「庚申」が詠み込まれている宮澤賢治の作品としては「春と修羅・第二集」の中の
『郊外』
卑しくひかる乱雲が
ときどき凍つた雨をおとし
野原は寒くあかるくて
水路もゆらぎ
穂のない粟の塔も消される
鷹は鱗を片映えさせて
まひるの雲の下底を過ぎり
ひとはちぎれた海藻を着て
煮られた塩の魚をおもふ
西はうづまく風の縁
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
毬をかゝげた二本杉
七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり
黒々として溶け残り
人はむなしい幽霊写真
たゞぼんやりと風を見送る
<『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
というものもあり、”七庚申の石の塚”が登場している。
因みに、次の写真が
《1 江釣子森山近くにある七庚申の石の塚》(平成21年2月15日撮影、膝立)
の一つである。
今回は、「七庚申塔」と「五庚申塔」の月別建立数をカウントしてみたい。
建立月が判かっているものについては次の《表1》のようになっている。
《表1 月別庚申塔の建立数(1870~1960年分)》
(ア)<七庚申塔> (イ)<五庚申塔>
1月:1基 1月:0基
2月:0基 2月:0基
3月:3基 3月:0基
4月:1基 4月:0基
5月:0基 5月:0基
6月:2基 6月:0基
7月:5基 7月:1基
8月:10基 8月:0基
9月:2基 9月:0基
10月:9基 10月:2基
11月:0基 11月:6基
12月:19基 12月:0基
合計52基 合計9基
なお、具体的なリストは末尾に載せた《表2》《表3》のとおり。
さて、花巻では”『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作”と言い伝えられているとのことであったが、前回述べたように実際にはそのような傾向は見られなかった。
とすれば、農民はどのような想いで庚申塔を建ててきたのだろうか。もし”『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作”と信じているのであれば、庚申塔を建てる理由は当然
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
の供養のために建てるという図式になるはずである。
このことを上の《表1(ア)》から探ってみての私の結論は、
七庚申塔の建立理由は豊作御礼のためだけとは云い切れない。
ということである。なぜなら、8月以前にはまだ稲作の作柄は確定していないはずだが、これら52基の七庚申塔の中の22基(42%)が8月以前に建てられているからである。『七庚申は豊作』と言い伝えられていても、前回の《年表1 庚申と岩手の稲作(1870~1960年)》から判るように、『七庚申』でさえも不作のときがある。豊作かどうか判らない8月以前に『豊作御礼の為に建てられる七庚申塔』を建ててしまって、あとで不作になってしまったならば神様に対して申し訳が立たず、畏れ多い行為になると思うからである。
次に、《表1(イ)》から探ってみての私の結論は、
五庚申塔の建立理由は凶作回避祈願のためだけとは云い切れない。
ということである。8基の五庚申塔の中の7基の建立月はいずれも11月である。旧暦では『刈り上は東北地方では「三九日」(みくにち)』と云われていたというから、花巻でも旧9月29日までには稲刈を終えていたはずである。とすれば、この7基の建立月が11月であることからそれらが建てられた時期は稲刈りが終わってからということになってしまう。それでは”五庚申塔は凶作回避祈願のために建てる”という論理には当てはまらないことになる。もうそのときには既に稲の作柄は確定してしまっているからである。
したがって、庚申塔の建立は
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
供養のためと云う図式は、花巻周辺においては必ずしも成り立つとは言えないようだ。
つまり、見て廻った花巻周辺に建てられている『庚申塔』から導かれる結論は、
賢治が生きていた頃の花巻一帯では、五庚申塔は凶作回避祈願の、七庚申塔は豊作御礼のためだけに建てられた供養塔であるとは言い切れない。
と云うことではなかろうか。少なくともこの辺(花巻一帯)の農民の『庚申信仰』に対する想いはそう単純なものではない、ということだと思う。
