西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

シュタイナー語録88(その1)

2011-01-30 18:59:36 | Weblog
1 別世界の洞察が人生に意味を与える
 人生は、もう一つの世界への洞察をとおして価値と意味を得る。そのような洞察によって、人間は現実生活に疎遠にはならない。そのような洞察をとおして初めて、人間はこの人生のなかに確実にしっかりと立つことを学ぶからである。その洞察は人生の諸原因を認識することを教える。その洞察がないと、人間は盲者のように諸結果を手探りしていくことになる。
 超感覚的なものから目を背けたり、否定したりするなら、それは人生の虚弱、心魂の死を意味する。隠されたものが明らかになるという希望を失うなら、ある前提の下に、絶望へと導かれる。この死と絶望は、さまざまな形をとって、神秘学的な努力の内的・心魂的な敵になる。人間の内的な力が消失すると、この死と絶望が現われる。生命の力を所有するには、生命のあらゆる力が外から供給されねばならない。感覚に接近する事物・存在・経過を人間は知覚し、悟性によってそれらを分析する。それらは喜びと苦しみを与え、人間に可能な行為へと駆り立てる。人間はしばらくのあいだ、そのように駆り立てられることができる。しかし、人間はいつか、内的に枯死する時点にいたる。そのようにして世界から引き出されるものは尽きるからである。
 この枯渇から人間を守るのが、事物の深みにやすらう隠れたものなのである。つねに新しい生命力を汲み出すために深みに下る力が人間のなかで消滅すると、外的な事物はついにはもはや生命を促進しなくなる、ということが判明する。
 高次の観点から、個々人の幸福と苦痛は、全宇宙の平安と災いに関連していることが明らかになる。道の途上で自分の力を正しい方法で発展させなければ、全世界とそのなかの存在に害をもたらすという洞察にいたる。超感覚的なものとの関連を失うことによって、人間はみずからの生命を荒廃させ、自分の内面で何かを破壊する。その何かが死滅することは、人間を絶望に導くだけではなく、人間は自分の弱点をとおして全世界の進歩を妨害する。
 人間は思いちがいをすることがある。隠されたものは存在せず、感覚と悟性に接近するもののなかに、存在するものすべてがすでに含まれている、という信仰に耽ることがある。このような思いちがいをするのは意識の表面であって、意識の深みはこのような思いちがいをしない。
 知識欲の満足だけでなく、人生に強さと確かさを与えるのが、精神科学的な認識の美しい果実である。
           Theosophie + Die Geheimwissenschaft im Umriss

2 物質体とエーテル体
 目の前に立つ人間を考察してみよう。そうすると、そこに知覚できる最も明白なものは物質体(肉体)である。しかし、精神科学的な探究者にとって、物質体は人間の本質の一部にすぎない。目で見ることができるもの、手で触れることができるものが物質体だと思うなら、物質体について誤ったイメージを抱いていることになる。
 物質体には、すでに高次の構成要素が混ざっているのである。人間に向かい合うとき、その人間の物質体には、人間の本質の別の構成要素が浸透している。だから、私たちの前にある肉と骨からなるものを、そのまま物質体と名づけるわけにはいかない。
 物質体というのは、人間が死の扉を通過したあとに存在するものである。高次の構成要素から切り離された物質体は、それまでとはまったく別の法則に従う。
 人間の身体は、一生のあいだ物質体の崩壊に対して戦うエーテル体(生命オーラ)に浸透されていないと、いつでも死体になる。エーテル体が、人間存在の第二の構成要素である。
 植物と動物も、エーテル体を有している。
 透視者にとって、物質形姿が占めている空間は、エーテル体によって満たされて、輝いている。エーテル体の頭・肩・胴は、物質体とほぼ同じ姿をしている。下部に行くにしたがって、エーテル体は物質体の形姿と似たところがなくなっていく。
 動物の場合、エーテル体は物質体と非常に異なっている。例えば馬の場合、エーテル体の頭は物質体の頭を大きく越えて聳えている。象のエーテル体を透視的に観察できると、その巨大な姿に驚くはずだ。
 人間の場合、下部に向かうほど、エーテル体は物質体と異なっていく。そのほか、物質体とエーテル体では、左右が逆になっている。物質体の心臓は、やや左側に位置している。エーテル体のなかで心臓に相当するもの、すなわちエーテル心臓は右側にある。しかし、物質体とエーテル体の最も大きな相違は、男性のエーテル体は女性的であり、女性のエーテル体は男性的であるということだ。この事実は非常に重要であり、人間の本質の謎の多くが、この神秘学的な探究の成果を元にして解明される。
 人間本性の第一の構成要素である物質体と、第二の構成要素であるエーテル体とのあいだには、人間においては一種の相応があり、動物においては大きな相違がある。
            Thesophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

