西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

シュタイナー語録88(その5)

2011-01-26 18:43:16 | Weblog
32 静観と逆観
 思考と感受を支配して、完全に内的に静かな時間を作る力を心魂が獲得し、その時間のなかでは日常的な外的生活の幸福と苦悩、満足と心痛、さらには課題と要求をもたらすものすべてを、精神と心魂から遠ざけねばならない。
 そのような時間に、個人的な要件から完全に離れ、自分に関することではなく、人間一般に関することへと思考を高めることができれば、大きな価値がある。高次の世界からの伝達で心魂を満たし、その伝達が個人的な憂慮や要件と同じように自分の興味を引き付けるなら、心魂は特別な成果を得るだろう。
 このような方法で、規則正しく心魂のいとなみに介入しようと努める者は、自分の要件をあたかも他人の要件であるかのように冷静に見る自己認識にいたる。自分の体験、自分の喜びと悲しみを、他人の体験のように見なすのは、精神修行のよい準備になる。毎日、仕事のあとで、昼間の体験のイメージを精神のまえに通過させると、このような自己観察が可能になってくる。
 つまり、昼間の生活における自分を、外から眺めるのである。
 昼間の体験を逆の順序で(夜から朝へと)回顧することは、霊的修行にとって特別の価値を持っている。この訓練によって心魂は、感覚的な出来事の経過のみを思考によって追っていた習慣から表象において離れることができるようになる。逆方向の思考・表象においては、感覚的な経過に捕えられることはない。そのような思考が、超感覚的世界に精通するために必要なのである。こうして、表象が健全な方法で強められる。
 自分に向かってくる人生の出来事を、内的な確かさと心の落ち着きをもって到来させ、その出来事を自分の心の状態によって判断するのではなく、その出来事の内的な意味と内的な価値によって判断することが修行者の理想になる。
 二重の意味で、超感覚的体験は精神界参入以前に立脚していた心魂の出発点に依存している。健全な判断力を精神修行の基盤にしようとしない者は、霊的世界を不正確かつ誤って知覚するような超感覚的能力を発展させることになる。
 不道徳な心魂の状態をもって霊的世界に上昇すると、霊視はぼんやりした、朦朧としたものになる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

33 薔薇十字の瞑想
 ある植物がどのように地に根付き、どのように葉が出ていくか、どのように花が開くかを表象する。この植物のかたわらに、一人の人間を表象する。いかに人間は植物より完全な特性と能力を持っているか、と心魂のなかで生きいきと考える。植物が地面に縛り付けられているのに対して、いかに人間は自分の感情と意志に従ってあちらこちらへと動くことができるか、考えてみるとよい。たしかに、人間は植物よりも完全である。しかし人間は、植物には見られない或る特性を持っており、植物はそのような特性を持っていないことによって人間よりも完全だ、と思われる。人間は欲望と情念に満たされている。人間は行動するとき、そのような欲望や情熱に従っている。植物は純粋な生長の法則に従って葉を出し、花を無垢に、清らかな太陽光線に開いている。「人間は或る点で、植物より完全である。しかし人間は、純粋な植物の力に、自分の本質のなかで衝動・欲望・情念を付け加えることによって、その完全さを手に入れたのである」と言うことができる。緑色の樹液が植物のなかを流れている。それは純粋無垢な生長法則の表現である、と表象する。赤い血液が人間の血管を流れている。それは衝動・欲望・情念を表現している、と表象する。
 ついで、いかに人間には進化の可能性があるかを表象する。いかに人間は自分の衝動や情念を、自分の高次の心魂の能力によって浄化・純化できるかを表象する。そのようにして、いかにこの衝動・情念のなかの低次のものが根絶され、いかにそれが高次の段階で再生するかを考えてみる。そうすると、血は純化・浄化された衝動と情念を表現するものとして表象されるだろう。ここで、精神のなかで薔薇を見て、「赤い薔薇の花びらのなかで、緑の樹液の色が赤に変化しているのを、私は見る。赤い薔薇は、緑の葉のように純粋で、無垢な生長の法則に従っている」と思う。薔薇の赤色は、低次のものを排除し、その純粋さにおいて赤い薔薇のなかに働く力に等しい純化された衝動と情念を表現する血の象徴になるだろう。
 生長する植物の純粋さと清らかさを表象するとき、私は至福を感じることができる。ある種の高次の完全性には、いかに衝動や情念を得ることによって到達しなければならなかったかという感情を、私は自分のなかに作り出すことができる。まえに感じた至福は、厳粛な感情に変化する。ついで薔薇の赤い液のように、純粋な内的体験の担い手になりうる赤い血についての思考に没頭するとき、解放的な幸福感が私のなかに呼び起される。
 黒い十字架を表象する。この十字架は、根絶された低次の衝動と情念の象徴である。十字架の木が交差するところに、七つの赤く輝く薔薇が円環状に並んでいる。これらの薔薇は、純化・浄化された情念と衝動を表現する。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

