古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

鶴亀句会1月例会  2019-1-18

2019-01-28 22:43:19 | 鶴亀句会

会日時   2019-1-18  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   7人  

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  恵方

近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左

次 会   2月15日(金)10時パレア9F  兼題 笹鳴き

山澄陽子選

わが恵方艮にして小宮あり     礁 舎
鈴の音の徹る拝殿日脚伸ぶ      〃

愛猫の肉球押して年賀状      優 子
野良猫のするり逃ぐる恵方道     〃

一人居を慰め梅の咲きにけり       綾 子

生かされて米寿の春を迎へけり   安月子
御仏に香立ち上る初灯        〃

書初めや心のままに筆はしる     興
初釜や抹茶たのしむ朱の袱紗     〃

恵方向き柏手打って運を呼ぶ    純 子

饒舌の無言となりて恵方巻     小夜子

双六の振りしほしやわが身にも   武 敬
年賀状来ざりし理由あれこれと    〃


中山手永御惣庄屋 矢嶋忠左衛門の家族

2019-01-26 18:13:08 | 熊本の偉人

 

 葦北湯浦手永より下益城中山手永へ転任になったときの忠左衛門の家族について記しておきます。
惣庄屋は「御」を冠して御惣庄屋とよばれていました。これは単なる尊称ではなく職名であったようです。藩の公文書である町在等にも「御惣庄屋」と記載されています。

天保12年(1841)現在
矢嶋忠左衛門直明 中山手永御惣庄屋 47才
  鶴子     妻        43才
  にほ子    長女       21才  天保8(1837)結婚、別居
  もと子    次女(双生児)   21才  〃        〃
  源助直方   長男       19才   熊本遊学中
  順子     3女        16才  この年竹崎律次郎と結婚伊倉へ
    久子      4女                    12才  後、徳富一敬と結婚、蘇峰、蘆花を生む
  つせ子     5女       10才  後、横井小楠、後妻
  楫子      6女        7才
  さだ子     7女        3才

    

 上記子女のうち順子、久子、つせ子、楫子の4人が後の肥後4賢婦人。堅志田村の会所暮らしの間に彼女たちの人格形成がなった訳で、その跡を偲んでみたい。


 
 手永会所は手永統治のための役所でありますが、同時に御惣庄屋の役宅でもありましたから忠左衛門は家族とともにここに住んでいました。この点が近代の制度と大いに異なるところです。
 勿論住宅の私的領域と会所としての公的領域は区別されていました。区別されていても同じ建物内ですから、忠左衛門の仕事ぶりは残らず娘たちの見聞するところだったでしよう。そのことが母親鶴子の躾けと相まって娘たちの人格形成に影響したと思われます。
 母親鶴子のことは別にアップするすもりですが、賢母、賢婦人でありました。娘たちの読み書きの手習いをはじめ論語、孟子、左伝の素読なども彼女が教えた。また、これは葦北湯浦手永時代のことですが、遊芸を理解させるために日奈久から三味線の師匠を呼び寄せて習わせたというのですね。それから機織り、裁縫、薬草の知識、病気や怪我の手当など女一通り以上のことを教えたというのです。
 のちに竹崎順子は横島の干拓地で農業経営に従事することになりますが、小作人の怪我の治療や薬の調合など、この時に憶えた知識が大いに役立ちました。


若宮神社。
 平安時代の創建といわれますが、御祭神は「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」で、阿蘇氏の建立になるものです。近世初期切支丹大名の小西行長が宇土の領主になると釈迦院などとともにこの社も破却されます。再建されるのは加藤清正の代になってからで、以後細川氏もこれを保護したので、江戸時代には郷社として栄えました。
 上の地図を見ればこの社は会所の直ぐ近くにあります。忠左衛門の娘たちはここの境内が遊び場だつたと想像されます。

 


 先の地震で鳥居が落ちたので木製の物に架け替えられました。その際地震による被害を後世に伝えるために石柱部を遺しその上に木柱を継ぎ足す構造にしたと説明板に書いてあります。

 