3 アストラル体と個我
 エーテル体を見ようとするなら、通常の意識を完全に保ちながら、意志の力によって、物質体が目に映らないようにできなくてはならない。そうしたとき、物質体が存在している空間はからっぽにはならない。その場所に、赤みと青みがかかった光の形姿、輝きを発し、若い桃の花よりはいくらか濃い色の形姿が現われる。
 鉱物を見つめながら、その鉱物を意志の力によって消し去っても、エーテル体は見えない。植物や動物の場合には、エーテル体を見ることができる。栄養摂取・成長・生殖を生じさせているエーテル体を、植物と動物は持っているからである。
 人間はこのような能力だけではなく、快と苦を感じる能力も持っている。そのような能力を、植物は持っていない。
 動物はこの能力を持っている。物質体とエーテル体以外に、動物は人間と共通する部分を持っているのである。それはアストラル体(思いのオーラ)である。アストラル体は、私たちが欲望・情熱などという名で語っているものすべてを包括する。
 秘儀参入者が見るこの人間の第三の構成要素は、絶えず内的に運動する卵形の雲の形をしている。この雲が身体を包み、その雲のなかに身体がある。物質体とエーテル体を消し去ると、内的に運動する精妙な光の雲がその場所を満たす。この雲すなわちオーラのなかに、秘儀参入者は情熱・衝動などを、アストラル体の色と形として見る。
 人間は、動物とは区別される。ここで、人間の第四の構成要素にいたる。第四の構成要素は、ほかの名詞とは区別される「私」という言葉で表わされる。
 個我も、霊眼には独特の姿に映る。
 個我は、額のうしろ、鼻根のところに、長く引き伸ばした卵形の青みがかった球のようにとどまっている。
 実際は、この場所には何もない。空虚な空間なのである。炎の中心には何もないが、まわりの光によって青く見える。それと同様に、オーラの光がまわりに輝いているので、この暗い空虚な場所は青く見えるのである。これが個我の外的な表現である。
                    Vor dem Tore der Theosophie

