西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

隆範伝・隆範療養記

2013-07-12 09:49:32 | Weblog
 私は昭和癸巳年(長流水)立春、京都(東本願寺と五条大橋の中間)で生まれた。振り返ればまことに恥ずべき点の多い歩みであったが、別の人生、今まで出会ってきた人々に巡り会わない別の人生というのは望まない。ここまで生き延びてこられた幸運を思うと、私に付き添う神霊の働きを想わざるをえない。
 父(大正12年生まれ)は薬学を修めたが、塗料会社の研究員をしていた。母(昭和4年生まれ)は亀岡から嫁いできた。母の叔父は透視者であった。母の弟が音楽教師と結婚し、私はその叔母にピアノを習うため亀岡に通った(私には妹がいたそうである。母と毎月、生駒山の水子地蔵に通った。母は命日を覚えていなかったので、後日、鎌倉の宗教家に相談したら、「西川ヒカル児之神霊・昭和29年6月21日帰幽」にしようと言われた。のちに西川家の菩提寺の住職から「智光嬰女」という戒名をいただいた。私自身にも昭和60年6月30日に妊娠3週間で流産した水子がいて、まず高野山で供養してもらい、のちに私が妹に合わせて「恵光嬰女」と名づけた。それからだいぶ経って善通寺でこの子の供養を頼んだとき、たまたま80名あまりの僧が四国巡礼中で宿坊に泊まっておられ、計100名ほどの僧が読経してくれた理趣経で成仏したと感じた)。
 宋から帰った道元が13年間閑居した深草(伏見稲荷大社から歩いて10分ほどのところ)で、小学校入学からの時期を過ごした。「弘法救生」を思いとして「重擔を肩に置ける」がごとく感じていた彼が「弘通のこゝろを放下」して「しばらく雲遊萍寄」しようとした地である。東本願寺の斜向かいに住んでいたころは、浄土真宗寺院の経営する幼稚園に通った。小学校は公立だったが、中学校は再び浄土真宗の大谷中学である。高校は、美術コースが併設されている日吉ケ丘高校。通学途中によく東福寺の雲水に出会った。大学紛争の時代で、高校もその影響を強く受けていた。芸術的な方面で身を立てたいと思っていた。大学に行こうとは考えておらず、渡欧しようと思って放課後に関西日仏学館に通ったのだが、それは1ドル360円の時代(308円になるのは1970年代)には果たすことができず、一浪して上京、仏文科に通うことになった。中学時代・高校時代は、浄土思想と般若経典にのめりこんでいた。
 祖父は呉服商で、宮津出身の祖母は幼年の私を奈良の真言律宗寺院によく連れていった。真言律宗は南都七大寺の一つ西大寺を総本山とする小さな宗派であるが、奈良の法華寺、海龍王寺、元興寺極楽坊、般若寺、京都府の浄瑠璃寺、金沢文庫の称名寺、鎌倉の極楽寺などを擁する。
 20歳のとき初めて高野山に登り、これが決定的な体験となった。密教学の方向に進もうと考えて、西大寺の松本実道長老に相談したら、出家を勧められた。こうして1976年3月6日、西大寺で得度した。そして、高野山宝寿院で加行に入り、宝寿院門主の蓮華定院・添田隆俊僧正から伝法灌頂を受けて、空海の血脈に連なった。
 その後、東京のカルチャー・スクールで高橋巌氏の講座を聴くことになる。シュタイナーが述べる死後の人生は私の抱いていた疑問に答えるものだったし、彼が語る宇宙史は私の求めていたものだった。勉学時間をかせぐために大学院(宗教学)に進んだ。
 鎌倉での高橋巌氏の勉強会に参加し、1979年からは鎌倉雪の下に住んだ。高橋巌氏・高橋弘子夫人・子安美知子女史・上松佑二氏・横尾龍彦氏・笠井叡氏ら、いまでは互いに袂を分かっている人々がつどっていた、日本の人智学運動の蜜月期である。私の記憶ちがいでなければ、高橋氏は戦後、あるプラトン研究家から薔薇十字団について研究するよう勧められた、と聞いたように思う。高橋氏が軽井沢で正田美智子さんと知り合いになられる話も興味深かった。
 1982年春からドルナッハの隣町アーレスハイムに間借りしてゲーテアヌム精神科学自由大学で1年、それからシュトゥットガルトに移ってクリステンゲマインシャフト神学校で2年学び、1985年に帰国した。1990年からベルンのシュタイナー幼稚園教員養成所の講師を6年間つとめた。
 道元は深草に僧堂を建てるにあたって、「思ひ始めたる事のならぬとても、恨みあるべからず。ただ柱一本なりとも立てゝ置きたらば、後来もかく思ひ、くはだてたれども成らざりけりと見んも、苦しかるべからずと思ふなり」と述べている。「我等後代亡失不可思之」だ。

 2011年春、命と引き換えに原発事故を収束させようと祈念したら、心不全になった。
 2012年は2月と6~7月に、胸水貯留のため日医大北総病院に入院した。7月にカテーテルで心室の組織を採取して生体検査をしてもらい、アミロイドーシスとの診断が確定した。異常蛋白質がさまざまなところに蓄積する難病で、私の場合は心臓に蓄積して心筋が変性している。心アミロイドーシスの平均余命は、発症から8ヶ月だそうである。8月2日の診察のとき、「いま生きているのがおかしい」と主治医に言われた。
 アミロイドーシスには、免疫グロブリン性・反応性・老人性・家族性があり、反応性以外が国の特定疾患治療研究事業の対象になる。私は免疫グロブリン性である。反応性というのは、骨髄腫・関節リウマチ・結核などに続発するものである。
 アミロイドーシスには治療法がないのだが、8月6日から、多発性骨髄腫に用いるベルケイドの静脈注射が始まった。4週間が1クールで、そのあと1週休んで、9月10日から第2クールに入った。回を重ねるごとに副作用が強くなって、ほぼ飲食不可能になり、ときどき気を失って倒れるようになった。海外の資料によると、第2クールまで投与すると効果が現われるということだったので、そこまでは頑張りたいと思っていたのだが、第2クール4週目の注射のまえに、もうここまででいいという気持ちになり、10月1日から、レブラミドの服用にかえてもらった。薬効はベルケイドより劣るが、副作用は軽くなる。3週が1サイクルで、そのあと1週間休んで、また3週である。
 9月21日付で、身体障害者手帳3級を交付された。「家庭内の日常生活活動が著しく制限される心臓機能障害」と記されている。同月26日、特定疾患受給者票を交付された。12月13日には、障害基礎年金2級(病状が日常生活に著しい制限を加えるもので、日常生活が極めて困難な程度のもの)の受給が決まった。
 要介護の両親のことを考えると、私は一人子なので、寛解にいたればありがたい。そうならなければ、身体を離れて天空を飛行しよう。西川家の墓は三十三間堂南西の専称寺にある。戒名は自作した。慈光隆範禅定門。
2013年4月30日、循環器内科の診察に行ったら、鬱血性心不全で、そのまま入院になった。ドレーンで胸水を吸引してもらったが、水を抜いたあと数日で肺の半分までまた水が溜まった。「病院にいてもこれ以上よくならないので、いったん退院して、必要に応じて再入院」ということになり、5月18日に退院した。5月15日にはシュタイナー派の牧師が病院に来てくれ、終油について説明してくれた。彼が言うには、終油は明瞭な意識を保って彼岸に赴くために行なうのだそうである。秋に麺麭と葡萄汁を持ってきてくれることになった。
 6月13日、循環器内科の診察のとき、特定疾患医療受給者票を重症認定にしようか、と主治医に言われた。同24日、血液内科の診察に行ったら、レブラミドが効いていないのでベルケイドに戻ることになった。2012年12月に副作用による治療断念が減少する皮下注射が認可されたので、今度は皮下投与になる。
20130712

講座案内

2011-04-01 19:20:47 | Weblog
2013年7月の講座
《アミロイドーシス治療中のため休講になることがあります》

【中止!】6日:東京自由大学シュタイナーゼミ
【中止!】14日:シュタイナー読書会

著書・訳書一覧

2011-04-01 19:19:52 | Weblog
2000年代
『人間理解からの教育』(シュタイナー)ちくま学芸文庫 130310
『偉大な秘儀参入者たち』(シュレー、共訳)水声社 1212
『黙示録的な現代』(シュタイナー)風濤社 121210
『仏教は世界を救うか』(共著)地湧社 121129
『小さな子は夜7時に寝るのがベスト』アルテ 120725
『シュタイナー古代秘教講義』(シュタイナー)アルテ 120625
『シュタイナー文学講義』(シュタイナー)アルテ 111125
『天地の未来』(シュタイナー)風濤社 110901
『シュタイナーはこう語った』(シュタイナー)アルテ 110525
『社会改革案』(シュタイナー)水声社 110225
『シュタイナー・キリスト論集』(シュタイナー)アルテ 101225
『神仏と人間』(シュタイナー)風濤社 101101
『シュタイナー経済学講座』(シュタイナー)ちくま学芸文庫 101010
『シュタイナー哲学講義』(シュタイナー)アルテ 100825
『からだの不思議を語る』(シュタイナー)イザラ書房 100605
『天国と地獄』(シュタイナー)風濤社 100501
『地球年代記』(シュタイナー)風濤社 091225
『ゲーテ-精神世界の先駆者』アルテ 091225
『優律思美な暮らし・華徳福ライフへの手引き』風濤社 091001
『絵本・極楽』風濤社 090701
『シュタイナー世直し問答』(シュタイナー)風濤社 090601
『シュタイナー自伝・下』(シュタイナー)アルテ 090525
『シュタイナー輪廻転生譚』(シュタイナー)風濤社 090105
『シュタイナー自伝・上』(シュタイナー)アルテ 080925
『シュタイナー心経』(シュタイナー)風濤社 080901
『子育てがうまくいく、とっておきの言葉』(共著)ほんの木 080805
『いかにして前世を認識するか』(新版、シュタイナー)イザラ書房 080515
『ニーチェ・同時代への闘争者』(シュタイナー)アルテ 080425
『職業のカルマと未来』(シュタイナー)風濤社 080401
『ベーシック・シュタイナー』(共著)イザラ書房 071117
『シュタイナー教育ハンドブック』(シュタイナー)風濤社 071101
『マルコ福音書講義』(シュタイナー)アルテ 071025
『心・身体を考える』(共著)リブリオ出版 070420
『聖杯の探求』(シュタイナー)イザラ書房 060715
『色彩の本質・色彩の秘密』(シュタイナー)イザラ書房 051225
『家庭でできるシュタイナーの幼児教育』(共著)ほんの木 051220
『エーテル界へのキリストの出現』(シュタイナー)アルテ 051115
『光が形態を創造する』(モロー)青い林檎社 051020
『シュタイナーの美しい生活』(シュタイナー)風濤社 050831
『精神科学による教育の改新』(シュタイナー)アルテ 050515
『身体と心が求める栄養学』(シュタイナー)風濤社 050131
『教育の方法』(シュタイナー)アルテ 041028
『こころの不思議』(シュタイナー)風濤社 040831
『子どもの健全な成長』(シュタイナー)アルテ 040618
『自然と人間の生活』 (シュタイナー)風濤社 040331
『ゴルゴタの秘儀』アルテ 040324
『人智学から見た家庭の医学』(シュタイナー)風濤社 030930
『イエスからキリストへ』(シュタイナー)アルテ 030730
『性愛の神秘哲学』(ハワード、新版)アルテ 030630
『人体と宇宙のリズム』(シュタイナー)風濤社 030430
『神秘的事実としてのキリスト教と古代の密儀』(シュタイナー)アルテ 030120
『あたまを育てる・からだを育てる』(シュタイナー)風濤社 021130
『シュタイナー仏教論集』(シュタイナー)アルテ 020928
『シュタイナー用語辞典』風濤社 020730
『色と形と音の瞑想』(シュタイナー)風濤社 011130
『星と人間』(シュタイナー)風濤社 010630
『いのちに根ざす日本のシュタイナー教育』(共著)せせらぎ出版 010330
『天使たち 妖精たち』(シュタイナー)風濤社 001130
『精神科学から見た死後の生』(シュタイナー)風濤社 000720
『人間の四つの気質』(シュタイナー)風濤社 000323

1990年代
『20世紀を震撼させた100冊』(共著)出窓社 980921
『シュタイナー経済学講義』(シュタイナー)筑摩書房 980725
『生き方としての仏教入門』河出書房新社 980325
『薔薇十字仏教』国書刊行会 980316
『こころの育て方-物語と芸術の未知なる力』河出書房新社 970625
『秘儀の歴史』(シュタイナー)国書刊行会 961021
『人間理解からの教育』(シュタイナー)筑摩書房 960710
『見えないものを感じる力-天使・妖精・運命』河出書房新社 960510
『スピリチャル・セッション』(共著)たま出版 951225
『あなたは7年ごとに生まれ変わる』河出書房新社 950920
『心理学講義』(シュタイナー)平河出版社 950915
『死後の宇宙生へ』廣済堂出版 950910
『魂の隠れた深み』(シュタイナー、共訳)河出書房新社 950220
『歴史のなかのカルマ的関連』(シュタイナー)イザラ書房 940915
『シュタイナー教育の実践』(シュタイナー)イザラ書房 940524
『カルマの形成』(シュタイナー)イザラ書房 940408
『シュタイナー教育の基本要素』(シュタイナー)イザラ書房 940115
『瞑想と祈りの言葉』(シュタイナー)イザラ書房 931225
『カルマの開示』(シュタイナー)イザラ書房 931210
『いかにして前世を認識するか』(シュタイナー)イザラ書房 931210
『霊視と霊聴』(シュタイナー)水声社 931205
『泉の不思議』(シュタイナー)イザラ書房 930925
『音楽の本質と人間の音体験』(シュタイナー)イザラ書房 930325
『色彩の秘密』(シュタイナー)イザラ書房 930315
『秘儀の世界から』(ベック)平河出版社 930310
『いまシュタイナーの民族論をどう読むか』(共著)イザラ書房 921130
『子どもの体と心の成長』(ハイデブラント)イザラ書房 921115
『西洋の光のなかの東洋』(シュタイナー、新版)水声社 921110
『神秘学概論』(シュタイナー)イザラ書房 921030
『世界史の秘密』(シュタイナー、新版)水声社 920930
『人智学指導原則』(シュタイナー、新版)水声社 920920
『インドの叡智とキリスト教』(ベック)平河出版社 920905
『民族魂の使命』(シュタイナー)イザラ書房 920820
『シュタイナー教育小事典-子ども編』(編訳)イザラ書房 920815
『病気と治療』(シュタイナー)イザラ書房 920425
『健康と食事』(シュタイナー)イザラ書房 920220
『アントロポゾフィーと仏教』シュタイナーハウス出版部 911218
『シュタイナーの宇宙進化論』イザラ書房 911215
『ルカ福音書講義』(シュタイナー)イザラ書房 910930
『釈迦・観音・弥勒とは誰か』(シュタイナー他) 水声社 910920
『神智学の門前にて』(シュタイナー)イザラ書房 910910
『創世記の秘密』(シュタイナー)水声社 910810
『いま、シュタイナーをどう読むか』(共著)イザラ書房 910730
『黙示録の秘密』(シュタイナー)水声社 910410

1980年代
『神秘主義と現代の世界観』(シュタイナー)水声社 890810
『輪廻転生とカルマ』(シュタイナー)水声社 881215
『四季の宇宙的イマジネーション』(シュタイナー)水声社 880630
『芸術と美学』(シュタイナー)平河出版社 870515
『西洋の光の中の東洋』(シュタイナー)創林社 870331
『シュタイナー思想入門』水声社 871230
『性愛の神秘哲学』(ハワード)創林社 861020
『秘儀参入の道』(シュタイナー)平河出版社 860715
『世界史の秘密』(シュタイナー)創林社 860707
『第五福音書』(シュタイナー)イザラ書房 860420
『仏教の霊的基盤』書肆風の薔薇 851115
『霊界の境域』(シュタイナー)水声社 851110
『仏陀からキリストへ』(シュタイナー)水声社 850720
『人智学指導原理』(シュタイナー)日本人智学協会 8505
『薔薇十字会の神智学』(シュタイナー)平河出版社 850205
『蓮華の書』(コリンズ)水声社 830715


シュタイナー人智学概要

2011-02-05 10:36:57 | Weblog
 体・生命・心・魂
 人間について考えてみよう。まず知覚できるのは体だ。けれど、体は人間の本質の一部にすぎない。目で見ることができ、手で触れることのできるものが体だと思うなら、誤っている。人間の体には、高次の部分が混ざっている。人間の体は、たしかに鉱物と同じ素材からできている。でも、そのように見えるのは、体に他の部分が混ざっているからだ。目が見ているものは、本当は体ではない。体というのは、人間が死の扉を通過したあとに残るものだ。
 高次の部分から切り離された体は、それまでとは別の法則に従う。それまで体は、物理的・化学的な法則に対抗してきた。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分だ。生命オーラの頭・胴・肩は、体とほぼ同じ姿をしている。下に行くにしたがって、生命は体と似たところがなくなっていく。体と生命では、左右が逆になっている。体の心臓は、やや左側に位置している。生命の心臓は右側にある。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。生命の動きの柔軟さは、体の動きとは比べものにならない。健康な人の場合、生命は若い桃の花の色をしている。薔薇のような濃い赤から、明るい白までの独特の色合いで輝き、光っている。
 心が人間の第三の部分だ。人間の楽しみ・苦しみ・喜びなど、思いのオーラは輝く雲のように見える。それが心だ。心は、じつに様々な色と形を示す。たえず形を変えながら漂う雲のようだ。その雲のなかに作られるものは、人間が他人に対して持つ感情を表わしている。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。
 人間の第四の部分は魂。楕円形をしており、その中心は前脳にある。そこに、青く輝く球が見える。そこから卵のような楕円形で青色が流れ出ている。

 魂による心・生命・体の変容
 魂が心・生命・体に働きかけることによって、人間の仕事が始まる。魂はまず心への働きかけを始める。この自分への働きかけは「清め」と呼ばれる。心は二つに分けられる。働きかけられて浄化されたところと、そうでないところだ。魂が不屈に心に働きかけると、しだいに人間はよいことをするように自分に命じる必要がなくなり、よいことをするのが習慣になる。自分の命令に従うだけなら、魂は心に働きかけている。よいことを行なうのが習慣になると、魂は生命にも働きかけている。なにかが説明され、それを理解したとすると、魂が心に働きかけたのだ。心が繰り返し同じ活動をすると、生命に働きかけることになる。一度かぎりの理解は魂から心への働きかけであり、繰り返しは魂から生命への働きかけだ。生命の原則は繰り返しである。繰り返しがあるところには、生命が活動している。完結するのが心の原則だ。人間は魂から体に働きかけることもできる。それは最も困難な仕事だ。
 体・生命・心への働きかけには、意識的な働きかけと無意識的な働きかけの二つがある。無意識的な働きかけは、自分ではそれと知らずに、芸術作品の鑑賞や、敬虔な思い・祈りによって働きかけていることだ。人間の心は、無意識的な部分と意識的な部分の二つからなっている。魂が無意識的な方法で働きかけた心の部分は「感じる心」と呼ばれる。魂が無意識的に生命に働きかけたものが「知的な心」だ。長期にわたって無意識的に体のなかで改造されたものが「意識的な心」。ついで、意識的な働きかけが始まる。人間が意識的に心に働きかけてできたものが「精神的な自己」。人間が意識的に生命に働きかけたものが「霊化された生命」だ。意識的な呼吸によって、体は魂によって「霊体」へと改造される。

  眠りと目覚め
 目覚めているときの人間と、眠っているときの人間を考察してみよう。意識が眠りに落ち、喜びと苦痛が沈黙するとき、何が生じているのだろうか。そのとき、心と魂は、体と生命の外にある。眠っているときの人間は、体と生命が寝床にあり、心と魂は外に出ている。
 人間の心が夜、体と生命から出ていくのと同じ分だけ、神々の心が寝床に横たわる体のなかに入ってくる。神々の魂が入ってきて、血液の面倒を見る。そして朝、人間の心と魂が生命と体に帰ってくると、人間の心が神々の心を追い出す。夜のあいだ血液の面倒を見ていた神々の魂を、人間の魂が追い出す。人間の魂と心は夜、体と生命から去り、朝になると戻ってくる。

 死の直後
 生きているあいだ、生命は体と結び付いている。死ぬと、生命は体から離れる。
 死の瞬間、過ぎ去った人生全体が一つの画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。生命は体のなかにあるかぎり、みずからの力すべてを展開することはできない。人が死ぬと、生命は自由になり、人生をとおして自分のなかに書き込まれたことを、体の束縛なしに展開できる。死の瞬間、生命と心と魂が体から抜け出し、記憶映像が心のまえに現われる。さまざまな出来事が同時に心のまえに現われ、一種の画像のように概観を示す。この記憶映像は客観的なものだ。
 人間が生きているときに、眠りに陥ることなく起きつづけていられる時間の長さだけ、死後の映像は続く。回想の映像はそれくらいの長さ続き、そして、消えていく。
 生命のすべてが解消するのではない。生命の精髄を、死者はたずさえていく。生命の精髄とともに、人生の果実もたずさえていく。
 いまや人間は、生命の精髄と心と魂を有している。
 
 心霊の世界
 心にとって根本的に新たな時期が始まる。地上への愛着から離れる時期が始まるのだ。心のなかに存在しているものは、死後、体を捨てるとともになくなるのではない。衝動・願望は、すべて存在しつづける。
 体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具=体がないだけなのだ。その状態は、おそろしく喉が乾いているのに、乾きを癒す可能性がまったくないのに似ている。欲望を満たすために必要なものがないので、その欲望ゆえに苦しむのだ。
 これが心霊の世界の状態である。欲望を捨てていくところだ。ここで過ごす期間は、生まれてから死ぬまでの年月の三分の一の長さ。地上に結び付いている欲望がすべてなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。
 人間にとって、体のなかで体験することは意味のあるものだ。経験を積み、地上での行為をとおして、高みへと発展するからだ。
 別の面では、生まれてから死ぬまで、発展の妨げとなるものを作る、おびただしい機会がある。人に負担をかけて自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに物質的な苦痛を与えても、心理的な苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。
 心霊の世界を通過していくとき、人間は進歩の妨げを取り除く刺激を受ける。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。事物がすべて逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。心霊の世界を見るときには、すべてを逆にしなくてはいけない。
 心眼が開けたとしてみよう。そのとき、まず自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれども、それらが様々な姿で、あらゆる方角から自分のほうに向かってくるように見える。すべてが逆に体験されるのだ。
 ある人が六〇歳で亡くなり、心霊の世界で、四〇歳のときに人を殴った時点に到ったとしてみよう。そこで、相手が体験したことをすべて、自分が体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、自分の人生を誕生の時点へと遡っていく。
 一つずつ、心の発展の妨げとなるものを、心は捨てていく。心の発展の妨げとなったものを埋め合わせる意志衝動を、心は受け取る。そして、心は来世で、その意志を実現する。
 私たちは、自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。地上で苦痛として体験したものは、心霊の世界では喜びだ。記憶画像が与えることのできない、苦しみと喜びの遡行的な体験を心に与えるために、心霊の世界は存在する。
 心霊の世界を生き抜くと、心の死骸が捨てられる。この死骸は、人間が魂によって清めず、秩序を与えなかった心の部分だ。衝動と情熱の担い手として人間が受け取り、魂によって手を加えず、精神化しなかったものは、心霊の世界を通過したのち解消される。
 さらなる歩みにおいて、人間は心の精髄をたずさえていく。自分の力によって高貴にしたもの、美・善・道徳が心の精髄を形成する。心霊の世界の終わりに人間は魂であり、魂のまわりに心の精髄と生命の精髄、よい意志衝動がある。

 精神の国
 新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。
 地上には私たちが歩む陸地があり、水があり、空気があり、すべてに熱が浸透している。精神の国の陸地には、鉱物すべての形態が含まれている。地上の鉱物があるところは何も見えず、空になっている。そのまわりに霊的な力が、生命的な光のように存在している。
 精神の国へと上昇する意識にとって、物質は本質的なものではなく、そのまわりに見える力が本質的なものだ。鉱物の結晶は陰画のように見える。地上の物質形態のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。
 地上の植物・動物・人間の生命すべてが様々な存在に分配されているのが、精神の国の海・川のように見える。
 人間と動物の感じるものから、精神の国に大気圏が形成されている。心のなかに生きるもの、苦痛・喜びが、精神の国の空気を作る。すばらしく好ましい音が、精神の国の大気を貫いている。
 地上の陸地・海・空気に熱が浸透しているように、精神の国の三つの領域に思考が浸透している。思考は精神の国で、形態・本質として生きている。精神の国で人間が交流できる存在たちが、熱のごとく、精神の国全体に満ちている。
 人間が心霊の世界で物へのつながりを捨てた分だけ、意識が明るくなる。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、曇っていた意識が明るくなっていく。そして、精神の国を人間は意識的に体験する。
 精神の国における最初の印象は、過ぎ去った人生における自分の体を、自分の外に見ることだ。この体は、精神の国の陸地に属する。
 死後、人間は体の外にいる。精神の国に入るとき、体の形態を人間は意識する。こうして、「私はもはや地上にはいない。私は精神の国にいる」ということが明らかになる。
 地上では、生命は数多くの存在に分配されている。精神の国における生命は、一個の全体として現われる。すべてを包括する一個の生命が、精神の国に現われている。人々を結び付けるもの、調和するものを、人間は精神の国で体験する。
 人間が地上で抱く喜びと苦しみは、精神の国では風・気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。

輪廻
 地上で知覚器官は、外的な素材によって作られる。私たちの体は、周囲から作られたものだ。
 精神の国では、周囲から霊的な器官が人間に形成される。精神の国で、人間は絶えず何かを周囲の生命から受け取り、周囲の要素から霊体を作る。人間は自分を絶えず生成するものと感じ、自分の霊体の様々な部分が次々と発生していくのを感じる。この生成を、人間は精神の国を遍歴する際に至福と感じる。
 人間は精神の国で、自分の元像を作る。死後、精神の国に滞在するたびに、人間はそのような元像を作ってきた。地上の人生の果実として、精神の国にもたらす生命の精髄が、そのなかに取り込まれていく。
 この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は過ぎ去った人生の精髄を精神の国にたずさえていき、それに従って新しい自分を作る。
 人間が地上に生まれるたびに、地表は変化している。地球は新たな文化と状態を人間に提供する。心は、新しいものが学べるまでは、地上に下らない。自分の新しい元像を構築するために、人間は生まれ変わるまでの時間を必要とする。この元像は構築されると、地上にふたたび現われようとする。
 生まれ変わるべき時期が来ると、人間は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして人間は、神々によって両親へと導かれる。その元像に適した体を与える両親のところへ導いていく神々を、人間は必要とする。それらの神々は、その元像に最も適した民族・人種に人間を導いていく。両親が与える体は、生まれようとする心と魂におおよそしか適さないので、体と心のあいだに、神々によって生命が入れられる。生命をとおして、地上的なものと天から与えられたものとが適合する。
 ふたたび地上に生まれるとき、人間は死後とは逆の道をたどる。まず心をまとう。ついで生命、最後に体をまとう。
 人間が生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像を見る。その予告の画像は、生命が組み込まれるときに現われる。