 
 広い境内には天然記念物の銀杏などが枝を広げていますが、何もない空間があります。嘗てここには芝居のための常設の舞台がありました。毎年秋になると願解祭りが挙行され昭和30年代までは大変にぎわったそうです。
 江戸時代の願解祭は御惣庄屋の宰領するところでした。惣庄屋が祭りの立案企画を行いこれを郡代に提出して熊本にいる家老の決裁をもらって実施する仕組みです。
 祭りの呼び物はなんと言っても浄瑠璃、歌舞伎などの芝居です。熊本には託麻郡竹宮村や合志郡竹迫村に、また靏崎大西村にそれを演じる一座がいました。とくに大西村の一座は大坂歌舞伎とのつながりがあって人気役者を抱えていたと言われます。
 惣庄屋は毎年それらの一座と契約を結んで興行させるのです。興行の期間を何日にするか、演目を何にするか、また木戸銭をいくらにするか、これは興行の成否に関わる重大問題ですが、そういう記録は遺っていません。わが忠左衛門は卒なくこれをこなしていたことでしょう。
 忠左衛門の娘たちもこの芝居を観るのが楽しみだったにちがいありません。竹崎順子や矢島楫子の伝記を読むと彼女等の人間通にしばしば驚きますが、その元になっている豊かな感情は芝居の中から染み込んだもののように思います。
 後年矢嶋楫子は女学校校長のときに月謝が払えなくなった女学生に同情して自費立て替えをしてその女学生を助けたことがあります。そういう義侠心を育てた原点は子供の頃に観た芝居にあったのではと思います。
 

 


 


「俳誌松」水仙號 2019年1月

2019-01-25 21:12:06 | 

主宰五句  村中のぶを

家古りぬ甃石古りぬ杜鵑草
断崖の罅や濱菊なだれ咲き
古墳林山樝子の實いよよ赫き
山門をくぐり一揖冬紅葉
神の旅沖白波を生みつづけ

松の実集

秋 思  松尾敦子
山なりに沿ふ秋雲や帯なして
ひそと咲く秋野の花に歩をゆるむ
あかあかや秋恵の歌のごとき月
朝の日にさくらもみぢの極まれり
暮れ方の繊月ひくし風は秋

多摩川澄めり 神力しのぶ
東京の北風多摩川を越えて吹き
秋うらら櫓の音犬と聞きたくて
秋愁や犬と聞きたる櫓は昔
調の布晒したる多摩川澄めり

球磨小春  小崎 綠
市房は神なる山や天高し
ばらアーチ過ぎ鴨のみの湖を見る
坊守の鐘の音に揺れ秋桜
我が庭や女郎花咲き桔梗咲く
球磨小春四季咲きの薔薇我が庭に

村 祭  西村泰三
諸肌の胸を晒しに神輿の娘
一升壜立てて一気や
神輿衆
神楽舞ふ笛の若手へ檄飛ばし
掠れ鳴る笛に神楽も終の舞
直会に語り神楽師みな若く

 

  雑詠選後に   のぶを 

夜汽車めく仮設舎の灯や秋涼し 鎌田正吾
 作者は熊本の益城町の方、つまり先の熊本地震の真っ只中の地であった所です。一句はその後の仮設の家々の夜景を詠んでゐるのですが、「夜汽車めく」といふ措辞にいきなり気を引かれます。しかし夜汽車めくとは、うら淋しい風情がありますがここでは結句の 「秋涼し」といふ明るさに依って、作者の復興の明日への思ひが伝はつて来て読者は救はれます。それも作者は一戸一戸に届ける、新聞業務に携はってゐる方で、一般の人とはその心情が違ふと思ひます。改めて作者ならではの情感の籠もった句だと感じ入り ます。なほ蛇足ながら熊本地震の事は『広辞苑』七版にも逸早く掲載されてゐます。 

遠からぬ雨の気配や風は秋    橘 一瓢
 松会員の最高齢の方ですが、実に変はらぬ句境で「遠からぬ雨の気配や」、「風は秋」、と、ふと季節の到来を思ふ資性に羨望さへ感じます。総じて作者には老境といふ切迫感が見られないのには頭が下がります。 