4 三つの心魂
 現存する対象についての知の発生に目をとめているかぎり、人はアストラル体について語ることができる。その知に持続性を与えるものを、心魂と呼ぶ。
 正確な名称を欲するなら、人間のアストラル体を心魂体として語ることもでき、心魂体と一体になっているかぎりにおいて、心魂を感受的心魂として語ることもできる。
 個我が対象についての知から自分の所有物としたものに活動を向けるとき、個我はみずからの存在段階を一段上昇する。この活動をとおして、個我は知覚の対象からますます離れ、個我固有の所有物のなかで作用する。そのような作用が発する心魂の部分を、悟性的心魂あるいは心情的心魂と名づける。
 ここで注視されている心魂の部分へは、いかなる外的なものも接近できない。そこは、心魂の「隠れた聖所」である。心魂と同種のものである存在のみが、そこに入っていける。「心魂が自分を個我として認識するとき、人間のなかに住む神が語る」のである。感受的心魂と悟性的心魂が外界に生きるように、心魂の第三の部分は、みずからの本質を知覚したとき、神的なもののなかに沈潜する。
 アストラル体をとおして外界についての知を得るように、人間は心魂のこの第三の部分をとおして、自分自身についての内的な知にいたる。だから、神秘学はこの心魂の第三の部分を意識的心魂と名づけることもできる。身体が物質体・エーテル体・アストラル体の三つの部分からなっているように、心魂は感受的心魂・悟性的心魂・意識的心魂の三つの部分からなっている。
 意識的心魂のなかで、「個我」の真の本性は初めてあらわになる。心魂が感受や悟性において他のものに夢中になっているときも、心魂は意識的心魂としてみずからの本性を把握している。だから、この個我は、内的活動にほかならない意識的心魂をとおして知覚されることができる。外的な対象の表象は、その対象がどのように現われ、消え去るかに応じて形成される。そして、この表象は悟性のなかで、みずからの力をとおしてさらに作用する。しかし、個我が自らを知覚するべきなら、個我は単に何かに没頭することはできない。個我についての意識を持つためには、内的な活動をとおしてその本質をみずからの深みから取り出してこなければならない。個我の知覚とともに、自省とともに、個我の内的活動が始まる。
 一滴のしずくのように意識的心魂のなかに入ってくるものを、神秘学は精神と呼んでいる。
                  Die Geheimwissenschaft im Umriss

5 個我による働きかけ
 人間は自らのアストラル体に働きかけることによって、一歩前進する。アストラル体の本来の性質が内面から支配されるようになるという形で、この働きかけは行なわれる。
 アストラル体のなかに本来的に生きるものを個我の支配下に置くと、それが精神的自己である。精神的自己は「マナス」という名でも呼ばれる。マナスは個我によってアストラル体が変化させられた結果生じたものだ。アストラル体のなかに本来存在するものを整理して、精神的自己へと変容させるのである。
 さらに進化すると、人間はアストラル体だけでなく、個我によってエーテル体にも働きかける能力を獲得する。
 たとえば、短気だった人が短気を克服しても、しばしば激昂に襲われることがある。記憶力をよくしたり、固有の素質や良心の強弱を変化させることは非常に困難なことである。気質等の変化は、時計の短針のゆっくりした進みに比較できる。
 悪い記憶力を良い記憶力に、短気を柔和に、憂鬱質を沈着さに変化させることは、多くのことを学ぶよりも多大の効果がある。このような変化のなかに、内面の隠れた力の源泉があるのだ。このような変化が、個我が単にアストラル体だけでなく、エーテル体に働きかけられた徴である。
 個我がエーテル体を変化させた分だけ、人間のなかに生命体に対置する生命的精神が存在するようになる。神智学では、生命的精神は「ブッディ」と呼ばれている。ブッディの実体とは、個我によって変化させられたエーテル体にほかならない。
 物質体は人間の本質のなかで最も凝固した部分であり、物質体を形成している諸力は、最も高次の世界から発している。個我がエーテル体のみならず、物質体をも変化させられるほどに強いものになると、人間は自らの内に、現在においては人間本性の最も高次の構成要素である「アートマ」、本来の精神的人間を作り出すことになる。物質体を変化させる諸力は最も高次の世界に存在する。呼吸の過程を変化させることによって、物質体は変化しはじめる。アートマという言葉は呼吸【アートメン】を意味している。呼吸過程の変化によって、血液の性質が変わる。血液は物質体に働きかけ、このことをとおして、人間は最も高次の世界にまで上昇していく。
                  Die Theosophie des Rosenkreuzers

