本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(60p~63p)

2016-02-25 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
 例えば、かつて私が抱いていた「羅須地人協会時代」の賢治のイメージは、多くの人もそうであるように、
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
に象徴されるものであり、賢治は貧しい近隣の農民たちのために献身的に活動する聖農であり、聖人・君子だった。
 ところが、よくよく調べてみると、遠く都会の小学生からのものさえも含む救援の手があちこちから陸続と差し伸べられていた大正15年の紫波郡の赤石村等の大干魃被害に際してさえも、賢治は何ら救援活動をしていなかった、というよりは無関心だったということに代表されるように、案外そうではなかったからだ。
 一方で、少なからぬ賢治研究家たちが例えば、
 わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。
とか、
 一九二八年の旱魃の際も、東京・大島旅行の疲れを癒やす暇もなく、イモチ病になった稲の対策に走りまわり、その結果、高熱を出し、倒れたのである。
あるいはまた、
 賢治が大島に渡った昭和三年といえば、賢治のふるさと岩手県が大干魃にみまわれた年でもある。その夏の日照りは五〇日にもおよび、稲も野菜も全滅し、井戸水さえも枯(ママ)れ果てたという。賢治は、この異変のなかを、文字通り東奔西走した。そして、ついに過労に倒れた。
というようなことを断定調で述べている。
 がしかし、前掲項目の中の
・一九二七年の冷温多雨の夏
・イモチ病になった稲の対策に走りまわり
・その結果、高熱を出し、倒れた
・稲も…全滅し
などの典拠は一体どうすれば見つかるのだろうか。どういうわけか、私がここまで調べてみた限りではどこをどう探し廻ってもこれらの事項を否定する資料等しか見つからない。
 具体的には、ここまでの検証の結果は、例えば
・「一九二七年は冷温多雨の夏」であったというわけではなかった。
・「一九二八年の夏の四〇日の旱魃」の際にとった賢治の行動はそれ程のものではなかった。
・「一九二八年の旱魃の際」に、賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわ」ったとは言えない(この年花巻周辺で稲熱病病が蔓延したわけではない)。
・「昭和三年といえば、賢治のふるさと岩手県が大干魃にみまわれた年でもある」ことは確かだが、大旱魃ではあっても岩手県の水稲が大旱害であったというわけではなく、まして稲が全滅したなどという事実は全くなかった。
・昭和3年の反当収量は県全体でも2石前後(当時普通反収2石といわれていた)だから平年並みの収量だし、昭和3年の稗貫の稲作も平年作以上であったと断定しても構わない。
というようなものである。
 したがって、前掲の賢治研究家たちの記述には事実誤認があるのではなかろうかと、私は自分勝手なことをついつい妄想してしまう。それにしても、どのような資料を基にしてこれらの賢治研究家たちは先のような断定をしているのだろうか、その資料を是非教えていただきたいものだ。
 しかも、私がここまで検証してきた限りでは、「その結果、高熱を出し、倒れた」がたしかに「通説」ではあるものの、それが真実であったとは言いきれなさそうだ。具体的には、
・賢治は、この異変のなかを、文字通り東奔西走した。そして、ついに過労に倒れた。
かというと、それよりは
 たしかに体調が悪かったことは否めないが、その真相は、秋10月に行われる「陸軍特別大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」に対処するために賢治は実家に戻って自宅謹慎していたのであった。
と判断することの方が遥かに妥当であると結論できたことを先に拙著『羅須地人協会の終焉―その真実―』で既に明らかにしたところである(本書の「第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相」でもこのことに関しては詳述してある)。
 また、先に実証したように、大正15年の大旱害の時に賢治は一切救援活動をしなかったどころか、全く無関心であった(33p参照)と言わざるを得ないから、残念ながらその時に賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていたわけではなかった。なおかつ前述のとおり、昭和3年の夏の40日をも超える「ヒデリ」の場合には今度は「ナミダヲナガシ」たりする必要がなかったことがわかったから、結局、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言うことができない。
 しかもこれも先に触れた(49p参照)ように、「羅須地人協会時代」に冷害はなかったから、賢治はその時代に「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもない。さらに賢治は、甚次郎には「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのに、甚次郎とほぼ同じような環境と立場にありながら賢治はそうはならなかったし、しなかったというダブルスタンダードがあった。いわば、甚次郎は「賢治精神」を実践したが、賢治自身はそのような「賢治精神」を実践しなかったということになる。
 だから当然あの賢治ならば後々、大旱害に全く無関心であったり、甚次郎への「訓へ」に関わってアンフェアなダブルスタンダードがあったりという「羅須地人協会時代」の己を振り返って恥じ、慚愧の念に堪えなかったはずだ。凡人の私でさえも、こんなことであったならばわざわざ花巻農学校を依願退職までして「下根子桜」に移り住んだということの意味と価値は半減してしまっただろうにと残念でならないくらいだから、本人である、天才賢治は後々「羅須地人協会時代」の自分を責め、己を恥じるのはなおさら当たり前のことだったであろうからだ。そう考えれば、昭和5年3月の伊藤忠一宛書簡(258)における、「羅須地人協会時代」についての
殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
という詫びは、まさにその証左となりそうだ。
 さらには、同年4月に澤里武治に宛てた書簡(260)においては、農学校時代の最後の頃の自分にまで遡って、
わづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったことを悔いてももう及びません。
<共に『新校本全集第十五巻書簡本文篇』>
とその奢りを後悔していることからなおさらそう言えそうだ。
 しかしながら、賢治にはまだまだ起伏があったようで、明けて昭和6年になるとその7月には森荘已池に対して、
   私も随分かわったでしょう。変節したでしょう
<『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)109p>
と言っていたということであり、かつての賢治らしさがかなり失われていたということもあったようだし、同年10月24日には佐藤勝治が言うところの憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕を手帳に書いてしまったわけだから、賢治といえどもなかなか簡単には「慢」からは脱しきれずにいたようだ。
 がしかし、その後賢治は自己嫌悪に陥り、忸怩たる思いで過ごしたのであろう10日程を経た11月3日になりやっと気持ちの整理がつき、今までのことを虚心坦懐になって己を振り返ることができて、「雨ニモマケズ…サムサノナツハオロオロアルキ」というような自分にできなかったことなどを素直に手帳に書き記して悔恨したということなのではなかろうか。
 実際、改めて〔雨ニモマケズ〕を冷静に読み直してみると、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけでもなければ「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもないということに代表されるように、〔雨ニモマケズ〕に書かれている他の事柄の多くもまた実は似たり寄ったりで、実は賢治がそのようにできたことは殆どない。それ故にこそ賢治は、その最後を「サフイウモノニ/ワタシハナリタイ」と締めくくったのだと、私はここまでの考察の結果からすんなりと了解できた。
 どうやら、この11月3日、「羅須地人協会時代」のしかるべき時にしかるべきことを為さなかった賢治は己を恥じ、せめてこれからはそのような場合にはそのようなことを為す人間になりたいと懺悔したことが、簡潔に言い換えれば、ヒデリノトキに「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔いが、賢治をして〔雨ニモマケズ〕を書かせしめた、という一つの見方も充分に成り立ち得るのではなかろうか。
 そして何よりも、これで「慢」から抜け出せる新たな境地に賢治が達したというところに、賢治が〔雨ニモマケズ〕を書いた意味と価値があるのだと私はここに至ってやっと合点した。特にそれは、かつては「黒股引の泥人形」を「えい木偶のぼう」と蔑んだその「デクノボートヨバレ」という一行に象徴されているように私からは見える。
 それにしても不思議に思うことは、この大正15年の紫波郡赤石村等の大旱害に賢治がどう対応したかは、「羅須地人協会時代」の本質が問われ、かつその在り方の是非が判定できる貴重な試金石だと私は思うのだが、賢治研究家の誰一人としてこの対応についての論考等を一切著していないどころか、言及さえもしていないということだ。一体なぜなのだろうか?

第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相

 ずっと以前から疑問に思ってきたことがある、あの「演習」とは一体何のことだったのだろうかと。

 「演習」とは何か
 それは、宮澤賢治が愛弟子の一人澤里武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡(243)、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15p >
の中に出てくる、この「演習」のことである。
 普通、「すっかりすがすがしくなりました」というのであれば、病気のために実家へ戻って病臥していたはずの賢治なのだから、「そろそろ下根子桜に戻ってそれまでのような営為を行いたい」と賢治は伝えるであろうと思いきや、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと愛弟子に伝えているわけだから、この「演習」は極めて重要な意味合いを持っていると言わざるを得ない。そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。
 さて、この「演習」に関しては、『新校本年譜』の昭和3年の「九月二三日」の項に次のような記述があり、
この「演習」の注釈〝*45〟について、
   盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と同巻では述べている。
 ところがこの「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」に関しては、『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
〈『花巻の歴史 下』(及川雅義著)67p~〉
となっている。つまり、下根子桜に建てられた「工兵廠舎(花巻演習場廠舎)」に盛岡の工兵隊等が来舎して架橋演習が行わ
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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