もう一つ月産みさうな満月や   福田祐子
 大写しとなり孕んだ「満月」に向かって「もう一つ月産みさうな」と、若い方の何の衒ひもない表現、勇ましいと思ひます。それに違和感がありません。
一体、俳句の (写生) にとって最も大切な事は当然ながら対象に向かった時、どのやうな表現、言葉がひらめくか、この一点に尽きると考へてゐますが、掲句にして一層納得がいきます。それに俳句は言葉の芸術とも言はれてゐます。 

朝の鵙切口上をはじめけり  安部紫流
 「切口上」とは、手短に言ひますと浄瑠璃やお能などの口調のことですが、辞書には改まった堅苦しい口調、無愛想で突き放したやうな口のきき方とも述べてゐます。その「朝の鵙」の突如とした叫声に、切口上を「はじめけり」との措辞は実にこの鳩の本質を言ひ止めてゐて、さらに作者自身の衿持さへ伝はつて来ます。  

大木の裂けて大きな秋を知り 福島公夫
 前に「倒木」の句があって「大木の裂けて」とは、颱風の後の所見でせう。そして「大きな秋」といふ措辞、まことに凝縮した感慨です。それも暗に颱風の事を指してゐるやうにも思へます。一体に新鮮な詩藻の詠句です。 

秋澄むや相鎚を得て成る刀  菊池洋子
 詞書に薪能(小鍛冶)とあります。作者は都心在住の方、それは鎌倉か都心での舞台でせうか。私は生家の近くに能舞台があったので子供の項より何となくお能に親しんで来ましたが、上京して間もなく東京薪能を観に行きました。
 立秋後の暑い日でしたが、都心の赤坂の山王日枝神社の神苑内の舞台でした。一句の 「秋澄むや」、私は篝火を通した澄み亘った夜気を先づ感じます。そして「相鎚を得て成る刀」とは、烏帽子を被り、袂を端折り、刀身に鎚を持つ師と弟子、シテ、ワキの鍛治場の修羅を簡潔に叙してゐます。それにしてもこの様な難しい光景を一句に挙げることは、第一気概が要ります。 

お囃子に合はせ角乗り秋高し  渡辺美智子
  掲句もまた特異な催しを叙してゐます。作者は都内深川の木場近くに住む方です。私も一度見物しました。
 その「角乗り」ですが、辞書にも見えますが、つまり水上の角材の上に乗って、両足で角材を転ばし操る軽業のことです。それも水に浮かべた角材ですから、水に落ちる御仁が多く、その時はまた見物人から拍手喝采です。「お囃子」は太鼓、笛、鼓、三味線、鉦などですが、季節の「秋高し」の晴れの気もあって、一句はその賑はひをよく伝へてゐます。それも薪能の句と同様に、対象を効果的に詠み取ってゐます。 

冬に入る独り暮しに音あらず  河本育子
 一度ならず二度、三度句を読んで、いつも「独り」の淡淡とした静かな表白が伝はつて来ました。それに「音あらず」と断定した措辞には、ご自分の衿持とする、自立の強い意志が込められてゐます。また「冬に入る」といふ季節への思ひにもそれとなく身の構へが見へます。
 凡そ作者には嘆いたり淋しがったりする徒な感傷はありません。
 
誰も来ず一歩も出でず日短か  藤井和子
 掲句もまた、何の情緒もありません。「誰も来ず」、「一歩も出でず」、この反応する様な叙述、気丈と思ひます。そして「日短か」と、作者にも徒な感傷は皆無です。 

秋爽や肥後三賢女しのびつつ  松尾敦子
  詞書に中村汀女、安永蕗子、石牟礼道子とありますが、納得がゆきます。郷のお城の西に当る島崎町に三賢堂といふお堂があって、それは菊池武時、加藤清正、細川重賢の三人の賢人を記念する建物でした。この三賢堂へ遠足で行
つたのを思ひ出しました。一句はこの流れの三賢女でせうか。それとも作者自身の思ひでせうか。

 

 


矢嶋忠左衛門と岩野用水

2019-01-19 23:42:33 | 熊本の偉人

 岩野用水の取り入れ口は鶴場郵便局の真下にありました。この地点から岩野地区まで村落を通り山林を抜け、延々4Kmの水路が貫通しています。途中岩場を掘削して通したところがあり、難工事であったことがわかります。




