98点(100点満点)
なぜ私は映画を観るのかと言えば、こういう映画に出会いたいからなのだ。
ネタバレ注意
稀に奇蹟のように美しい映画に出会う。しかしもっと奇蹟なのは、そうした奇蹟の映画を何度も撮っているテオ・アンゲロプロスという方がいたということだ。
アンゲロプロスの映画は映像がとにかく美しい。映画は芸術か娯楽かとよく言われるが、アンゲロプロスの映画は間違いなく芸術だ。
映像すべてに独特のタッチがある。フィルムのどこかにサインでも記しているんじゃないかと思うくらい。
それでいてこの人の映画以外では決して見ることのない映像。
そういうのをものにしている人って他に小津安二郎くらいしか思いつかない(私の極めて少ない映画知識で言うのもなんですが)
曇天の映像。画面の奥底まで霞がかかったような映像。「エレニの帰郷」の場合、回想のソビエトでのシーンに強烈なアンゲロプロスタッチの映像を楽しむことができる。
ただし現代と過去を行き来する本作では、現代のシーンは意図的に作為の少ない映像で綴られており、それはそれで映像の違いによる緩急となって素晴らしいのだけど、アンゲロプロスタッチの映像は少なくなってファンとしては若干残念なところもある。
だがまた、その一方で「もし~アンゲロプロスが~現代劇をやったら~こんな感じ~」な楽しさを味わえたりもするのが「エレニの帰郷」の魅力。
唐突にはじまるウェストサイド物語チックな若者のタイマン勝負かなりウケる。
さて、アンゲロプロス映画を観ていると時間や空間の概念が私ら一般人と全く異なるように思えてくるのである。
CGのような特殊効果はなく、それどころか編集すら入らないワンカットの映像の中で物語はいつの間にか過去の出来事になっていたり、ヨーロッパでのエピソードがいつの間にか北米でのエピソードになっていたりする。
それはとても奇異なことに思えるけれども、意識の中では誰もが時間や空間を飛び越えて考えて、頭の中の事実として認識する。
アンゲロプロス映画はある出来事や体験を再現するものではなく、登場人物の意識を再現しているものと考える。
その意識の核となるのは強い悲しみである。悲しみにむせび泣くような気持ちを映像化するので、そこにはいつも水があり霧が立ちこめ空は雲に覆われている。
さらに「エレニの帰郷」は主人公の映画監督が母エレニの人生を映画化する物語であり、回想としての事実なのか、映画内映画で再現された虚構なのかも判然としないが、それすら映画監督の意識を映像にする上では大した違いは無い、あるいは違いに意味などないのかもしれない。
母エレニを思って映画を作る主人公の気持ちは、家出した娘エレニを思う気持ちと混ざり合い、現実と虚構と回想と観念の入り混じった、時間も空間も超越した唯一無二の作品となって本作に結実している。
この感性、このイマジネーション、そして全編に溢れる悲しみと、それを包む美しい映像。
こういう映画に出会えた時、映画にありがとうと言いたくなる。
---
ところで…
「エレニの帰郷」は、前作「エレニの旅」の続編なのかと思っていたが、直接のつながりは無い。このエレニが「旅」のエレニであれば息子は死んだはずだが、「帰郷」の主人公はエレニの息子である。
その一方で、まるで「旅」とつながっているかのような要素も散見される。
前作でエレニたちはロシア革命でロシアを追われギリシャに辿りついた難民だった。
本作ではエレニが再びロシアに渡ってからの生活が描かれる。
「帰郷」でのエレニの夫の名はスピロス。
「エレニの旅」ではエレニは年の離れた養父のスピロスと結婚させられるが、恋人のアレクシスと駆け落ちする。
「帰郷」のラスト。
エレニの孫娘の同じ名前のエレニと手を取りあって走る年老いたスピロス。なんだか「旅」のファーストシーンにつながるようにも思える。
そしてまた、本作の主人公が“A”という名の映画監督である点ではアンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」を彷彿させる。
もちろん無理矢理関連づけて観る必要はないのだが、アンゲロプロス作品の時間も空間もこえた世界観を考えると、作品と作品の間をまたいで物語がつながることもあっていいように思える。
そして何よりも悲しいのは、エレニシリーズ(?)第3部撮影中にアンゲロプロスが亡くなったこと。
「エレニの帰郷」のラストでは永遠に失われた第三部を思って切ない思いに浸ってしまったのだが、それは「ユリシーズの瞳」のラストと不幸な形でのシンクロとなったのだった。
********
自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート
なぜ私は映画を観るのかと言えば、こういう映画に出会いたいからなのだ。
ネタバレ注意
