宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

89 イギリス海岸(その1)

2008年12月13日 | Weblog
 平成20年の6月のある日、イギリス海岸の近くでお庭の仕事をしている方がいた。地元の人に訊きたいことがあったので訪ねたならば、そのことならお父さんが知っている、ということで教えてもらった。
 すると、その質問が宮沢賢治に関したことだったので、『賢治さんに関する資料があるからよろしかったらどうぞ』と、仕事を中断して案内したいただいたのが
《1 Λ重 上台ギャラリー》(平成20年6月17日撮影)

である。
 その方が、仰るには
 『折角遠くから”イギリス海岸”を見に来られる方は、パンフレットなどでイギリス海岸を思い描いて来られるようだが・・・』
【参考1:イギリス海岸】

   <『賢治のイーハトーブ』21pより>
【参考2:〃 】


   <イーハトーブ花巻観光ガイド『花巻へ行こう』より>
 いまの
《3 案内図》(平成20年6月18日撮影)

にしても前掲の《2》とあまり違わない。

 また、賢治自身の作品『イギリス海岸』ので出しに書いてある説明
 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずいぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗われるものですから、何とも云えず青白くさっぱりしていました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕や、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、一列にならんでいて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いているような気がするのでした。
 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣の女学校でも臨海学校をはじめていました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。
 それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃、たしかにたびたび海の渚だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺の麓まで、一枚の板のようになってずうっとひろがって居ました。ただその大部分がその上に積った洪積の赤砂利やローム、それから沖積の砂や粘土や何かに被われて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の岸や崖の脚には、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、又所々で堀り抜き井戸を穿ったりしますと、じきこの泥岩層にぶっつかるのでもしれました。
 第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできた縞のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれていること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまっていること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕らしいものがはさまっていることなどでした。そうして見ると、いま北上の平原になっている所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
 ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣や何か、半鹹のところにでなければ住まない介殻の化石が出ました。

などから描くイメージと
《4 現在のイギリス海岸》(平成20年6月18日撮影)

《5 〃 》(平成20年6月18日撮影)

《6 〃 》(平成20年6月18日撮影)

とではかなり違いがある。その状態を目の当たりにして、泥岩の上を歩くどころか泥岩さえも見ることが出来ないことにがっかりするかも人も少なくなかろう。その上を歩けるのはせいぜい
《7 セキレイ》(平成20年6月18日撮影)

ぐらいのものである。
 続けてその方は
『・・・がっかりする人が多いようだ。泥岩も大分削られてしっまって、賢治の頃とははかなり違ってきている。
 そこで、その様な方に時間の都合が付けばここにご案内をして、イギリス海岸に関する資料を見てもらったり、説明をしたりしています』

と仰っるのだった。
 心を痛めたその方は、地元の人間とした何か役立ちたいという思いに駆られてこの”上台ギャラリー”を創ったのだ。
 その 
《8 ギャラリーの中》(平成20年6月17日撮影)

の右手には
《9 かつてのイギリス海岸の写真など》(平成20年6月17日撮影)

が掲示したあった。その方が子供の頃はまさしくその写真のようであり、毎日のようにそこで遊んだり、泥岩の中から胡桃を探したりしたものだ、と。実際、イギリス海岸で拾ったくるみの化石も展示していた。
 左手には
《10 賢治の原稿や羅須地人協会のスケッチなど》(平成20年6月17日撮影)

が掲示してあった。その方が子供の頃は羅須地人協会の建物はまだ下根子にあり、そこでよく遊んだものだと語ってくれた。
 なお、あの”ハンカチ王子”の斉藤君もこのギャラリーにやって来たと云うことでその記念写真の額も飾ってあった。
 ところで、このギャラリーの経営者は佐藤さんという方であり、
《11 お願いして頂いた名刺》(平成20年6月17日撮影)

その佐藤さんが仰るには
 『実は、私の父は賢治祭の日には必ずと言っていいほど仕事を休んで賢治祭に出掛けて行っていた。あれこれと賢治のことを調べていたようだ。そのことを後で知った』
と。佐藤さんはお父さんへの思いもこのギャラリーに込めておられるのだろう。その心映えを知って、是非インターネットで紹介させて頂きたいとお願いしてこのブログとなった次第である。
 さて、この”Λ重 上台ギャラリー”はどこにあるかというと、
《12 イギリス海岸の土手にある柳の大木》(平成20年6月18日撮影)

を目印にして、この写真に見える
《13 佐藤 重治さん宅》(平成20年6月18日撮影)

を訪ねていただけば、屋敷内に”Λ重 上台ギャラリー”がある。

  なお、このイギリス海岸にある賢治に関わる公的なモニュメント等は
《14 「イギリス海岸の歌」》(平成20年6月18日撮影)

(とはいえ、これは前掲《3 案内図》の裏側である)と
《15 石の彫刻?》(平成20年6月18日撮影)

ぐらいもののではなかろうか。


 そのことを憂えたせいだろうか、このイギリス海岸遊歩道脇には、近所のやはり
《16 篤志家が設けた無料休憩所》(平成20年6月18日撮影)

がある。その無料休憩所の名前は
《17 ”くるみの森”》(平成20年6月18日撮影)

といい、ベンチが置いてある。また、あの
《18 電信柱》(平成20年6月18日撮影)

もあった。

 賢治はこの様に多くの花巻市民に愛されていているのだということを目の当たりにして、イーハトーブが現実にここにもあるのだと云うことを知らされた。

 では次回は、瀬川との合流地点より上流の方のイギリス海岸について報告したい。
 
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