今は非灌漑期なのでゲートの開度は維持用水を流すだけに調整されていました。


水路は釈迦院川左岸の法面に添っています。


ここが岩野地点、写真右側斜面の棚田に灌漑しています。


 水路の終点付近に碑が建っています。この碑は大正4年御大典を記念して建立したと裏面に彫りつけてあります。台座にびっしりと文字がきざまれ、ところどろに判読できないカ所がありますが、つぎの様に書き付けたところがありました。
 「起工ハ天保十二年ニシテ弘化二年ニ工ヲ竣ヘシカ其工事ノ困難ナリシコトハ今尚ホ形跡ニ徴シテ歴々視ルコトヲ得ルナリ、嗚呼氏カ刻苦督励ノ効ハ田地十六町歩産米三百二十石余且ツ水路の塘ハ年祢村中央道路トナリ・・・」
 「氏ハ去リテ此ニアラズト雖モ、村民ハ毎年六月十五日ヲ矢嶋祭ト称シ酒饌ヲ供シ祭祀今ニ怠ルコトナシ・・・」

 矢嶋忠左衛門が病死したのは安政2年(1855)でしたから大正4年(1915)までちょうど60年経っています。この間欠かさず矢嶋祭は執行されて来ただけでなく、平成の今日までそれが継続しているのに驚きます。こういう例は全国にも珍しいのではないか。

 


惣庄屋矢嶋忠左衛門の岩野用水開削と新田開墾  

2019-01-12 21:41:18 | 熊本の偉人

  惣庄屋矢嶋忠左衛門が葦北湯浦手永から下益城中山手永へ転任になったのは天保12年(1841)のことでした。彼は転任と同時に岩野用水の開削に着手し、5年後の弘化2年(1845)には用水のみならず岩野村に16町歩の新田開墾も合わせ完成させます。
 忠左衛門は没年の安政2年(1855)までこの地の惣庄屋でしたから、三女の順子四女の久子は五女つせ子はここから嫁に行きました。

              岩野地区の田圃は16町歩あります。この地は過去何百年という間水の便がなく畑作地帯でしたが、用水路の開削で田になったので村人の生活が安定し豊になりました。毎年6月15日には忠左衛門の治績に感謝する矢嶋祭が行われています。岩野地区の古老の方に聴いたのですが、このお祭りは現在もやっているということでした。

岩野用水の諸元について記載しておきます。(町誌中央 昭和52年刊より)

全  長      約4Km
井手幅     約2m
灌漑面積    約16町歩
産 米     325石

 

岩野地区に写真のような碑があったのでアップしておきます。

和田圃場整備沿革

弘化二年(西暦千八百四十四年)八
嶋(岩野)用水が和田岩野地域迄完成
し、同時に十六町歩の開田がなされ
数百年続いた畑作中心の生業から、稲
作農業に移行した。爾来その恩恵を受
け順調に発展し幸福に生活して来た。
而し水田は狭く不整形、用排水道路の
便も悪く、農業状勢の急速な変化に伴
い生産基盤の近代化に迫られ、町行政
指導と住民の意欲と相俟って中央町
農村基盤総合整備事業として、昭和五
十九年三月三百六十haが集団化整備され
た、町当局並びに関係機関に感謝し、更に
貴重な資産を整備活用し後世に残す。
昭和六十一年五月  吉日 起草

「爾来その恩恵を受け順調に発展し幸福に生活して来た。」この記述は村人の本心を反映したもので、今にいたるまで矢嶋祭が存続しているのはここに原点があるように思います。

 

 


竹崎順子の墓 熊本市立竹崎公園

2019-01-03 17:59:58 | 熊本の偉人

 熊本市西区上代の市立竹崎公園に竹崎順子夫妻の墓があります。
 この所は往昔飽託郡城山村字上代小字高野辺田と称する独鈷山麓の勝地です。ここに竹崎茶堂、順子夫妻が引退したのは明治9年、茶堂65歳、妻順子52歳の時でした。翌明治10年に茶堂は病没し順子は53歳にして寡婦になりますが、彼女の凄いところは、その後28年の生きざまにあります。儒教的教養の権化のような武士の女がキリスト教に改宗するという、思想の変転成長にjまず驚きます。次いで60歳を過ぎて女学校の舎監になり、さらに70歳を過ぎて校長に推され幾多の困難に打ち克って学校経営を守り発展させた手腕など、どれも感動ものです。

