本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(62p~65p)

2015-12-24 08:30:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
るだろ。
吉田 あっ! そ~か、曜日欄の曜日の部分が明らかに消された形跡がある。
荒木 じぇじぇ、特に左側「十月六日」の曜日欄の〝[ ]〟の中などは、消された跡だということが露骨にわがるじゃ。
吉田 よくよく見てみると、『岩手日報』の方の写真も曜日欄は確かに皆消されている。
荒木 この消し方を見ると、「曜日」が誰かの手によって消されたということはもはや明らかだ。
鈴木 そうなんだよ。それは全く予想だにしなかったことで、それに気付いたときには恐ろしささえも覚えたし、絶対にその真相を探らねばならないと心に決めた。
荒木 といってもな…。
鈴木 実は、関徳弥のご子息とは私の恩師を通じての知り合いだったから、父徳弥の日記等が北上の『日本現代詩歌文学館』に寄贈されていたことは前々から聞いていたのでまずはそこを訪ねてみた。そして徳弥の『昭和三年 短歌日記』は見ることができて、その日記の筆跡と今度新たに発見されたと報道された日記の筆跡は、素人目で見てのことではあるがそっくりだったので、まずは新発見の日記はやはり徳弥のものに間違いがないということを確信した。
 さて問題は次だ。徳弥の『昭和三年 短歌日記』は『紅玉堂書店』が昭和2年12月に発行したものだったが、この枠組みと新聞に載った日記の枠組みは全く同じだったし、共に徳弥が使った日記であれば、どちらの『短歌日記』も共に『紅玉堂書店』発行のものだろう。しかもこちらの『昭和三年 短歌日記』の曜日の欄には曜日がきれいに印刷されていた。ということからは、やはり『昭和五年 短歌日記』の曜日欄の曜日は誰かの手によって意図的に消されたことは百%確かとなった。
吉田 となるだろうな…しかしどうして消さねばならなかったのかだ。
荒木 なあに、そりゃ明々白々だべ。
鈴木 なぜ?
荒木 その日記の表紙には『昭和五年』と印刷されているのだろうが、それを使ったのは昭和5年ではないからさ。
吉田 そうか、それ以外に曜日欄の曜日を消す理由はやはり考えられないか…。

『昭和五年 短歌日記』は「昭和6年」用か
鈴木 実は、この平成15年7月29日付『岩手日報』に〝関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見〟という新聞報道があったことを知ったのは、私がしばしばお邪魔している矢巾温泉の古書店『イーハトーブ本の森』の店主高橋征穂氏から聞いたからなんだ。他でもないこの新聞報道の際に「日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂さんが」と紹介されている高橋さんその人だ。
 そして高橋さんは、徳弥のその『昭和五年 短歌日記』を沼津のU氏に売ったということも教えてくれたのだが、私にとってそこはあまりにも遠くて行けそうもない。そこでまずは北上市の『日本現代詩歌文学館』に行ってみたというわけだ。
荒木 その結果、「関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記」と報道された同日記が、鈴木から見れば筆跡が確かに関徳弥のものだと判った。そして、新発見の日記の曜日欄が消されていたということも確認できた。が、それだけでは曜日欄が消された理由までは知ることなどできなかった。そこで、何はともあれその現物を見るしかないと思ったんだべ。
鈴木 うんその通り。こうなると沼津のU氏を直接訪ねるしかないと思って、高橋氏にお願いしてU氏の住所と電話番号を教えてもらった。直接U氏にお電話をした。U氏には高橋氏から紹介していただいたことを告げながら、直接お邪魔して徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見せていただきたいとお願いしたところ快諾していただいた。
◇U氏宅訪問
荒木 それでその訪問結果はどうだった?
鈴木 私は喜び勇んで、JRの切符を買い、宿を予約してその出発の日を首を長くして待っていた。するとその出発の前日、U氏から都合が悪くなったので明日は無理になったとご連絡を頂いた。
荒木 えっ、そうなんだ気の毒に。
鈴木 そこで私は、それでは明後日にお訪ねしますということで承諾を頂き、出発は予定通りの日にした。初日は、実は前々から一度訪れてみたいと思っていた身延町に行って久遠寺の賢治碑を見て、その後韮崎市に行って保阪嘉内のことを調べ回ればいいかと思ったからだ。
 するとその初日(平成25年7月8日)、久遠寺を見終えて身延線に乗って韮崎に向かっていたところへU氏から携帯に電話が入り、明日も仕事の都合で会えなくなったという連絡が入ったのでやむを得ず諦めた。まあその日は韮崎に泊まって、保阪嘉内に関連する場所を訪れたりして幾ばくかのことを知ることができはしたが、正直泣き泣き花巻に戻った。
吉田 何、またもやか。始めっから会うつもりなんかなかったのじゃないのか、U氏は。
鈴木 それは薄々感じた。そもそもこの「曜日の消去」のについては、日記の持ち主に会って日記の現物を見ればばかなりわかるはずだと私は思っていたから、先の古書店主高橋氏にはその経緯を訊いてみていなかったので、とりあえずはU氏訪問の顚末報告旁々高橋氏を訪ねて、あの新聞に載った日記の曜日が消されているのはなぜだったのでしょうかと訊いてみた。
吉田 その回答は?
鈴木 そのことは気付かなかったし、そのことが当時話題になった記憶もないということだった。
荒木 そこでしつこさがウリの鈴木のことだ、やはりその現物、徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見るしかないと再度思ったんだべ。
鈴木 わかるか? そうなんだよな。しかし、年金暮らしの私がまたもや沼津まで行くのはお金もかかるので無理。そこでU氏に電話をして、その日記には例えば「元日」の曜日欄は消えているのか、もし消えていれば曜日は何と記載されているのか、せめてそこだけでも教えてもらえないでしょうかと懇願したところ、それではその旨を手紙で連絡して下されば調べてご返事をしますということだった。
吉田 その曜日がどう書いてあるかで、実はその日記が書かれた年が昭和何年であったかがわかると踏んだわけだな。
荒木 それでそれで、元日の曜日欄には何と書いてあったというのだ?