6 四つの気質
 胆汁質の人においては、血液系統が支配的である。だから胆汁質の人は、どんなことがあっても自分の個我を押し通そうとする。胆汁質の人の攻撃性、意志の強さに関するものは、すべて血液循環に由来する。
 打ち寄せるイメージ・感受・表象に没頭する多血質の人の場合、アストラル体と神経系統が支配的になっている。人間の血液循環は、神経のいとなみの調教師である。
 多血質の人には、むら気が見られる。多血質の人は一つの印象にとどまることができない。一つのイメージにとどまること、一つの印象に興味をもってとどまることができない。印象から印象へ、知覚から知覚へと急ぐ。
 すぐに興味を抱き、イメージが容易に作用して、すぐさま印象を受けるのだが、その印象はすぐに消え去ってしまう。
 人間の内面で成長と生命の経過を調整するエーテル体が支配的になると、粘液質が発生する。それは、内的な気持ちよさに表現される。人間はエーテル体のなかに生きれば生きるほど、ますます自分自身に関わり、他のことはなるがままに任せるようになる。
 憂鬱質の人の場合は、人間存在のなかで最も濃密な構成要素である物質体が、他の構成要素の支配者になっている。最も濃密な部分が支配的になると、自分自身が支配者ではなく、「自分は物質体を思うように取り扱えない」と感じる。物質体は、人間が高次の構成要素をとおして支配すべき道具である。しかし、いまや物質体が支配的になり、他の構成要素に抵抗する。それを人間は、苦痛・不快・陰鬱な気分として感じる。
 多血質の人のアストラル体は、活発に手足に働きかける。外的な姿形も、可能なかぎり可動的なものになる。胆汁質の人は、彫りの深い目鼻立ちをしており、多血質の人は表情豊かな、動きのある面立ちをしている。
 胆汁質の人は一足ごとに、ただ地面に触れるだけでなく、足を地面のなかにめりこませるかのように歩く。多血質の人の場合は反対に、跳びはねるような歩き方だ。
 粘液質は動きのない、無関心な人相、豊満な身体、特に脂肪に現われている。
 粘液質の人はだらだら、ぶらぶら、ゆらゆらと歩く。
 憂鬱質の人は、たいてい頭を前に垂れていて、首をしゃんとする力が出てこない。
                  Wo und wie findet man den Geist?

7 男と女
 感情的な衝動へと導く心魂の特性に、女性は傾いている。男性の人生には主知主義と唯物論が通用しており、心魂のいとなみに大きな影響を与えている。
 女性は心魂的・感情的であり、男性には理知的・唯物的な要因がある。
 より心魂的なもの、より感情的なもの、地上での生においてより心魂の内面に向かうものは、身体組織のなかに深く介入し、身体組織に集中的に浸透する傾向を有する。女性は心魂的・情緒的なものに関連する印象を受け取ることによって、深い心魂の根柢のなかに人生の経験も受け取る。男性はもっと豊かな経験、より学問的な経験を好む。男性の場合、経験が女性のように深く心魂のいとなみのなかに入っていくことはない。
 女性の場合、経験の世界全体が深く心魂に刻印を押す。そのことによって、経験は身体組織に働きかけ、身体組織を将来、より強く包囲する傾向を持つ。女性は人生の体験をとおして人体を深く把握し、来世において人体をみずから形成する傾向を受け取る。身体に深く働きかけるということは、男性の身体を準備することを意味する。
 男性の身体においては、女性の場合よりも、内的人間が根本的に物質のなかに生きており、物質に結びついている。女性はより精神的なものを保ち、身体を柔軟に保っている。女性は、あまり精神的なものから分離していない。自由な精神を保持し、そのために物質に関わることが少なく、特に脳を柔軟に保っているのが女性の特徴である。だから、女性が新しいもの、特に精神的な領域において新しいものへの傾向を持っているのは驚くにあたらない。女性は精神を自由に保ち、新しいものを受け入れることに抵抗が少ないからである。
 柔軟な思考の経過を必要とするとき、男性の脳は大変な妨げになる。
 男性の性質は、より凝固しており、収斂している。堅苦しい脳は、なによりも知的なもののための道具であって、心魂的なもののための道具ではない。
 唯物論的な見解は、心魂のいとなみをまったく理解していない。その結果、心魂にわずかしか働きかけなかった人生から、来世ではわずかしか身体組織に進入しない傾向を、死と再誕のあいだに受け取る。そうして、来世では女性の身体を構築する傾向が発生する。
 女性としての体験をとおして、男性の身体組織を形成する傾向を得る。逆に、男性としての体験をとおして、女性の身体組織を形成する傾向を得る。
 ただ、まれに同じ性を繰り返すことがある。しかし、せいぜい七回までである。
                    Die Offenbarungen des Karma