**************************************************************
《表2 年月日順七庚申塔リスト(1870~1960年)》
《01 七庚申(明治33年旧1月17日)》(堰袋金毘羅山)
《02 (七)庚申塔(明治36年3月4日)》(似内稲荷神社)
《03 七庚申(明治33年旧3月18日)》(石鳥谷北寺)
《04 (七)庚申(明治22年3月25日)》(戸塚蒼前神社)
《05 七庚申(昭和11年4月)》(椚ノ目熊野神社)
《06 七庚申(大正14年6月15日)》(石鳥谷貴船神社)
《07 七庚申(昭和11年6月19日)》(鞍掛白山神社)
《08 七庚申(明治36年7月12日)》(上円膝公民館前)
《09 七庚申(大正14年7月12日)》(上円膝公民館前)
《10 七庚申(明治33年7月21日)》(二枚橋稲荷神社)
《11 七庚申(明治33年7月21日)》(鍋倉春日神社)
《12七庚申塔(明治33年7月21日)》(三嶽神社)
《13 七庚申併刻(明治36年8月9日)》(湯口中村)
《14(七) 庚申塔(明治33年8月12日)》(清水観音)
《15 七庚申(大正3年8月12日)》(槻ノ木千手観音堂)
《16 七庚申塔(大正14年8月12日)》(三嶽神社)
《17 七庚申(昭和11年旧8月20日)》(上円膝公民館前)
《18 七庚申(昭和11年旧8月20日)》(下小路金毘羅さん)
《19 七庚申(明治33年8月21日)》(石鳥谷八幡宮)
《20 七回庚申(明治33年閏8月21日)》(田力庫理稲荷)
《21 七庚申(明治33年8月21日)》(糠塚稲荷神社)
《22(七) 庚申(明治12年8月)》(狼沢の追分)
《23 七庚申(明治33年閏9月11?日)》(石鳥谷貴船神社)
《24 七庚申塔(昭和22年9月吉日)》(地蔵堂)
《25七庚申(大正3年10月1日)》(椚ノ目熊野神社)
《26 七庚申(明治36年10月10日)》(花巻八ツ森)
《27 七五庚申併刻(大正14年10月17日)》(湯口太神宮)
《28 五七庚申併刻(大正14年10月17日)》(大木神明社)
《29 七庚申(大正14年旧10月17日)》(石鳥谷八幡宮)
《30 七庚申(明治33年10月21日)》(矢沢八幡宮)
《31 七庚申(昭和11年10月21日)》(花巻城址観音寺観音堂)
《32七庚申塔(明治33年10月22日)》(鍋倉愛宕神社)
《33 (七)庚申塔(明治12年10月吉日)》(清水観音)
《34 七庚申(大正3年12月15日)》(糠塚稲荷神社)
《35 七庚申(大正14年旧12月18日)》(糠塚稲荷神社)
《36七庚申(大正14年旧12月18日)》(鼬幣稲荷神社)
《37(七)庚申塔(明治22年12月19日)》(三嶽神社)
《38 七庚申(明治22年12月19日)》(狼沢稲荷)
《39 七庚申(明治22年12月19日)》(石鳥谷貴船神社)
《40 七庚申(明治22年12月19日)》(石鳥谷八幡宮)
《41 七庚申(明治22年閏12月19日)》(石鳥谷八幡宮)
《42七庚申(明治22年閏12月19日)》(小瀬川熊野神社)
《43 七庚申(明治22年閏12月19日)》(糠塚稲荷神社)
《44 (七)庚申塔(明治22年旧12月19日)》(椚ノ目熊野神社)
《45 (七)庚申(明治33年12月19日)》(湯口太神宮)
《46 七庚申(昭和11年旧12月21日)》(糠塚稲荷神社)
《47 七庚申(明治33年12月23日)》(戸塚蒼前神社)
《48 七庚申(明治33年12月23日)》(狼沢の追分)
《49 七庚申(昭和22年12月24日)》(糠塚稲荷神社)
《50 七庚申(明治44年旧12月27日)》(糠塚稲荷神社)
《51 (七)庚申(明治44年旧12月30?日)》(石鳥谷八幡宮)
《52 七庚申(明治33年12月2?日)》(胡四王山岩谷不動)
《表3 年月日順五庚申塔リスト(1870~1960年)》
《1 五庚申(明治35年7月2日)》(石鳥谷八幡宮)
《2 五七庚申併刻(大正14年10月17日)》(大木神明社)
《3 七五庚申併刻(大正14年10月17日)》(湯口太神宮)
《4 (五)庚申塔(大正元年11月2日)》(湯口中村)
《5 五庚申#1(明治35年旧11月4日)》(戸塚蒼前神社)
《6 五庚申#2(明治35年旧11月4日)》(戸塚蒼前神社)
《7 五庚申併刻(明治35年11月4日)》(湯口中村)
《8 五庚申(明治35年11月4日)》(鍋倉春日神社)
《9 五庚申(明治35年11月4日)》(台羽山神社)
