ゾイド~復讐と停戦~

2011-03-23 18:21:14 | ゲームよろず

最後のゾイドの記事から一年以上経過したが、忘れないうちに結論を書いておこうと思う。一応過去ログにリンクを貼っておくが、結構量があるのでまあ時間のある時にだうぞ(→「二時間で准将になった男」、「偶然戦争を終わらせた男」、「戦後処理」)。

 

では早速本題から入ろう。
以前ドラクエの「かたき討ち」に関して書いたが、要するにシンシアやパパスといった主人公に近い存在の死が復讐という形で作中人物(≒プレイヤー)の動機づけに繋がる演出がなされていたということだった。そのような観点でいくと、ゾイド2の主人公の場合は最初こそ上官に偵察を命じられての戦いであったが、途中で恋人が死んでからは「帝国への復讐」という動機づけが生まれたと考えることができる(考えすぎと思うかもしれないが、廃墟の村などでは「仇を討ってくれ」と言ってグスタフを託し息絶える兵士などが実際に出てくる)。しかしそうなると、その後の主人公の行動はかえって不可解なものに見えてくる。なぜか?シンシアを殺されたドラクエⅣの勇者がデスピサロを殺し、パパスを殺されたドラクエⅤの主人公がゲマやジャミたちを殺すことからすれば、主人公が最終的に帝国を滅ぼすことでハッピーエンドとなるはずである。しかしプレイした人間には周知のように、主人公は遺言を届けるという形でむしろ停戦のかけ橋として敵の親玉たるゼネバス皇帝を説得し、その決定を肯んじない副司令ランドを倒すことで平和をもたらすという終わり方なのだ(フラグメント90でも書いたが、ご都合主義な印象をプレイヤーに与えないよう「君側の奸」的存在を上手く利用していると言える)。これは一体どういうことなのだろうか?

 

そういう疑問を持ってプレイすれば、古代遺跡での「争いは何も生まない」という(単なるクリシェとして流してしまいそうな)言葉が物語の転換点かつ重要なテーマであることに気付くし、また最後に「天国の~(恋人の名前が入る)も喜んでいるでしょう」とあるのが復讐がテーマでないことを示す意図的なものだということもわかる(そのような存在を増やさないためにこそ戦いを終わらせる、てところか)。

 

とはいえ問題もある。恋人の死がそのような重要な意味を与えられているのなら、その死は北斗の拳の「明日なき旅」あたりが似合う(笑)盛り上どころにすべきはずだが、恋人に全く会わなくてもOK&名前が固定じゃない(=交換可能である)ことに起因する存在感のなさが仇となって「あら死んじゃったのw」くらいにしか感じないwそれに「争いは何も生まない」メッセージ→聖なる村→遺言→停戦という流れも、順番を入れ替えたりスキップしたりできることもあって今一つ伝わりにくいものになってしまっている。

 

この演出の不徹底さをどう評価するかは人によって分かれるだろう。たとえば海流に流されるメッセージが「ひえーたすけてくれー」だったりとコミカルな要素が入っているので、あるいは内容が重く&暗くなりすぎないように製作者サイドが配慮したと考えることもできる(※)。とはいえそれに対し、メッセージに漢字&カタカナがないから間の抜けた感じに見えるだけであって、廃墟の村の曲など全体としてはシリアスな雰囲気が強いのではないか、という反論も可能だろう。こういう具合で、単純に方向性が曖昧なだけだと批判する人もいる一方で、背景とかを気にしない人も意識する人も楽しめる作品に仕上がっているとむしろより高く評価する人もいるだろう。

 

ただ一つ思うのは、そういった重層的な構造が、「子供の頃にプレイし、ノスタルジアから再プレイした時に背景が見えてきて感心する」といったような反応を生み出し、この作品が長く評価される主要因になっているのではないか、ということである。

 


これに関して、共和国側(味方)と帝国側(敵)の死に関する非対称性は興味深い。共和国側については特に中盤までは一般市民も含め次々と死んでいく姿が描かれているが、その一方で帝国側は捕虜になっている描写こそあれ死ぬ人間は一人もいないのである。これは「帝国軍の死を描くと敵を気持ちよく倒せなくなってしまうのではないか」という配慮(?)とも考えられるが、クックの街の描写なども含めてプロパガンダ(あるいは「感情移入プログラム」)というのはこうやって作るんだなあと参考になる部分でもある。「ヒトラー最期の12日間」や「『いい人』問題」などを参照。


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