8 身体のリズム
 昼間、大きな宇宙個我から解放されて人体のなかで独力で生きる個我は、夜間は宇宙個我のなかに沈む。
 日中の個我が夜間に宇宙個我のなかに沈むことによって、宇宙個我は妨げなく活動でき、日中の個我が溜め込んだ疲労を取り除ける。
 日中の個我は一つの円を描いており、その円の大部分は大きな宇宙的個我の外に運び出されている。反対に夜は、大きな宇宙個我のなかに沈んでいる。日中の個我は-例えば一六時間-夜間の個我の外にあり、残りの八時間は夜間の個我のなかに沈潜する。
 個我は目覚めている一六時間のあいだ、決して同じものにとどまらない。その時間のあいだ、個我は絶えず変化する。
 人間の個我は二四時間、絶えず変化している、と言わなくてはならない。象徴的に言えば、個我は円を描いており、夜間には大きな宇宙個我のなかに沈む。
 人間はあるときには、自分の周囲の外界をいきいきと感じ、別のときには自分独自の内面を感じる。
 アストラル体は七日、つまり「二四時間×七」の経過のなかで、リズミカルな変化を通過している。その変化は、一つの循環に譬えられる。個我は二四時間でリズミカルに変化しており、その変化は今日でも目覚めと眠りの交替に表現されている。アストラル体は「二四時間×七」で変化している。
 人間のエーテル体は「七日×四」で自転している。そして「七日×四」を経ると、第一日目の経過に戻る。
 いままで何度か、「男性のエーテル体は女性的であり、女性のエーテル体は男性的である」と話してきた。男性のエーテル体と女性のエーテル体では、リズムが同じではない。しかし今日は、詳しく論じることはやめておこう。「男性と女性では異なるものの、およそ七日×四のリズムがある」とだけ述べておく。
 物質体のなかでも、一定の経過がリズミカルに繰り返されている。
 物質体だけを放置すると、そのリズムは女性においては「七日×四×一〇」、男性では「七日×四×一二」で経過する。今日でも物質体をリズムに委ねると、このように経過する。
               Geisteswissenschaftliche Menschenkunde

