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共感についてのフラグメント:その概念と虚構性

2007-12-20 00:52:55 | 抽象的話題
さて前回共感という幻想の危険性について書いた。この記事も覚書からまとめられたものだが、その過程で色々な要素を削ってあることは言うまでもない。しかし、それらが共感というものに対する概念やその虚構性を考える一助になる可能性を考え、早めに掲載することにした。何か参考になればと思う。


<そもそも共感の証拠はあるのか?>
→所詮は言葉や表情からの「解釈」にすぎない。「悲しい」はあまりに多様だ。だから私は過程を重視する。

→仮に数値で証明できたとしても、経験によってそれをどう感じるか、思うかは千差万別である。(ex)痛み

→つまり客観的と思われる証拠すら×…つまり意識的な共感とは妄想ないし願望なのだ(共感が生じているとしても、それは特殊な状況で偶然成立する奇跡に他ならない)

※共感がこの世に存在しないとは言えない。ただ、おそろしく特殊なだけだ。


共感が自然にできるという考えは、ある重要な前提を無視しているように思われる。それはつまり、「他者は表象されたものによってのみ理解できる」という事実だ(←エスパーかよ)。要するに、言葉や表情といったものを通じてしか、我々は他者を理解することができない。ゆえに、相手との共通性を仮に見出すとすればそれは言葉や表情によるわけだが、そういう時我々はそういったものを土台にしつつその奥底にあるものを類推しているのである。これは相手を理解しようとする態度であり、非常に重要ではあるが、果たして「共感」と言えるだろうか(相手と同じ感覚を持つことか?)?そこに存在しているのは、同じ感覚・感情を「共有」することではなく、同じ感覚・感情を持っているという類推、ないし妄想である。

 
例えば「もらい泣き」について考えてみよう。卒業式で他者の表情や言葉に反応する。これは一見共感であるかのように見える。しかしながら、他者の表情や言葉に対する反作用の結果「なんかよくわからないけど悲しく」なったり、あるいは個人個人の思い出が浮かんで悲しくなるだけだ。つまりそれは同じではない(特殊具体的)。


こう反論する人がいるかもしれない。「双子や長く濃密な関係を築いた人間同士がシンクロする例はどう説明する?」と。なるほど確かにそういう例を聞いた事はある。しかし逆に言えば、そういう特殊な関係になければ共感は不可能であることを証明しているのではないか?[以下、核心部分のため次の機会に]


<共感とは何か?>
共感できない人間は人格障害だとされる(先に言っておくと、色々考えた結果、自分は人格障害であることはほぼ疑いない)。同じ感覚だという根拠は何?(安易に一般化してるだけ?)あぁ、あいつはこういう気持ちだったのか、という気付きはとても大事だ(相手の気持ちを理解する)。しかしその気持ちが同じであるという根拠はどこにもない。実際には、相手の言葉や反応と自分のそれを照らし合わせて類推しているだけだ。それをもって同じだ共感だというのは妄想に他ならない(既述のように痛いという言葉、あるいは症状でさえその人生によって中身が変わる)


<共感とは何か2>
要するに、共感という言葉があまりに安易に用いられている現状が問題なのだ。心理学者などは、いったいいかなる根拠をもって共感が「普通」の基準だと言うのだろうか?共感できるはずであるという妄想?共感できたという妄想(自分のことさえわからないのに、どうして相手の感情と同じだとわかるのか?自分の感情さえわからないのは日常の中での現実を想起せよ)?その点をはっきりさせた方がよい。というのも、前に虐待のところでも述べたように、誤った期待というものは、不幸な、まことに不幸な失望と悲劇を生み出すからである。


<共感とは何か3>
共感が妄想と考えれば無味乾燥な関係になる?それは人が死なないと思って生きるのと同じく誤りだ。幻想を抱けない人間はダメってことが言いたいのか?それならそうとはっきり言うべき。例えば「社会を成り立たせるための虚構」ゆえに必要というのと、自然に共感は可能であるというのは天地の差がある。そこをはっきりさせないと、誤った期待と悲劇を生み出すだろう。というのも、共感が自然に可能であると思っている人間は、意識的にせよ無意識にせよ押し付けがましい傲慢な態度を当然だと考える。それは価値観の多様化した社会では通用しない。


<共感とは何か4>
虚構としての共感は、「演じる」「意識する」という努力によって成り立つ。それが大事だというのはまだ理解できる。というのも、社会は虚構だからであり、人はその中で演じる役者だからだ。ゆえに、演技に対して共感という注文が一つ加わった、ということならそれほど大きな誤謬とは言えまい。しかし共感が自然であると思えば、それは相手の感情を安易に一般化し、かつ自分の感情・感覚を押しつける行為を当たり前に行うようになるだろう。それが自己中心的なレビューであり、


<共感とは何か5>
同じあるいは近いという根拠は何?ない。単なる解釈、妄想(共感と洗脳、マインドコントロール)。幻想・演技が大事、という意味ではない…他社との関係性=心でどう思っても態度には出すな(あるいは自己欺瞞が大事)?つまり、自然にできるはずという主張…かつての親和性の高さや空気→共感とシンパシーの違い、海外の用語を安易に訳して使うと×、電波系、不快感の増加、押しつけ、説明能力の低下、泣いてる人とともに悲しむ=共感、泣いてる人見ても何も感じない=共感できない人(多いのか?)、いや泣いてる人を気遣う(理解を示す)といった態度あり。


<共感とは何か6>
共感とは言葉が同じという意味ではないよな。言っていることが似ている、同じだということはわかるが、感覚・感情が同じとなぜわかる?


<共感とは何か7>
泣いてる人と一緒に泣くのが共感と考え、そうでなければ泣いてる人を全く気にしない態度をとる、という両極端な見解か(ムラの人間か村八分のどちらか)?この立場なら、たしかに共感ができない人間は社会不適合者になるだろう。しかし実際には、どうして泣いているのかを考えようとする中間の姿勢がある。
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