稀に奇蹟のように美しい映画に出会う。しかしもっと奇蹟なのは、そうした奇蹟の映画を何度も撮っているテオ・アンゲロプロスという方がいたということだ。
アンゲロプロスの映画は映像がとにかく美しい。映画は芸術か娯楽かとよく言われるが、アンゲロプロスの映画は間違いなく芸術だ。
映像すべてに独特のタッチがある。フィルムのどこかにサインでも記しているんじゃないかと思うくらい。
それでいてこの人の映画以外では決して見ることのない映像。
そういうのをものにしている人って他に小津安二郎くらいしか思いつかない(私の極めて少ない映画知識で言うのもなんですが)
曇天の映像。画面の奥底まで霞がかかったような映像。「エレニの帰郷」の場合、回想のソビエトでのシーンに強烈なアンゲロプロスタッチの映像を楽しむことができる。
ただし現代と過去を行き来する本作では、現代のシーンは意図的に作為の少ない映像で綴られており、それはそれで映像の違いによる緩急となって素晴らしいのだけど、アンゲロプロスタッチの映像は少なくなってファンとしては若干残念なところもある。
だがまた、その一方で「もし~アンゲロプロスが~現代劇をやったら~こんな感じ~」な楽しさを味わえたりもするのが「エレニの帰郷」の魅力。
唐突にはじまるウェストサイド物語チックな若者のタイマン勝負かなりウケる。
さて、アンゲロプロス映画を観ていると時間や空間の概念が私ら一般人と全く異なるように思えてくるのである。
CGのような特殊効果はなく、それどころか編集すら入らないワンカットの映像の中で物語はいつの間にか過去の出来事になっていたり、ヨーロッパでのエピソードがいつの間にか北米でのエピソードになっていたりする。
それはとても奇異なことに思えるけれども、意識の中では誰もが時間や空間を飛び越えて考えて、頭の中の事実として認識する。
アンゲロプロス映画はある出来事や体験を再現するものではなく、登場人物の意識を再現しているものと考える。
その意識の核となるのは強い悲しみである。悲しみにむせび泣くような気持ちを映像化するので、そこにはいつも水があり霧が立ちこめ空は雲に覆われている。
さらに「エレニの帰郷」は主人公の映画監督が母エレニの人生を映画化する物語であり、回想としての事実なのか、映画内映画で再現された虚構なのかも判然としないが、それすら映画監督の意識を映像にする上では大した違いは無い、あるいは違いに意味などないのかもしれない。
母エレニを思って映画を作る主人公の気持ちは、家出した娘エレニを思う気持ちと混ざり合い、現実と虚構と回想と観念の入り混じった、時間も空間も超越した唯一無二の作品となって本作に結実している。
この感性、このイマジネーション、そして全編に溢れる悲しみと、それを包む美しい映像。
こういう映画に出会えた時、映画にありがとうと言いたくなる。
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ところで…
「エレニの帰郷」は、前作「エレニの旅」の続編なのかと思っていたが、直接のつながりは無い。このエレニが「旅」のエレニであれば息子は死んだはずだが、「帰郷」の主人公はエレニの息子である。
その一方で、まるで「旅」とつながっているかのような要素も散見される。
前作でエレニたちはロシア革命でロシアを追われギリシャに辿りついた難民だった。
本作ではエレニが再びロシアに渡ってからの生活が描かれる。
「帰郷」でのエレニの夫の名はスピロス。
「エレニの旅」ではエレニは年の離れた養父のスピロスと結婚させられるが、恋人のアレクシスと駆け落ちする。
「帰郷」のラスト。
エレニの孫娘の同じ名前のエレニと手を取りあって走る年老いたスピロス。なんだか「旅」のファーストシーンにつながるようにも思える。
そしてまた、本作の主人公が“A”という名の映画監督である点ではアンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」を彷彿させる。
もちろん無理矢理関連づけて観る必要はないのだが、アンゲロプロス作品の時間も空間もこえた世界観を考えると、作品と作品の間をまたいで物語がつながることもあっていいように思える。
そして何よりも悲しいのは、エレニシリーズ(?)第3部撮影中にアンゲロプロスが亡くなったこと。
「エレニの帰郷」のラストでは永遠に失われた第三部を思って切ない思いに浸ってしまったのだが、それは「ユリシーズの瞳」のラストと不幸な形でのシンクロとなったのだった。
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自主映画制作団体 ALIQOUI FILM
最新作「チクタクレス」
小坂本町一丁目映画祭Vol.12 入選
日本芸術センター映像グランプリ ノミネート