順子墓の文字が写真では読み取れませんが、次のように刻まれています。

順子竹崎先生の墓
孫 菊子の墓

後面には
順先生は茶堂先生の室
明治三十八年三月七日逝く
享年八十一。
菊子は吉勝の二女明治二十八年九月二日没す、享年十七.
先生の意志を体して合せ葬り
明治四十年三月七日しるしの石を建つ。

竹崎吉勝
並に
教子一同

 順子には死装束がありました。それは茶堂との結婚に際して父母か調えてくれた花嫁衣裳です。その衣裳も茶堂が酒造業に失敗して破産したときに借金のかたとしてほかの嫁入り道具の品々と共に手放したものでしたが、順子は後年その衣裳を上通りの古着屋に発見して何十年振りに買い戻します。順子はその衣裳を著て棺に納まりました。


 旧上益城郡津森村杉堂に順子は生まれました。写真中央に白壁の二階家が見えますが、そこに矢嶋家がありました。今は血縁でない方が住んでおられますが、順子が生まれた文政8年(1825)ころは茅葺の住居でした。前を流れているのは蛍で知られる布田川です。熊本地震を引き起こした布田川断層はこの真下を走っており、この集落も大きな被害を蒙りました。


矢嶋家墓地
 集落の入り口近くの城が峰という小高い丘の上に矢嶋家の墓地があります。そこに順子の父母忠左衛門と妻鶴子、祖父彌平次とその妻及び一族の墓が二十数基あります。櫻の大樹があり花の頃は美しいことでしょうね。
前にアップした荒瀨の眼鏡橋はすぐ眼の下見えます。


恵方

2019-01-02 21:48:04 | 日記

 今年の恵方は坤(ヒツジサル)、その方位を探したら益城町広安に「熊野宮」がありました。ここに私の歳徳神が遷座まします(坐す)。さっそくお詣りに行って来ました。
 写真のような小さなお社ですが、境内には熊本城の楠よりも大きそうな楠が2本もあり古い時代の創建であることを思わせます。産土神で社格は村社そういう雰囲気でした。


拝殿にアルミサッシの戸が付いていますが、鍵が掛けてあり中へはいることはできません。しかし戸には小窓が切ってあってお賽銭を入れることはできます。賽銭どろぼう対策の工夫です。昔は村人の喜捨によってこういう小社にも祝がいました。

 


 地図には「熊野宮」とありましたが鳥居の額は「権現社」となっています。なんで?と思っていたらお水舎の石に説明書きが彫りつけてありました。
 それによると「熊野宮」というのは昔の人が誤って書き付けたもので、ほんとうは「府内権現社」と言うのだそうです。地震で鳥居が落ちて再建の時、正しい社名に戻したと書いてありました。「府内」というのはこの地の字名です。

 村人が社名を誤ったと書きましたが、これは私の推測に過ぎないのですが、これには明治初年の廃仏毀釈が関わっているように思われます。「権現」というのは佛や菩薩が垂迹して神になったものとする思想があり、神仏分離に悖るから、仏教色のない熊野宮としたのではないかと思うのです。


健軍神社へ初詣

2019-01-02 20:47:33 | 日記

2日10時、健軍神社へ初詣に行きました。年々人の膨らみが薄くなっていくようで寂しい・・・。


駐車場側の入り口に石碑があります。何の説明書きもありませんが、これは庚申塔です。摩耗の状態から江戸時代のものと思われます。


こちらは「猿田彦大神」。楼門のすぐ左側にあります。明治政府は庚申信仰を迷信として排斥したので民衆は猿田彦に仮託して塔を建立しました。これは明治期の庚申塔です。創建期の表示がありませんが、まもうの程度からみて明治期のものと推定します。