本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『新校本年譜』の註釈への疑問

2015-11-17 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
『新校本年譜』の註釈への疑問
 この「演習」に関して、いわゆる『新校本年譜』の昭和3年の「九月二三日」の項に次のような記述
    …だんだん無理が重なってこんなことになったのです。/演習(*45)が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)〉
があり、この〝*45〟について
    盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と註釈している。
 ところがこの「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」に関しては、『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
               〈『花巻の歴史 下』(及川雅義著)66p~より〉
となっている。つまり、下根子桜に建てられた「工兵廠舎(花巻演習場廠舎)」に盛岡の工兵隊等が来舎して架橋演習が行われた期間は「七月下旬~九月上旬」であったということになる。
 そこでこちらの記述に従えば、賢治が澤里に宛てた書簡(243)の日付は9月23日だからこの時点では既にこの架橋演習は終わっていたことになる。一方、同書簡の文章表現「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」等からして、9月23日時点では賢治はまだ根子に戻っていないことは明らかだから、賢治が同書簡にしたためたところの「演習」はまだ終わっていないことになるのでこの架橋演習のことではないということになる。つまり、この書簡の中に出て来ている「演習」とはこの註釈に述べられているような「架橋演習」のことではなく、別の「演習」を指しているということを賢治自身が教えているということになる。

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