さて、YU-NOエンディング批評のフラグメントも第四弾となりますた。今さらだが、原文に登場する「ぎとぎと」というのは当時のブログ名が「キッチンぎとぎと」だったため。これは「腐り姫」という(これまた)傑作に登場する店だが、なんか気に入ったのでテキトーにつけた記憶が(というか、ひと月後もまだブログ名は「ホイミン陵辱日記」のままなのかねえw)。ちなみに俺がキッチンと聞いて連想するのは「オトボケ」と「南海」である。大学時代に行き過ぎたためであらうか・・・
[原文]
「ハンガーストライキ」と聞くとなぜか「刑事物語」を思い出すぎとぎとですがみなさまいかがお過ごしでしょうか?
「YU-NOエンディング批評」から「YU-NOエンディング批評のフラグメント~近代への回帰など~」へ…一ヶ月以上に及ぶ「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」のエンディング批評も、この記事を含めてあと二回くらいで終わりそうです。なお、この段階ではすでにたくやの行動原理でエンディングを批評するという視点がほとんど完成しており、具体例から積み上げたその枠組み(=たくやの行動原理)を批判的に検討するという内容になっています。
<プレイヤーのためのエンディングという視点>
プレイヤーのためのエンディングと考えるなら、必然性のなさは大して問題ではない…主人公とプレイヤーはそもそも他者、と言えばいかにも当然の話に聞こえるが、たくやが非常に特殊な背景を負っていること、そして何より、アイテムの問題が主人公とプレイヤーのソゴを決定的なものにしている[記憶を失ったたくやがアイテムに何の疑問も持たないのは奇妙だが、展開を見てきたプレイヤーにとっては至極当然のものだ]。そういった状況では、そもそもエンディングをたくやにとっての必然性に軸を置いて論じること自体に批判が出るのも無理はない。しかしながら、ユーノ全体を見渡したとき、有馬たくやという特殊具体的な個人の情念が最後の最後まで物語を動かすドラマツルギーであり続けたことは確かであり、[本文ここで終わっている]
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「エンディングはプレイヤーの位相にとって意味があればそれでよく、たくやの人物像を問題視する必要性はない」というような見解をどう処理するか…最初はプレイヤーとたくやの他者性を強調する形にしようとしたが、それはむしろ逆効果であった。結局最後は、「たくやの人物像や行動原理が現世編の空中分解を防ぎ、(現世編を経た後なので批判が出やすい)一本道の異世界編の展開に必然性を与えており、それを無視、ないし軽視するのは物語のドラマツルギーを等閑視した意見だ」という形で上記の見解を退けることとなった。
なお、今だから告白するが、エンディング批評を始めた頃の私はたくやが(誤解を恐れずに言えば)自由奔放な男だと思っていた。しかし色々と考察する過程で、彼がむしろ「良識的」とさえ評価されるような側面を持ち合わせており、物語はその側面によって強く規定されていることが明らかになった。このことは、YU-NOのサブキャラの多くが、様々なしがらみを持っているがゆえに複雑で深みのある人物として描かれているのと共通するとともに、たくやと彼女達とのやり取りを中身あるものにしているように思われる(YU-NOで描かれるのは「大人の恋愛」だ、というふうに評されたりするのはこのあたりに理由があるのだろう)。
今回、たくやの行動原理はエンディングの批評にのみ利用したが、上記のことを考慮に入れるならより広く応用することが可能だろう。
<最後のシーンへの疑問>
[家族の希求といった]一貫した行動原理…現世編の展開をまとめ、近親相姦を単なる禁忌の快楽にしない。人並み以上に家族へ執着するたくやが、愛する娘(あるいは半身)が目の前で人身御供にならんとしているのを助けようとするのは必然的だ、とは言える。しかしそれでも、2世界救済より家族にプライオリティ事実。視点変。率直に言って、あの時のたくやの振る舞いにはかなり違和感。心性わかるにせよ、なぜあの緊迫した雰囲気を茶化すような描き方をしたか?この過剰性注目するなら、描く「必要があった」?その意図…安易なヒロイズムという批判の回避?解釈正しい、作者同大物語距離取。作者[これもここで終わっている]
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ケータイの字数制限のため助詞などを省略しているためわかりづらい箇所もあると思うが、本編においてたくやが「大きな物語」と距離を取るような人物であることが最後まで描かれており、作者もまたそのような描き方を意識していた、ということを指摘したものである。なお、「2世界救済より家族にプライオリティ」という意味不明な箇所は次で説明する。
ちなみに、これは全くの余談だが、「熊本帰省三日目」のような記事が生まれたきっかけは、ケータイでは情報量が多すぎて書ききれず、かと言って日記が二つの記事に横断するのも微妙だと感じたため、余計な情報=助詞を削っていくことにあった。そこにエセ漢文を加え、かつ暗号解読的な要素を取り込んで…「大量殺戮」などになるわけだ(炊事場を放置してヤバイことになった、という話にfateや硫化水素自殺[さらにわかる人にはわかるある有名なゲームのネタ]を盛り込んで意味不明な記事になっている)。
<デラ=グラントに愛着ないのでは?>
確かに、主人公の不死を補うかのごとく死んでいった者達の山(実に、サラ以外で生き残った者は皆無に等しい)を思うとき、セーレスも亜由美も死んだデラ=グラントにたくやが愛着を持つかは非常に疑わしい(家族の不在)。しかしながら、やや図式的な話になるが、今回の衝突は次元衝突であるため[←この表現は不適切である]、デラ[=グラント]だけでなく元いた世界も巻き込むのだ。そこには澪や神奈たちがいる。それ(=2つの世界)よりも主人公は目の前の家族を優先させているわけである。
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この記事は、デラ=グラントの救済よりユーノを救おうとした=「大きな物語」より家族を優先した、という見解に対して出てくるであろう反論を想定して書かれたものである。この記事を見て「あの場でそんな事まで考えられるのか?」と疑問に思う人がいるかもしれないが、たくやはその事実を前もって聞かされている。ゆえにたくやはおぼろげにでも次元衝突がどのような結果を生み出すか理解しているが、その想像上の惨劇よりも死へ向かわんとする目の前の家族を優先する…というような振舞・考え方は、「大きな物語」への距離、家族の希求、日常性の希求というたくやの三つの行動原理がもっともよく体現されたものであると言える。なお、念のために繰り返しておくが、その振舞・考え方自体を(私達が)どう評価するかというのは、少なくともこのエンディング批評において重要ではない。
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