シュタイナー人智学解説

2011-02-04 10:34:09 | Weblog
 人間の体
 人間の身体は、たんなる物質ではない。生物は、生命のない物質・鉱物とちがって、生殖・成長する存在だ。超感覚的に見ると、「形成する生命力」「生命に満ちた霊的形態」が知覚される。
 人間の身体は物質的な体と、その体を生かしている生命からなっている。生命ある身体から生命が離れ、物質的な力に委ねられると、身体は崩壊する。生命が体を崩壊から守っているのだ。日中、体と生命に破壊的な力が働きかけ、睡眠中は構築的な力が働きかける。
 生命は体を形成する力であり、記憶・習慣・気質・性向・良心の担い手、持続する欲念の担い手だ。
 そして、思いの場である心がある。

 人間の心
 外界の印象を感じ取る活動の源泉は「感じる心」だ。
 人間は多くの場合、自分の感覚的な欲望(感じる心の要求)を満足させるべく思考している。便利で快適な生活、つまり、感じる心にとって心地よい生活を実現するために思考力を用いている。けれども、そこにとどまらず、人間は自分の感受について考え、外界を解明する。思考は心を、たんに感じる心が属さない法則性のなかに引き入れる。思考に用いられるのが「知的な心」だ。
 思考は感覚の欲求を満たすためにも使われるけれど、精神的な思惟に向かうこともできる。星空を見て感動するとき、その感動は個人のものだ。星について考え、星の運行法則を明らかにしたら、その思考内容は客観的な意味を持つ。思考をとおして認識された内容は、個人から独立して、万人に通用する。
 心のなかに輝く永遠のものは、「意識的な心」と名づけられる。魂が意識される場であり、精神が輝き入っているところだ。この意識的な心が、心のなかの心、精神的な心である。
 知的な心は感受・衝動・情動に巻き込まれることがあり、自分の感受を正当なものとして通用させようとする。けれども、真理は個人的な共感・反感に左右されない。そのような真理の生きる場が意識的な心だ。
 体は心を限界づけ、魂は心を拡張する。知的な心は、真・善を受容すると、大きくなる。自分の好き嫌いのままに生きる人の場合、知的な心は感じる心と同じ大きさだ。

 人間の魂
 心の中心は魂。体と心は魂に仕える。魂は精神に帰依し、精神が魂を満たす。魂は心のなかに生き、精神は魂のなかに生きる。
 魂を形成しつつ、魂として生きる精神は、人間の自己として現われるから、「精神的な自己」と呼ばれる。
 自己は天界と物質界に向かい合っている。物質界は感覚によって知覚され、天界は直観をとおして現われる。心、あるいは心の内に輝く魂は、身体的側面と精神的側面に向けて、扉を開いている。感覚的な知覚は個我のなかでの物質界の開示であり、精神的な自己は魂のなかでの天界の開示だ。
 地上に物質的な体があるように、天に霊的な体がある。物質的な体に生命が浸透しているように、霊的な体に精神的な生命が浸透している。
 心の核としての魂が衝動・欲望を支配できるようになると、心のなかに精神的な自己が出現する。精神的な自己は「変容した心」と言える。同様に、精神的な生命は変容した生命であり、物質的な体が変容したのが霊体だ。

 人間の本質
 人間が死ぬと、体の形態は次第に消えていき、体は鉱物界の一部になる。体は、自らのなかにある鉱物的な素材と力によっては、形態を保てない。形態を保つためには、体は生命に浸透されていなくてはならない。人間が生きているあいだ、体を崩壊しないようにしているもの、体のなかに存在する鉱物的な素材と力に一定の形・姿を与えるものが生命だ。
 生命の力は、意識の光を輝かすことはできない。生命は自らに没頭するなら、絶えず眠っていなくてはならないだろう。繰り返し人間を無意識の状態から目覚めさせるものが心だ。ものごとの印象を感じるのが心であり、感受とともに喜怒哀楽が生じる。人間が目覚めているとき、生命は心に浸透されている。
 人間は動物とちがって、体に由来しない望みや情熱を抱くことができる。その望みや情熱の源泉は魂にある。地上の鉱物・植物・動物にはないものだ。内的体験の転変のなかに持続的・永続的なものがあることに気づくと、個我感情が現われる。
 生命に結び付いていないと、体は崩壊する。心に浸透されていないと、生命は無意識に沈む。同様に、魂によって現在へともたらされなければ、心は繰り返し忘却のなかに沈む。心には意識が特有のものであり、魂には記憶が特有のものだ。
 現存する対象についての知を呼び起こすのは感受の働きであり、その知に持続性を与えるものが心だ。この両者は密接に結び付いており、感受と心が一体になっているのが「感じる心」だ。
 魂は、対象そのものから離れ、自分が対象についての知から得たものに活動を向けるとき、感じる心よりも高い段階にある。そのような活動をするのが「知的な心」だ。知的な心も、感じる心と同様、関心は外界、つまり感覚によって知覚されたものに集中している。知的な心は魂の性質を分有しているけれども、魂の精神的本性をまだ意識していない。
 心が自分を魂として認識するとき、人間のなかに住む神が語る。心の第三の部分は、自らの本質を知覚したとき、神的なものに沈潜する。この第三の部分、「意識的な心」において、魂の本性が明らかになる。魂は、この部分をとおして知覚される。意識的な心のなかに一滴のしずくのように入ってくるのが、永遠の魂だ。
 魂は心に働きかけることができる。知的な進歩、感情と意志の純化は、心を変化させる。魂によって変容させられた心が「精神的な自己」だ。
 魂は生命にも働きかける。性質・気質を魂が変化させるとき、生命に働きかけている。宗教的な信条は、心のいとなみのなかに確固とした秩序を生み出す。また、芸術作品の精神的な基盤に沈潜することによって魂が受け取る衝動は、生命にまで働きかける。この働きかけによって、生命は「生命的な精神」へと変化していく。
 魂は物質的な体に秘められた精神的な力と結び付いて、物質的な体を変化させることもできる。変容した体は、物質的な人間に対して、「精神的な人間」と呼ばれる。

 心霊の世界
 心の特性、衝動・欲望・感情・情熱・願望・感受などは、心霊の世界に由来する。心霊の世界は地上よりもずっと精妙・動的・柔軟であり、心霊の世界は物質界と根本的に異なっている。初めて心霊の世界を見る者は、物質界との相違に混乱する。心霊の世界に物質界の法則を当てはめようとすると、間違う(心は一方では体、他方では魂に結び付いており、そのために、体と魂の影響を受けている。この点に留意して、心霊の世界を観察する必要がある)。
 心霊の世界の存在は心的な素材からなり、心霊の世界を「欲望・願望・要求の世界」と呼ぶことができる。心的な存在は、親和性があると相互に浸透し、相反するなら反発しあう。そして、地上の空間的距離とは異なって、内的本性(好き嫌い)による距離を示す。
 心霊の世界の存在には、共感の力と反感の力の作用が見られる。他のものと融合しようとする共感の力と、他を排して自分を押し通そうとする反感の力だ。共感・反感がどう作用するかが、心霊の世界の存在の種類を決める。
 反感が共感にまさっている段階では、周囲の存在を共感の力によって引き付けようとするけれども、この共感と同時に反感が内にあって、周囲にいるものを押しのける。その結果、自分のまわりの多くのものを突き放し、わずかなものだけを、愛情を込めて自分のほうに引き寄せる。近寄ってくる多くのものを反感が突き放し、満足しようがない。この段階の存在は、変化しない形態で心霊の世界を動いている。この存在の領域が心霊の世界の第一領域、「欲望の炎の領域」だ。
 心霊の世界の第二段階の存在には、共感・反感が同じ強さで作用している。共感・反感が均衡を保ち、周囲のものに中立的に向かい合う。自分と周囲のあいだに、はっきりした境界を引かず、周囲のものを自分に作用させ、欲望なしに周囲のものを受け入れる。このような心の領域が「流れる刺激の領域」だ。
 第三段階の存在においては、共感が反感にまさっている。けれども、共感の力の及ぶかぎり、あらゆるものを自分の領域に引き入れようとするので、この共感は自己中心的だ。この存在の領域が「願望の領域」。
 第四段階では、反感が完全に退き、共感だけが作用している(反感があるかぎり、その存在は自分のために、ほかのものと関わろうとしている)。ただ、この段階では、共感が存在自身の内だけで作用している。「快と不快の領域」だ。
 以上の四層が、心霊の世界の下部をなしている。
 第五・六・七領域では、共感の作用が存在を越え出ている。第五層は「心の光の領域」、第六層は「活動的な心の力の領域」、第七層は「心の生命の領域」。これらの三領域が心霊の世界の上部を形成している。

 心霊の世界における死後の心
 体の調子がよいとき、心は心地よく感じる。逆の場合は、不快だ。同様に、魂も心に作用する。正しい思惟は心を爽快にし、誤った思惟は心を不快にさせる。
 心が魂の表明に共感すればするほど、人間は完成する。心が体の活動によって満足させられている分だけ、その人は未完成だ。魂が人間の中心であり、人間は自分の働きのすべてが魂によって方向づけられないと、自分の使命を達成できない。
 体は、魂が物質界を認識し、地上で活動するための仲介役を果たしている。体が知覚したものを心が体験し、それを魂に伝える。一方、魂が抱く考えは、心の中で実現への願望となり、体を用いた行為になる。
 死後、魂は体から離れても、心とは結び付いている。そして、体が魂を物質界につなぎとめていたように、心が魂を心霊の世界につなぎとめる。私たちが眠くなると、体は心と魂を離す。同様に心は、地上的・身体的なものへの執着を脱すると、魂を精神の国へと解き放つ。死ぬときに地上的な欲を捨て切っていれば、人間は死後ただちに精神の国に向かえる。
 死ののち、心は物質への執着を解消するための期間を過ごすことになる。物質への執着が強い場合、その期間は長く、そうでない場合は短い。その期間を過ごすのが、「欲望の場所」だ。そこを通過するうちに、「体によって満足させられる欲望を抱くことは無駄だ」と、心は悟っていく。そして、物質的・身体的な関心が心から消えていく。心が心霊の世界の高次領域、すなわち共感の世界に入っていき、利己心が消えて、心霊の世界と一体になったとき、魂は解放される。
 魂は地上に生きることをとおして、自らを体と同一視することがある。だが、それよりも、魂と心の結び付きのほうが強固だ。魂は心という仲介物をとおして体と結び付いているけれど、魂と心はじかに結び付いているからだ。
 心霊の世界の最初の領域に入った死後の心は、体のいとなみに関連する粗雑で利己的な欲望を消滅させていく。物質生活への欲望を捨てられずにいる心は、満たしようのない享受を求めて苦しむ。
 地上では、欲望は満足させられると、一時的になくなったように見える。けれども、欲望が消滅したわけではない。幾日か経つと、また欲求が生じる。その対象を入手できないと、欲求は高まる。
 死後、心に染み付いた身体的な欲望は、満たされないので、高まることになる。心霊の世界の第一領域で、欲望は、その高まりによって燃え尽きていく。これが浄化だ。生前、身体的な欲望から自由だった人は、死後、心霊の世界の第一領域を、苦しみなく通過していく。一方、身体的な欲望への執着が強かった心は、死後、この領域に長く引き留められる。
 心霊の世界の第二領域は、人生の外的な瑣事への没入、流れゆく感覚の印象の喜びによって生じた心の状態に関連する。そのような欲求も、感覚的・物質的な事物が存在しない心霊の世界では叶えようがないので、消えていかざるをえない。
 第三領域の性質を持つ心は自己中心的な共感を有し、その共感の力によって対象を自分の中に引き入れようとしている。この願望も成就できないので、次第に消えていく。
 心霊の世界の第四領域は、快と不快の領域だ。地上に生きているときは、快・不快が身体と結び付いているので、人間は体が自分であるかのように感じる。この「自己感情」の対象である体が失われると、心は自分が失われたように感じる。死後、心霊の世界の第四領域で、「身体的自己」という幻想を打ち砕く必要がある(自殺者は、体に関する感情を心の中にそっくり残している。体が次第に衰弱していったのではないので、死は苦痛を伴う。そして、自分を自殺へと追い込んだ原因が、死後も当人を苦しめる)。
 心霊の世界の第五領域は、周囲に対する心の喜びと楽しみに関連している。心は、自然のなかに現われる精神的なものを体験することができる。けれども、感覚的に自然を楽しむこともある。そのように感覚的に自然を享受する心の性質が、ここで清められる。また、感覚的な平安をもたらす社会を理想とする人の心は、利己的ではないのだが、感覚界を志向しているという点で、この第五領域で浄化される。心は第五領域で「楽園」に出会い、楽園の空しさを悟ることになる。地上の楽園であれ、天上の楽園であれ、宗教をとおして感覚的な安楽の高まりを要求する人々の心が浄化される。
 第六領域では、利己的ではなく、理想主義的・自己犠牲的に見えながらも、感覚的な快感の満足を動機とする行動欲が浄化される。また、面白いという理由で芸術・学問に没頭している人は第六領域に属する。
 心霊の世界の第七領域で、「自分の活動のすべてが地上に捧げられるべきだ」という意見から、人間は解放される。こうして、心は完全に心霊の世界に吸収され、魂はすべての束縛から自由になって、精神の国に向かっていく。

 精神の国
 精神の国は思考を素材として織りなされた領域だ。地上の人間の思考は、精神の国を織りなす思考素材の影である。物質界は現象・結果の世界、精神の国は原因・発端の世界。
 精神の国には、物質界と心霊の世界に存在するものたちの原像が生きている。その原像は創造的であり、精神の国は絶えざる活動の世界だ。それらの原像は、協力しながら創造している。
 心霊の世界では、さまざまな神霊が色・形で現われ出ている。精神の国に入ると、原像が響きを発する。
 精神の国も七領域に区分される。第一領域には、無機物の原像がある。鉱物の原像であり、植物・動物・人間の物質体の原像である。地上では、空間中に物質が存在している。精神の国では、物質の存在しているところが空になっており、その周囲の空間に、物質を創造するものたちが活動している。この領域が、精神の国の「大陸」だ。
 第二領域には、生命の原像が存在する。思考を素材とする生命が流れており、生命は調和ある統一体をなしている。「海洋」と言われる領域だ。
 精神の国の第三領域=大気圏には、心の原像がある。地上と心霊の世界における心の活動が、この領域に天候のように現われる。
 第四領域には、精神の国の第一領域・第二領域・第三領域の原像を統率し、秩序を与える原像が生きている。第四領域は、思考の原像の世界だ。
 第五領域・第六領域・第七領域は、精神の国の上部領域。精神の国の下部領域の原像に、原動力を与えるものたちの領域だ。この領域に達すると、人間は宇宙の基盤にある意図を知る。この領域には、言葉が響いている。この領域で、あらゆるものが「永遠の名」を告げる。

 精神の国における死後の魂
 人間の魂は死後、心霊の世界を遍歴してから精神の国に入り、新しい身体存在へと成熟するまで、そこにとどまる。精神の国に滞在する意味を知るには、輪廻の意味を理解する必要がある。過ぎ去った人生の果実は、人間の精神的な萌芽に摂取される。そして、死んでから生まれ変わるまで滞在する精神の国で、その果実は熟する。その果実は熟して素質・能力となり、新しい人生のなかに現われる。地上での人生で獲得した果実が、精神の国で熟すと、人間は地上に戻る。
 人間は地上で、「精神存在」「精神の国の使者」として、創造活動を行なう。地上で活動するための意図・方向は精神から来る。地上での活動の目的は、地上に生まれるまえに、精神の国で形成される。精神の国で設計したプランにしたがって、地上での人生が歩まれる。魂のまなざしは常に、自らの地上的な課題の舞台に向けられている。地上での活動が人間の魂の課題なのだけれども、体に宿る魂は、繰り返し自分自身の領域つまり精神の国に滞在しないと、この世で精神存在でありつづけることができない。
 人間の魂は、精神の国の諸領域の本質に浸透されることによって成熟していく。
 精神の国の第一領域は、物質の原像の世界。その原像は、地上の事物を生み出す思考存在だ。この領域で、人間は自分の遺骸・物質的身体を、外界の一部として認識する。
 精神の国の第一領域では、家族への愛や友情が、死者の内側から甦る。この領域を生きることによって、家族への愛や友情は強まっていく。地上でともに生きた人々を、精神の国でふたたび見出す。地上でたがいに関係があった者たちは精神の国で再会し、精神の国にふさわしい方法で共同生活を続ける。
 精神の国の第二領域は、地上の共通の生命が思考存在として流れているところだ。地上では個々の生物が個別に生命を有するけれど、精神の国では生命は個々の生物に限定されずに、精神の国全体を循環している。その残照が地上で、全体の調和への宗教的な畏敬として現われる。
 精神の国の第一領域で、死者は家族・友人と再会した。その関係を維持しながら、第二領域では、同じ信条を持つ者たちが集うことになる。
 精神の国の第三領域には、心霊の世界の原像がある。心霊の世界に存在するものが、ここでは「生命的な思考存在」として出現する。ここでは、利己的な欲求が心に付着していない。地上で人々のために無欲に行なったことが、ここで実を結ぶ。地上で奉仕的な行為に専念するとき、人間は精神の国の第三領域の残照のなかに生きている。
 精神の国の第四領域には、芸術や学問など、人間の魂が創造するものの原像が存在している。地上で人間が日常的な生活・願望・意志の領域を超えて従事したものすべてが、この領域に由来する。死後=生まれる前に、人間はこの領域を通過してきたので、地上で個人を超えた普遍的・人間的なものに向かえるのだ。
 精神の国の第五領域まで上昇すると、人間の魂はどんな地上的な束縛からも解放される。そして、精神の国が地上のために設けた目標・意図の意味を体験できる。
 第五領域で、魂としての本来の人間があらわになる。第五領域で、人間は本来の自己のなかに生きている。精神的な自己は、ここに生きている。ここで、前世と来世の展望が開ける。
 第五領域と同質の精神性をあまり獲得しなかった人間は、来世は苦しい人生を欲する。「苦しみの多い人生が自分には必要だ」と、精神の国の第五領域で思うのだ。
 精神的な自己は、精神の国を故郷と感じる。そして、精神の国の観点が、地上生活の基準になる。自己は自らを、神的宇宙秩序の一部分と感じる。自己の活動の力は、精神の国からやってくる。

宇宙と人類の歩み

2011-02-03 10:29:29 | Weblog
 土星=熱惑星期
 体は人間の最も古い部分であり、最も完成されたものだ。
 人間だけでなく、地球も進化しており、地球は何度かの転生を経てきている。最初は熱状態、ついで空気状態、その次には水状態だ。
 宇宙の熱状態期=熱惑星期には、熱だけがあった。熱惑星は響きを発し、外から来る光・音・匂い・味を反射していた。熱惑星で、人間の体の萌芽、感覚器官の萌芽が形成されていった。生命・心・魂は、まだなかった。鉱物・植物・動物もいなかった。
 熱惑星期の人間の意識は漠然としていたが、包括的なものだった。昏睡意識、今日の鉱物の意識だ。
 熱惑星期の最初の段階では、物質的な熱はまだなく、心的な熱があった。熱惑星の進化の中期に、熱から人間の体が形成された。〈意志の神々〉が自らの本質を、人体のために流出したのだ。ついで、〈人格の神々〉が人体に宿って、人間段階を通過した。そのあと、すべてが宇宙の眠りに入っていく。

  太陽=空気惑星期
 宇宙の眠りのあと、熱惑星が新しい形態のなかに出現した。空気惑星だ。空気惑星は、最初に熱惑星状態を短く繰り返した。空気惑星期の中期に、熱惑星の熱は空気へと凝縮した。空気惑星は熱を保ち、空気を発展させた。光が生まれ、空気惑星は輝き・響き・香りを発していた。空気惑星は周囲から注がれる光・味・匂い・熱を、自分のなかに浸透させてから反射した。空気惑星で〈叡智の神々〉が自らの実質を注ぎ出し、人間に生命が注ぎ込まれた。人間は今日の植物の段階に達した。生命が組み入れられたことによって、人間の体も変化した。栄養摂取器官・分泌器官・消化器官・生殖器官が加わった。体は、いまや振動する熱の卵であり、輝いたり消えたりする。
 空気惑星期に、〈炎の神々〉が人間段階を通過した。〈炎の神々〉は人体に宿って、個我意識を得た。
 熱惑星期に人間段階・個我意識に到らなかった〈人格の神々〉がいた。この神々は空気惑星期に、遅れを取り戻さなければならない。この神々は空気惑星で、生命に浸透されていない体にのみ宿れた。だから空気惑星に、もう一度、体のみからなるものが発生しなくてはならなかった。それが今日の動物の祖先だ。

  月=水惑星期
 空気惑星は、水惑星として生まれ変わる。水惑星は、まず熱状態・空気状態を繰り返し、体と生命が形成された。それから、水が付加された。やがて、太陽が熱と光を伴って、水惑星から出ていった。高次の存在も、水惑星から出ていった。水惑星は、太陽のまわりを回るようになった。水惑星は音に浸透され、規則正しい動きをもたらされた。形姿とリズムを体験することによって成熟した体は、心を受け取った。〈動きの神々〉が、自らの実質から、人間に心を流出したのだ。人体に神経組織が発生し、人間は動物段階に達した。
 水惑星期に人間段階を通過したのは〈黎明の神々〉だった。
 空気惑星期の段階に取り残された〈炎の神々〉は、体と生命しか持たないものを作った。それが今日の動物界の祖先だ。水惑星期に体しか有していなかった存在たちは、今日の植物界の祖先。
 植物的な性格を持った鉱物、鉱物的な性格を持った植物が、水惑星の固体・液体状の土壌を形成した。水惑星は動的・生命的であり、その上に生きる存在たちは、自分を寄生動物のように感じていた。
 水惑星期に、人間は外的な事物を知覚しなかった。人間が知覚したのは、生命を有した夢のイメージのごときものだった。内的に上昇・下降する、生命を有したイメージだ。このイメージは外界と関連しており、人間はそれらのイメージに導かれていた。心は、体と生命を遥かに越えて聳えていた。
 水惑星期に、人間は内的な熱をまだ有していなかった。人間は周囲にある熱を受け取り、その熱をふたたび流し出していた。

 ポラール時代とヒュペルボレアス時代
 水惑星は宇宙の夜のなかに消え去り、宇宙の夜から地球が出現する。地球は自らの内に、太陽と月を含んでいた。このころの地球はエーテル状で、今日の土星の軌道ほどに大きかった。地球は霊的な大気に包まれ、人間の心は上空にあって、地上の人体形姿に働きかけた。
 地球は最初に、熱状態期・空気状態期・水状態期を繰り返した。そして、人体に血液が組み込まれた。
 熱惑星状態の繰り返しのあいだに、地球から土星が分離した。空気惑星状態の繰り返しのあいだに、木星と火星が分離した。ついで水惑星状態が繰り返され、太陽が地球から分離した。太陽は、地球から分離したあと、水星と金星を放出した。
 太陽と月と地球がまだ一体であった時代がポラール時代、太陽が地球から出ていった時代がヒュペルボレアス時代。ヒュペルボレアス時代の人体は鐘の形をしており、上方の太陽に向かって開かれていた。ヒュペルボレアス時代の人間は、子どもを生むと、すぐに自分の心が子どもの体のなかに入っていったために、死を経験しなかった。

 レムリア時代
 太陽が分離したあと、地球にとって重苦しい時代が始まった。地球は、まだ月と結び付いていた。生命を阻止する力は、おもに月のなかに働く力に属している。この力が当時、地球のなかで強力に作用していた。最も強い心だけが、御しがたい体に打ち勝ち、地上に生きた。レムリア時代だ。
 レムリア大陸の気温は非常に高く、地球全体が火のような、液体のような状態で、火の海があった。地球は火の霧に包まれていた。火・液体状の地球から、島が形成されていった。人体を形成していた実質は、まだ柔らかく、ゼリーのようだった。
 月が分離していくにしたがって、徐々に人体の改善が行なわれた。魚・鳥のような姿だったレムリア大陸の人間は、直立するようになった。脳が発達し、人間は男女に分かれた。そして、人間は死から再誕までのあいだ、心霊の世界と精神の国に滞在するようになった。
 地球で人間に魂を注ぎ込んだのは〈形態の神々〉だ。月が分離したレムリア時代中期になって、魂が人間のなかに入ってきた。海と陸が分かれ、人間が空気を吸うことによって、魂が人間のなかに入ってきたのだ。
 レムリア時代に人間の心に働きかけたのが、堕天使ルシファーだ。ルシファーは人間を、神々の予定よりも早く、物質界に引きずりおろした。ルシファーが人間の心に働きかけたことによって、神々のみが働きかけていたら受け取っていなかったはずの衝動・欲望・情熱が、人間に植え付けられた。人間は神々から離反する可能性、悪を行なう可能性、そして自由の可能性を得た。
 自然法則と人間の意志は分離していなかった。人間の邪悪な情欲は自然に働きかけ、火の力を燃え立たせた。多くの人々がルシファーの影響を受けて、悪へと傾いたことによって、レムリア大陸に火の力が燃え上がった。レムリア大陸は、荒れ狂う火によって没落する。


 アトランティス時代
 助かった人々は西に向かい、アトランティス大陸に行った。霧の国だ。アトランティス時代前半には、人体はまだ柔らかく、心の意のままになった。アトランティス大陸の人間のうち、愚かで感覚的であった者は巨人の姿になった。より精神的な人間は、小さな姿になった。そして、アトランティス時代に言語が発達した。
 進化から逸脱した霊的存在アーリマンが、アトランティス時代中期から、物質のなかに混ざり込んだ。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神を見ることができなくなった。アーリマンは人間の魂を濁らせ、天界を人間の目から隠す。
 人間の内面・心を惑わせようとするルシファーと、外から人間に向かってきて、外界を幻影つまり物質として人間に現われさせるアーリマンがいるのだ。ルシファーは内面で活動する霊であり、アーリマンはヴェールのように物質を精神的なものの上に広げて、天界の認識を不可能にする。
 アトランティス人は記憶力が発達しており、先祖の体験したことがらを明瞭に記憶していた。アトランティス時代後期に、生命の頭と体の頭が一致することによって、自己意識が発生した。アトランティス時代の終わりには、二種類の人間がいた。第一に、アトランティス文化の高みに立っていた透視者である。彼らは魔術的な力をとおして活動し、天界を見ることができた。第二に、透視力を失い、知性・判断力を準備した人々がいた。彼らは計算・概念・論理的思考などの萌芽を有していた。
 アトランティス人は意志によって種子の力、空気と水の力を支配できた。アトランティス人の意志が邪悪なものになり、心の力を利己的な目標に使うようになったとき、彼らは水と空気の力も解き放った。こうして、アトランティス大陸は崩壊する。
 アトランティス大陸には秘儀の場があり、そこでアトランティス大陸の叡智が育成された。さまざまな惑星から下ってきた人間の心にしたがって、七つの神託が設けられた。太陽神託の秘儀参入者は、魔術的な力をもはや有していない素朴な人々を集めた。そのような人々が、アトランティス大陸の沈没から救出され、新しい時代を築いていく。

 アトランティス後の時代
 アトランティス時代後の最初の文化は、太古のインド文化(蟹座時代の文化)だ。アトランティス大陸を沈めた洪水から逃れ、太古のインドに集まった人々は、天界への憧憬を有していた。そこに、太陽神託の秘儀参入者は七人の聖仙を遣わした。太古のインド人は、「物質界は幻影である。私たちが下ってきた天界のみが真実である」と感じた。
 つぎの双子座時代である太古のペルシア文化期に、物質界は虚妄ではなく、精神的なものの表現・模像であると認識され、地上を改造しようという思いが現われた。
 第三のエジプト文化期(牡牛座時代)において、天空の星々に神的な叡智が込められているのを、人間は見出した。人間はまなざしを上空に向け、その法則を究明しようとした。
 第四のギリシア・ローマ文化期(牡羊座時代)に、人間は完全に物質界に下った。そして、外界・物質に、自分の魂を刻み込んだ。

