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竹崎順子

2018-12-18 13:56:24 | 熊本の偉人

 玉名市横島町にある竹崎順子の住居跡をネットで検索したけれど、それを取り上げているサイトが見当たらない。訪ねたいと思っている人もある筈だからその案内も兼ねて、ここにささやかな記事を掲載します。


九番開干拓地。この辺りに竹崎家の住居があった。


標識の拡大写真


九番開周辺地図。上方にある天水町竹崎は律次郎の養家。

「横島郷土志」昭和54年復刻版(初版昭和24年)より抜粋

竹崎氏の九番開移住
 安政六年、九番開の築造が完成するや、其翌年、則ち萬延元年(1860)冬、竹崎律次郎、同順子の一家が此の九番新地に移住し来たり農業を営むことに為った。此事は徳富健次郎著「竹崎順子」伝に詳細の記述を見る。竹崎一家が文久元年より明治三年まで十年間、横島九番開に於ける農耕生活を物語り、明治維新前後に於ける横島の半面を伝える好資料である。其詳細の事は同書に譲り、之を要約して竹崎一家当年の生活を略述するであろう。

 抑も此の竹崎家は世々伊倉・茱萸坂下の豪家として知られ、彼の元寇の役に勇戦した竹崎季長の後裔であった。また寛政年間小田郷惣庄屋であった竹崎太郎兵衛政春もその系統であり、下りて竹崎次郎八英貞の時代、其嗣子幼弱に依り、同じ伊倉の名家木下家の次男当時十八歳の律次郎を養子に迎えた。之れ天保元年であた。此の律次郎は天保十一年、矢島順子を娶った。則ち竹崎順子である。律次郎は其後客気に任せ豪家に通例と為っている酒造業を始め、また米相場に手を出して失敗するに至り、竹崎家は破産同様となった。律次郎等は阿蘇南郷谷の奥に隠遁生活を続くること十七年、萬延元年に至り、律次郎の実兄、木下真太郎が新たに築造された九番開に投資した関係から、弟の律次郎に土地の監督を依頼した結果、律次郎夫婦は一女節子を伴ふて山を下り九番開に移住した。時は文久元年であり、律次郎は四十九歳、順子は三十九歳であった。「竹崎順子」の一節に

 「最初兄の田地を世話する傍ら少々の田地を求めて自作もしていました。年々いくらかづつ買ひまして居ました。ある年横島の堤防が切れました。大潮の荒し去った後の新地は台なしです。律次郎は捨て値でそれを買ひ取りました。一方全速力をもつて堤の修復にかかりました。ただのやうにして買ひ取った新地はもう其の秋から幾分かの収穫を上げました。矢島も其處に田地を買ひます。木下の分、外の別墾の人々の分、合わせて律次郎、順子の手に世話する横島九番開の新地は約四十町に亘りました。竹崎家には大勢の男女を使ひます。小作の家族が相次いで横島に移住して来ます。律次郎、順子を中心として横島の新植民地王国が産まれました。」

 とあり、此のように文久元年、竹崎一家は阿蘇の山奥から築造間もない九番開に移住したのであった。しかも竹崎氏は二十人あまりの奉公人を使って、米、甘藷などを耕作し、小作人として移住するものができて四五年の後には二十余戸の小村となった。此の九番開は文久三年に大風のため堤防が決潰した。律次郎が「土地を捨て値で買ひ取った」というのはこの時のことである。竹崎家は移住民対して田地は勿論のこと、農具、肥料代まで貸与し農事に出精するよう便宜を謀った。一方移住民の子弟に対し教育機関の設備を欠くために之を遺憾とし、自家の一隅に手習い所を開いて八歳から十二、三歳の子供を集めて読み書きを教え、また娘達に縫い物を教えて指導し、或いは医薬を施して病者の治療に勉めるなど村民の福利増進に力を致し、其業は大いに賑ふた。

 斯くて幕末の風雲急を告げ、多事多端となるや、律次郎も始終外出勝となり、横島に安居する日が少なくなった。斯くて明治維新の新政が展開するに於いて、竹崎一家も亦横島生活十年の幕を閉ぢねばならなくなつた。則ち明治三年、竹崎一家は横島から熊本へ転居するに至った。「竹崎順子」の一節に、肥後の維新は明治三年に来ました。横井小楠が、かねて渇望し遠ながら誘掖して置いた細川護久が家督を相続し、熊本藩知事となり、横井死後満一年で横井の時代が肥後に来ました。則ち友人門人が続々と登用されます。竹崎律次郎も横島から召し出され、一人見参の出来ると言う「独礼」格で藩庁録事と云う役になりました。後民政局の少属より大属となり、一人扶持の加増を受けました。そこで横島は熊太、節子の若夫婦に任せて律次郎は順子と取りあえず熊本に引き出ました。

 此のように竹崎律次郎一家が九番開の居住は役十年間を以て終わった。其後は養子の吉勝(熊太の改名)節子夫婦によって経営され、明治六年頃まで稲作及び砂糖を製造していた。やがて養子夫婦も又九番開から熊本に転居し、竹崎家と横島とは完全に縁が切れた。竹崎氏の家は外平の旧家服部運太が買い受け移転し農業を営むことになった。このような関係で九番開の総反別五十六町余の中、其四分の一は近年まで伊倉木下家一族の手に所有されていた事実あり、之れ竹崎一家移住の名残りである。竹崎一家が九番開築造の翌年に移住し来たり、草創時代の十年間を暮らした此九番開も明治十一年には已に戸数四十戸、人口二百二十二人に達していた。

 

 


 


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