『家族八景』:図像化された心理世界

2006-01-12 19:29:55 | 本関係
筒井康隆の『家族八景』は、他人の心が読める七瀬が様々なところで働き、その裏に潜む人間模様が描写される、という内容になっている。読みやすい、あるいはやや皮肉な意味で「わかりやすい」内容という評価もできる(人間模様の描写はよくできているとは思うが)。

だが本作において、心が読めることは相手の考えが文字化されるだけではない。そこに新しさがあるように思う(プロットとしてはどうかわからないが…)。例えば、最初に行った家の婦人は、初め心を読んだときガラクタしかない荒野のような光景が読み出された。それは一言で言ってしまえば、意図的に「何も考えない」という婦人の生き方・考え方から生まれたものだった。またある家においては画家と出会う事になるが、彼から読み取れるのは「図形」で、これは画家の人に対するイメージであった。彼は様々な喋る図形(すなわち人間のこと)のいる世界を見ていたのである。そしてそのことは、彼の外界に対する無関心や侮蔑の反映でもあった。

前者は心象風景、後者は特殊な世界認識と言えるが、本作ではそういった「心や認識が作り出すもう一つの世界」が見事に現実の風景と並列化している場面がいくつもあるのだ。そこから私が言いたいのは、「人の心が読めたらいいのに」という願望の結実といったメルヘンチックなものではなく、心が読めることによって認識できる人間の奥底の精神世界が、それぞれが密接に関係しながらも独自のものとして図像的・内容的に現実との見事な二重奏をなしているということである。

※だから本作の場合、心が読めることは、現実をより理解するための、言い換えれば現実の従属物的能力というありがちな役割を、時として超えてしまっているのだ。

そういった心の図像化に関して言えば、例えば七瀬が読んだ心の内容が、 

(こいつなんで俺の言うことを聞きやがらねえんだ?ちょっとかわいいからってお高くとまってんのか?あるいはよく知らないことに怯えているのかもしれないな。ここは一つ怖がらせないように優しく説明してあげよう)

ではなく、

(こいつなんで)(言うこと聞きやがらねえ)(ちょっとかわいいからって)(お高く)(あるいはよく知らない)(怯えているのか)(怖がらせないように)(優しく説明)

となっているのも重要な演出であると思う。人の心が無数の断片で構築されているという事実(?)はあるだろうが、同時にこれは(意識と無意識を隔てる)水面から、強い感情や意識という断片がポン、ポン、と浮かび上がってくるような、そんな光景を巧みに文字化したと言えるのではないか?一つのカッコで括った方の例は、「問題の提示→推測→推測2→解決法の選択」という一貫した流れのもとにある。だが実際の人の考えは、多くが同時並行的である。だから、(言うこと聞きやがらねえ)と(怯えているのか)が同時に頭の中に浮かぶ事だってあるだろうし、場合によっては(優しく説明)が(お高く)と平行していることもあるだろう。このいくつかの()による区切りは、断片としての思考とそれら断片が並列している様を上手く文字化・図像化していると言えるのではないだろうか。

※これについては『エディプスの恋人』の、円形で表された心の文字(?)という演出も想起したい。

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