シュタイナー語録88(その1)

2011-01-30 18:59:36 | Weblog
1 別世界の洞察が人生に意味を与える
 人生は、もう一つの世界への洞察をとおして価値と意味を得る。そのような洞察によって、人間は現実生活に疎遠にはならない。そのような洞察をとおして初めて、人間はこの人生のなかに確実にしっかりと立つことを学ぶからである。その洞察は人生の諸原因を認識することを教える。その洞察がないと、人間は盲者のように諸結果を手探りしていくことになる。
 超感覚的なものから目を背けたり、否定したりするなら、それは人生の虚弱、心魂の死を意味する。隠されたものが明らかになるという希望を失うなら、ある前提の下に、絶望へと導かれる。この死と絶望は、さまざまな形をとって、神秘学的な努力の内的・心魂的な敵になる。人間の内的な力が消失すると、この死と絶望が現われる。生命の力を所有するには、生命のあらゆる力が外から供給されねばならない。感覚に接近する事物・存在・経過を人間は知覚し、悟性によってそれらを分析する。それらは喜びと苦しみを与え、人間に可能な行為へと駆り立てる。人間はしばらくのあいだ、そのように駆り立てられることができる。しかし、人間はいつか、内的に枯死する時点にいたる。そのようにして世界から引き出されるものは尽きるからである。
 この枯渇から人間を守るのが、事物の深みにやすらう隠れたものなのである。つねに新しい生命力を汲み出すために深みに下る力が人間のなかで消滅すると、外的な事物はついにはもはや生命を促進しなくなる、ということが判明する。
 高次の観点から、個々人の幸福と苦痛は、全宇宙の平安と災いに関連していることが明らかになる。道の途上で自分の力を正しい方法で発展させなければ、全世界とそのなかの存在に害をもたらすという洞察にいたる。超感覚的なものとの関連を失うことによって、人間はみずからの生命を荒廃させ、自分の内面で何かを破壊する。その何かが死滅することは、人間を絶望に導くだけではなく、人間は自分の弱点をとおして全世界の進歩を妨害する。
 人間は思いちがいをすることがある。隠されたものは存在せず、感覚と悟性に接近するもののなかに、存在するものすべてがすでに含まれている、という信仰に耽ることがある。このような思いちがいをするのは意識の表面であって、意識の深みはこのような思いちがいをしない。
 知識欲の満足だけでなく、人生に強さと確かさを与えるのが、精神科学的な認識の美しい果実である。
           Theosophie + Die Geheimwissenschaft im Umriss

2 物質体とエーテル体
 目の前に立つ人間を考察してみよう。そうすると、そこに知覚できる最も明白なものは物質体(肉体)である。しかし、精神科学的な探究者にとって、物質体は人間の本質の一部にすぎない。目で見ることができるもの、手で触れることができるものが物質体だと思うなら、物質体について誤ったイメージを抱いていることになる。
 物質体には、すでに高次の構成要素が混ざっているのである。人間に向かい合うとき、その人間の物質体には、人間の本質の別の構成要素が浸透している。だから、私たちの前にある肉と骨からなるものを、そのまま物質体と名づけるわけにはいかない。
 物質体というのは、人間が死の扉を通過したあとに存在するものである。高次の構成要素から切り離された物質体は、それまでとはまったく別の法則に従う。
 人間の身体は、一生のあいだ物質体の崩壊に対して戦うエーテル体(生命オーラ)に浸透されていないと、いつでも死体になる。エーテル体が、人間存在の第二の構成要素である。
 植物と動物も、エーテル体を有している。
 透視者にとって、物質形姿が占めている空間は、エーテル体によって満たされて、輝いている。エーテル体の頭・肩・胴は、物質体とほぼ同じ姿をしている。下部に行くにしたがって、エーテル体は物質体の形姿と似たところがなくなっていく。
 動物の場合、エーテル体は物質体と非常に異なっている。例えば馬の場合、エーテル体の頭は物質体の頭を大きく越えて聳えている。象のエーテル体を透視的に観察できると、その巨大な姿に驚くはずだ。
 人間の場合、下部に向かうほど、エーテル体は物質体と異なっていく。そのほか、物質体とエーテル体では、左右が逆になっている。物質体の心臓は、やや左側に位置している。エーテル体のなかで心臓に相当するもの、すなわちエーテル心臓は右側にある。しかし、物質体とエーテル体の最も大きな相違は、男性のエーテル体は女性的であり、女性のエーテル体は男性的であるということだ。この事実は非常に重要であり、人間の本質の謎の多くが、この神秘学的な探究の成果を元にして解明される。
 人間本性の第一の構成要素である物質体と、第二の構成要素であるエーテル体とのあいだには、人間においては一種の相応があり、動物においては大きな相違がある。
            Thesophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

3 アストラル体と個我
 エーテル体を見ようとするなら、通常の意識を完全に保ちながら、意志の力によって、物質体が目に映らないようにできなくてはならない。そうしたとき、物質体が存在している空間はからっぽにはならない。その場所に、赤みと青みがかかった光の形姿、輝きを発し、若い桃の花よりはいくらか濃い色の形姿が現われる。
 鉱物を見つめながら、その鉱物を意志の力によって消し去っても、エーテル体は見えない。植物や動物の場合には、エーテル体を見ることができる。栄養摂取・成長・生殖を生じさせているエーテル体を、植物と動物は持っているからである。
 人間はこのような能力だけではなく、快と苦を感じる能力も持っている。そのような能力を、植物は持っていない。
 動物はこの能力を持っている。物質体とエーテル体以外に、動物は人間と共通する部分を持っているのである。それはアストラル体(思いのオーラ)である。アストラル体は、私たちが欲望・情熱などという名で語っているものすべてを包括する。
 秘儀参入者が見るこの人間の第三の構成要素は、絶えず内的に運動する卵形の雲の形をしている。この雲が身体を包み、その雲のなかに身体がある。物質体とエーテル体を消し去ると、内的に運動する精妙な光の雲がその場所を満たす。この雲すなわちオーラのなかに、秘儀参入者は情熱・衝動などを、アストラル体の色と形として見る。
 人間は、動物とは区別される。ここで、人間の第四の構成要素にいたる。第四の構成要素は、ほかの名詞とは区別される「私」という言葉で表わされる。
 個我も、霊眼には独特の姿に映る。
 個我は、額のうしろ、鼻根のところに、長く引き伸ばした卵形の青みがかった球のようにとどまっている。
 実際は、この場所には何もない。空虚な空間なのである。炎の中心には何もないが、まわりの光によって青く見える。それと同様に、オーラの光がまわりに輝いているので、この暗い空虚な場所は青く見えるのである。これが個我の外的な表現である。
                    Vor dem Tore der Theosophie

4 三つの心魂
 現存する対象についての知の発生に目をとめているかぎり、人はアストラル体について語ることができる。その知に持続性を与えるものを、心魂と呼ぶ。
 正確な名称を欲するなら、人間のアストラル体を心魂体として語ることもでき、心魂体と一体になっているかぎりにおいて、心魂を感受的心魂として語ることもできる。
 個我が対象についての知から自分の所有物としたものに活動を向けるとき、個我はみずからの存在段階を一段上昇する。この活動をとおして、個我は知覚の対象からますます離れ、個我固有の所有物のなかで作用する。そのような作用が発する心魂の部分を、悟性的心魂あるいは心情的心魂と名づける。
 ここで注視されている心魂の部分へは、いかなる外的なものも接近できない。そこは、心魂の「隠れた聖所」である。心魂と同種のものである存在のみが、そこに入っていける。「心魂が自分を個我として認識するとき、人間のなかに住む神が語る」のである。感受的心魂と悟性的心魂が外界に生きるように、心魂の第三の部分は、みずからの本質を知覚したとき、神的なもののなかに沈潜する。
 アストラル体をとおして外界についての知を得るように、人間は心魂のこの第三の部分をとおして、自分自身についての内的な知にいたる。だから、神秘学はこの心魂の第三の部分を意識的心魂と名づけることもできる。身体が物質体・エーテル体・アストラル体の三つの部分からなっているように、心魂は感受的心魂・悟性的心魂・意識的心魂の三つの部分からなっている。
 意識的心魂のなかで、「個我」の真の本性は初めてあらわになる。心魂が感受や悟性において他のものに夢中になっているときも、心魂は意識的心魂としてみずからの本性を把握している。だから、この個我は、内的活動にほかならない意識的心魂をとおして知覚されることができる。外的な対象の表象は、その対象がどのように現われ、消え去るかに応じて形成される。そして、この表象は悟性のなかで、みずからの力をとおしてさらに作用する。しかし、個我が自らを知覚するべきなら、個我は単に何かに没頭することはできない。個我についての意識を持つためには、内的な活動をとおしてその本質をみずからの深みから取り出してこなければならない。個我の知覚とともに、自省とともに、個我の内的活動が始まる。
 一滴のしずくのように意識的心魂のなかに入ってくるものを、神秘学は精神と呼んでいる。
                  Die Geheimwissenschaft im Umriss

5 個我による働きかけ
 人間は自らのアストラル体に働きかけることによって、一歩前進する。アストラル体の本来の性質が内面から支配されるようになるという形で、この働きかけは行なわれる。
 アストラル体のなかに本来的に生きるものを個我の支配下に置くと、それが精神的自己である。精神的自己は「マナス」という名でも呼ばれる。マナスは個我によってアストラル体が変化させられた結果生じたものだ。アストラル体のなかに本来存在するものを整理して、精神的自己へと変容させるのである。
 さらに進化すると、人間はアストラル体だけでなく、個我によってエーテル体にも働きかける能力を獲得する。
 たとえば、短気だった人が短気を克服しても、しばしば激昂に襲われることがある。記憶力をよくしたり、固有の素質や良心の強弱を変化させることは非常に困難なことである。気質等の変化は、時計の短針のゆっくりした進みに比較できる。
 悪い記憶力を良い記憶力に、短気を柔和に、憂鬱質を沈着さに変化させることは、多くのことを学ぶよりも多大の効果がある。このような変化のなかに、内面の隠れた力の源泉があるのだ。このような変化が、個我が単にアストラル体だけでなく、エーテル体に働きかけられた徴である。
 個我がエーテル体を変化させた分だけ、人間のなかに生命体に対置する生命的精神が存在するようになる。神智学では、生命的精神は「ブッディ」と呼ばれている。ブッディの実体とは、個我によって変化させられたエーテル体にほかならない。
 物質体は人間の本質のなかで最も凝固した部分であり、物質体を形成している諸力は、最も高次の世界から発している。個我がエーテル体のみならず、物質体をも変化させられるほどに強いものになると、人間は自らの内に、現在においては人間本性の最も高次の構成要素である「アートマ」、本来の精神的人間を作り出すことになる。物質体を変化させる諸力は最も高次の世界に存在する。呼吸の過程を変化させることによって、物質体は変化しはじめる。アートマという言葉は呼吸【アートメン】を意味している。呼吸過程の変化によって、血液の性質が変わる。血液は物質体に働きかけ、このことをとおして、人間は最も高次の世界にまで上昇していく。
                  Die Theosophie des Rosenkreuzers

6 四つの気質
 胆汁質の人においては、血液系統が支配的である。だから胆汁質の人は、どんなことがあっても自分の個我を押し通そうとする。胆汁質の人の攻撃性、意志の強さに関するものは、すべて血液循環に由来する。
 打ち寄せるイメージ・感受・表象に没頭する多血質の人の場合、アストラル体と神経系統が支配的になっている。人間の血液循環は、神経のいとなみの調教師である。
 多血質の人には、むら気が見られる。多血質の人は一つの印象にとどまることができない。一つのイメージにとどまること、一つの印象に興味をもってとどまることができない。印象から印象へ、知覚から知覚へと急ぐ。
 すぐに興味を抱き、イメージが容易に作用して、すぐさま印象を受けるのだが、その印象はすぐに消え去ってしまう。
 人間の内面で成長と生命の経過を調整するエーテル体が支配的になると、粘液質が発生する。それは、内的な気持ちよさに表現される。人間はエーテル体のなかに生きれば生きるほど、ますます自分自身に関わり、他のことはなるがままに任せるようになる。
 憂鬱質の人の場合は、人間存在のなかで最も濃密な構成要素である物質体が、他の構成要素の支配者になっている。最も濃密な部分が支配的になると、自分自身が支配者ではなく、「自分は物質体を思うように取り扱えない」と感じる。物質体は、人間が高次の構成要素をとおして支配すべき道具である。しかし、いまや物質体が支配的になり、他の構成要素に抵抗する。それを人間は、苦痛・不快・陰鬱な気分として感じる。
 多血質の人のアストラル体は、活発に手足に働きかける。外的な姿形も、可能なかぎり可動的なものになる。胆汁質の人は、彫りの深い目鼻立ちをしており、多血質の人は表情豊かな、動きのある面立ちをしている。
 胆汁質の人は一足ごとに、ただ地面に触れるだけでなく、足を地面のなかにめりこませるかのように歩く。多血質の人の場合は反対に、跳びはねるような歩き方だ。
 粘液質は動きのない、無関心な人相、豊満な身体、特に脂肪に現われている。
 粘液質の人はだらだら、ぶらぶら、ゆらゆらと歩く。
 憂鬱質の人は、たいてい頭を前に垂れていて、首をしゃんとする力が出てこない。
                  Wo und wie findet man den Geist?

7 男と女
 感情的な衝動へと導く心魂の特性に、女性は傾いている。男性の人生には主知主義と唯物論が通用しており、心魂のいとなみに大きな影響を与えている。
 女性は心魂的・感情的であり、男性には理知的・唯物的な要因がある。
 より心魂的なもの、より感情的なもの、地上での生においてより心魂の内面に向かうものは、身体組織のなかに深く介入し、身体組織に集中的に浸透する傾向を有する。女性は心魂的・情緒的なものに関連する印象を受け取ることによって、深い心魂の根柢のなかに人生の経験も受け取る。男性はもっと豊かな経験、より学問的な経験を好む。男性の場合、経験が女性のように深く心魂のいとなみのなかに入っていくことはない。
 女性の場合、経験の世界全体が深く心魂に刻印を押す。そのことによって、経験は身体組織に働きかけ、身体組織を将来、より強く包囲する傾向を持つ。女性は人生の体験をとおして人体を深く把握し、来世において人体をみずから形成する傾向を受け取る。身体に深く働きかけるということは、男性の身体を準備することを意味する。
 男性の身体においては、女性の場合よりも、内的人間が根本的に物質のなかに生きており、物質に結びついている。女性はより精神的なものを保ち、身体を柔軟に保っている。女性は、あまり精神的なものから分離していない。自由な精神を保持し、そのために物質に関わることが少なく、特に脳を柔軟に保っているのが女性の特徴である。だから、女性が新しいもの、特に精神的な領域において新しいものへの傾向を持っているのは驚くにあたらない。女性は精神を自由に保ち、新しいものを受け入れることに抵抗が少ないからである。
 柔軟な思考の経過を必要とするとき、男性の脳は大変な妨げになる。
 男性の性質は、より凝固しており、収斂している。堅苦しい脳は、なによりも知的なもののための道具であって、心魂的なもののための道具ではない。
 唯物論的な見解は、心魂のいとなみをまったく理解していない。その結果、心魂にわずかしか働きかけなかった人生から、来世ではわずかしか身体組織に進入しない傾向を、死と再誕のあいだに受け取る。そうして、来世では女性の身体を構築する傾向が発生する。
 女性としての体験をとおして、男性の身体組織を形成する傾向を得る。逆に、男性としての体験をとおして、女性の身体組織を形成する傾向を得る。
 ただ、まれに同じ性を繰り返すことがある。しかし、せいぜい七回までである。
                    Die Offenbarungen des Karma

8 身体のリズム
 昼間、大きな宇宙個我から解放されて人体のなかで独力で生きる個我は、夜間は宇宙個我のなかに沈む。
 日中の個我が夜間に宇宙個我のなかに沈むことによって、宇宙個我は妨げなく活動でき、日中の個我が溜め込んだ疲労を取り除ける。
 日中の個我は一つの円を描いており、その円の大部分は大きな宇宙的個我の外に運び出されている。反対に夜は、大きな宇宙個我のなかに沈んでいる。日中の個我は-例えば一六時間-夜間の個我の外にあり、残りの八時間は夜間の個我のなかに沈潜する。
 個我は目覚めている一六時間のあいだ、決して同じものにとどまらない。その時間のあいだ、個我は絶えず変化する。
 人間の個我は二四時間、絶えず変化している、と言わなくてはならない。象徴的に言えば、個我は円を描いており、夜間には大きな宇宙個我のなかに沈む。
 人間はあるときには、自分の周囲の外界をいきいきと感じ、別のときには自分独自の内面を感じる。
 アストラル体は七日、つまり「二四時間×七」の経過のなかで、リズミカルな変化を通過している。その変化は、一つの循環に譬えられる。個我は二四時間でリズミカルに変化しており、その変化は今日でも目覚めと眠りの交替に表現されている。アストラル体は「二四時間×七」で変化している。
 人間のエーテル体は「七日×四」で自転している。そして「七日×四」を経ると、第一日目の経過に戻る。
 いままで何度か、「男性のエーテル体は女性的であり、女性のエーテル体は男性的である」と話してきた。男性のエーテル体と女性のエーテル体では、リズムが同じではない。しかし今日は、詳しく論じることはやめておこう。「男性と女性では異なるものの、およそ七日×四のリズムがある」とだけ述べておく。
 物質体のなかでも、一定の経過がリズミカルに繰り返されている。
 物質体だけを放置すると、そのリズムは女性においては「七日×四×一〇」、男性では「七日×四×一二」で経過する。今日でも物質体をリズムに委ねると、このように経過する。
               Geisteswissenschaftliche Menschenkunde

9 人間の一生
 生まれてから死ぬまでの状態の経過のなかに現われる人間の人生は、感覚的・物質的身体だけではなく、人間の本性の超感覚的な部分に生じる変化を考察することによってのみ完全に理解されうる。
 物質的な誕生とは、人間が物質的な母親の覆いから解き放たれることである。胎児が生まれるまえに母親と共有していた力は、誕生後は独立したものとして、子どものなかにのみ存在する。
 永久歯が生えるころ(六歳~七歳)まで、エーテル体はエーテル的な覆いに包まれている。その覆いは、この時期に取り払われる。そのとき、エーテル体が「誕生」するのである。まだ、人間はアストラル的な覆いに包まれている。その覆いは、一二歳から一六歳まで(性的成熟のとき)に取り払われる。そのとき、アストラル体が誕生するのである。そして、もっとのちに本来の個我が誕生する。
 個我が誕生したあと、人間は世界と人生の状況のなかに組み込まれ、そのなかで、個我をとおして活動する構成要素、すなわち感受的心魂・悟性的心魂・意識的心魂に応じて活動する。ついで、エーテル体が退化する時期がやってくる。その時期にエーテル体は、七歳からの発展とは逆の経過をたどる。生まれたときに、アストラル体のなかに原基として存在したものを発展させることによって、アストラル体は進化する。個我の誕生ののちは、外界の体験をとおしてアストラル体は豊かになる。ある時点からアストラル体は、自分のエーテル体から霊的な養分を摂取するようになる。アストラル体はエーテル体を食い荒らす。さらなる人生の経過のなかで、エーテル体も物質体を食い荒らしはじめる。だから、老年になると物質体が衰弱していくのである。
 こうして、人間の人生は三つの部分に分けられる。最初に、物質体とエーテル体が発展する時期、つぎに、アストラル体と「個我」が発展する時期、最後に、エーテル体と物質体が再び元の状態に戻る時期である。アストラル体は、生まれてから死ぬまでの経過すべてに関与している。アストラル体は一二歳から一六歳までに精神的に誕生し、人生の終盤にはエーテル体の力と物質体の力を侵食する。そのため、アストラル体が自らの力によってなしうることは、物質体とエーテル体の外にある場合よりもゆっくりと発展する。だから、死後、物質体とエーテル体が抜け落ちたとき、浄化の期間は、生まれてから死ぬまでの人生の長さの約三分の一を要するのである。
                 Die Geheimwissenschaft im Umriss

10 睡眠
 眠りに陥ると、アストラル体と個我、そして個我がアストラル体のなかで働きかけたものがすべて、物質体とエーテル体から引き離される。
 ベッドには、物質体とエーテル体だけが横たわっている。
 透視力のある人が見ると、眠りに落ちていく人間の物質体とエーテル体からアストラル体が光に包まれて離れていくのが見える。この状態をもっと正確に描写するなら、今日の人間のアストラル体はさまざまな流れと光の輝きによって組織されていて、絡み合う二つの螺旋、絡み合う二つの6の数字の形のように見える。一つの螺旋は物質体のなかへ消えていき、もう一つの螺旋は彗星の尾のように大宇宙のなかへ広がっていく。ただ、アストラル体の二本の尾の広がりはすぐに不可視のものとなるので、霊眼に映るアストラル体の形は一つの卵に比較することができる。
 眠っていた人が目覚めると、宇宙のなかへと広がり出ていた尾はなくなり、アストラル体全体は再びエーテル体と物質体のなかへと引き入れられる。
 目覚めと眠りの状態とのあいだに夢がある。アストラル体がまったく、その触手さえも物質体から分離しながらも、まだエーテル体と結びついている状態において、夢のある眠りが出現する。
 日中、外界で活動するあいだ、アストラル体は絶え間なく外界から印象を受ける。他方、アストラル体はエーテル体と物質体の本来の建設者である、ということをはっきりと把握しておこう。物質体器官がすべてエーテル体から凝縮・凝固したように、エーテル体のなかを流れ、活動するものはすべてアストラル体から生み出されたものである。
 アストラル体の本質は、宇宙のアストラル体から携えてきた印象と、物質界からあてがわれた活動をとおして外から受ける印象に分かれる。
 アストラルの海から調和と健全な法則のみを受け取るなら、アストラル体によるエーテル体と肉体の構築は元来健康で調和的なものであるはずだ。しかし、アストラル体が物質界から受ける影響によって、元来の調和は乱され、今日の人間は物質体に変調をきたしている。アストラル体が常に人間の内にあれば、アストラル体が宇宙の海から携えてきた調和は物質界の強力な影響によってすぐに乱されてしまう。
 眠っているあいだ、アストラル体は物質界の印象から遠ざかり、みずからの生みの親である宇宙の調和のなかに入り込んでいく。そして朝、夜のあいだに体験した若返りの余韻を携えて目覚めるのである。
                Die Theosophie des Rosenkreuzers

シュタイナー語録88(その2)

2011-01-29 11:40:27 | Weblog
11 死
 人間が死ぬと、アストラル体と個我だけではなく、エーテル体も物質体から離れる。
 死の瞬間、エーテル体およびアストラル体と物質体との結びつきは心臓のところで解かれていく。心臓のところで光が輝き、エーテル体・アストラル体・個我が頭を越えて出ていく。死の瞬間、注目すべきことが生じる。短い時間のあいだに、過ぎ去った人生での体験を思い出すのである。大きな絵のように、全人生があっという間に心魂のまえに現われ、通り過ぎていく。
 エーテル体が離れるとき、エーテル体のなかに書き込まれていたものすべてが現われる。そのために、過ぎ去った人生の思い出が、死後すぐに現われるのである。この思い出は、エーテル体がアストラル体と個我から離れるまで続く。
 物質体とエーテル体を捨てたあとの、死後の人生の状態はどのようなものであろうか。その状態を欲望の場所、欲界と呼ぶ。
 楽しみと欲望は心魂的なものである。だから、楽しみと欲望は死後も残る。
 欲望を満足させる器官を持たない心魂は、燃えるような渇きに苦しむ。心魂は何も欲望を満たすことができない。
 これは外からの苦しみではない。まだ存在している楽しみが満たされないことから来る苦しみである。
 なぜ、心魂はこのような苦しみを体験しなければならないのであろうか。次第に感覚的な欲望と望みを断つため、心魂が地上から解放されて浄化されるためである。心魂が浄化されると欲界期は終了し、人間は神界に上昇する。
 心魂は欲界における人生をどのように生きるのであろうか。人間は欲界において、自分の人生をもう一度生きる。しかし、人生を逆に生きるのである。死の瞬間から誕生のときまで、一日一日、逆の順序で出来事を体験していくのである。
 このように人生を逆に生きて、誕生の瞬間にいたると、天国に到達する。
 かつて、他者に苦しみを感じさせたことがあるとする。今度は、その苦痛を自分の心魂のなかで感じなければならない。他の存在に与えた苦しみをすべて、いまや自分の心魂のなかで体験しなければならない。人や動物のなかに入っていって、その人や動物が私にどんなに苦しめられたかを知るのである。その苦しみ・苦痛のすべてを、私が体験しなければならないのである。
 人間はどれくらいのあいだ、欲界にとどまるのだろうか。人生の三分の一の長さである。
                    Vor dem Tore der Theosophie

12 心魂界の諸領域
 私たちが超感覚的世界のなかで見出す、心魂の質・経過の領域を正確に知ろう。最初の領域は欲望である。二番目は心魂的刺激だ。これは直接的な欲望ではない。刺激は、私たちを取り囲む感覚的なものに関連している。感覚的なものへの献身、周囲の世界における感覚器官をとおしての活動といとなみを、私たちは「心魂的な刺激の力」と呼ぶ。
 心魂のいとなみのさらなる領域は、「願望の領域」である。願望とは、心魂が周囲にあるものに対して共感を感じることだ。その感情を願望というかたちで、周囲の対象に向ける。もはや心魂は単に感覚をとおして感覚界のなかに生きるのではない。心魂はこの周囲の世界に面して、自らを愛の感情で満たす。しかし、この愛はまだまったく利己心・利己主義に満ちている。願望の世界が、心魂の体験の第三の領域である。
 第四領域では、もはや心魂は周囲の何かに向かっていない。自らの身体のなかに生きているものに、この心魂は向かう。自分の身体の安泰・痛み、快感・不快感に感情が向けられる。自らのなかでの、感情の内的な波、自己であることの悦楽、存在することの愉悦を、私たちは心魂の力の第四領域と見なす。
 心魂の力の第五領域は、欲求の世界を越え、共感を通して自らを注ぎ出す心魂の世界である。いままでの領域は、すべて欲求に結び付いていた。心魂は事物を自らに関係づけていた。いま私たちは、心魂が本質を放射し、周囲の存在に共感を持つのを知る。この共感に二つの種類がある。まず自然への愛、そして人々への愛に、私たちは関わる。この心魂の力を、私たちは心魂の第五領域と見なし、「心魂の光」と呼ぶ。
 心魂の第六領域は、神秘学者が「本来の心魂の力」と名づけるものである。心魂は世界における課題に熱中し、愛に満ちて義務に帰依する。この領域の心魂は素晴らしい菫色・青紫色に輝く。この段階にいたると、人間は精神の光を形成し、その光が人間の活動の動機と衝動を心魂から取り出す。この種の心魂は、特に博愛家が発展させる。この感情が、物質界における人間の心魂の偉大な献身的行為に伴う。これが、第六領域の体験である。
 第七領域、最高の領域で体験されるのは、本来の心魂の精神的生命の力である。心魂はもはや、感情を単なる感覚的なものに関連させない。精神の光を自分のなかに輝き入らせる。心魂は、単なる感覚界において得ることのできるものよりも高い課題に目を向ける。心魂の愛は、精神的な愛へと高まっていく。そこに、心魂の精神的生命が存在する。
                  Ursprung und Ziel des Menschen