9 人間の一生
 生まれてから死ぬまでの状態の経過のなかに現われる人間の人生は、感覚的・物質的身体だけではなく、人間の本性の超感覚的な部分に生じる変化を考察することによってのみ完全に理解されうる。
 物質的な誕生とは、人間が物質的な母親の覆いから解き放たれることである。胎児が生まれるまえに母親と共有していた力は、誕生後は独立したものとして、子どものなかにのみ存在する。
 永久歯が生えるころ(六歳~七歳)まで、エーテル体はエーテル的な覆いに包まれている。その覆いは、この時期に取り払われる。そのとき、エーテル体が「誕生」するのである。まだ、人間はアストラル的な覆いに包まれている。その覆いは、一二歳から一六歳まで(性的成熟のとき)に取り払われる。そのとき、アストラル体が誕生するのである。そして、もっとのちに本来の個我が誕生する。
 個我が誕生したあと、人間は世界と人生の状況のなかに組み込まれ、そのなかで、個我をとおして活動する構成要素、すなわち感受的心魂・悟性的心魂・意識的心魂に応じて活動する。ついで、エーテル体が退化する時期がやってくる。その時期にエーテル体は、七歳からの発展とは逆の経過をたどる。生まれたときに、アストラル体のなかに原基として存在したものを発展させることによって、アストラル体は進化する。個我の誕生ののちは、外界の体験をとおしてアストラル体は豊かになる。ある時点からアストラル体は、自分のエーテル体から霊的な養分を摂取するようになる。アストラル体はエーテル体を食い荒らす。さらなる人生の経過のなかで、エーテル体も物質体を食い荒らしはじめる。だから、老年になると物質体が衰弱していくのである。
 こうして、人間の人生は三つの部分に分けられる。最初に、物質体とエーテル体が発展する時期、つぎに、アストラル体と「個我」が発展する時期、最後に、エーテル体と物質体が再び元の状態に戻る時期である。アストラル体は、生まれてから死ぬまでの経過すべてに関与している。アストラル体は一二歳から一六歳までに精神的に誕生し、人生の終盤にはエーテル体の力と物質体の力を侵食する。そのため、アストラル体が自らの力によってなしうることは、物質体とエーテル体の外にある場合よりもゆっくりと発展する。だから、死後、物質体とエーテル体が抜け落ちたとき、浄化の期間は、生まれてから死ぬまでの人生の長さの約三分の一を要するのである。
                 Die Geheimwissenschaft im Umriss

10 睡眠
 眠りに陥ると、アストラル体と個我、そして個我がアストラル体のなかで働きかけたものがすべて、物質体とエーテル体から引き離される。
 ベッドには、物質体とエーテル体だけが横たわっている。
 透視力のある人が見ると、眠りに落ちていく人間の物質体とエーテル体からアストラル体が光に包まれて離れていくのが見える。この状態をもっと正確に描写するなら、今日の人間のアストラル体はさまざまな流れと光の輝きによって組織されていて、絡み合う二つの螺旋、絡み合う二つの6の数字の形のように見える。一つの螺旋は物質体のなかへ消えていき、もう一つの螺旋は彗星の尾のように大宇宙のなかへ広がっていく。ただ、アストラル体の二本の尾の広がりはすぐに不可視のものとなるので、霊眼に映るアストラル体の形は一つの卵に比較することができる。
 眠っていた人が目覚めると、宇宙のなかへと広がり出ていた尾はなくなり、アストラル体全体は再びエーテル体と物質体のなかへと引き入れられる。
 目覚めと眠りの状態とのあいだに夢がある。アストラル体がまったく、その触手さえも物質体から分離しながらも、まだエーテル体と結びついている状態において、夢のある眠りが出現する。
 日中、外界で活動するあいだ、アストラル体は絶え間なく外界から印象を受ける。他方、アストラル体はエーテル体と物質体の本来の建設者である、ということをはっきりと把握しておこう。物質体器官がすべてエーテル体から凝縮・凝固したように、エーテル体のなかを流れ、活動するものはすべてアストラル体から生み出されたものである。
 アストラル体の本質は、宇宙のアストラル体から携えてきた印象と、物質界からあてがわれた活動をとおして外から受ける印象に分かれる。
 アストラルの海から調和と健全な法則のみを受け取るなら、アストラル体によるエーテル体と肉体の構築は元来健康で調和的なものであるはずだ。しかし、アストラル体が物質界から受ける影響によって、元来の調和は乱され、今日の人間は物質体に変調をきたしている。アストラル体が常に人間の内にあれば、アストラル体が宇宙の海から携えてきた調和は物質界の強力な影響によってすぐに乱されてしまう。
 眠っているあいだ、アストラル体は物質界の印象から遠ざかり、みずからの生みの親である宇宙の調和のなかに入り込んでいく。そして朝、夜のあいだに体験した若返りの余韻を携えて目覚めるのである。
                Die Theosophie des Rosenkreuzers