廃墟ではなく、「遺跡」である

2008-02-17 22:04:35 | 感想など
前に廃墟と路地裏のことを書いた時は頭に浮かんできた言葉だけで構築したため、かなり大きな違和感を抱えながら一応完成させた、という感じだった(まあそのおかげで、色々なことを考えるきっかけになった。The Effect of Writingだ)。以下では、違和感を手がかりに改めて内容を検証した結果を述べたいと思う。


まず路地裏についてだが、こないだはビル街の路地裏を強調したけれども、三ノ輪橋駅付近のように、かなり狭くて昔ながらの木造建築に囲まれた路地裏も非常に好きである。とすれば、単に時間の流れがゆるやかな空間が好きなのかもしれない(まあかつての分析と多少矛盾している気もするが)。


次に廃墟だが、前回書いたほど単純な感覚では片付けられないことがよくわかった。まず最初に、「木造建築の廃墟にはあまり魅力を感じない」という見解は訂正しなければならない。というのも、私が最初に惹かれた廃校も内部は木造だからだ。しかし一方で、廃村の木造家屋などにそれほど魅力を感じないのも確かである。とするならば、「一般の木造家屋にはあまり心惹かれない」と言うのが最も近いと考えられる。しかしこうなると、そもそも「無機的」だから廃墟に惹かれるという仮説自体が疑わしく思えてくる。以下、それを検証してみよう。


いきなりだが、廃墟に対して「気味が悪い」という印象を持っている人も少なくないのではないか?例えば中田薫・中筋純の『廃墟本』(ミリオン出版)では、和歌山県の亀喜荘(木造)という廃墟が出てくるが、紀勢本線の乗客たちには「何あれ、気味が悪い…」と評判が悪かったという(105p)。崩れかかった建物の雰囲気、あるいは廃墟で殺人が行われたといったニュースが流れたりするのを考えれば、そういう感想が出てくるのも理解できる。


しかしそれなら、どうして私(たち)は廃墟に惹かれたりするのだろうか?いわゆる滅びの美学なのか?個人的な話だが、建物が壊された後の更地にも何か感慨を覚えることがあるので、そういう側面も無いとは言えない。その他、建物そのものの美しさもあるだろう。代表例は兵庫県の摩耶観光ホテルだが、美しい建物の廃墟はやはり美しいのである(もっとも、この例だと廃墟である必要はどこにもないのだが)。また、どこまで一般性があるかはわからないが、私は廃鉱や廃工場で見られる機械・配管とサビの作り出す光景も芸術だと感じる。


しかし、一番本質的な違いは、廃墟を「遺跡」として認識していることにあるのではないか?日本語では廃墟、遺跡と二つの言葉に分かれているが、英語では‘ruin’という単語で一緒くたにされているように、両者の間には近似性がある。気味悪いと感じる人達が建物を「廃墟」として認識する一方で、私にとっては「遺跡」という意識が強いのだと思われる。


そう考えると、一般の木造家屋の廃墟に惹かれない理由も理解できる。それらは生活臭が強いため日常性から脱却できておらず、ゆえに「遺跡」という感覚を持ちにくいのだ。また、一般的に遺跡として認識されている建築物が木造であるという事情も、コンクリートの廃墟=「珍しい石の遺跡」として私が魅力を感じる要因になっていると思われる。


以上廃墟に惹かれる主な理由をまとめると、次の二点に集約される。

1.廃工場や廃鉱は、稼動しなくなった後のサビが作り上げる彩りが素晴らしい
2.廃墟が無機的な空間だからではなく、それを遺跡として認識するがゆえに魅力を感じる
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