたと思われる澤里武治にしてみれば重ね重ねの衝撃であり、さぞかし忸怩たる思いであったであろう。
 そもそも、昭和2年11月頃ならば澤里は花巻農学校3年生の時であり、大正15年12月ならば同2年生の時である。多くの人の場合にそうだと私は思うのだが、ひと月やふた月のずれならいざ知らず、印象に強く残っている高校時代などのエピソードが何年生の時だったかということは峻別し易いものである。それゆえにこそ、澤里は「どう考えても昭和二年十一月頃」と言ったのであろう。つまり、「どう考えても」というこの表現こそが澤里のその確信をいみじくも物語っていると私には見える。
 ところが、その挙げ句、澤里は当時通説となっていなかった「宮澤賢治年譜」を基にして証言することを迫られた節がある。さらには澤里のその証言が後に彼のあずかり知らぬところで改竄されたりしていることを知ったならば、まさしく横田氏や板谷氏が伝えているように「沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた」のも宜なるかなと私には思える。そしてそれからというもの澤里は賢治に関しては緘黙するようになったと私は推理する。
 したがって、なにも澤里は晩年になって自説を修正したとい
う訳ではなくて、その頃には既に宮澤賢治の「通説○現」が定着
して、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を一人澤里が見送ったという「事実」は大正15年12月2日のことであるとなってしまったので、万やむを得ずそうするしかなかっただけのことではなかろうか。まして、「先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」という極めて重要な証言は、「現宮澤賢治年譜」にはどこにも書かれていないし、そのことはだれも問題にしなくなったからであろう。
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