13 心魂界通過
 死後、心魂に染み付いた身体的な欲望は、満たされないので、高まることになる。心魂の世界の第一領域で、欲望は、その高まりによって燃え尽きていく。これが浄化である。生前、身体的な欲望から自由だった人は、死後、心魂の世界の第一領域を、苦しみなく通過していく。一方、身体的な欲望への執着が強かった心魂は、死後、この領域に長く引き留められる。
 心魂の世界の第二領域は、人生の外的な瑣事への没入や、流れゆく感覚の印象の喜びによって生じた心魂の状態に関連する。そのような欲求も、感覚的・物質的な事物が存在しない心魂の世界では叶えようがないので、消えていかざるをえない。
 第三領域の性質を持つ心魂は自己中心的な共感を有し、その共感の力によって対象を自分の中に引き入れようとしている。この願望も成就できないので、次第に消えていく。
 第四領域は、快と不快の領域だ。地上に生きているときは、快・不快が身体と結び付いているので、人間は身体が自分であるかのように感じる。この「自己感情」の対象である身体が失われると、心魂は自分が失われたように感じる。死後、心魂の世界の第四領域で、「身体的自己」という幻想を打ち砕く必要がある。
 心魂の世界の第五領域は、周囲に対する心の喜び・楽しみに関連している。心魂は、自然のなかに現われる精神的なものを体験することができる。けれども、感覚的に自然を楽しむこともある。そのように感覚的に自然を享受する心魂の性質が、ここで清められる。また、感覚的な平安をもたらす社会を理想とする人の心魂は、利己的ではないのだが、感覚界を志向しているという点で、この第五領域で浄化される。心魂は第五領域で「楽園」に出会い、楽園の空しさを悟ることになる。地上の楽園であれ、天上の楽園であれ、宗教をとおして感覚的な安楽の高まりを要求する人々の心魂が浄化される。
 第六領域では、利己的ではなく、理想主義的・自己犠牲的に見えながらも、感覚的な快感の満足を動機とする行動欲が浄化される。また、面白いという理由で芸術・学問に没頭している人は第六領域に属する。
 心魂の世界の第七領域で、「自分の活動のすべてが地上に捧げられるべきだ」という意見から、人間は解放される。こうして、心魂は完全に心魂の世界に吸収され、精神はすべての束縛から自由になって、精神の国に向かっていく。
                             Theosophie

14 心魂界から精神界
 事物がすべて逆の姿で現われるのが、アストラル界=欲界の特徴である。
 たとえば、346という数字は643と読まねばならない。アストラル界を見るときには、すべてを逆にしなければならない。
 だれかが修行をとおして、あるいは病的な状態によって霊視的になったとしよう。そのとき、初めに、自分が発している衝動や情熱が目に入るのだが、それらがさまざまな形姿で、あらゆる方向から自分のほうに向ってくるように見える。
 人間が欲界で物質との結び付きを捨てた分だけ、意識が明るくなっていく。死の直後に自分の人生を明瞭なイメージで概観したあと、物質への願望が強ければ強いほど、死後の生活において意識が曇る。物質への執着をなくしていくにつれて、曇っていた意識が明るくなっていく。
 神界(精神の国における最初の体験は、自分の生前の物質体を自分の個我の外に見ることである。
 神界においては、神霊的な周囲から人間の精神的な器官が形成される。神界において、人間は絶えず何かを周囲の生命から受け取り、周囲の要素から一種の精神的身体を構築する。神界では、人間は自分を絶えず生成するものと感じ、自分の精神的身体のさまざまな部分が次々と発生していくのを感じる。
 生み出すものを知覚すると、至福を感じられる。
 そのように、人間は神界で自分の精神的原像を形成する。死後、神界に滞在するたびに、人間はそのような原像を、すでに何度も形成してきた。人間が地上の人生の果実として、エーテル体のなかのエキスとして神界にもたらす新しいものが、毎回取り込まれる。
 人間は初めて神界に入ったとき、すでに人間の原像を精神的に構築した。そして、その原像が凝縮して物質的な人間になった。いま、数多くの受肉を経て、人間は毎回、過ぎ去った人生のエキスを神界に携えていき、そのエキスに従って新しい人間を作る。
 地上に受肉するたびに、地表は別の姿をしている。地球は人間に、新たな文化と状況を提供する。心魂は新しいものが学べるまでは物質界に下らない。自分の原像を構築するために、人間は死から再受肉までの時期を必要とする)。この原像は、構築されるたびに、地上に現われようとする衝動を持つ。
            Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

15 精神界
 精神界のありさまを考察しよう。
 まず、物質界の固体領域に比較できる領域がある。精神界の大陸領域である。この領域において、地上に存在する物質すべてを霊的実体として見出すことができる。たとえば、人体を考えてみよう。精神界では、つぎのように見える。身体的な感覚によって知覚されるものが消え去る。その代わり、物質的な人間にとっては無であるものが輝きはじめる。人間の周囲が輝き、光を発しはじめる。中央の物質体がある部分は空白になった陰画、影のように空虚な空間である。
 地上の形象は、すべて原像の形で神界に存在している。
 第二の領域は第一領域とはっきりした境界によって区分されているのではないが、神界の海、大洋領域である。この海は水ではなく、春に咲く桃の花のような色をした実体が規則正しく流れている。神界全体を貫いているのは、流動する生命である。
 第三領域の特徴は、物質界で私たちの内面に知覚、感情、快と苦、喜びと悲しみとして生きるものすべてが外在のものとして存在していることである。
 地球が大空に囲まれているように、物質的な形になろうとなるまいと、物質界において感情を爆発させるものすべてが大気のように神界に広がっている。
 精神界の第四領域には、地上でなされることすべての原像・根源が存在する。物質界の出来事を調べ、周囲を見渡すと、人間の内面に進行することは、たいてい外部から誘発されていることが分かる。
 しかし、外部から誘発されない内面の過程もある。新しい考え、芸術作品、新しい機械が今までになかったものを世界にもたらす。
 ほとんど無意味のように見える独創的な行為にいたるまで、その原像はすでに精神界に存在している。すべて、精神界で下書きがなされているのである。人間が地上でなす独創的な行為はすでに、地上に受肉するまえに、精神界で構想されているのである。
 死者たちは光で織られた身体を持っている。地球の周囲に注ぎかかる光が、神界に住む者たちの素材である。太陽の光を受けて生長する植物は、たんに物質的な光を浴びているだけではなく、神霊存在、そして死者たちが光のなかで植物に働きかけているのである。死者たちみずからが光として植物に降り注ぎ、霊的存在として植物の周囲に漂う。
                  Die Theosophie des Rosenkreuzers

16 精神界上昇
 精神の国の第一領域は、物質の原像の世界である。その原像は、地上の事物を生み出す思考存在である。この領域で、人間は自分の遺骸・物質体を、外界の一部として認識する。
 精神の国の第一領域では、家族への愛や友情が、死者の内側から甦る。この領域を生きることによって、家族への愛や友情は強まっていく。地上でともに生きた人々を、精神の国でふたたび見出す。地上でたがいに関係のあった者たちは精神の国で再会し、精神の国にふさわしい方法で共同生活を続ける。
 精神の国の第二領域は、地上の共通の生命が思考存在として流れているところである。地上では個々の生物が個別に生命を有するが、精神の国では生命は個々の生物に限定されずに、精神の国全体を循環している。その残照が地上で、全体の調和への宗教的な畏敬として現われる。
 精神の国の第一領域で、死者は家族・友人と再会した。その関係を維持しながら、第二領域では、同じ信条を持つ者たちが集うことになる。
 精神の国の第三領域には、心魂の世界の原像がある。心魂の世界に存在するものが、ここでは生命的な思考存在として出現する。ここでは、利己的な欲求が心魂に付着していない。地上で人々のために無欲に行なったことが、ここで実を結ぶ。地上で奉仕的な行為に専念するとき、人間は精神の国の第三領域の残照のなかに生きている。
 精神の国の第四領域には、芸術や学問など、人間の精神が創造するものの原像が存在している。地上で人間が日常的な領域を超えて従事したものすべてが、ここに由来する。生まれるまえに人間はこの領域を通過してきたので、地上で個人を超えた普遍的・人間的なものに向かえるのである。
 精神の国の第五領域まで上昇すると、人間の精神はどんな地上的な束縛からも解放される。そして、精神の国が地上のために設けた目標の意味を体験できる。
 第五領域で、精神としての本来の人間があらわになる。第五領域で、人間は本来の自己のなかに生きている。精神的な自己は、ここに生きている。ここで、前世と来世の展望が開ける。
 第五領域と同質の精神性をあまり獲得しなかった人間は、来世で苦しい人生を欲する。苦しみの多い人生が自分には必要だ、と精神の国の第五領域で思うのだ。
 精神的な自己は、精神の国を故郷と感じる。そして、精神の国の観点が、地上生活の基準になる。自己は自らを、神的宇宙秩序の一部分と感じる。自己の活動の力は、精神の国からやってくる。
                             Theosophie

17 死後の宇宙生
 死後、まず私たちの存在全体が拡張し、私たちの感受はどんどん大きくなっていく。「私は皮膚のなかにいる。外には、事物が存在する空間がある」という感情・経験を、私たちは死後には有さない。
 死後、私たちは事物と諸存在のなかにいる。私たちは空間を越えて、広がっていく。
 欲界期のあいだ、私たちは絶えず拡張していく。そして欲界期が終わるとき、私たちは地球を回る月の軌道と同じ大きさになる。
 私たちは欲界期において、月の軌道の空間内にいることになる。個々の心魂が、その空間のなかにいる。欲界のなかにいる心魂たちが、月の軌道内の空間を満たす。それらの心魂すべてが、たがいのなかに入り込んでいる。
 さらに拡張すると、私たちは神秘学で水星領域と呼ばれる、第二の領域にいたる。
 地上で不道徳だった人は、精神世界の水星領域で孤独な隠者のようになる。道徳的だった人は、社交的になる。
 しかし一般的に、月領域と水星領域において、すでに地上で親しかった以外の人々を見出すことは不可能である。その他の人々は、私たちには未知のままである。私たちが死後の世界で、他の人々と一緒にいるための条件は、地上でも一緒にいたことである。
 私たちが死後に出会う人々との関係は、地上で有した関係のまま持続する。死んだあとで変化することはできない、という特徴があるのだ。
 そのことを体験し、ふたたび地上に受肉するときに、その関係を変化させる力を私たちは形成する。
 死後、水星の次に通過する領域は金星領域である。金星領域では、死者は宗教および世界観ごとにグループを作る。
 ついで、太陽領域にいたる。太陽領域では、さまざまな信条を和解させ、さまざまな宗教的信条のあいだに橋を架けることができる。
 神秘学者が火星領域・木星領域・土星領域と呼んでいる領域へと、私たちは進む。そこでは、ルシファーが私たちを導く。
 私たちはキリスト衝動を、地上においてのみ獲得できる。キリスト衝動をしっかり獲得すると、私たちはキリスト衝動を宇宙の彼方まで担っていける。
Okkulte Untersuchung ueber das Leben zwischen Tod und neuer Geburt

18 死者との交流
 寝入るとき、私たちは死者に向き合う。その体験は、通常は無意識にとどまっている。目覚めるとき、私たちは死者に向かい合う。
 目覚めの瞬間と入眠の瞬間が、死者との交流にとって特別重要である。
 死者に何かを問いたいときは、問いを心のなかに抱き、眠りに入る瞬間まで、その問いを保つ。
 死者のために朗読するとき、私たちはすでに死者に接近している。しかし、死者との直接的な交流にとっては、私たちが死者に語るべきことを、眠りに入る瞬間に死者に向かって発するのが最も有効である。
 その反対に、死者が私たちに伝えたいことがあるとき、そのメッセージを受け取るのに最も適しているのは目覚めの瞬間である。
 思考的・表象的ではなく、感情と意志を込めて死者に問いを発する必要がある。心のこもった関係、魂のこもった関係を、死者と結ばなくてはならない。その死者に生前、特に愛情を込めて接したときのことを思い出し、そのような愛情のこもった気分をもって死者に向き合わねばならない。
 その死者と地上でどのように過ごしたかを、振り返ってみるのもいいことだ。死者とともに過ごした日々を、具体的に思い出すのである。
 夢に現われたものを、私たちは死者からのメッセージだと思う。しかし、それは私たちが死者に発した問い、死者に向けた伝達の余韻にすぎない。
 若くして死の扉を通過したか、年老いてから死去したかでは、大きな違いがある。
 若い子どもが亡くなったとき、その子どもとの関係は、「精神的に考察すると、私たちはその子を失ってはいない。その子は霊的に、私たちのもとにとどまっている。若くして死んだ子どもは、いつも霊的にここにいる」という言葉で表わせる。
 年老いて亡くなった人については、逆のことが言える。「亡くなった老人は私たちを失わない」と言うことができる。私たちは子どもを失わず、老人は私たちを失わない。老人は亡くなると、精神界への大きな引力を得ることになる。そのことをとおして、亡くなった老人は物質界に働きかける力も有する。だから、亡くなった老人は、私たちに容易に接近できる。
 子どもの葬儀は、弔辞を述べるよりも、儀式を執り行なうほうが好ましい。
 年老いて亡くなった人にとって最もよい葬儀は、その人の生涯を振り返ることである。
Der Tod als Lebenswandlung

19 誕生
 神界から下っていくとき、最初に歩み入るのはアストラル界、薔薇十字神智学でいう元素界である。アストラル界は、地上へと下降していく人間に新しいアストラル体を付与する。
 ばらばらに分散しているアストラル実体は、前世で心魂が獲得したものに相応する心魂内の諸力に引き付けられ、形を整えられる。
 アストラル体のみを有した、地上に下りつつある人間は、霊眼には、下方に開いた鐘のような形に見える。人間は凄まじい速さでアストラル界を通過していく。
 地上に下る人間は、つぎにエーテル体と物質体を受け取らなくてはならない。アストラル体の構築までは、人間みずからが発展させた力によっている。しかし、現代の進化段階では、エーテル体の形成は人間だけでなく、外的な存在に依存している。
 私たちは常に自分に適したアストラル体を有しているが、常にこのアストラル体がエーテル体と物質体に適合するとはかぎらない。このために、しばしば人生に不調和と不満足が生じる。
 受肉しようとする人間は、アストラル体に適するエーテル体と物質体を与えてくれる両親を探して徘徊する。
 アストラル体にエーテル体を組み入れる働きをする存在は、しばしば民族神霊と呼ばれる存在に似ている。
 エーテル体のなかに入りながら、まだ物質体とは結び付いていない状態はごくわずかな期間であるが、非常に重要な期間である。この状態において、人間は来たるべき人生を前以て見るのである。
 エーテル体をとおして、民族、そして広い意味でも家族に引き寄せられる。
 アストラル体の本質・実質・組織は、人間を母親に引き寄せる。個我は人間を父親に引き寄せる。
 いま話したことは、本質的に受胎後三週間までに完了される。個我・アストラル体・エーテル体から成る人間は受胎の瞬間から母親のそばにいるのだが、外から胎児に働きかけているのである。受胎後、約三週間後にアストラル体とエーテル体は同時に胎児に結び付き、活動を始める。この時点までは、胎児はアストラル体・エーテル体の影響なしに成長する。それゆえ、エーテル体が自分に適合しない以上に、物質体は自分と調和しないのである。
 精神的に高まると、地上で果たすべき使命にふさわしい物質体をつくるための働きかけを始める時期が早くなる。
                 Die Theosophie des Rosenkreuzers

シュタイナー語録88(その3)

2011-01-28 17:48:15 | Weblog
20 転生の法則
 人間が考え、感じ、知覚したものはすべて、持続するものとしてアストラル界に組み込まれる。多くの痕跡がアストラル界に残る。かつて多くの真実を考えたなら、再受肉の過程で優れたアストラル体を獲得できる。
 下位神界において気質等として組み入れるものは、新しいエーテル体を構成する。
 人間が行なった行為は阿迦捨【アーカーシャ】年代記の存在する神界の最も高次の力とともに、自分がどこに生まれるかを決定する働きをする。神界のこの領域に、人間を誕生の地に運んでいく力が存在する。
 私たちの内面に特に触れることなく、外界で体験したことはすべて、つぎの受肉に際して私たちのアストラル体に作用し、その体験に適った感情・知覚・思考の特性を引き寄せる。善良な人生を送り、多くのことを観照し、豊かな認識を得ると、来世においてこのような特別の天賦を与えられたアストラル体を得ることになる。体験と経験は、来世においてアストラル体に刻印される。
 人間が知覚し、感じたもの、快と苦、心魂の内的体験は再受肉に際してエーテル体にまで作用し、永続的な性向を生み出す。多くの喜びを体験した人のエーテル体は、喜びに向かう気質を有するようになる。善行を果たすことに尽力した人は、その際に発展させた感情をとおして、来世で善行の刻印された才能を持つことになる。そして、入念に発達した良心を持ち、道徳的な人物になる。
 現世においてエーテル体に担われているもの、継続的な性格・素質等は、来世において物質体のなかに現われる。
 世界の偉大な叡智は、苦悩と苦痛を静かに耐えることによって得られる。苦しみと痛みを静かに耐えることが、来世において叡智を創造する。
 病気に耐えると、しばしば来世で特別うつくしい身体に生まれる。美は病気とカルマ的な関係を有しており、病気の成果なのである。 
 アストラル体のなかに喜び・痛み・苦しみとして生きているものはエーテル体のなかに現われ、永続的な衝動・情熱としてエーテル体に根づいたものは物質体のなかに体質として現われる。そして、物質界で物質体を用いてなしたことは外的な運命として来世に現われる。
 アストラル体のなしたことはエーテル体の運命となり、エーテル体のなすことは物質体の運命となり、物質体が行なったことは来世において外部から物質的現実として行為者に返ってくる。
Die Theosophie des Rosenkreuzers

21 苦悩と喜び
 試験的に、つぎのような観点に立ってみよう。「私はこの苦悩、この苦痛を体験した。この人生が一度かぎりのものならば、私たちの苦悩・苦痛は宿命的なものであり、できることなら、投げ出してしまいたいものだ。だが一度、試験的に、そんなふうには考えないようにしてみよう。私たちが何らかの根拠から、この苦痛・苦悩・障害を招き寄せたのだ、と仮定してみよう。もし前世が存在するなら、私たちは自分がかつてなしたことによって、いまのような不完全な存在になったのだから」。
 私たちは輪廻転生をとおして、いつも完全になっていくのではなく、不完全になっていくこともある。私たちがだれかを中傷したり、だれかに損害を与えたりするとき、私たちは不完全になっていく。
 私たちが、だれかを困らせたあと、以前に自分が有していた価値を取り戻そうとするなら、何が起こらねばならないだろうか。私たちは、自分の行為の均衡を取らねばならない。
 この方向で私たちの苦悩と苦痛について熟考してみると、「自分の不完全さを克服するための力を自分のものとするために、それらの苦悩・苦痛は私に適したものである。苦悩をとおして、私は完全になっていく」と言うことができる。
 私たちのなかには賢明な人間が存在しており、その人間が、私たちが最も避けたいと思っている苦悩・苦痛へと私たちを導く。より賢明な人間が、自分自身のなかに生きているのだ」と言うことができる。
 より賢明な人間が自分のなかにおり、その人間が私たちを不快なことがらに導くことによって私たちは前進する、と仮定してみよう。
 さらに、もう少し違ったことをしてみよう。喜び・要求・楽しみを取り上げてみよう。そして、試しに、事実かどうかは別にして、つぎのように表象してみよう。「私は自分の楽しみ、自分の喜び、自分の要求に値しない。それらは、高次の神霊的な力の恩寵によって私にもたらされたのだ」。 試しに、「私たちの内部の賢明な人間が苦悩・苦痛をもたらしのである。それらの苦悩・苦痛は私たちの不完全さの結果として必然的にもたらされたものであり、私たちは苦悩・苦痛をとおしてのみ自分の不完全さを克服できるのだ」ということを受け入れてみるのである。そして、試しに、「私たちの喜びは当然のものとしてあるのではなく、神霊的な力が私たちに与えたものなのだ」と考えてみよう。
Wiederverkoerperung und Karma

22 三〇代での出会い
 一度、私たちがこの人生を生きてきて、三〇代を迎えた、あるいは三〇代を過ぎたと仮定してみよう。三〇代のころに、私たちはさまざまな人に出会う。三〇歳から四〇歳までのあいだに、人々とさまざまな関係を結ぶ。それらの関係は私たちが最も成熟した人生の段階で結んだものである、ということが分かる。
 人間の構成要素について、七歳のときにエーテル体、一四歳のときにアストラル体、二一歳のときに感受的心魂、二八歳のときに悟性的心魂、三五歳のときに意識的心魂が現われ出る、ということを私たちは学んだ。このことをよく考えてみると、「三〇歳から四〇歳にかけて、悟性的心魂と意識的心魂を形成する」と言うことができる。
 悟性的心魂と意識的心魂は人間本性のなかで、私たちを外的な物質界に集中させる力である。私たちが外的な物質界との交流を行なう年齢に、特に現われ出る構成要素である。
 三〇歳ごろ、私たちは最も物質的に世界に向き合う。ある意味で、最も密接に物質界に向かい合うのである。
 私たちが結ぶ人生の関係に関して、外的・物質的な明瞭さをもって、「私たちが三〇代に結ぶ人生の関係は、私たちが誕生して以来、私たちの内面で活動してきたものと関連することが最も少ない」と言わねばならない。とはいえ、私たちが三〇歳ごろに何人もの人々に出会うのは偶然ではない、と考えねばならない。そこにはカルマが働いており、それらの人々と前世で関わりがあったのだ、と考えねばならない。
 精神科学のさまざまな探究の結果、私たちが三〇歳ごろに出会う人々は、非常にしばしば、前世において親子もしくは兄弟姉妹の関係であったことが分かる。
 私たちは三〇代ごろに出会った人々に、来世において、たいてい親子・兄弟姉妹・親戚として出会うことになる、と精神科学の探究は示している。現世において三〇代ごろに知り合いになった人々は、前世において親族であり、来世において親族である、ということになるのだ。「三〇代にともに過ごす人々は、前世において私の両親・兄弟姉妹であった。そして、彼らは来世において私の両親・兄弟姉妹になる」と言うことができるのである。
 私たちが選択したのではなく、外的な力によって、人生の始まりに両親・兄弟姉妹として出会う人々は、たいていの場合、私たちが前世において自分の意志で選んで付き合った人々だったのである。前世において人生の半ばで選んだ人々が、いま私たちの両親・兄弟姉妹になっているのだ。
Wiederverkoerperung und Karma

シュタイナー語録88(その4)

2011-01-27 18:34:52 | Weblog
23 自伝より
 人間の心魂は、心魂が感覚知覚から汲み出す思考の活動ではなく、自由に感覚知覚を越え出る活動のなかで展開される思考活動のなかで本当の現実として現われる、と私は当時おおやけにした著書や論文で語ってきた。この「感覚から自由な」思考をもって心魂は世界の霊的本質のなかに存在するのだ、と私は語った。
 人間は感覚から自由な思考のなかに生きることによって存在の霊的基盤のなかにいる、ということを私は強く主張した。
 私が言いたかったのは、「人間は誕生以来、地上で成長することをとおして、認識によって世界に向かい合う。人間は、まず感覚的観照に達する。しかし、これは認識の前哨戦である。この観照においては、世界のなかに存在するものすべてがまだ開示しない。世界は実体的なものである。しかし、人間は最初、この実体に達しない。人間は、その実体のまえで自分を閉ざす。人間はまだ自分の本質を世界に対峙させないので、本質の欠けた世界像を作る。この世界像は幻想である。感覚器官で知覚する人間は、幻想としての世界のまえに立っている。しかし、感覚から自由な思考が内面から感覚的な知覚へと赴くと、幻想に現実が染み込む。そうすると、幻想はもう幻想ではなくなる。そうして、自分の内面で自己を体験する人間精神は世界の精神に出会う。その世界の精神は感覚世界の背後に隠れているのではなく、感覚世界のなかにあって活動している」ということだ。
 感覚器官による把握を越え出る知覚能力を思考に認める者は、たんなる感覚的な現実を越えて存在する客体のことも、必然的に承認するにちがいない。しかし、思考の対象は理念である。思考は理念を捕らえることによって、世界の根底と融合する。
 心魂の満足を得るために理念なき内面に沈潜しようとするのは現実の精神性が欠如しているのだ、と私は感じた。それは光への道ではなく、精神的な闇への道だと私は思った。
 しかし、理念世界の明晰な内容を取り去って心魂の地下に潜るのではなく、その内容をもって潜ると同様の方法で内的体験にいたることも、私には明らかだった。
 私にとって精神的な理念と共に生きることは、精神世界との個人的な交流のようなものであった。 理念は精神的なものに達しない、と神秘主義者は主張する。
 そして、神秘主義者は精神的なものに達しようとするので、理念のない内的体験に向かう。しかし、理念を伴わずに心魂の内面に進むと、単なる感情の内部領域にいたる。
 私は精神によって照らし出された理念をとおして神霊と共にあることを試みた。
Mein Lebensgang

24 基本的気分
 どの人のなかにも、高次の世界についての認識を獲得できる能力が微睡んでいる。
 ある心魂の基調が出発点になる。その基調を、神秘学者は「真理と認識への敬意-帰依の道」と名づけている。この基本的気分を有する者だけが修行者になれる。
 最初は人に対する子どもらしい尊敬が、のちには真理と認識に対する敬意になる。尊敬するのがふさわしいところでは尊敬するということを学んだ人間は、頭を自由にすることもよく理解しているのが経験から分かる。心の深みから敬意が発するところでは、尊敬するのがふさわしいのだ。
 私たちよりも高次のものが存在するという深い感情を私たちのなかで発展させないなら、私たちを高次のものへと進展させる力を、私たちは自分のなかに見出さないだろう。秘儀参入者は心を畏敬の深み、帰依の深みに導くことをとおして、自分の頭を認識の頂へと高める力を獲得したのである。謙譲の門を通るときにのみ、精神の高みに達する。真の知には、君がその知を敬うことを学んだときにのみ到達できる。
 私たちの文明は、献身や帰依-尊敬よりも、批判・裁き・非難のほうに傾いている。しかし、あらゆる献身的な畏敬が心魂の力を発展させるように、どのような批判や裁きも高次の認識への心魂の力を追い払う。
 高次の知に関しては、個人崇拝ではなく、真理と認識への敬意が大事である、ということを強調しなければならない。
 だれかに出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分の高次の認識力を奪っている。愛に満ちて、その人の長所に沈潜しようと試みるとき、私はその力を蓄える。
 世界と人生について軽蔑し、裁き、批判的に判断するとき、自分のなかに何が入り込んでいるかに気づくこうとするとき、私たちは高次の認識に近づく。そのような瞬間に、自分の意識を世界と人生に対する賛美・尊敬・敬意で満たすと、私たちは速やかに上昇する。このようなことに経験のある者は、ふだんは微睡んでいる力が人間のなかで目覚める、ということを知っている。こうして、霊眼が人間に開かれる。
 まず、尊敬に値するものすべてへの献身という基本的気分が、人間の心情のいとなみ全体を照らす。このただ一つの基本感情のなかに、人間の心魂のいとなみ全体の中心点が見出される。太陽がその輝きをとおして生命あるものすべてを活気づけるように、修行者においては敬意が心魂のあらゆる感受を活気づける。
Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten