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『郊外』
卑しくひかる乱雲が
ときどき凍つた雨をおとし
野原は寒くあかるくて
水路もゆらぎ
穂のない粟の塔も消される
鷹は鱗を片映えさせて
まひるの雲の下底を過ぎり
ひとはちぎれた海藻を着て
煮られた塩の魚をおもふ
西はうづまく風の縁
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
毬をかゝげた二本杉
七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり
黒々として溶け残り
人はむなしい幽霊写真
たゞぼんやりと風を見送る
<『校本 宮沢賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
というものもあり、”七庚申の石の塚”が登場している。
因みに、次の写真が
《1 江釣子森山近くにある七庚申の石の塚》(平成21年2月15日撮影、膝立)
の一つである。
今回は、「七庚申塔」と「五庚申塔」の月別建立数をカウントしてみたい。
建立月が判かっているものについては次の《表1》のようになっている。
《表1 月別庚申塔の建立数(1870~1960年分)》
(ア)<七庚申塔> (イ)<五庚申塔>
1月:1基 1月:0基
2月:0基 2月:0基
3月:3基 3月:0基
4月:1基 4月:0基
5月:0基 5月:0基
6月:2基 6月:0基
7月:5基 7月:1基
8月:10基 8月:0基
9月:2基 9月:0基
10月:9基 10月:2基
11月:0基 11月:6基
12月:19基 12月:0基
合計52基 合計9基
なお、具体的なリストは末尾に載せた《表2》《表3》のとおり。
さて、花巻では”『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作”と言い伝えられているとのことであったが、前回述べたように実際にはそのような傾向は見られなかった。
とすれば、農民はどのような想いで庚申塔を建ててきたのだろうか。もし”『五庚申』は凶作、『七庚申』は豊作”と信じているのであれば、庚申塔を建てる理由は当然
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
の供養のために建てるという図式になるはずである。
このことを上の《表1(ア)》から探ってみての私の結論は、
七庚申塔の建立理由は豊作御礼のためだけとは云い切れない。
ということである。なぜなら、8月以前にはまだ稲作の作柄は確定していないはずだが、これら52基の七庚申塔の中の22基(42%)が8月以前に建てられているからである。『七庚申は豊作』と言い伝えられていても、前回の《年表1 庚申と岩手の稲作(1870~1960年)》から判るように、『七庚申』でさえも不作のときがある。豊作かどうか判らない8月以前に『豊作御礼の為に建てられる七庚申塔』を建ててしまって、あとで不作になってしまったならば神様に対して申し訳が立たず、畏れ多い行為になると思うからである。
次に、《表1(イ)》から探ってみての私の結論は、
五庚申塔の建立理由は凶作回避祈願のためだけとは云い切れない。
ということである。8基の五庚申塔の中の7基の建立月はいずれも11月である。旧暦では『刈り上は東北地方では「三九日」(みくにち)』と云われていたというから、花巻でも旧9月29日までには稲刈を終えていたはずである。とすれば、この7基の建立月が11月であることからそれらが建てられた時期は稲刈りが終わってからということになってしまう。それでは”五庚申塔は凶作回避祈願のために建てる”という論理には当てはまらないことになる。もうそのときには既に稲の作柄は確定してしまっているからである。
したがって、庚申塔の建立は
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
供養のためと云う図式は、花巻周辺においては必ずしも成り立つとは言えないようだ。
つまり、見て廻った花巻周辺に建てられている『庚申塔』から導かれる結論は、
賢治が生きていた頃の花巻一帯では、五庚申塔は凶作回避祈願の、七庚申塔は豊作御礼のためだけに建てられた供養塔であるとは言い切れない。
と云うことではなかろうか。少なくともこの辺(花巻一帯)の農民の『庚申信仰』に対する想いはそう単純なものではない、ということだと思う。