鈴木 ところが待っても待ってもその返事が来ないのさ。私もしつこいとは思ったが、どうしても諦めきれず二ヶ月程経ってから再度そのお願いの手紙を出した。しかしやはり梨の礫。
荒木 そうか、だからこの前もまたその沼津に今度は「大人の休日倶楽部パス」を使って行って来たというわけだ。
鈴木 年金暮らしの私の場合にはそうでもしないと無理。そして、今度は事前には連絡せずに直接U氏のお宅にお邪魔した(平成25年11月26日)。
吉田 どうせ約束してもドタキャンされたのでは意味がないからな。
鈴木 そうなんだ。すると、今度はU氏に会えた。会っただけで、この方はとてもいい方だと直感した。遠いところわざわざ訪ねて来て下さってと仰って、その日記を見せてくれるということで奥の方に一度入って行った。私は再度訪ねて来た甲斐があったと心の内で快哉を叫んだ。
 ところが戻ってきたU氏の返事は、ちょっと事情があって今は見せられないので夕方また連絡して欲しいというものだった。そこで私は宿を取って夕方を待って連絡した。
荒木 じれったいな、それで結局…
鈴木 結論を言えば、見ることができなかった。夕方電話をしたところ、本が沢山あってその日記が紛れていてどこにあるか今は不明なので探してみますから、また明日連絡をしてくださいということだった。するとその明くる日の昼前にやっと連絡が入り、探してみたのですがその日記は見つかりませんでしたというものだった。
荒木 なんだ、結局また無駄足だったのか。
鈴木 そうなんだ、一時のぬか喜びに過ぎなかった。
吉田 何かあるんだよ。その裏には深い事情が…。あるいはもしかすると、鈴木は既に要注意人物としてマークされているのかもしれんぞ。
鈴木 実はほぼそうかもしれない。割り切れなさを感じつつ、世界遺産になった富士山を眺めながら私はしょぼくれてそこを後にした。
荒木 ほにほに可哀想に。
鈴木 花巻に戻ってから、再び高橋征穂氏にその報告に行った。高橋氏は非常に訝っていた。「あの日記は○○○万円で売ったものだから、他の本と紛れるようなところに保管などしておくはずがない」、と。
 そこで私は次のように話した。『高橋さんには申し訳ございませんが、どうやら同日記の曜日欄が消されていたのは始めからであり、ついては逆に、同日記は昭和5年のものではないという可能性が高いと私は思っておりますが』と。すると高橋氏は、それはあり得ることだと首肯して下さった。
 だから今後は、
 徳弥の『昭和五年 短歌日記』は実は昭和5年に書かれたものではなく、他の年に徳弥がそれを使って書いた日記である可能性が極めて高いと判断し、次に進むしかない。
と覚悟した。
吉田 〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟の曜日欄の記載が明らかに人の手で消されていることは間違いないから、それが消されているという事実がまさにあの記述内容は昭和5年のものではないということの証左であり、当然の帰結だろう。
 しかしだ、確かに〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟の元日の曜日欄等がどうなっているかを知ることによってそれが何年に書かれたものであるかということは特定しやすくなるだろうが、このルートはたぶんその裏に深い事情があると思われるのでこれ以上もう踏み入ることはできんだろう。
 その代わり、調べ方によっては〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟と言われているその日記が書かれた年を絞り込むことだって可能かもしれないから、これからはこちらのルートで探ってみようじゃないか。何か急に勇気が湧いてきたぞ。
◇『昭和五年 短歌日記』は昭和6年に書かれた
鈴木 まず、〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は「昭和5年」用として発売された日記であることは間違いない。
荒木 ところが曜日欄の曜日が消されているということからは、徳弥はこの日記を「昭和5年」として使ったわけではなく、他の「年」用に使ったということ以外には考えられない。
吉田 それも、「十月六日」の場合などは消したということがありありと判る消し方であり、気付かれないように消そうとしたとは感じられない消し方であることは明白だから、別の企みがあるとも思えない。
荒木 それでは、
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は「昭和5年」以外の年に書かれた。
という結論でいいんでないべが。
鈴木 じゃあ次は、徳弥はこの日記を何年用として使ったのかを推理し、できればその年を特定することだ。
吉田 まずは、「日記」の性格上「昭和5年」より前に使われたということはあり得ない。一方で、昭和8年以後もあり得ない。賢治は昭和8年の10月にはもはや亡くなってしまっていたからだ。となれば、その可能性は昭和6年か同7年のいずれかでしかない。
 そこで次だ。インターネットで『万年カレンダー』を見てくれ。昭和6年と7年の10月4日~6日の曜日どうなってる?
鈴木 ちょっと待て、ちょっと待て、え~と、
 昭和6年の場合:10月4日(日)、10月5日(月)、10月6日(火)
 昭和7年の場合:10月4日(火)、10月5日(水)、10月6日(木)
だ。
 それから、露は昭和7年遠野の小笠原牧夫と結婚、昭和7年の10月の露は遠野在住、勤務先はもっと釜石よりの上郷村だ。となれば、昭和7年に上郷小學校勤務の露がウィークデイの10月4日~6日の間に花巻の関徳弥の家に2回もやって来るのは常識的に考えて容易なことではない。
 そうそう、荒木は当時の岩手軽便鉄道の時刻表などを調べてくれると言っていたよな。そっちの方はどうだ?
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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