25 修行規則
 〈第一版〉
 一、朝、食事前に瞑想を行なう。
 二、夜、眠るまえに瞑想の言葉を思考のなかで復唱し、その後、日中の体験を逆の順序で短く振り返る。
 三、毎日、一五分間の読書をする。
 四、日々の行を行なったかどうかを、二週間ごとに指導者に報告する。行をしなかったときは、その理由を述べる。
 五、ノートを用意し、修行をしたかどうかを毎日記入する。
 六、酒はどのような種類のものであれ、いっさい禁じる。アルコールは脳、特に霊的認識に導く器官に有害な作用を及ぼすからである。この規則を守らないと、修行は無駄になる。医者がアルコールを処方した場合は、例外とする。
 七、肉食は禁じられはしないが、肉食を避けることによって低次の人間本性との戦いが容易になる、ということに留意するように。食事には十分に気をつける。
 〈第二版〉
 一、朝、一定の時間(自分の健康と職務にとって可能な時刻)に、瞑想を行なう。食事前である。
 二、夜、眠るまえに一五分間の瞑想を行なう。思考を高次の自己に向け、静かに、表象のなかに一定の文章を思い浮かべるのである。そして、一日の体験と行動を逆の順序で振り返る。
 三、毎日、三〇分間、真面目な読書をする。
 四、ノートを用意し、瞑想したかどうかを毎日メモする。瞑想しなかった日は、その理由を記す。そうして、二週間ごとに確認する。
 五、飲酒しない(医者がアルコールを処方した場合は例外とする)。アルコールは脳、特に精神生活を形成する器官に有害な作用を及ぼす。肉食は禁じられはしないが、肉食を避けることによって低次の人間本性との戦いが容易になるので、肉食を避けるのはよいことである、ということに留意するように。
Zur Geschichte und aus den Inhalten der ersten Abteilung der Esoterischen Schule

26 いくつかの注意点
 感情・思考・気分の育成以前、心魂と精神は未分節の塊である。透視者はその塊を、たがいに絡み合う螺旋状の霧の渦として知覚する。その渦は、特に赤・赤茶あるいは橙色に鈍くほのかに輝くように感じられる。育成ののちは、その塊は黄緑・青緑色のように霊的に輝きはじめ、規則的な構造を示しはじめる。
 忍耐を特に育成するよう努めねばならない。性急さは、人間のなかに微睡む高次の能力を萎えさせ、押し殺すように働く。
 「確かに、心魂と精神を育成するために、私はあらゆることを行なわねばならない。しかし私は、一定の霊的照明を得るにふさわしいと高次の諸力に認められるまで、静かに待つだろう」。この考えが人間のなかで力強くなって、性向へと形成されると、人間は正しい道の上にいる。まなざしは落着き、動きは確かになり、決断が定まり、神経質と言われるものすべてが人間から次第に退く。
 忍耐は、高次の知の宝を引き寄せる作用をする。性急さは、その宝を突き放す働きをする。慌ただしさと動揺のなかでは、存在の高次領域に達することができない。なによりも要求と欲望を沈黙させねばならない。それらの心魂の特性を前にすると、高次の知すべてが退く。高次の認識がいかに価値あるものであっても、その認識を手に入れることを要求してはならない。自分自身のために認識を欲する者は、決してその認識にいたらない。
 自分自身について思い違いしてはならない。自分の誤り・弱点・無能さを、内的な正直さで直視しなければならない。--君が自分の弱点を弁解するとき、君は自分を高みに導く道の上に石を置いている。そのような石は、自己啓蒙をとおしてのみ取り除ける。自分の誤りと弱点を取り去る道は一つしかない。それは、その誤り・弱点を正しく認識することである。
 私が怒ったり、腹を立てると、私は心魂界のなかで自分のまわりに壁を立て、私の心眼を発展させるべき力が私に近づけなくなる。
 たとえば、だれかが私に何かを話し、私が返事をするとき、私はその話題について言うべきことよりも、相手の意見、感情、偏見にさえも敬意を払うように努めねばならない。
 相手の意見に自分の意見を提示するとき、それが相手にとってどれほど意味があるかについて判断できねばならない。
 厳しさは、君の心眼を目覚めさせる心魂的形象を君のまわりから追い払う。温和さは妨げを君から取り除き、君の器官を開く。
Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten?

27 六つの基本行(その一)-思考の行と意志の行
 精神発展の基盤とならねばならない条件について、これから述べる。これから述べる条件を満たさずに、なんらかの方策によって外的な生活もしくは内面のいとなみを発展できる、と考えるべきではない。これから述べる条件に沿って生活に規則を与えないと、瞑想や集中その他の修行は無価値になる。それどころか、ある意味で有害にさえなる。
 最初の条件は、完全に明瞭な思考を身に付けることだ。この目的のために、一日のごく短い時間、五分間だけでも-長ければ長いほどよいのだが-思考内容の揺らぎから離れなくてはならない。自分の思考世界の主導権を握らねばならない。もし外的な状況・職業・伝統・社会状況・民族性・業務などが、何をどのように考えるかに影響を与えるなら、その人が思考の主導権を握っているとは言えない。
 一日五分間だけでも、まったく自由な意志によって、通常の日常的な思考内容を心魂から取り除く。そして、自分の発意によって、思考内容を自分の心魂の中心に据えなくてはならない。特別に興味深い思考内容でなくてはならない、と思う必要はない。それどころか、初めにできるだけ面白くない無意味な思考内容を選ぶように努めると、精神に関しては大きな成果が得られる。そのようにすると、独立した思考の力が刺激される。一方、興味深い思考内容の場合、人はその思考内容自体に夢中になる。
 「いま私はこの思考内容から出発する。そして私自身の発意によって、その思考内容と結び付くものを、事実に即して並べていく」と思うのである。その思考内容は初めから終わりまで、いきいきと心魂を通過していくべきである。
 この練習を毎日、少なくとも一ヶ月間やりとおす。毎日、新しい思考内容に取り組んでもよいし、一つの思考内容に何日も取り組むこともできる。
 通常の生活では決して行なわないような行為を考え出す。そして、その行為を毎日行なうのを義務にする。毎日、可能なかぎり長い時間をかけて遂行される行為を選ぶとよいだろう。
 無意味な行為を、自分の義務として試みるのである。例えば、一日の決まった時刻に、買ってきた花に水をやる。しばらく経ったら、その行為に第二の行為を付け加えるべきだ。さらに後には、第三の行為を付け加える。
 二か月目に意志の訓練を行なっているあいだ、できるかぎり思考の訓練も義務とすべきである。
Aus den Inhalten der esoterischen Schule

28 六つの基本行(その二)-感情の行・肯定的態度・信頼の行
 三ヶ月目は、楽しみと苦悩、喜びと苦痛に直面して生じる動揺に対して平静でいる、という新しい訓練を生活の中心に据える。天に昇るような歓喜と死ぬほどの憂愁に代わって、冷静な気分を保つべきなのである。喜びを抑制でき、苦痛に打ちのめされず、度外れの怒りに狂わず、期待や不安や恐れに圧倒されず、どんな状況でも取り乱さないようにする。
 そのような訓練は自分を味気なくし、生気を乏しくするのではないか、と恐れることはない。この訓練によって、浄化された心魂の特性が現われるのに、まもなく気づくだろう。なによりも、繊細な注意力によって、身体のなかに内的なやすらぎを感じることができるようになる。
 四ヶ月目には、新しい訓練として、肯定的な態度の練習を始めるべきである。あらゆる経験・存在・事物に対して、それらの良いところ、優れたところ、美しいところを探し出す練習である。
 秘教の学徒はあらゆる現象、あらゆる存在のなかに肯定的なものを探そうと努めなくてはならない。そうすると、醜い覆いの下に美しいものが隠されていたり、罪悪の覆いの下に善が隠されていたり、狂気の覆いの下に神的な心魂が隠されているのを認めるようになるだろう。
 愛情を持って、見知らぬ現象、あるいは見知らぬ存在のなかに自己移入してみる。そして、「この人は、どのようにしてこうなったのか。どのようにして、こうするにいたったのか」と思ってみる。このような見方をすると、不完全なものを単に非難したり批判したりするよりも、その人を助けようと努めるようになる。
 一ヶ月間、あらゆる経験に際して、肯定的な側面に意識的に目を向けるようにする。そうすると、自分の表皮が透明になって、以前はまったく注意しなかった、秘密の精妙な経過に心魂が開かれるような感情が内面に生じてくるのに気づくだろう。
 五ヶ月目には、新しい経験に対して、先入観にとらわれずに立ち向かうようにする。「そんなことは聞いたことがない。そんなものは見たことがない。そんなことは信じない。それは間違いだ」と言うとき、何が私たちに生じるのだろうか。このような心魂のあり方を、秘教の徒は捨てなくてはならない。いかなる瞬間にも、まったく新しい経験を受け入れる用意ができていなくてはならない。いままで理に適っているいると認識したもの、ありうべきここと思われたことが、新しい真実を受け入れるときに束縛になってはいけない。
 六ヶ月目には、五つの訓練すべてを組織的・規則的に交替に繰り返して行なう。そのようにして、心魂の美しい均衡が形成されていく。
Aus den Inhalten der esoterischen Schule

29 八正道
 土曜日-思考に注意を払い、意味のあることのみを考える。自分の思考のなかで、本質的なものと非本質的なもの、真理と単なる意見を区別する。人の話を聞くときには、内面を静寂にして、思考と感情のなかで賛意と、特に否定的な判断・批判を断つ。
 日曜日-どのような些細なことがらでも、十分に根拠のある熟慮を経た上で決定する。思慮を欠いた行為、意味のない行為はすべて心魂から遠ざける。すべてに対して、熟慮を経た根拠を有するようにする。意味深い根拠のないことは中止する。そして、沈着に決意し、確信したことは堅固に保つ。共感と反感から独立した正しい判断を行なう。
 月曜日-意味のあることのみを語る。単なる談話は避ける。人と話をするとき、言葉の一つ一つを思慮深く、あらゆる角度から熟慮して受け答えする。けっして根拠なしに語らない。根拠のない言葉を発するよりは沈黙を守る。言葉が多すぎもせず、少なすぎもしないようにして、人の話を静かに傾聴し、消化するのである。
 火曜日-自分の行為が人を妨げることのないようにする。良心から行為するとき、いかにすれば全体の幸福、永遠のものに最も適した機会をつかめるかを入念に考える。行為するまえに、自分の行為がおよぼす作用を徹底的に考える。
 水曜日-自然と精神とに適った生活を送る。外面的な些事に没入せず、不安や慌ただしさをもたらすものを避ける。急いで軽率なことをせず、また、不精にならない。人生を高い目的にいたるための手段と見なし、それに適った行為をする。
 木曜日-自分の力でできることをなおざりにしない。日常的な無常なものの彼方を見て、人間の最高の義務を理想として持つ。
 金曜日-人生から可能なかぎり多くを学ぶ。なにごとも人生に有益な経験を与える機会なしに過ぎ去らせない。失敗して、なにかを不完全にしかできなかったら、それを今度は正しく、完全に行なうためのきっかけにする。決意と実行の助けとなる体験を振り返ることなしには、なにごとも行なわない。
 毎日-おなじ時刻に自分の内面を静観する。自己のなかに沈潜し、自己と語り合い、人生の原則を確認する。
Anweisungen fuer eine esoterische Schulung

30 東洋の修行法
 導師が与える指示は、つぎの八つのグループに分けることができる。
 禁戒・勧戒・坐法・調息・制感・凝念・禅定・三昧。
 禁戒は、瑜伽の修行を行なおうとする者がしてはならないことすべてを指す。「嘘をつかない。殺さない。盗まない。飲酒しない。欲望しない」という掟である。
 「殺さない」という要求は非常に厳しいもので、あらゆる存在に対して要求される。どのような生きものも殺したり、害したりしてはならない。南京虫一匹殺しても、精神的な発展は妨げられる。
 アストラル界では、嘘をつくことは殺すことと同じである。だから、「嘘をつかない」は「殺さない」と同じことになる。
 私が他の人の労働力を不当に搾取して利益を得ていたら、それが法律的には許されていても、盗みを働いていることになる。
 財産を持っていて、それを銀行に貯金しているとしてみよう。そうすることによって、他人を搾取するようなことは何もしていない。しかし、銀行家は投資し、私たちの金銭を使って他人から搾取する。霊的な意味では、この搾取に対して私たちにも責任があることになる。
 「飲酒しない」という要求も、同様に込み入っている。たとえば、自分の資本を酒造業者に投資ていたら、その人は酒造業者と同じ罪を負う。
 特に難しいのは「欲望しない」ことである。世界のいかなるものに対しても欲望を持たず、ただ外界が私たちに要求することのみを行なう。だれかに親切なことをするなら、そのときに感じる快感を抑制しなければならない。
 勧戒は、宗教的な慣習を守ることである。
 坐法は、瞑想するときの姿勢の取り方を意味している。これは、東洋人にとってはヨーロッパ人にとってよりもずっと重要なことである。ヨーロッパ人の身体は、精妙な流れに対して、もはやあまり敏感ではなくなっているからである。東洋人の身体はまだ繊細で、東から西へ、北から南へ、上から下へと流れる流れを容易に感じ取る。
 調息は呼吸、瑜伽の呼吸である。
Vor dem Tore der Theosophie

31 東洋の修行法(つづき)
 「制感」は、感覚的な知覚を抑制することである。日常的な生活を送っている人間は、ある印象を受けるかと思えば、また違う印象へと、絶えず移っていく。あらゆる印象が自分に働きかけるがままにさせている。弟子に対して導師は、「何分かのあいだ、一つの感覚的印象にとどまり、ほかの印象に移行しないようにしなさい」と語る。
 「凝念」が、つぎにくる。制感の修行を行なうと、つぎには、どのような感覚的印象に対しても目を閉じることができるようにならねばならない。あらゆる感覚的印象から目をそらし、表象として残ったものだけを思考のなかにしっかり留めなければならない。このように、表象のなかだけに生き、思考をコントロールし、自由意思によってのみ、ある表象から別の表象を並べていくようにすると、それが凝念の状態である。
 「禅定」が続く。ヨーロッパ人が知ろうともしない表象、感覚的印象に由来せず自分で作り出さねばならない表象がある。たとえば、数学的な表象である。本当の三角形というものは、外界には存在しない。本当の三角形は、考えることができるだけである。象徴的な表象、たとえば、六芒星形・五芒星形である。弟子はこのような、感覚界には存在しない象徴図形に精神を集中させる。ほかの表象、たとえば「ライオン」という属を表象することもある。「ライオン」という属も、考えることができるだけである。このような表象に弟子は注意を向けなければならない。
 感覚的な対応物がない表象を瞑想することを、禅定というのである。
 「三昧」は最も困難なものである。長期にわたって、感覚的な対応物のない表象のなかに沈潜し、そのなかに精神をやすらわせ、その表象で心を満たす。そうして、その表象を消し去り、意識のなかには何もないようにする。しかし、普通の人間のように眠りこんではならない。意識をしっかりと保っていなければならない。この状態のなかで、高次の世界の秘密があらわになりはじめる。この状態を、つぎのように言い表わすことができる。思考内容を持たない思考が残る。意識を持っているので、考えるのだが、思考内容はない。このことをとおして、霊的な諸力はその内容を、この思考のなかに注ぎ込めるのである。自分の考えで満たされているかぎり、霊的な諸力は入ってくることができない。思考内容のない思考活動を意識のなかに長く保っていればいるほど、超感覚的な世界は自らを開示する。
Vor dem Tore der Theosophie



シュタイナー語録88(その5)

2011-01-26 18:43:16 | Weblog
32 静観と逆観
 思考と感受を支配して、完全に内的に静かな時間を作る力を心魂が獲得し、その時間のなかでは日常的な外的生活の幸福と苦悩、満足と心痛、さらには課題と要求をもたらすものすべてを、精神と心魂から遠ざけねばならない。
 そのような時間に、個人的な要件から完全に離れ、自分に関することではなく、人間一般に関することへと思考を高めることができれば、大きな価値がある。高次の世界からの伝達で心魂を満たし、その伝達が個人的な憂慮や要件と同じように自分の興味を引き付けるなら、心魂は特別な成果を得るだろう。
 このような方法で、規則正しく心魂のいとなみに介入しようと努める者は、自分の要件をあたかも他人の要件であるかのように冷静に見る自己認識にいたる。自分の体験、自分の喜びと悲しみを、他人の体験のように見なすのは、精神修行のよい準備になる。毎日、仕事のあとで、昼間の体験のイメージを精神のまえに通過させると、このような自己観察が可能になってくる。
 つまり、昼間の生活における自分を、外から眺めるのである。
 昼間の体験を逆の順序で(夜から朝へと)回顧することは、霊的修行にとって特別の価値を持っている。この訓練によって心魂は、感覚的な出来事の経過のみを思考によって追っていた習慣から表象において離れることができるようになる。逆方向の思考・表象においては、感覚的な経過に捕えられることはない。そのような思考が、超感覚的世界に精通するために必要なのである。こうして、表象が健全な方法で強められる。
 自分に向かってくる人生の出来事を、内的な確かさと心の落ち着きをもって到来させ、その出来事を自分の心の状態によって判断するのではなく、その出来事の内的な意味と内的な価値によって判断することが修行者の理想になる。
 二重の意味で、超感覚的体験は精神界参入以前に立脚していた心魂の出発点に依存している。健全な判断力を精神修行の基盤にしようとしない者は、霊的世界を不正確かつ誤って知覚するような超感覚的能力を発展させることになる。
 不道徳な心魂の状態をもって霊的世界に上昇すると、霊視はぼんやりした、朦朧としたものになる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

33 薔薇十字の瞑想
 ある植物がどのように地に根付き、どのように葉が出ていくか、どのように花が開くかを表象する。この植物のかたわらに、一人の人間を表象する。いかに人間は植物より完全な特性と能力を持っているか、と心魂のなかで生きいきと考える。植物が地面に縛り付けられているのに対して、いかに人間は自分の感情と意志に従ってあちらこちらへと動くことができるか、考えてみるとよい。たしかに、人間は植物よりも完全である。しかし人間は、植物には見られない或る特性を持っており、植物はそのような特性を持っていないことによって人間よりも完全だ、と思われる。人間は欲望と情念に満たされている。人間は行動するとき、そのような欲望や情熱に従っている。植物は純粋な生長の法則に従って葉を出し、花を無垢に、清らかな太陽光線に開いている。「人間は或る点で、植物より完全である。しかし人間は、純粋な植物の力に、自分の本質のなかで衝動・欲望・情念を付け加えることによって、その完全さを手に入れたのである」と言うことができる。緑色の樹液が植物のなかを流れている。それは純粋無垢な生長法則の表現である、と表象する。赤い血液が人間の血管を流れている。それは衝動・欲望・情念を表現している、と表象する。
 ついで、いかに人間には進化の可能性があるかを表象する。いかに人間は自分の衝動や情念を、自分の高次の心魂の能力によって浄化・純化できるかを表象する。そのようにして、いかにこの衝動・情念のなかの低次のものが根絶され、いかにそれが高次の段階で再生するかを考えてみる。そうすると、血は純化・浄化された衝動と情念を表現するものとして表象されるだろう。ここで、精神のなかで薔薇を見て、「赤い薔薇の花びらのなかで、緑の樹液の色が赤に変化しているのを、私は見る。赤い薔薇は、緑の葉のように純粋で、無垢な生長の法則に従っている」と思う。薔薇の赤色は、低次のものを排除し、その純粋さにおいて赤い薔薇のなかに働く力に等しい純化された衝動と情念を表現する血の象徴になるだろう。
 生長する植物の純粋さと清らかさを表象するとき、私は至福を感じることができる。ある種の高次の完全性には、いかに衝動や情念を得ることによって到達しなければならなかったかという感情を、私は自分のなかに作り出すことができる。まえに感じた至福は、厳粛な感情に変化する。ついで薔薇の赤い液のように、純粋な内的体験の担い手になりうる赤い血についての思考に没頭するとき、解放的な幸福感が私のなかに呼び起される。
 黒い十字架を表象する。この十字架は、根絶された低次の衝動と情念の象徴である。十字架の木が交差するところに、七つの赤く輝く薔薇が円環状に並んでいる。これらの薔薇は、純化・浄化された情念と衝動を表現する。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

34 瞑想体験の意味
 あるイメージに集中することをとおして、心魂は通常の生活や通常の認識に使うよりもずっと強い力をみずからの深みから取り出してこなければならない。こうして、心魂の内的活動は強められる。心魂は、眠っているときに身体から離れるように、瞑想中も身体から離れる。しかし、眠っているときは心魂は無意識になるが、瞑想中は今まで体験しなかった世界を体験するのである。
 薔薇十字の象徴像は、もちろん、まだ精神界の現実に関連するものではない。その象徴像は、人間の心魂を感覚的知覚から、そして悟性に結び付いている脳から解き放つのに役立つものである。
 修行の道において人間が最初に体験するのは、物質体の器官からの解放である。「感覚的知覚と通常の悟性を顧みなくても、私の意識は消え去りはしない。私は物質体の器官から抜け出て、以前の私のかたわらに自分を感じる」と、修行者は思うことができる。最初の純粋に精神的な体験は、心魂的・精神的な個我存在を観察することである。この個我存在が、新しい自己として、たんに物質的感覚と物質的悟性に結び付いた自己から抜け出る。
 自己教育によってこの地点にいたった心魂が、いま述べた修行の結果現われるイメージ世界(イマジネーション)のなかで、まず自らを知覚することについて、はっきりした意識を持っていることが、霊的な修行にとって非常に重要である。イメージは、生きたものとして新しい世界に現われる。しかし心魂は、そのイメージが、修行をとおして強められた自分自身の本質が反射したものであることを認識しなければならない。そして心魂は、このことを単に正しく判断して認識するだけではなく、そのイメージをいつでも意識から遠ざけ、消し去ることができる意志を形成しなければならない。心魂は、このイメージのなかで、完全に自由で、完全に平静に活動できねばならない。
 イメージを消し去ったところに、霊的現実を認識させるものが入ってくる。
 表象を保ったあと、感覚的な外界の刺激を心魂に受けることなしに、イマジネーション表象を意識から消し去った状態にとどまることができなくてはならない。
 霊的観照を用意する瞑想表象を意識から遠ざけたとき、精神的・心魂的な観察にいたることができる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

35 インスピレーション
 イマジネーション界は動揺の世界である。いたるところに動き・変化がある。
 イマジネーション認識段階から「インスピレーションによる認識」と呼ぶことのできる認識へと発展したとき、人間は静止点に達する。
 イマジネーションをとおして、修行者は存在の心魂的表明を認識する。インスピレーションをとおして、修行者はその存在の霊的内面へと入っていく。
 インスピレーション認識なしには、イマジネーション界は、見ることはできるが読むことのできない文字のようなものにとどまる。
 インスピレーション認識をとおして、修行者は高次の世界の諸存在間の関係を認識する。さらなる認識段階をとおして、それらの存在の内面そのものを認識することが可能になる。その認識段階は、インテュイション認識と名づけられる。
 感覚存在を認識するというのは、その外部に立って、外的な印象にしたがって判断することである。精神存在をインテュイションをとおして認識するのは、その精神存在と完全に一体になり、その内面と結び付くことである。
 修行者が、感覚的・現実的事物としての黒い十字架と赤い薔薇を意識からまったく消し去り、それらの部分を組み合わせている精神の活動のみを心魂のなかに保つように試みると、しだいにインスピレーションへと導いていく瞑想の手段を得たことになる。心のなかで「十字架と薔薇を象徴像へと結合するために、私は内的に何をしたのか。私が行なったこと(私自身の心魂の経過)を、私はしっかり保とう。しかし、イメージそのものは意識から消し去ろう。そのイメージを成立させるために私の心魂が行なったことを、私のなかに感じよう。しかし、イメージそのものを、私は表象しようとしない。このイメージを創造した私の自身の活動のなかに、まったく内的に生きようと思う」と、心のなかで考えてみるとよい。
 インテュイションへの修行は、修行者がイマジネーション獲得のために没頭したイメージのみを消去するのではなく、インスピレーション獲得のために沈潜した自分自身の心魂の活動のなかに生きることもなくすよう要求する。修行者は、以前に知った外的体験・内的体験の何ものをも心のなかに有してはならない。
 心魂が内的体験と外的体験を捨て去ったとき、意識が空にはならず、それらの体験を捨て去ったあと、何かが作用として意識のなかに残るときが、いつかやってくる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

36 イメージ世界と自己認識
 感覚界の植物は、その植物について人間がどのように感じ、どのように考えようと、そのままの姿にとどまる。心魂的・精神的世界のイメージは、それらのイメージを人間がどのように感じ、考えるかによって変化する。そのことをとおして、人間は自分自身に基因する特質をそれらのイメージに与えるのである。イマジネーション界で何らかのイメージが自分のまえに現われたと考えてみよう。そのイメージに自分が無関心だと、そのイメージは一定の姿を示している。そのイメージに対して、快感や不快感を感じた瞬間、そのイメージは姿を変える。イメージは修行者の外部にあるものを表現するだけではない。イメージは修行者自身のなかに存在するものも反射するのである。イメージは修行者自身の本質に浸透されている。修行者自身の本質が、ベールのように諸存在を覆っている。たとえ現実の存在が自分のまえに現われていても、修行者はその存在ではなく、自分が作り出したものを見るのである。
 修行者が有するものすべてが、心魂的・精神的世界に働きかける。たとえば、教育や性格によって表面に出ることが抑えられている、隠れた傾向を人間が持っていることがある。それらの傾向は精神的・心魂的世界に作用する。
 修行のこの段階からさらに進歩できるために、修行者は自分と霊的な外界を区別することを学ばねばならない。修行者は自己の作用すべてを自分の周囲の心魂的・精神的世界から取り除くことを学ぶ必要がある。自分が新しい世界に持ち込むものすべてについての認識を獲得しておく以外に方法はない。最初に正しい、徹底的な自己認識を有することによって、周囲の精神的・心魂的な世界を純粋に知覚することができるのである。そのような自己認識が、高次の世界への参入に際して自然に生じることになっている。それは、人間の進化の或る事実に必然的に伴うことである。人間は通常の物質的・感覚的世界で個我・自己意識を発展させる。個我は人間に属するものすべてを引き付ける中心点のように作用する。性癖・共感・反感・情熱・意見などが個我のまわりに集まる。また、この個我が人間のカルマを引き寄せる中心である。この個我をあらわに見たら、個我が前世でどのように生き、どのようなものを習得したかにしたがって決定された運命に、個我は現世・来世でも出合わねばならない、ということに気づく。心魂的・精神的世界のなかへと上昇するとき、そのように個我に付着するものすべてを伴って、個我は最初の像として修行者の心魂のまえに現われねばならない。霊的世界の法則によって、人間のドッペルゲンガーが霊的世界の最初の印象として現われる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