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《表2 年月日順七庚申塔リスト(1870~1960年)》
《01 七庚申(明治33年旧1月17日)》(堰袋金毘羅山)
《02 (七)庚申塔(明治36年3月4日)》(似内稲荷神社)
《03 七庚申(明治33年旧3月18日)》(石鳥谷北寺)
《04 (七)庚申(明治22年3月25日)》(戸塚蒼前神社)
《05 七庚申(昭和11年4月)》(椚ノ目熊野神社)
《06 七庚申(大正14年6月15日)》(石鳥谷貴船神社)
《07 七庚申(昭和11年6月19日)》(鞍掛白山神社)
《08 七庚申(明治36年7月12日)》(上円膝公民館前)
《09 七庚申(大正14年7月12日)》(上円膝公民館前)
《10 七庚申(明治33年7月21日)》(二枚橋稲荷神社)
《11 七庚申(明治33年7月21日)》(鍋倉春日神社)
《12七庚申塔(明治33年7月21日)》(三嶽神社)
《13 七庚申併刻(明治36年8月9日)》(湯口中村)
《14(七) 庚申塔(明治33年8月12日)》(清水観音)
《15 七庚申(大正3年8月12日)》(槻ノ木千手観音堂)
《16 七庚申塔(大正14年8月12日)》(三嶽神社)
《17 七庚申(昭和11年旧8月20日)》(上円膝公民館前)
《18 七庚申(昭和11年旧8月20日)》(下小路金毘羅さん)
《19 七庚申(明治33年8月21日)》(石鳥谷八幡宮)
《20 七回庚申(明治33年閏8月21日)》(田力庫理稲荷)
《21 七庚申(明治33年8月21日)》(糠塚稲荷神社)
《22(七) 庚申(明治12年8月)》(狼沢の追分)
《23 七庚申(明治33年閏9月11?日)》(石鳥谷貴船神社)
《24 七庚申塔(昭和22年9月吉日)》(地蔵堂)
《25七庚申(大正3年10月1日)》(椚ノ目熊野神社)
《26 七庚申(明治36年10月10日)》(花巻八ツ森)
《27 七五庚申併刻(大正14年10月17日)》(湯口太神宮)
《28 五七庚申併刻(大正14年10月17日)》(大木神明社)
《29 七庚申(大正14年旧10月17日)》(石鳥谷八幡宮)
《30 七庚申(明治33年10月21日)》(矢沢八幡宮)
《31 七庚申(昭和11年10月21日)》(花巻城址観音寺観音堂)
《32七庚申塔(明治33年10月22日)》(鍋倉愛宕神社)
《33 (七)庚申塔(明治12年10月吉日)》(清水観音)
《34 七庚申(大正3年12月15日)》(糠塚稲荷神社)
《35 七庚申(大正14年旧12月18日)》(糠塚稲荷神社)
《36七庚申(大正14年旧12月18日)》(鼬幣稲荷神社)
《37(七)庚申塔(明治22年12月19日)》(三嶽神社)
《38 七庚申(明治22年12月19日)》(狼沢稲荷)
《39 七庚申(明治22年12月19日)》(石鳥谷貴船神社)
《40 七庚申(明治22年12月19日)》(石鳥谷八幡宮)
《41 七庚申(明治22年閏12月19日)》(石鳥谷八幡宮)
《42七庚申(明治22年閏12月19日)》(小瀬川熊野神社)
《43 七庚申(明治22年閏12月19日)》(糠塚稲荷神社)
《44 (七)庚申塔(明治22年旧12月19日)》(椚ノ目熊野神社)
《45 (七)庚申(明治33年12月19日)》(湯口太神宮)
《46 七庚申(昭和11年旧12月21日)》(糠塚稲荷神社)
《47 七庚申(明治33年12月23日)》(戸塚蒼前神社)
《48 七庚申(明治33年12月23日)》(狼沢の追分)
《49 七庚申(昭和22年12月24日)》(糠塚稲荷神社)
《50 七庚申(明治44年旧12月27日)》(糠塚稲荷神社)
《51 (七)庚申(明治44年旧12月30?日)》(石鳥谷八幡宮)
《52 七庚申(明治33年12月2?日)》(胡四王山岩谷不動)
《表3 年月日順五庚申塔リスト(1870~1960年)》
《1 五庚申(明治35年7月2日)》(石鳥谷八幡宮)
《2 五七庚申併刻(大正14年10月17日)》(大木神明社)
《3 七五庚申併刻(大正14年10月17日)》(湯口太神宮)
《4 (五)庚申塔(大正元年11月2日)》(湯口中村)
《5 五庚申#1(明治35年旧11月4日)》(戸塚蒼前神社)
《6 五庚申#2(明治35年旧11月4日)》(戸塚蒼前神社)
《7 五庚申併刻(明治35年11月4日)》(湯口中村)
《8 五庚申(明治35年11月4日)》(鍋倉春日神社)
《9 五庚申(明治35年11月4日)》(台羽山神社)
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