37 いかにして前世を認識するか
 第一歩は、通常の自己認識を訓練することである。自分の人生を振り返ってみて、つぎのように問うのだ。「そもそも、私はどんな人間であったか。私は内的に熟考する傾向のある人間であったか。それとも、たえず外界の刺激を愛し、あれこれのことが気に入ったり、気に入らなかったりした人間であったか。学校では、国語は好きだったが、算数は嫌いな生徒だったか。ほかの子どもをよく殴ったが、自分は殴られないようにしていた生徒だったか。あるいは、自分が損ばかりしていて、ほかの子どもに損をさせるような要領のいい子どもではなかったか」。
 このように自分の人生を振り返り、つぎのように自問する。「知的、心情的・気分的、あるいは意志衝動において、自分には特にどのような素質があったか。どのようなことが自分は得意で、どのようなことが苦手だったか。何から逃げ去りたいと思っていたか。『そんなふうになったのは私には正しいことであった』と言えるのは、どんなことか」。
 そのように自分の人生を振り返るのは、自分の精神的・心魂的本質を親密に認識するためによいことである。とくに、自分が本来望まなかったことを、明瞭に心魂に思い浮かべるのである。
 そのように過去を振り返ってみることによって、「何を望まなかったか。何から逃れたいと思ったか」などを明らかにするのである。それが明らかになると、自分が最も気に入らなかったものをイメージできる。過去において自分が最も望まなかったものを取り出してくることが大事なのである。
 そして、つぎのような非常に奇妙な表象に没入しなければならない。「本来、望まなかったものを精力的に意志し、願望する」のである。つまり、「本来、望まなかったもの、嫌だったものを、激しく望んでいるかのように」精力的に心魂に思い浮かべるのである。
 いまある自分とは反対のイメージを思い浮かべると、「いまの人生では自分の姿として理解するのが困難なこのイメージが、自分に関わりがあるのだ。そのことは否定できない。このイメージを思い浮かべると、このイメージが自分の心魂のまえに漂い、結晶化していく。そうして、『このイメージは私に関わるものだ。だが、いまの人生に関わるものではない』ということが分かってくる」と言うことができる。
 「私が自分の意志に反してなったもののなかで、最も素質がないものを切実に望み、欲するようにしてみると、そこから得られる表象が自分の前世の像を形成する」と言うことができる。
Wiederverkoerperung und Karma

38 光の瞑想
 イマジネーション認識に参入すると、人間の内面生活は通常の意識とは異なった形態をとる。人間と宇宙との関係も変化する。
 容易に全体を見渡せる表象の複合に心魂の力のすべてを集中することによって、この変化が生じる。行法は容易に全体を見渡せるものでなくてはならない。瞑想のなかへは無意識な経過が一つでも入り込んではならない。瞑想のなかでは、すべてがもっぱら心魂的・精神的に進行しなければならない。数学の問題を解いている人は、もっぱら心魂的・精神的にその問題に取り組んでいるといえる。無意識的な、感情および意志の影響が入り込む余地はない。瞑想中も、そのようでなければならない。心魂的・精神的な集中状態に、記憶から取り出した表象を据えると、意識のなかにどれほど多くの身体的・本能的、そして無意識的・心魂的なものが入り込むかしれない。表象への静かな集中に、心魂の活動が入り込むことになるのである。
 それゆえ、瞑想の対象として、自分の心魂にとってまったく新しいものを選ぶのが最良である。精神界を熟知した師の助言を受け入れることによって、瞑想はあらゆる結果を顧慮したものになる。非常に単純で、いままで人が考えたことのないような瞑想の対象を、師は与える。瞑想の対象に、いままでに自分が経験したことがらや、感覚界のものごとに相応するようなものが入り込んではならない。外界にまったく依存しない象徴的な表象、たとえば、
「光のなかに叡智が流れつつ生きている」
という表象を把握するのである。このような表象複合に集中することが大切である。このような静寂のうちの集中によって、ちょうど仕事をすることで筋肉が鍛えられるように、精神的・心魂的諸力が強められる。一回の瞑想の時間は短くてよいが、成果が現われるまでには、長期にわたって何度も繰り返し瞑想しなければならない。数週間後には成果が現われはじめる人もいるし、何年も経ったあとで初めて成果が現われる人もいる。真の霊性探求者たろうと欲する者は、このような修行を厳密に系統立てて、集中的に行なわねばならない。
 性格を強め、内的誠実、平静な心魂のいとなみ、十分な思慮を得るように修練することは瞑想の助けとなる。このような特性が浸透して初めて、心魂は瞑想をとおして自らを徐々に人体組織全体に刻印づけていくのである。
Kosmologie, Religion und Philosophie

39 朝夕の瞑想詩
 朝 - 太陽の光が、
    暗い夜のあとに、
    一日を明るくする。
    魂の力が、
    眠りのやすらぎから
    目覚める。
    私の魂よ、
    光に感謝せよ。
    光のなかに、
    神の力が輝く。
    私の魂よ、
    勤勉に行為せよ。
 夕 - 美に感嘆し、
    真を保護し、
    高貴を尊敬し、
    善を意志する。
    それは人間を、
    人生のなかで目的へ、
    行為のなかで正義へ、
    感情のなかで平和へ、
    思考のなかで光へと導く。
    そして、存在するあらゆるもののなか、
    宇宙のなか
    魂の根底のなかで、
    神の支配を
    信頼せよと教える。
Wahrspruchworte

40 朝のマントラ
 「光の純粋な輝きのなかに、
 宇宙の神性が煌めいている。
 あらゆる存在に対する愛のなかに、
 私の魂の神性が輝く。
 私は宇宙の神性のなかにやすらう。
 宇宙の神性のなかに、
 私は自分自身を見出す」
 朝、目覚めてすぐ、他の印象が入ってこないうちに、内面を完全に静寂にする。外的な印象や思い出を排除し、苦悩や心配事から心魂を自由にする。そうして、右の朝のマントラが五分間、意識のなかに生きるようにする。
 「光の純粋な輝きのなかに、
 宇宙の神性が煌めいている」
という言葉を唱えるとき、銀色に輝く月の光のように神性が外界に注ぐのをイメージする。自分がその光に浸透され、自分のまわりにその光が流れているようにイメージする。
 「あらゆる存在に対する愛のなかに、
 私の魂の神性が輝く」
という言葉を唱えるとき、つぎのようにイメージする。外界に神性を認識しようと外界に赴いたあと、自分の内面に戻る。自分をあらゆる存在に結び付ける愛をとおして、神性とのつながりを見出し、自分自身の魂の神性を感じる。
 「私は宇宙の神性のなかにやすらう」
という言葉を唱えるとき、神性とのつながりを感じることによって、自分の内面に安らぎと平和を見出す。安らぎが自分のまわりにあり、自分に浸透する。
 「宇宙の神性のなかに、
 私は自分自身を見出す」
という言葉を唱えるとき、輝きを発する火花が、遠くから自分に光を放ち、自分はその光に向かう、とイメージする。その光のなか、神性のふところのなかに自分を見出すのである。
Aus den Inhalten der esoterischen Schule

41 朝晩の瞑想
朝「霊のきらめく、波打つ海の、
 光り輝く形象たちよ、
 お前たちから魂は離れる。
 神性のなかに魂は滞在し、
 神性のなかに魂は安らいだ。
 存在の覆いの領域に、
 私の個我は意識的に歩み入る」
夜「私の個我は意識的に、
 存在の覆いの領域から出て行き、
 宇宙の本質のなかに安らう。
 神性のなかへと個我は向かう。
 魂よ、この領域にいたれ。
 光り輝く形象たちの、
 霊のきらめく、波打つ海に」
 「霊のきらめく、波打つ海の、光り輝く形象たちよ」という言葉を唱えるとき、光の海をイメージする。その海のなかで、さまざまな形態が形成される。「お前たちから魂は離れる。神性のなかに魂は滞在し、神性のなかに魂は安らいだ」という言葉を唱えるとき、目覚めとともに心魂がこの光の海から浮上するのを感じる。「存在の覆いの領域に、私の個我は意識的に歩み入る」という言葉を唱えるとき、目覚めとともに身体という覆いのなかに入っていく、と考える。夜は、物質的・感覚的世界の印象から離れて、神的世界に入っていく。自分のまわりの空間、および自分のなかの空間が超感覚的な光に満たされている、とイメージする。さまざまな色に輝く光の海である。その光の海は、熱の流れに貫かれている。熱の流れの一つが自分の心のなかに流れてくる。光は神の叡智、熱は神の愛である。このように数分イメージしたあと、マントラを唱え、一日を逆に振り返る。
Aus den Inhalten der esoterischen Schule

42 夜と朝の瞑想
夜「宇宙の深みから、
 キリスト太陽が、
 昇ってくる。
 その光は霊である。
 その光は全てのなかに輝き、
 私のなかで霊化し、
 私の個我のなかに生きる」
朝「それは私の個我のなかに生きる。
 それは私のなかで霊化する。
 それは全てのなかで輝く。
 それは霊の光、
 それはキリスト太陽の光である。
 宇宙の深みから、
 キリスト太陽はやってくる」
 「宇宙の深みから、キリスト太陽が、昇ってくる」という言葉は、表象する。
 「その光は霊である」という言葉はは、表象しつつ感じるようにする。
 「その光は全てのなかに輝き、私のなかで霊化し、私の個我のなかに生きる」という言葉は、感じるようにする。
 「それは私の個我のなかに生きる。それは私のなかで霊化する。それは全てのなかで輝く」という言葉は、感じるようにする。
 「それは霊の光、それはキリスト太陽の光である」という言葉は、表象しつつ感じるようにする。
 「宇宙の深みから、キリスト太陽はやってくる」という言葉は、表象する。
Aus den Inhalten der esoterischen Schule

43 試練
 秘儀参入をとおして与えられる知識と能力を、人間は秘儀参入なしには遥かな未来に--幾度もの転生ののちに--まったく別の道で、まったく別の形で獲得できるだろう。秘儀に参入する者は、そうでなければ後にまったく異なった状況下で経験するものを、いま体験する。
 すでに今日だれかが秘儀に参入すれば、その人には、正規の進化の経過のなかで相応の秘密が伝えられるまで輪廻転生をとおして経験していくものが欠けているだろう。だから、秘儀参入の扉のところで、それらの経験が何か別のもので代替されねばならない。
 それが、修行者が体験しなければならない、いわゆる「試練」である。
 多くの人にとって通常の生活が、すでに多かれ少なかれ「火の試練」をとおした無意識な秘儀参入のプロセスである。豊かな経験をとおして自信・勇気・不屈さが健全な方法で増大し、苦痛・失望・失敗を心魂の偉大さによって、そして特に不屈の力で平静に耐えることを学んできたのである。
 修行者が秘密の文字を学んだら、さらなる試練が始まる。その試練をとおして、高次世界で自由かつ確実に動けるかどうかが明らかになる。
 この試練は「水の試練」と名づけられる。足が底に届かぬ水中での運動に際しては支えがないように、高次領域のなかでの活動においては外的な状況をとおした支えがないからだ。--志願者が完全な確実さを得るまで、この経過は繰り返されねばならない。
 人間はこの試練をとおして、自制心を形成する大量の機会を有する。それが大事なのである。秘儀参入以前に、人生をとおして自制心を獲得してきた人々には、この試練は容易になる。個人的な機嫌と恣意に左右されずに、高い原則と理想に従う能力を獲得した人、自分の傾向と感情が義務から逃れようとするときも、その義務を果たすことを心得ている人は、すでに通常の生活のただなかで無意識に秘儀に参入している。
 志願者がこのような方法で十分に前進すると、第三の試練が待っている。この試練においては、目的が感じられない。すべてが彼自身の手に置かれる。なにも自分を行動に促さない状態に彼はある。彼はまったく一人で、自分から道を見出さねばならない。彼を何かへと動かす事物や人物は存在しない。いまや、彼以外の何も、誰も、彼が必要とする力を彼に与えることはできない。この力を自分自身のなかに見出さないと、彼は以前に立っていた所にすぐ戻るだろう。
 この試練は、秘密の学院で「空気の試練」と呼ばれる。
Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten?

44 境域を見張る者
 精妙な体(アストラル体とエーテル体)の内部で意志・思考・感情を結ぶ糸が解けはじめると、人間は「境域の監視者」に出会う。
 「監視者」は次のような言葉で、自分の意義を語る。「いままで、君には見えなかった力が君を支配してきた。その力は、君の今までの人生の経過において、君の良い行ないには恩賞、悪い行ないには悪い結果を引き起こしてきた。その影響をとおして、君の性格が君の人生経験と思考から築かれてきた。
 カルマの諸力は、君の以前の行ない、君の隠れた考えと感情すべてを見てきた。そして、その諸力が、君が今どのようであり、今どう生きているかを決定している。
 しかし、いま、君の過去の人生の経過の良い面と悪い面すべてが、君に開示されるべきだ。それらは、いままで君自身の存在のなかに織り込まれていた。君は自分の脳を物質的に見ることができないように、それらの面を見ることができなかった。しかし、いま、それらは君から離れ、君の人格の外に出る。それらは独立した姿を受け取る。それを君は、外界の石や植物を見るように、見ることができる。--それが私なのだ。君の高貴な行ないと邪悪な行ないから、体が作られた存在だ。私の妖怪じみた姿は、君自身の人生の元帳から織られている。今まで、君は私を見ることなく自分の内に担ってきた。そうであったのは、君のために有益であった。君には隠された運命の叡智が、今まで、私の姿のなかの醜い汚れを消すために、君のなかで働いてきたからである。私が君から出た今、この隠れた叡智も君から退く。その叡智は今後、もはや君のことを構わないだろう。それは仕事を君の手に委ねるだろう。
 君が私の境界を越えたら、私の姿は一瞬たりとも君のそばから離れないだろう。君が今後、不正なことを行なったり考えたりしたら、私の姿が醜い悪鬼のように歪むのを見て、君は自分の罪をただちに知覚するだろう」
 修行者は共同体から出て行かなくてはならない。民族神霊・人種神霊固有の力を自分で身につけておかないと、個人として自分のなかに固まり、破滅に向かうだろう。
 闇から、境域の監視者のさらなる警告が響いてくる。「君自身が闇を照らし出せるのが明らかになる前に、私の境域を越えるな」。
 種族・民族・人種の神霊が、まったき姿を現わす。修行者は、いままで自分がどのように導かれてきたかを正確に見ると同時に、もはやその導きがなくなることが明らかになる。
Wie erlangt Erlenntnisse der hoeheren Welten?

シュタイナー語録88(その6)

2011-01-25 18:57:01 | Weblog
45 宇宙の転生
 人間が何度も繰り返し受肉してきたように、地球も輪廻転生を経てきており、これからも転生を続けていく。
 地球は今日の姿として再誕するまえに、三つの受肉を経てきたことが洞察できる。
 今日の地球となるまえの地球を、神秘学では「月」と名づけている。天文学でいう月ではない。今日の月は、不要なものとして投げ捨てられた残滓である。
 太陽は地球のもっと以前の状態から生じたものである。「月期」のまえ、地球は「太陽期」にあった。
 「太陽期」には「土星期」が先行している。地球は「土星期・太陽期・月期・地球期」と転生してきたのである。人間の祖先として土星期に進化の過程をたどっていた人々は、物質体原理しか有していなかった。太陽期にエーテル体、月期にアストラル体、地球期に個我を獲得してきたのである。
 地球期は前半に火星から決定的な影響を受け、後半に水星から重要な影響を受ける。
 将来、地球が転生する新しい惑星状態は「木星」と呼ばれる。「木星期」にいたると、アストラル体は現在よりも遥かに成熟して、今日のように物質体の敵ではなくなるが、まだ完成されるわけではない。現在の物質体のように完成されるのはエーテル体である。
 アストラル体が今日の物質体のように完成するのは、月期・地球期・木星期の進化を体験して、「金星期」にいたったときである。地球の最後の受肉状態「ウルカヌス星期」において、個我は最高の進化段階に達する。地球の未来の受肉状態は、「木星・金星・ウルカヌス星」である。
 朦朧としたものではあっても、宇宙の全知を開示するような意識を、人間はかつて土星期において有していた。この意識状態は、深いトランス意識と呼ばれる。私たちの周囲には、今日でもこの意識を持つものが存在する。鉱物である。
 第二の意識状態は、私たちの知っている通常の眠りの状態である。この眠りの意識を、地球が太陽期にあったころの人間はずっと有していた。太陽期の人間は絶え間なく眠っていたのである。今日でも、植物はこの眠りの意識を有している。
 第三の意識状態、形象意識について、私たちはかなり明瞭な概念を持っている。ひとつの痕跡でしかないが、私たちは夢のある眠りのなかで、月期の人間が有した意識の余韻を体験しているのである。
Die Theosophie des Rosenkreuzers

46 土星
 「土星」には、土・水・空気を見出すことはできない。ただ、熱あるいは火のみが存在していた。
 今日地球上に存在するものすべてのうちで、「土星」にはただ人間のみが存在した。鉱物界・植物界・動物界は存在しなかった。
 植物は深く眠った存在である。もっと深い眠りの状態を考えてみよう。深い昏睡意識である。それが「土星」意識である。
 「土星」上の人間の意識は、このようなものであった。「土星」自体は無意識な存在である。というより、全宇宙の鏡像を内に担い、それを描くことができるような低次の意識を有していた。
 人間は「土星」では、一種の鉱物であった。人間は鉱物のような意識を持っていた。人体のなかには、今日では人間段階よりもずっと上位の崇高な存在たちが住んでいた。権天使つまりアルカイ=人格の神霊たちである。彼らは「土星」で人間段階を通過した。
 彼らは宇宙に対峙し、人間段階を体験し、個我意識を獲得するために物質的な人体を使用したのである。
 最初の段階ではまだ物質的な熱はなく、物質的な熱が用意されていた、とイメージしなければならない。ただ心魂的なもの、心魂的な熱が存在したのである。「土星」進化の中期に、初めて物質的な人体が物質的な熱質量から形成されて、存在した。
 ここで、「人体を形成した実質はどこから来たのか」と問うことにしよう。高次の神霊的な存在たちが、みずからの本質を物質的な人体のための素材として流出したのである。みずからの本質を流出するという供犠の行為を果たしたのは、意志の神霊たち、すなわちトローネである。「土星」で、意志の神霊たち=トローネが人体に実質を与えた。ついで、人格の神霊たちが人体に住んで、人間段階を通過した。人間は物質的萌芽として存在していた。「土星」進化は、始まりと頂点と引き潮を経ていく、とイメージしなければならない。そのあと、全体はプララヤを通過していく。
 惑星進化の道は螺旋状に上昇していく。インドの神智学は、可視状態をマンヴァンタラと名づけている。惑星も植物と同様に、開示された状態と隠された状態を通過していく。隠された状態は、宇宙の眠りと呼ばれる。
Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

47 太陽
 「土星」の宇宙の眠りのあと、「土星」が闇から新しい、変化した形態のなかにふたたび出現したとき、そこに生まれたのは「太陽」であった。「土星」と「太陽」の違いは、「太陽」の中期状態において、「土星」の熱実質が空気・気体状態へと濃縮したことである。「太陽」は熱を保持し、そのほかに空気を発展させた。「太陽」には、いまや熱と空気がある。また、そのほかに、「太陽」に光が発生する。「土星」は暗い熱からなっていた。第二の惑星「太陽」は、光・熱エーテル・空気からなっている。
 かつて「土星」で、物質的な人体の萌芽が発生した。いま「太陽」で、新しいものが付け加わる。神霊的な存在たちから、エーテル体が注ぎ込まれるのである。第二の惑星状態において、人間は植物の段階に達したのである。人間のなかに生命が存在する。エーテル体が組み入れられたことによって、人間の物質体も変化した。人間の物質体は「土星期」の卵の形を保持せず、分節していく。人間の物質体は、いまや振動する熱卵であり、その熱卵は光の構成体のなかで輝いたり消えたりする。そして、エーテル体が物質体に手を加える。
 「土星」ではトローネが物質体の素材を自分から注ぎ出したが、いま自らの実質を大きな供犠として注ぎ出すのは他の存在たちである。叡智の神霊たち、すなわち主天使=キュリオテテスである。
 「太陽」で、ある存在たちが人間段階を通過した。大天使たち、すなわち炎の神霊たち、キリスト秘教でいうアルヒアンゲロイである。彼らは人体に住み、自らの個我意識を得た。
 プララヤのあと、「土星」が即座に「太陽」として現われていたら、人体はエーテル体をみずからの内に受け入れることはできなかっただろう。だから、新しい惑星「太陽」は、最初に「土星」の短い繰り返しを体験しなければならなかった。存在たちは、彼らの古い形態をふたたび受け取らねばならなかったのである。
 「太陽」には、ほかにどのような存在がいただろうか。「土星」で人間にならなかった人格の神霊たち、「土星」で個我意識にいたらなかった人格の神霊たちがいたのである。
 彼らはまだ「土星」における人格の神霊たちと同じ段階に立っており、いま「太陽」でそれを取り戻さねばならなかった。彼らは「太陽」で、エーテル体なしの物質体、エーテル体に浸透されていない物質体という外皮のなかにのみ住むことができた。だから、「太陽」にもう一度、物質体のみからなる構成体が発生しなければならない。
Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

48 月
 「太陽」は宇宙の夜のなかに移行し、第三の変容状態のなかで、「月」として再び生まれる。「月」は以前の諸状態を繰り返し、その繰り返しによって水実質が付加された。やがて、月と太陽が分離し、太陽が熱と光を伴って出ていく。高次の存在も、精妙な本質とともに月から出ていく。水状の月はしだいに濃縮して、一種の衛星になる。「月」には、熱と光と水があった。人間は「太陽」においてと同様にエーテル体、すなわち生命体を有しており、「月」で新しいものとして加わったのは、音あるいは響きと呼ぶことのできるものである。
 「月」の水は音に浸透され、そうすることによって規則正しい動きをもたらされた。こうして、物質体は「月」で内的な体験にいたる。
 器官が形成され、解消し、形姿とリズムのなかでの体験が生じる。それは身体を成熟させ、身体はアストラル実質を内に受け取る。
 「月」進化における本質的なもの、新しいものは、物質的な質量のなかに入れられる内的な振動のようなものである。
 「月」において、実質は水状で、波打ち、内的な振動によって動きをもたらされる。この振動によって、内的に変化する組織が発生する。
 いまや、一方では水状のものをみずからの内に有し、他方では内的な振動をとおして原初の音とエーテル体に浸透された物質的な人体のなかに、動きの神霊たち、すなわち力天使=デュナミスが人間にアストラル体を注ぎ込む。「土星」で意志の神霊たちが自らを供犠に捧げ、「太陽」で叡智の神霊たちが自らを供犠に捧げたように、いま、動きの神霊たちが自らを供犠に捧げて、みずからの実質から人間のアストラル体を流出する。
 「月」の基本実質が残り、惑星の一部が太陽として出て行った。出て行ったものは基本実質を取り囲み、基本実質のまわりを回転する。太陽は、その序列において惑星よりも高次のものになった。太陽は恒星になったのである。
 「月」において人間段階を通過したのは、天使たちであった。
 これらの「人間」は、今日の人間とは異なる意識を持っていた。「月」には、まだほかの存在たちもいた。「太陽」の段階に取り残され、いま「月」において人間段階を取り戻さねばならない大天使たち、また、人格の神霊たちの段階、すなわち「土星」における人間段階に「月」で初めて到達する存在たちがいた。
Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

49 太古の地球
 プララヤ状態の暗闇から、「地球」は太陽および月と合体した姿で現われた。太陽と月と地球は、一つの巨大な天体だった。
 そのころ、地球は非常に精妙な物質からできていた。固い鉱物も水もなく、ただ私たちがエーテルと呼ぶ精妙な物質だけがあった。「地球」はエーテル的で精妙な惑星であり、今日の地球を大気圏が包んでいるように、霊的な大気に包まれていた。この霊的な大気のなかに、今日の人間の心魂を形成しているものすべてが含まれていた。今日では身体のなかに入っている人間の心魂は、当時は上空の霊的な大気のなかにあった。「地球」は、今日の地球よりずっと大きなエーテル球であり、霊的な実質に包まれていた。この霊的な実質のなかに、未来の人間の心魂が存在していた。エーテル球のなかには、もう少し濃密なものがあった。何百万という、殻の形をした構成体である。
 霊的な大気から、一種の触手が下方のエーテル球のなかへと伸び、殻のような構成体を包んだ。霊の高みから下って、個々の身体を包んだのである。この触手は個々の身体に働きかけ、人間の形姿を形成した。
 当時の地球、その上の殻のような形姿は、肉眼では見ることができなかっただろう。それらは響きを発する人間形姿だった。
 その形姿のなかには、まだ個体は存在しなかった。個体は、まだ霊的な大気のなかに溶解していた。
 それから何百万年も経って、大きな宇宙的出来事が生じた。エーテル球が締め付けられ、ビスケットのような形になり、しばらくそのままの形でいた。そして、この球から、地球と月とからなる小さな部分が離れた。
 太陽が分離したことによって、地球は太陽に照らされるようになった。照らされる対象ができ、それとともに目が形成された。
 人間の形姿は鐘の形をしており、上方は触手を受け入れるために開いていた。太陽に向かって開いていたのである。これがヒュペルボレアス人、第二根源人種である。
 私たちがいう意味での死はなかった。死ぬというのは、意識が身体から抜け出ることである。
 当時、個々の人間の意識は共通の意識の一部にとどまり、身体から抜け出ると、中断なしに他の身体のなかに入っていった。意識は中断されることなく、持続した。意識は、衣装を変えたとしか感じなかった。
Vor dem Tore der Theosophie

50 レムリア時代
 その百万年後、地球と月は今とはまったく違ったふうに見えた。動物と植物は卵白のようなゼリー状で、クラゲのようだった。この、器官を有した、濃密化した物質のなかに人間祖先はいた。
 植物界は、のちの人間や動物の乳に似たものを分泌した。人間は周囲の自然から栄養を採り、受精する無垢の存在だった。
 そして、非常に重要な時期がやってくる。地球と月が分離するのである。
 月は、人間や動物が自分から他の存在を生み出すのに必要な力を持っていった。人間には、生殖力の半分だけが残された。生殖力は二分され、しだいに人間は男と女に分かれていった。男と女による生殖が可能になったのである。この時代が第三根源人種、レムリア時代である。この時代にも、物質は硬化していった。地球と月が分離するまえに固い沈着が生じ、地球と月が分離したあと、人間と動物のなかに骨の萌芽となる軟骨実質が形成された。地表が固まり、固い土と地殻ができていくにしたがって、人間と動物のなかに骨が形成されていった。
 当時の人間の姿は、一種の魚-鳥動物のようだった。地球の大部分はまだ水のようであり、気温は非常に高かった。この水のような要素のなかに、のちに固くなるもの、たとえば現在の金属などが溶け込んでいた。そのなかを、人間は漂うように動いていた。
 水に小さな陸つまり島のようなものが溜まっていき、その上を人間があちらこちら歩き回っていた。しかし、地球全体に火山活動が見られ、ものすごい勢いで地表のさまざまな部分を壊していた。いたるところに、絶え間なく、破壊と再形成が見られた。
 人間は、まだ肺を持っていなかった。管状の鰓器官をとおして呼吸していた。
 人間に背骨が組み込まれた。最初は軟骨状のもので、やがて骨になった。そして、漂い動けるように、今日の魚のような浮き袋を持っていた。
 何百万年かが経って、地球は固くなっていった。水が引いて、固い部分と水の部分が分かれた。純粋な空気が現われ、空気の影響によって、浮き袋は肺に改造された。
 鰓は聴覚器官に改造された。肺の形成とともに、呼吸能力が生じた。
 どのようにして、精神は人間のなかに入ったのだろうか。空気をとおしてである。呼吸能力は、個体的な人間精神を受け入れることを意味している。人間の個我は、呼吸する空気をとおして人間のなかに入ってきたのである。
Vor dem Tore der Theosophie

51 アトランティス時代
 レムリア時代の地球は一種の火の塊であった。
 温和な人は意志をとおして火の自然要素を鎮め、そのことによって陸が沈殿していった。激しい人間は反対に、意志をとおして火の塊を荒れ狂わせ、薄い地球の覆いを引き裂いた。
 助かった人々は、アトランティス大陸へと移り住んだ。アトランティス大陸は、ほぼ今日のヨーロッパとアメリカの間に広がっていた。ここで人類はさらに発展を遂げた。地球の大気圏からかつての煙の残りは取り除かれていたが、まだ霧に満たされていた。
 人間は植物の生長に対して支配力を有していた。今日とはまったく異なった形をしていた手を植物の上にかざすと、意志の力によって植物を早く生長させることができた。人間は、まだ自然と内的な関係を持っていた。アトランティス人の生活は、自然との関係に応じたものであった。
 総合感覚・知性・論理的思考といったものは、まだ存在していなかった。その代わり、もっと別の能力、たとえば記憶力が高度に発達していた。
 アトランティス人は先祖が体験したことを、非常に明瞭に記憶していた。あたかも手が身体の一部であると感じるように、共通の血によって、アトランティス人は自らを祖先の一部と感じていた。
 アトランティス人のエーテル体の頭部は、物質的身体の頭を遥かに聳え立っていた。特に額の部分は、エーテル体が力強く突出していた。眉間の約一センチ奥を物質体の脳の中心点、約二センチ奥をエーテル体の頭の中心点と考えねばならない。アトランティス人の場合、この物質体の脳の中心点とエーテル体の頭の中心点は、たがいにもっと遥かに離れており、この二つの中心点が近づきあってくることによって人類は進化してきた。アトランティス時代の第五期にエーテル体の頭の中心点は物質体の脳のなかに入り、この二つの中心点が接近したことによって、計算・判断・概念・知性といった今日の人間が有する能力が発達したのである。
 アトランティス時代に入ったとき、人間はまだ、音節ごとに分かれた言葉を話すことができなかった。言語はアトランティス時代になって初めて発展するのである。
 今日のアイルランドの近くの、いまでは海底になっている地帯に住んでいた、特に進化していた人々にエーテル体が深く組み込まれ、このことによって彼らは知性を発達させた。これらの人々は最も進化した者に導かれて、東へと移動していった。徐々に海水がアトランティス大陸を侵食していった。
Die Theosophie des Rosenkreuzers

52 アトランティス後の文化
 アーリア根源人種の第一亜人種であるインド人は、つぎのような道を行った。神に満たされた幾人かのマヌの使者・聖仙たちが原インド文化の教師となった。
 太古のインド人は、「私たちに外的な自然として残されたものは、本当の自然ではない。この自然の背後に神が隠れている」と思った。そして、自然の背後に隠れているものを、インド人はブラブマン、「隠れた神」と呼んだ。外的な世界は幻・錯覚・マーヤーだった。
 「外界のどこにも神性は姿を現わしていない。人間は自分の内面に沈潜しなければならない。人間は神性を、自分の心魂のなかに探求しなければならない。高次の霊的な状態で神性を探求しなければならない」と、インド人は言った。
 大きく、力強い思考のイメージ、ヴィジョン、イマジネーションのなかにブラフマンの世界が現われてきた。
 第二亜人種である原ペルシア人の文化は、同様にマヌから発したものだったが、インド文化とは異なった使命を持っていた。
 外界は神性の模像であり、外界から目をそむけず、外界を改造しなければならないという考えが現われてきた。ペルシア人は自然に働きかけ、自然を改造しようと思った。
 ペルシア人は、二つの世界の戦いのなかに置かれた、と思った。そして、善神オルムズドの世界と、改造しなければならないアーリマンの世界という二つの力があるという考えが形成されていった。しかし、外的世界は理解できないものとしてペルシア人に対峙していた。
 この世界法則を学んだのは、第三亜人種であるカルデア-アッシリア-バビロニア-エジプト民族と、のちにその分枝のように現われたセム人である。彼らは星空を見上げ、星々の運航を観察し、それらが人間の人生にどのような影響を与えるかを観察して、星々の動きと影響を理解できる学問を考え出した。
 偉大な叡智が自然の経過を支配しており、すべては偉大な法則に従って生起していることが、彼らに明らかになった。
 第四亜人種の文化であるギリシア-ローマ文化は、直接マヌの影響下にはなかった。
 ギリシア人は完成された自然を研究するより、まだ形成されていない物質である大理石を取り上げて、そこに自分の精神を刻み込んだ。第三亜人種は、外界のなかに精神を探求した。第四亜人種は、外界に自分の精神を刻印したのである。
Vor dem Tore der Theosophie


シュタイナー語録88(その7)

2011-01-24 19:03:48 | Weblog
53 悪魔の働き
 ルシファー的存在たちは本来、彼らの課題を「月」で卒業しているべき霊たちだった。
 ルシファー的存在たちは、個我に働きかけることは、まだできなかった。ルシファー的存在たちはレムリア時代に、あらゆる側からアストラル体に直接働きかけた。そのことによって、人間のアストラル体は、本来「月」において作用しおわっているべき影響にさらされた。こうして、高次の存在たちのみが働きかけていたら受け取っていなかったはずの衝動・欲望・情熱が人間に植え付けられた。
 人間はルシファーの影響を二通りに受け取った。第一に、人間は熱狂し、熱中し、夢中になることができるようになった。しかし、この熱狂は個我によって導かれているのではない。第二に、人間は高次の存在から離反する可能性、悪を行なう可能性、また自由の可能性も得た。このように、主導性・熱狂・自由を、人間はルシファー的存在たちに負っている。しかし同時に、悪の可能性も人間のなかに発生したのである。
 人間のアストラル体がルシファー的存在たちに浸透されたことによって、人間はあまりに早く上空から地上に下った。
 多くの人々が邪悪になり、人間がルシファーの影響を受けて悪へと傾いたことによって、レムリア大陸に火の力が燃え上がった。
 もし、人類進化がアトランティス中期までルシファーの影響なしに進んでいたら、人間は高度の霊視的形象意識を発達させたことだろう。
 ルシファー的存在たちが人間をあまりに早く地上に引き下ろしたために、外界の背後の神霊世界が覆われ、人間は物質を透視しなくなった。
 進化から取り残された別の霊的存在たちが、アトランティス中期から、この物質のなかに混ざることができた。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神霊を見ることができなくなった。これがアーリマン的存在たちである。
 ルシファーは内面で活動する霊であり、アーリマンはその反対に、物質をヴェールのように霊的なものの上に広げ、神霊世界の認識を不可能にする霊である。この両方の霊が、人間の精神性への進化を抑止する。とりわけ、アーリマンの影響が人間のなかで力を発揮し、地球の一部、すなわちアトランティスの崩壊をもたらした。
Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

54 十二菩薩
 宇宙と地球に関係する菩薩は一二人いる。
 紀元前六世紀から五世紀にかけて仏陀となり、人類を慈悲と愛の教えのなかに摂取するという任務を果たした釈迦も、一二人の菩薩の一人である。
 一二人の菩薩それぞれが、個々の任務を持っている。釈迦が人類に慈悲と愛の教えをもたらすという任務を持っていたように、他の菩薩たちも地球進化のそれぞれ別の時期に果たすべき任務を持っている。釈迦が仏陀になった紀元前六世紀・五世紀から、次に弥勒菩薩が弥勒仏となるまでの現在の人類の課題は道徳の発展である。それゆえ、仏陀の教えは今日の人類にとって特別大事なものなのである。
 地球進化の経過にしたがって、菩薩たちは次々に地上に下り、自らの任務を果たしていく。地球進化の全体を見渡すと、そのような菩薩が一二人いることが分かる。
 一二人の菩薩たちは力強い精神共同体を形成しており、次々に特別の任務を持って地上に下り、人類の導師となる。一二人の菩薩の集まる共同体が地球進化全体を導いている。一二人の菩薩たちは「導師」として現われ、人類に偉大な霊感を与える。
 それでは、一二人の菩薩たちは、各時代ごとに果たすべき任務を誰から受け取っているのだろうか。
 一二人の菩薩たちの共同体のなかを見ることができれば、一二人の菩薩たちの輪の中心に、一三番目の存在を見出すことができる。この一三番目の存在は、一二人の菩薩たちのような導師ではない。この存在からは、叡智の実質そのものが流れ出ている。
 この存在を囲んで一二人の菩薩が座している。菩薩たちはこの存在に眺め入って、自分たちが地上にもたらすべき叡智を受け取っている。
 一三番目の存在は、一二人の菩薩たちに叡智を注いでいる。菩薩たちは、その智を人類に伝える導師である。この一三番目の存在は、菩薩たちが伝える叡智の本質そのものである。新たな時代ごとに、この存在は菩薩たちに智を注ぎ込む。
 この一三番目の存在を、太古の聖仙たちは毘首羯磨と呼び、ザラシュストラはアフラ・マズダと名づけた。私たちは、この存在をキリストと呼んでいる。
Das esoterische Christentum und die geistige Fu[¨]hrung der Menschheit

55 イエス
 ルカ福音書に記されているイエスの系図を、マタイ福音書に記された系図と比べてみると、相違が見られる。
 イエスが生まれたのとほぼ同じころ、パレスチナで、やはりヨセフとマリアという名の夫婦に、イエスという名の子どもが生まれた。イエスという名の子どもが二人、そしてヨセフとマリアという名の夫婦が二組いたのである。
 一方のイエスはベツレヘムの出身で、両親とともにベツレヘムに住んでいた。ベツレヘムのイエスは、ダビデ家のソロモン系の血を引いていた。ナザレのイエスは、ダビデ家のナタン系の出であった。
 ルカはナタン系のイエスについて語り、マタイはソロモン系のイエスについて語っている。ベツレヘムのイエスは、ナザレのイエスとはまったく別の能力を示した。ベツレヘムのイエスは、外に現われる特性を発達させた。たとえば、周囲の人々にはあまり理解できないものではあっても、このイエスは生まれるとすぐに話をすることができた。ナザレのイエスのほうは、より内的な素質を有していた。
 ベツレヘムのイエスのなかには、偉大なザラシュストラが受肉したのである。ザラシュストラは、自分のアストラル体をヘルメスに、エーテル体をモーセに与えた。彼の個我は、紀元前六世紀にナザラトスあるいはザラトスという名でカルデアに受肉し、ついでイエスとして受肉したのである。このイエスはエジプトに行き、しばらくのあいだ自分に適した環境のなかに生き、エジプトの印象を自分の内に甦らせねばならなかった。
 ルカが語っているイエスとマタイが語っているイエスを同一人物と思ってはならない。ヘロデ王の命令によって、二歳以下の子どもはすべて殺された。洗礼者ヨハネとイエスの誕生のあいだに十分な年月の差がなかったら、洗礼者ヨハネも殺されていたはずである。
 一二歳のとき、ベツレヘムのイエスの個我、つまりザラシュストラの個我は、もう一人のイエスのなかに移り行く。一二歳以後、ナザレのイエスのなかにはかつての個我ではなく、ザラシュストラの個我が生きることになる。個我が去ったのち、すぐにベツレヘムのイエスは死んだ。ザラシュストラの個我がナザレのイエスのなかに移行したことは、ルカ福音書の「神殿における一二歳のイエス」の場面に語られている。
Die tieferen Gehaimnisse des Menschheitswerdens im Lichte der Evangelien

56 仏陀とイエス
 ナザレに住んでいたヨセフとマリアに、イエスという子どもが生まれた。この子は特別な存在だった。応身仏は、「私が力を貸せば、この子は人類を大きく前進させる可能性を身体のなかに有している」と、言うことができた。
 応身を一個の閉じられた体と表象してはならない。たんなる力でしかなかったものが、特別の存在になったのが応身である。私たちのなかで思考・感情・意志が結び付いているように、この存在組織は高次の世界で、ある個体の自我をとおして結び合わされている。透視者は、応身仏に属する諸存在を知覚する。
 このようなことを、ルカ福音書の著者はよく知っていた。彼は応身仏がイエスのなかに下ったことも知っていた。そのことを彼は、「イエスがベツレヘムに生まれたとき、精神界から天使の一群が下ってきて、何が起こったのか、羊飼いたちに告げた」と記している。この瞬間、羊飼いたちはある理由から、透視力を得たのである。
 ナザレのイエスの誕生に際して、イエスのアストラル体のなかに仏陀が下った。エーテル体に再び現われた仏陀が、ナザレのイエスに結び付いたのである。ナザレのイエスのアストラル・オーラのなかに仏陀がいるのである。それをルカ福音書は示唆している。
 ゴータマ・シッダールタ王子が生まれたとき、インドに一人の賢者がいた。阿私陀である。彼は、いま菩薩が生まれた、と透視する。彼は王城でこの子を見て、感激する。そして、泣きはじめる。
 「なぜ泣くのだ」と、王は聞く。「王よ、不幸なことがあるのではありません。生まれたのは菩薩であり、やがて仏陀になります。私は老人なので、仏陀になった姿が見られるまで生きていることができません。それで、泣いているのです」と、阿私陀は答える。
 やがて、阿私陀は死ぬ。そして、菩薩は仏陀になる。
 仏陀は精神界から下って、ナザレのイエスのオーラと結び付き、パレスチナの出来事に関与する。そのころ、カルマ的関連によって、阿私陀は再受肉する。シメオンである。シメオンは、仏陀になった菩薩を見る。紀元前六〇〇年には見ることのできなかった仏陀を、彼は見た。腕に抱いたナザレのイエスのオーラのなかに仏陀がいるのを見たのである。
 そして彼は、「主よ、あなたはこの下僕を平和のうちに去らせてくれます。私はわが主を見たのですから」という、美しい言葉を語る。「わが主」というのは、イエスのオーラのなかの仏陀のことである。
Das Lukas-Evangelium

57 荒野の誘惑
 初めて地上の人体に受肉したキリスト存在は、まず荒野の孤独のなかで、ルシファーならびにアーリマンとの戦いに赴く。
 尊大・高慢・自惚れを持つ人間にルシファーは近づき、誘惑しようとする。ルシファーはキリストに立ち向かい、「わたしを見なさい。人間がいま置かれている、他の神々と霊たちによって築かれた世界は古いものだ。わたしは新しい国を築く。わたしは世界の秩序から自由になった。おまえがわたしの領域に歩み入るなら、古い世界の美と栄光をすべておまえに与えよう。そのためには、おまえは他の神々から離れ、私を認めねばならない」と語る。
 ルシファーは二度目の誘惑を試みる。今度はアーリマンの助けを借りて、ルシファーとアーリマンのふたりがキリストに語りかける。
 ルシファーは、こう語る。「わたしを認めれば、わたしの霊性をとおし、わたしがおまえに与えるものをとおして、今おまえが強いられているものから解き放ってやろう。おまえはキリストとして人間の身体のなかに入った。肉体はおまえを服従させる。おまえは肉体のなかで重さの法則を認識しなければならない。肉体は、おまえが重さの法則を超越することを妨げる。わたしはおまえを重さの法則から超越させる。わたしを認めるなら、わたしは落下からおまえを守る。おまえには何事も生じない。この山の頂から飛び降りてみるがよい」。
 恐怖心に訴えようとするアーリマンは、「わしがおまえを恐怖から守る。飛び降りてみよ」と語る。
 アーリマンはルシファーを去らせ、ひとりで最後の誘惑を試みる。
 「おまえが神の力を誇るなら、石をパンに変えてみよ」。
 キリストはアーリマンに答える。
 「人はパンのみによって生きるのではない。人は精神界から下る精神によって生きるのである」。
 アーリマンは語る。
 「人間の世界には、実際、石をパンに変えることを必要としている、おまえがまだ知らない者どもがいる。彼らは、ただ精神だけによっては生きていくことができないのだ」
 アーリマンが語ったのは、地上の人間には既知でありながら、地上に歩み入ったばかりの神には未知のことだった。
Aus der Akasha-Forschung. Das Fuenfte Evangelium

58 主の祈り
 一六歳から一八歳にかけて、ナザレのイエスは仕事やその他の事情によって、旅を多くした。これらの旅によって、イエスはパレスチナとパレスチナ以外の多くの土地を知った。
 さまざまの地方に、ミトラス神礼拝のための神殿が数多く建設されていた。アッティス神礼拝に似た儀式を行なっているところも数多くあった。
 イエスが多くの異教の祭祀で、司祭が祭壇に供儀を捧げているのを霊視力によって見たとき、その供儀をとおしてさまざまな悪魔的存在が引き寄せられてくるのが見えた。また、崇拝されている偶像の多くが高次の位階の善なる神霊存在ではなく、邪悪な、悪魔的な力の模像であることを発見した。この邪悪で悪魔的な力が儀式に参列している信者のなかに入り込むのがしばしば見られた。
 イエスの旅は、二〇歳・二二歳・二四歳まで続く。ルシファーとアーリマンによって生み出された悪魔が支配し、悪魔が神と思われていた。野蛮な魔力が神の偶像とされており、その偶像と儀礼によって野蛮な魔力が引き寄せられ、善良な信仰をもって祈る人々に乗り移っていた。それを見て、イエスはいつも心魂に苦い痛みを感じた。
 二四歳のとき、ナザレのイエスは、ある異教の祭祀の町に来た。司祭たちはずっと以前から、この祭祀の町を捨て去っていた。
 人々がイエスを祭壇に上らせたとき、イエスはまるで死んだように倒れ伏し、心魂が身体から去って行ったようであった。
 物質体から離れ去ったナザレのイエスの心魂は精神界に持ち上げられ、太陽存在の領域に入り込むのを感じた。イエスの心魂は、太陽存在の領域から響いてくる言葉を聞く。
 「アーメン、
  悪が支配する。
  崩れゆく個我の証しを、
  人に明かされる自己の罪を、
  日々の糧のなかに体験せよ。
  そのなかに天の意志は働いていない。
  人は汝らの国を去り、
  汝らの名を忘れた。
  汝ら、天に在ます父たちよ」
Aus der Akasha-Forschung. Das Fuenfte Evangelium

59 火星の仏陀
 七世紀・八世紀に黒海の近くにあった秘儀の中心地に仏陀は霊体で現われ、秘儀を伝授した。このような学院には肉体を持った教師もいたが、上級の弟子たちはエーテル的形姿の導師から教えを受けた。この当時の仏陀の弟子の一人は、数世紀後、アッシジのフランチェスコとして再受肉した。アッシジのフランチェスコの性向と人生が仏陀の弟子たちに酷似しているのは、彼自身が仏陀の弟子だったからにほかならない。
 アッシジのフランチェスコのように熱心に霊を求めて精進する人と、工業技術や現代文明の恩恵に熱中する人とのあいだに性向の違いを認めるのは容易である。多くの神秘学者が、将来人類が二つに分かれるのは避けがたいと考えて、頭を悩ませている。実生活に没頭して食物の確保と機械文明に心を労する人間と、アッシジのフランチェスコのように、霊的な人生を送るために実生活を放棄する人間の二種類である。両者の仲裁に入る者がいなければ、人類は二つに分裂していくことになる。
 ローゼンクロイツは、最も優れた存在たちに会議への参加を要請した。傑出した人類の導師である仏陀もこの会議に出席し、ある決定がなされた。仏陀が火星に赴くという決定である。仏陀は一六〇四年に火星に赴き、ちょうどキリストが地球上でゴルゴタの秘儀を成し遂げたように、火星上で特別の秘儀を成就することになった。
 仏陀の涅槃と解脱の教えは、特に火星にとって意味深いものなのである。
 仏陀の教えは、死者たちには特別重要な価値を持つ。火星を浄化するために、仏陀の教えをもたらす必要があった。神的な愛の本質であるキリスト存在は、ただ一度地上に下り、人々を結び付けた。一七世紀に、平和の王子である仏陀は戦争と闘争の星である火星に赴き、火星上の好戦的で凶暴な死者たちに、解脱の教えを浸透させることになった。
 火星で仏陀による秘儀が成就されて以来、人間は死後、火星から今までとは異なった力を受けるようになった。そして、この仏陀の霊的な行為によって、死者たちは火星から今までとは違う力を受けるようになった。それだけではなく、精神界を求めて瞑想する人にも、火星から仏陀の霊力が流れ込むようになった。ローゼンクロイツによって与えられた瞑想を行なう者は、火星から送られてくる仏陀の力を受け取るのである。
 仏陀が火星から地球に力を送り届けるようになって以来、俗世を捨てずに修道生活ができるようになったのである。
Das esoterische Christentum und die geistige Fuehrung der Menschheit

60 エーテル・キリスト
 暗黒時代は、紀元前三一〇一年に始まった、と計算しなくてはならない。人間の心魂が地上に受肉するたびに、神霊世界に向けた人間のまなざしはだんだん閉じられていき、外的な感覚世界に限定されていった。
 私たちが暗黒時代において達成できたのは、個我意識の強化である。
 神霊世界との関連を完全に失いたくない人間は、精神的なものを個我のなかで体験することを学ばねばならなかった。個我を発展させ、その個我が自らの内面において、「神霊世界が存在する。人間は神霊世界に属する。高次の神霊存在たちが存在する」と確信できるようにならねばならなかった。
 だれかがキリスト・イエスの時代に、当時における本来の真理を語ったら、「かつて、人間は天国を自分の個我の外、霊の彼方で体験できた。自分から抜け出たときに、霊の彼方に到達した。個我の彼方で、人々は天の国々を体験したにちがいない。いまや、人間は天の国々をそのように体験できない。いまや、人間は大きく変わった。個我が自らのなかに天の国々を体験しなければならない。天の国々は人間に近づいて、個我のなかに働きかけるにいたった」と言うことができただろう。
 かつて、天の国々は人間の外にあった。いまや人間は、自分に最も近いもの、すなわち個我のなかで、近づいてくる天の国々を把握しなくてはならない。
 人間は暗黒時代には、もはや感覚世界から神霊世界へと出ていけないので、神的存在=キリストが物質的・感覚的世界まで下ってこなければならなかった。
 一八九九年に暗黒時代は終了した。いま、私たちは新しい時代に生きている。いま始まるものが、人間に新しい心魂能力を準備していく。
 この心魂能力の最初の兆候は、個々の心魂のなかで、比較的すみやかに気づかれるだろう。一九三〇年代なかばに、その兆候ははっきりと示されるだろう。およそ、一九三〇年から一九四〇年のあいだである。
 人間は今まで知覚できなかったエーテル的なものを周囲に見る能力を有するようになるだろう。
 「エーテル明視」と名づけられるものが到来するだろう。
 いま述べた時期に、キリストはエーテル的形姿で再来するだろう。
Das Ereignis der Christus-Erscheinung in der aetherischen Welt

61 弥勒菩薩
 徳の発展は、地球進化の衝動とは少し異なる。ゴルゴタの秘儀の前に、仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴタの秘儀の準備をした。ナザレのイエスの生まれる一世紀前に、この菩薩はパンディラのイエスのなかに受肉した。仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは別の存在である。パンディラのイエスのなかに受肉した菩薩は、何度も地上に出現する。そして、いまから三〇〇〇年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送る。
 キリストはナザレのイエスの肉体に三年間だけ留まり、その後は地上に受肉することはない。第五ポスト・アトランティス文化期にはキリストはエーテル体に、第六文化期にはアストラル体に、そして第七文化期には人類の偉大な心魂の集合体のごとき宇宙個我のなかに出現する。
 今日の精神科学の内容は、浄飯王の子である菩薩が仏陀となったときに説いた東洋の霊智と変わるところはない。釈迦の説いた教えを実現するのは、つぎに仏になる菩薩の仕事だと言われている。この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示する光の智を伝えることになる。パンディラのイエスに受肉した菩薩は、キリスト衝動の偉大な師になった。このことは、菩薩ヨアサフがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けたかを伝えている物語『バルラームとヨアサフ』が明瞭に示している。将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学は「善をもたらす者」と呼んでいる。今日の人間には、その概念を持つことができないほどの高次の段階の言葉の力が弥勒仏のなかに存在することになる、と神秘学では考えている。高度の霊的感覚器官をとおして世界の進化を知覚することによって、三〇〇〇年後に弥勒仏が説く教えを知ることができる。
 弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものである。弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ形をとるだろう、ということが霊的な探究の結果あきらかにされている。古代には、人類の師となるべき偉大な人物が世に現われると、その人物は若いころから特別の才能と心魂の資質を現わしたものだった。とはいえ、人生のある時期にいたって人格を一変させるような導師も存在する。そのような人類の導師の個我は、人生のある時期に肉体という外被から去り、べつの存在の個我がその肉体に入る。イエスはこのような導師の典型である。イエスが三〇歳のとき、彼の個我は物質体から離れ去り、代わって、キリスト存在がイエスの内部を占領した。弥勒菩薩はどの転生においても、この型の生涯を送ることになる。
Das esoterische Christentum und die geistige Fuehrung der Menschheit


シュタイナー語録88(その8)

2011-01-23 19:11:50 | Weblog
62 天使とその末裔
 人間は自分自身を乗り越えて、利己主義的な関心を克服することができる。そうすると、人間は自分を導く存在が見出される領域へと高まる。
 人間を導くのは、西洋の秘教で「天使」と呼ばれる存在である。ついで「大天使」と言われる種族神・民族神を知るにいたる。それから、文化の経過のなかで活動する時代精神「権天使」が見出される。
 修行の道を歩んでいくと、しだいに自分が別の意識状態へと進んでいくのが分かる。そして、下級三隊の神霊たちを透視できるようになる。
 この意識状態は、個我とアストラル体が物質体とエーテル体から解き放たれている点で、眠りと似ている。
 この状態は、私たちが意識を失わずに周囲に神的・霊的存在たちを知覚するという点で、通常の眠りとは区別される。
 初めに、「神的・霊的存在が自分の周囲にいる」という、漠然とした感情が生まれる。ついで透視意識が開け、下級三隊の神霊たちと、その末裔である自然霊たちが、生きいきと見えてくる。
 つぎの第二段階の透視においては、エーテル体が使用される。
 第二段階の透視において、私たちは植物・動物、そして他者とともに生きることができるようになる。それだけではない。そこに生きるものすべての背後に、私たちは中級三隊の神霊たちの世界を知る。
 下級三隊の神霊たち、すなわち権天使・大天使・天使が空気の精、水の精、土の精という末裔を持っているように、中級三隊の神霊たちも末裔を持っている。
 中級三隊の神霊たちから分離して自然界のなかに下った霊的存在たちは、神秘学で「植物の群の霊魂」「動物の群の霊魂」と呼ばれる存在たちである。
 第二段階の透視において、私たちが他の存在と一体であると知る瞬間、私たちは「自分も存在している。自分が他の存在のかたわらにいる」ということを知っている。
 第三段階の透視に上昇するためには、この利己的な体験の最後の名残もなくさなくてはならない。その存在と一体になって、その存在の側から自分を眺めるのである。
 上級三隊の神霊たちも末裔を分離する。周期の霊、自然界のなかで律動的に繰り返すものを整え、指揮する霊たちである。
Die geistigen Wesenheiten in den Himmelskoerpern und Naturreichen

63 土の精・水の精
 植物は根を大地のなかに伸ばしている。本来、何が植物から大地のなかに伸びているのかを追求できる人、霊的なまなざしをもって根を正しく透視できる人は、植物の根のいたるところを自然元素霊たちが取り巻き、活動しているのを見る。この元素霊たちは、昔は「グノーム」と呼ばれていたが、「根の精霊たち」と名づけることができる。
 地球のいたるところにいる根の精霊たちは、多少なりとも透明な岩石や、金属に貫かれた鉱石のなかにいることを好む。そこが彼らの本拠地である。
 彼らはまったく感覚から成り立っている。彼らは、まったく感覚である。その感覚は、同時に悟性でもある。植物は、宇宙の秘密を集めて地中に送る。植物をとおして霊的に滴ってきたものを、グノームたちは自らの内に受け取る。
 秋から冬にかけて、グノームたちは鉱石と岩石をとおって地中を旅するときに、植物をとおして滴ってきたものを運んでいく。そのように、彼らは全宇宙の理念を地中に流し込みながら、旅する妖精なのである。
 このように、グノームたちは地中にあって、宇宙の理念の担い手である。しかし、彼らは大地そものは全然好きではない。彼らは地中を動き回るが、大地を憎んでいる。
 大地は絶えず、グノームたちに両棲類、特に蛙の姿を取らせる恐れがあるのだ。
 植物は上方へと生長し、グノームの領域を離れて、湿気-土領域から湿気-空気領域へと移る。そうすると、植物は葉の形態を発展させる。葉のなかで活動するものには他の妖精、つまり水の精たちが作用する。水の元素霊を、古代の透視者たちは「ウンディーネ」と呼んだ。
 ウンディーネは、グノームのように目覚めた存在ではない。ウンディーネは絶えず夢を見ている。彼らの夢は、同時に、彼らの姿でもある。
 彼らは水のエーテル元素のなかに生きている。そのなかを泳ぎ、漂っている。彼らは、魚すべてに対して敏感だ。魚の形姿が彼らを脅かすからである。彼らは時おり、魚の姿を取るが、すぐにその姿を捨てて、べつの姿へと変容していく。
 彼らは不思議な方法で、空気を葉のなかにもたらす。グノームが生長させた植物のなかに、ウンディーネは空気を運んでいく。
 ウンディーネの夢という不思議なものに包まれ、そのなかに植物は生長していく。
Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden, bildenden und gestaltenden Weltenwortes

64 空気の精・火の精
 グノームが湿気-土元素のなかに生き、ウンディーネが湿気-空気元素のなかに生きるように、空気-熱元素のなかに生きる精霊たちの領域のなかへと、植物は入っていく。空気-熱元素のなかに生きる妖精たちを、古代の透視者たちは「シルフ」と呼んでいた。空気は光に浸透されているので、シルフたちは光へと突き進み、光と親和する。
 燕は飛んでいくときに、空気を振動させ、空気の流動を呼び起こす。どの鳥も空気の流動を引き起こす。この空気の振動を、シルフは聞くことができる。そこから宇宙の音楽が、シルフに向かって響いてくる。船に乗ってどこかに出かけるとしよう。鴎が飛んでくると、鴎の飛行によって霊的な響き、霊的な音楽が引き起こされて、その音が船に付き添う。
 その音のなかで展開・発展するのがシルフだ。このようにして引き起こされた空気の流れのなかに、シルフは自分の故郷を見出す。霊的に響きつつ動く空気のなかに、シルフは自分の故郷を見出す。そして、その際、光の力がその空気の振動のなかに送り込むものを受け取る。そのことをとおして、多かれ少なかれ眠っている存在であるシルフは、鳥が空気中を飛び過ぎるところを心地よく、我が家のように感じる。
 シルフは鳥を見る。そうすると、そこに個我を感受する。空気を貫いて飛ぶ鳥から、シルフは印象を受ける。そして、そこに個我を見出す。シルフは個我を外部に燃え立たせることによって、宇宙的な愛を、空気を貫いて運ぶ者になる。
 シルフは、愛のなかで植物に光をもたらすという課題を持っている。
 植物は、シルフの領域を通過したあと、上方のサラマンダーたちの領域へといたる。サラマンダーたちは、熱-光の住民である。
 シルフが光を集めたように、サラマンダーたちは熱を集め、その熱を花のなかにもたらす。
 グノームは「生命エーテル」を根に運んでいく。さらに植物のなかで、ウンディーネが「化学エーテル」、シルフが「光エーテル」、サラマンダーが「熱エーテル」を育成する。
 サラマンダーは蝶々、そもそも昆虫全体に対して自己を感じる。サラマンダーは、子房に熱を仲介するために、昆虫のあとを追っていくのを最も好む。理念的な形姿と結び付いて、地中に入ってくるべき凝縮した熱を運ぶために、蝶々の世界、昆虫の世界全体と内密に繋がっているのをサラマンダーは感じる。
Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden, bildenden und gestaltenden Weltenwortes

65 妖精たちの性格
 グノームほど注意深い地球観察者は、ほかにいない。グノームは自分の生命を保つために、すべてを知って理解しなければならないので、すべてに注意を払っている。グノームは、いつも目覚めていなくてはならない。
 グノームは月から来る印象を感じ取ることに特別秀でている。グノームは絶えず、注意深く、月に耳を澄ます。グノームは生まれながらの神経衰弱症なのである。
 満月のとき、グノームは居心地悪く感じる。物質的な月光はグノームには適さない。
 イマジネーション的な観照能力のある人には、満月のとき、グノームは輝きを発する鎧を付けた小さな騎士のように見える。グノームは、霊的な鎧のようなものを身につける。不快な月光を防ぐために、鎧のようなものがグノームの体から外に現われてくる。新月になると、グノームは透明になり、素晴らしい姿を示す。
 水の元素霊は生命を欲しない。彼らは、「自分は死ぬときに本来の生命を得る」という感情を持っている。
 何百万・何千万という水生動物が海のなかで死ぬとき、海はウンディーネにとって、素晴らしい青い燐光を放つ色彩の戯れで輝く。
 ウンディーネがこの色彩の戯れを受け入れ、自分自身が青い燐光を放つようになることによって、ウンディーネのなかに「上方に漂いたい」という大きな憧れが生まれる。この憧れに導かれて、ウンディーネは上方に漂う。そして、この憧れをもって、ウンディーネは高次の位階の存在である天使・大天使などに地の糧をもたらす。そうすることが、ウンディーネに至福を感じさせる。
 一年の経過のなかで、鳥たちが死ぬ。死ぬ鳥たちは霊化された実質を有し、その実質を高次の世界に手渡すことによって、地球から上方にいたりたいと思っている。
 死ぬ鳥たちをとおして、空気は絶えずアストラル実質、低次のアストラル性で満たされる。このアストラル実質のなかをシルフは漂う。シルフは、死ぬ鳥たちからやってくるものを受け取る。それを、憧れをもって高みにもたらして、自分が高次の天界存在たちに呼吸されたいと思う。
 季節の経過のなかで蝶々が死滅する時期になると、すべては内的にきらきらと輝く。この輝きのなかにサラマンダーが入っていき、その輝きを受け取る。
 サラマンダーは、高次の天界存在の霊眼に自分がどのように映るかを感じ取るのを最高の快楽とする。
Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden, bildenden und gestaltenden Weltenwortes

66 悪魔対策
 人間は、最初にルシファーの影響に捕われることがなければ、アーリマンの影響に捕われることはない。
 ルシファーを退ける力がある。道徳である。道徳は、ルシファーを焼き尽くす激しい炎である。アーリマンに対抗する手段は、精神科学によって修練された判断力と識別能力以外にはない。私たちが地上で獲得する健全な判断力は、アーリマンにとって恐ろしいものであり、健全な判断力に面してアーリマンは逃げ去る。私たちが健全な個我意識の修練をとおして達成するものが、アーリマンは大嫌いなのである。
 私たちが地上で獲得する健全な判断力に出合うと、アーリマンは大変な恐怖を感じる。健全な判断力というのは、アーリマンにとってはまったく見知らぬものであり、それゆえに大きな恐怖を感じるのである。生まれてから死ぬまでの人生において健全な判断力を育成しようと努力すると、私たちはアーリマンに対抗できる。霊的世界について出鱈目なことを語る人々が、理性と識別能力を獲得する努力をしなければ、アーリマンは大きな力をふるう。その力に対抗することは、ほとんどできない。
 アーリマンの誘惑が音によって表現されるようになると、アーリマンの力は強くなる。幻像に対しては、音や声に対するよりも対抗手段がたくさんある。
 幻影のなかに生きる人々は、生まれてから死ぬまでのあいだに個我意識のために獲得すべきものを学ぶことを毛嫌いする。
 人間が健全な判断力を育成し、目を醒ますと、すみやかに声や幻覚が消える。それらはアーリマン的な幻であり、アーリマンは「この人間には健全な判断力がある」と感じると、恐ろしい不安に襲われる。
 健全な判断を持ち、謙虚、控え目であり、自分を過大視しないことは、ルシファーの気に入らない。それに対して、功名心・虚栄心のあるところでは、ルシファーは汚い部屋のなかの蝿のように飛びまわる。
 功名心・虚栄心、特に自分についての誤った思い込みが、今度はアーリマンに道を開く。アーリマンから身を守るには、生まれてから死ぬまでの人生から学べる健全な思考の育成に努めるしかない。
 アーリマン的な影響によるものも、間接的にはルシファーに帰すのである。
Die Offenbarungen des Karma

語録後編(67~88)は「西川隆範:シュタイナー教育随想」に収録

シュタイナー語録88(その9)

2011-01-20 10:36:53 | Weblog
67 父母と子ども
 父の特性と母の特性が同じ方法で、人間の個的な核によって利用されるのではない。そこには一定の法則がある。
 その法則を完全に把握するためには、人間の心魂のなかでいかに二つのものが活動するかを見なければならない。第一は、知性である。イメージ・表象を用いて思考することも、知性のうちに入れたい。もう一つは、意志と感情、情動の方向、周囲に感じる興味である。
 心魂が外界に対して有する興味のあり方という重要な要素が父から遺伝される。父親から遺伝された興味が、私たちが器官を用いることを可能にする。
 それに対して、知的な活発さ、想像力の活動、イメージ豊かな表象、発明の才を、生まれてくる子どもは母親から遺伝された特性として受け取る。
 事物に対してどのような態度をとるか、事物に対してどのような興味・欲求を持つか、どのように要求し、望み、意志するか、勇気をもって人生の状況に取り組む人間か、小心に退却するか、こせこせした人間か、太っ腹な人間かというあり方として父親のなかに生きているもの、つまり意志衝動に関連する特性を、私たちはある意味で父親から受け継いでいる。それに対して、心魂の活動、知性の活動を私たちは母親から譲り受けたのである。
 男の子に関しては、両親との関係を、「父から体格と、人生のまじめな送り方を受け継いだ。母から快活な性格、物語を作る喜びを得た」(ゲーテ「温和なクセーニエ」)と言うことができる。つまり、人間と外界との交流に関するものを、父親から得るのである。精神生活のありよう全体は、母親から受け継ぐのである。
 女の子の場合、父親の特性は次のような現われ方をする。父親の特性は意志衝動の本性から一段高められて、心魂のなかに現われる。
 父親においてはより外的に現われていた重要な特性が、娘においてはより内面化されて示されるのである。
 「父親の性格の特性は、娘の心魂のなかに生きつづける。母親の心魂の特性、精神の活動、才能、能力は息子のなかに生きつづける」と言うことができる。
 母親の特性は息子において一段下降し、器官の能力となる。父親の特性は娘において一段高められ、内面化され、心魂化されて現われる。
Antworten der Geisteswissenschaft auf die grossen Fragen des Daseins

68 幼児の教育
 物質体が誕生の時点まで母胎に包まれているように、生まれたあと、人間は精神世界に属する精神器官、すなわちエーテル体とアストラル体に包まれている。
 乳歯が永久歯に生え変わる時点にいたると、エーテル体は覆いから解き放たれる。誕生の時点で物質的な覆いから解き放たれたように、エーテル的な覆いから解き放たれるのである。
 アストラル体は、まだ覆いに包まれ、保護されている。身体を運動させ、身体に力を浸透させるものに、アストラル体は思春期まで包まれている。
 エーテル体があらゆる方向にむけて自由にならないうちは、外的な印象をエーテル体に与えるのは非常に有害である。また、思春期以前にアストラル体に直接的な影響を与えてはならない。
 人間にとってエーテル体は、心魂的に持続するものの担い手である。習慣や性格、良心や記憶、永続的な気質がエーテル体に付着している。
 アストラル体には、感情のほかに判断能力も付着している。
 七歳までに子どもの外的な感覚が自由になるように、一四歳までに習慣・記憶・気質などが自由になる。そして、二一~二二歳までに、批判的悟性、世界との独自の関係が形成される。
 七歳までは、物質体に関することがらを育成する。子どもの感覚に働きかけることが重要なのである。
 この時期には、訓戒によっては何も達成できない。命令や禁止は何の作用もおよぼさない。最も大きな意味を持つのは模倣である。
 永久歯が生えるまえの子どもに文字の意味を教え込むことも正しくない。子どもは文字の形のみをなぞって、真似ることができるだけである。意味を理解するための力は、エーテル体が有するものだ。
 まじめで静かな子どもは、落ち着いた青や緑を周囲に見るべきである。元気で活発な子どもは、黄色や赤を周囲に見るべきである。
 子どもには積み木セットや人形のような、出来上がったおもちゃを与えるべきではない。むしろ、古くなったナプキンを丸めて、インクで目と鼻と口を描いた人形を与えるべきである。
 きれいに出来上がった人形の場合、なにかを想像によって付け加えることができず、そのように完成されたものを与えられると、身体内の器官は不活発になる。
Die Erkenntnis des Uebersinnlichen in unserer Zeit und deren Bedeutung fuer das heutige Leben

69 歩く・話す・考える
 這っていた子どもが立ち上がり、歩くということには、大きな意味がある。歩くことを学ぶには、自分の身体の均衡と運動の可能性を、世界の均衡と運動の可能性に順応させねばならない。歩行を学びながら、子どもは世界に対する均衡を探求する。歩行を学びながら、手および腕の動きと足の動きとの関係を探求する。手は心魂のいとなみに割り当てられ、足は身体の移動に仕える。それは、のちの人生全体にとって非常に大きな意味を持っている。足の活動と手の活動への分化は、心魂の均衡の探求を意味する。
 直立することには物質的な均衡があり、手と腕を自由に動かせるようになることには心魂の均衡がある。
 足で行なわれることは、人間の物質的・心魂的ないとなみのなかに、拍子、人生の区切りに関連するものをもたらす。
 こうして、人生の拍子とリズムのなかに音楽的・メロディー的な要素が入ってくる。
 それが基盤になって、話すのを学ぶことができる。
 歩くときに、だらだらせず、たくましい子どもは、正しく区切って話すための身体的な基盤を持っている。子どもは足の動きによって、正しい文章を作ることを学ぶのである。だらしなく歩く子どもは、文と文のあいだに正しいインターヴァルを置くことができず、輪郭のぼやけた文章を語る。腕の調和的な動きを学ばなかった子どもは、きれいな音調ではなく、嗄れ声で話す。指で生を感じることがなかった子どもは、調音ができない。
 人間にとって正しいのは、まず歩行を学ぶことである。歩くことを学ぶ、腕を動かすことを学ぶという土台ができたあとで、話すことを学ばねばならない。そうしないと、子どもの言語は基盤がなく、舌足らずなものになる。
 歩行と発話という土台ができたあとに子どもが学ぶ第三のものは、意識的な思考である。
 子どもはその本質上、思考を学ぶときに、発話の学びとは別のものを学ぶことはできない。話すというのは、まず聞いた音を模倣することである。子どもは音を聞き、腕の動きと脚の動きの関係を基盤にしつつ、その音を理解し、最初はその音に思考を結びつけることなく模倣する。最初、子どもは音に感情のみを結びつける。そのあとで、思考が言語から発展してくる。歩行を学び、発話を学び、思考を学ぶというのが正しい順序である。
Die paedagogische Praxis vom Gesichtspunkte geisteswissenschaftlicher Menschenerkenntnis

70 学童の教育
 七歳から一二歳までのあいだの子どもにとっては、権威・信頼・畏敬が大切である。習慣と性格は、エーテル体の特別の表現形態である。この年齢においては、判断力に働きかけてはならない。思春期前に判断力に働きかけると、害がある。
 エーテル体の形成は、男の子の場合は七歳から一六歳までのあいだ、女の子の場合は七歳から一四歳までのあいだに行なわれる。子どもに畏敬の念を育てることは、後年にいたるまで重要な作用を及ぼしつづける。
 歴史上の偉人だけでなく、たとえば親戚や知人のなかで尊敬に値する人物について語ることによって、子どもにその人物のイメージを与える。
 この時期に教育者・教師自身が子どもにとって権威であることには、非常に大きな意味がある。子どもが何らかの原理原則を信じるのではなく、人間を信じるのである。子どもの周囲にいる人間が、子どもの理想にならねばならない。また、歴史や文学作品のなかから、子どもは理想の人物を選ぶ。
 アストラル体の誕生前に自分自身の判断を下すと、健全な判断が害される。大切なのは、この時期に記憶を育成することである。
 この時期には、童話が恵みをもたらす。また、伝説や歴史上の英雄や偉人について語るようにする。
 芸術は、エーテル体とアストラル体にまで大きな影響を及ぼす。ほんものの芸術がエーテル体に浸透しなければならない。
 子どもは周囲に美しいものをたくさん見るべきである。
 完成された幾何学的な形態を組み立てる遊びほど、精神に悪いものは他にない。
 思春期になると、身体を包んでいたアストラル的な覆いがなくなる。異性への関心とともに、個人的な判断力が現われる。この時期になって初めて、肯定か否定かという判断力、批判的悟性に呼びかけることができる。この年代より大きくなると、判断力の形成が困難になる。
 第一の七年期には模範・模倣、第二の七年期には権威と手本を熱心に見習うこと、第三の七年期には原理原則が必要である。
Die Erkenntnis des Uebersinnlichen in unserer Zeit und deren Bedeutung fuer das heutige Leben

71 九歳と一二歳
 九歳から一〇歳のあいだに、人間は主体としての自分と客体としての外界を区別するにいたる。その年齢になると、自分を周囲から区別するのである。それ以前は、石や植物が人間のように話したり行動したりする童話や伝説のみを物語ることができた。それ以前は、子どもはまだ自分を周囲から区別していないからである。
 一二歳ごろになって、初めて子どもは原因と作用について聞くことができるまでに成熟する。おもに原因と作用に関わる認識分野、無機的な物理学などは、一一歳と一二歳のあいだのカリキュラムに入れるのである。それ以前に、鉱物・物理・化学について子どもに語ってはならない。
 歴史についていえば、一二歳ごろまでの子どもには、個々の人物のイメージ、全体が見渡せる美しいイメージを心魂に生きいきとした形で与えるべきである。のちの出来事を以前の出来事の作用として考察する歴史を、一二歳ごろまでの子どもに教えるべきではない。
 乳歯が永久歯に生え変わってから九歳・一〇歳までのあいだは、子どもの心魂が受け取るべきものをイメージのかたちで叙述することを試みるべきである。
 最も有効で実り多いのは、七歳~八歳の子どもに何かをイメージの形で教え、一三歳~一四歳のときにもう一度、べつの形でその内容に戻ることである。
 子どもが自分を周囲と区別しはじめる年齢、自分という主体と客体である外界の事物を区別する年齢(九歳)までは、子どものなかにあるものと子どもの外にあるものがすべて同一の性格を持っているように教育しなければならない。
 そして、植物界・動物界に関する示唆において、外界の叙述へと移っていく。これらの学習の基礎が形成されると、一二歳ごろに近づく。
 一二歳から性的成熟までの時点で、初めて無機的な自然についての考察へと移行することができる。子どもはこの時期になって、無機物を本当に理解しはじめる。
 七歳から九歳半・九歳四ヵ月までは、子どもはすべてを心魂的に受け取る。
 九歳四ヵ月ごろから一一歳八ヵ月ごろまで、子どもは自分のなかに見出される心魂的なものと、単に生命あるものとの相違を知覚する。私たちは生命あるもの、生き物としての地球について語ることができる。ついで、一一歳八ヵ月から一四歳ごろまで、子どもは心魂的なもの、生命あるもの、死んだものを区別する。原因と作用に関連することすべてを理解するようになる。
Die Kunst des Erziehens aus dem Erfassen der Menschenwesenheit

72 気質の対処
 だれかへの愛という回り道をしてのみ、長続きする興味が多血質の子どもに現われる。他の気質の子どもにも増して、多血質の子どもにはだれかへの愛が必要である。
 胆汁質の子どもの場合も、回り道をして発展を導く。確かな導きとなるのは、権威を尊重することである。多血質の子どもの場合のように、個人の特性を愛することが大切なのではない。胆汁質の子どもは、「先生はものごとを理解している」と、いつも信頼していることが大事である。
 ある個人への愛が、多血質の子どもに魔法の力を発揮する。個人の価値を尊敬することが、胆汁質の子どもに魔法の力を発揮する。胆汁質の子どもには、抵抗となるものごとを人生の途上に置くようにしなくてはならない。抵抗・困難が途上に置かれていなくてはならない。
 憂鬱質の子どもを導くのは容易ではない。しかし、魔法のような手段がある。
 憂鬱質の子どもの場合、教師は人生の試練を通過した人物であり、試練を経た人生から行動し、語る人物であることが大切だ。「先生は本当に苦痛を耐え抜いたんだ」と、子どもが感じなくてはならない。あらゆる人生のことがらにおいて、子どもが教師の運命に気づくようにさせる。そばにいる人の運命を共に感じることが、憂鬱質の子どもに教育的に作用する。
 憂鬱質の子どもは、「苦痛能力」「不快能力」を持っている。
 外的な生活のなかで適切な苦痛、適切な苦悩を経験させるのである。苦痛をなくすと、暗い気分が硬化し、内面の苦痛が硬化する。
 粘液質の子どもは、一人で成長させてはいけない。他の気質の子どもにとってもいいことなのだが、特に粘液質の子どもにとっては、遊び友だちがいることが大事である。遊び友だちがおり、さまざまな興味を持つことが必要だ。
 自己訓告は実りをもたらさない。適切な場面で多血質を示すことが大事なのである。多血質的に関心が移り変わるのがふさわしい状況を、自分で作り出すことができる。
 胆汁質の人は、自分の障害となる状況に遭遇するのがいい。怒っても何にもならない状況、怒っているうちに自分の矛盾に気づくような状況に出合うようにするのである。
 憂鬱質の人は、人生の苦痛と苦悩を見過ごしてはならない。世界の苦痛と苦悩を探し出し、同情して苦しむことによって、苦痛を正しい対象と出来事に向けるのである。
 粘液質の人は、本当におもしろくない対象にできるだけ関わるようにする。退屈なことに携わって、徹底的に退屈するのがいい。そうすると、粘液質が根本的に癒される。
Wo und wie findet man den Geist?

73 四季の経過
 まず、冬至の時期に目を向けよう。一二月下旬である。この時期の地球は、人間が空気を吸い込み、空気を自分のなかに摂取するときのような状態にある。
 私たちは自分が住んでいる地域を考察する。地球の裏側は反対の状態になっている。
 吸った息が、私たちの地域の内に保たれている。地球は完全に息を吸いこんでいる。この時期、地球はみずからの心魂を内に保っている。
 さらに地球の季節を追っていこう。春分、三月まで追っていこう。
 地球は息を吐いている。心魂はまだ半分、地球のなかにあるが、地球は心魂を吐き出した。地球の満ちあふれる心魂の力は、宇宙のなかに注ぎ出る。
 地球の呼吸がさらに進んでいくと、六月に地球は第三の状態になることが見出される。
 地球の心魂は、宇宙空間に注ぎ出る。地球の心魂全体が、宇宙空間に帰依する。地球の心魂は太陽の力、星々の力に浸る。
 宇宙に帰依する地球の心魂のなかに、星々の力、太陽の力が流れてくる。地球は息を吐ききっている。
 地球の表面に、星々の力、太陽の力、宇宙すべてが反射する。
 この呼吸をもっと追っていくと、九月末にいたる。吐き出した力が、ふたたび戻りはじめる。地球はふたたび息を吸いはじめる。宇宙に注ぎ出た地球の心魂が、ふたたび地球内部に戻る。人間は意識下、あるいは透視的印象において、この地球の心魂の呼吸を自分自身の心魂の経過として知覚する。
 夏の地球は、キリスト衝動にとって不透明である。キリスト衝動にとって不透明になった地球のなかに、アーリマン的な力が居を占める。地球が吐き出した力をとおして自分の心魂のなかに受け取った力を伴って、キリストの力を伴って、人間は地球に戻る。
 夏に息が吐き出されているあいだ、地球はアーリマン化している。アーリマン化された地球でイエスが誕生したら、それは悲痛だっただろう。季節の循環が完了するまえ、心魂を持った地球のなかにキリスト衝動が生まれ出る一二月になるまえに、地球は霊的な力をとおして、龍=アーリマン的な力から清められねばならない。九月から一二月まで流れ込む地球の呼吸と結合し、アーリマンに打ち勝ち浄化するミカエルの力と結び付かねばならない。そうすれば、正しくクリスマスに近づき、キリスト衝動が正しく誕生する。
Der Jahreskreislauf als Atmungsvorgang der Erde und die vier grossen Festeszeiten

74 季節の天使たち
 ヨハネ祭のころ、太陽から発する黄金の光から身体を織り上げた大天使ウリエルが高みに漂う情景を思い浮かべてみよう。ウリエルの目は、判定を下す目である。ウリエルの目は、地の結晶領域に向けられている。ウリエルは、いかに人間の誤謬が地中の結晶の光り輝く美しさにふさわしくないものであるかを見る。
 ウリエルの働きは、自然の諸力のなかに働きかける。真夏、ヨハネ祭のころ、自然をとおして人間のなかに生じることを心魂に思い描くなら、このウリエルの力を、宇宙のなかで放射し、雲、雨、稲妻、雷、植物の成長のなかに射し込むものと表象しなければならない。
 ラファエルは春のあいだに自分の力を自然のなかに流し込む。
 秋、宇宙的な大天使ミカエルが上空にいるあいだ、ラファエルは人間の呼吸体系全体を整え、祝福し、働く。
 ラファエルが春に宇宙に織り込むものを、人間は秋に、治療的な力として知るのである。
 夏のヨハネ祭の情景を表象してみよう。上方には、判定を下すようなまなざしの厳粛なウリエルが、警告するような身振りをしている。そして、ガブリエルの優しい、愛情のこもったまなざしと祝福するような身振りが人間に近づき、人間を内的に貫く。
 夏から秋になると、ミカエルの教示するようなまなざしが現われる。宇宙の鉄から鍛えた剣を持つミカエルの手は、人間に道を指し示すものである。下方では、ヘルメスの杖、地球の内的な力に支えられた深く沈思するまなざしのラファエルが人間に近づき、宇宙で燃え立たせた治療力を人間にもたらす。
 冬になる。ガブリエルが宇宙的な天使である。優しく、愛情のこもったまなざしで、祝福するような身振りのガブリエルが上方で、冬の雲のなか、白い雪の布帛のなかで活動する。下方では、判定を下し、警告を発する、厳粛なウリエルが人間の側にいる。
 ふたたび春がやってくる。上方には、ヘルメスの杖を持った、沈思するようなまなざしのラファエルが現われる。下方では、教示するようなまなざしのミカエルが人間に近づいてくる。
 一二月末から春の始まりまで、ガブリエルが宇宙的大天使として上空にあり、ウリエルが人間の側にいて、頭に宇宙の諸力を注ぎ込んでいるあいだだけ、地上の生へと向かう心魂たちのために扉が開かれる。毎年、この三ヶ月のあいだに、その一年に受肉する心魂が宇宙から地球に下りてくるのだ。
Das Miterleben des Jahreslaufes in vier kosmischen Imaginationen