34 瞑想体験の意味
 あるイメージに集中することをとおして、心魂は通常の生活や通常の認識に使うよりもずっと強い力をみずからの深みから取り出してこなければならない。こうして、心魂の内的活動は強められる。心魂は、眠っているときに身体から離れるように、瞑想中も身体から離れる。しかし、眠っているときは心魂は無意識になるが、瞑想中は今まで体験しなかった世界を体験するのである。
 薔薇十字の象徴像は、もちろん、まだ精神界の現実に関連するものではない。その象徴像は、人間の心魂を感覚的知覚から、そして悟性に結び付いている脳から解き放つのに役立つものである。
 修行の道において人間が最初に体験するのは、物質体の器官からの解放である。「感覚的知覚と通常の悟性を顧みなくても、私の意識は消え去りはしない。私は物質体の器官から抜け出て、以前の私のかたわらに自分を感じる」と、修行者は思うことができる。最初の純粋に精神的な体験は、心魂的・精神的な個我存在を観察することである。この個我存在が、新しい自己として、たんに物質的感覚と物質的悟性に結び付いた自己から抜け出る。
 自己教育によってこの地点にいたった心魂が、いま述べた修行の結果現われるイメージ世界(イマジネーション)のなかで、まず自らを知覚することについて、はっきりした意識を持っていることが、霊的な修行にとって非常に重要である。イメージは、生きたものとして新しい世界に現われる。しかし心魂は、そのイメージが、修行をとおして強められた自分自身の本質が反射したものであることを認識しなければならない。そして心魂は、このことを単に正しく判断して認識するだけではなく、そのイメージをいつでも意識から遠ざけ、消し去ることができる意志を形成しなければならない。心魂は、このイメージのなかで、完全に自由で、完全に平静に活動できねばならない。
 イメージを消し去ったところに、霊的現実を認識させるものが入ってくる。
 表象を保ったあと、感覚的な外界の刺激を心魂に受けることなしに、イマジネーション表象を意識から消し去った状態にとどまることができなくてはならない。
 霊的観照を用意する瞑想表象を意識から遠ざけたとき、精神的・心魂的な観察にいたることができる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

35 インスピレーション
 イマジネーション界は動揺の世界である。いたるところに動き・変化がある。
 イマジネーション認識段階から「インスピレーションによる認識」と呼ぶことのできる認識へと発展したとき、人間は静止点に達する。
 イマジネーションをとおして、修行者は存在の心魂的表明を認識する。インスピレーションをとおして、修行者はその存在の霊的内面へと入っていく。
 インスピレーション認識なしには、イマジネーション界は、見ることはできるが読むことのできない文字のようなものにとどまる。
 インスピレーション認識をとおして、修行者は高次の世界の諸存在間の関係を認識する。さらなる認識段階をとおして、それらの存在の内面そのものを認識することが可能になる。その認識段階は、インテュイション認識と名づけられる。
 感覚存在を認識するというのは、その外部に立って、外的な印象にしたがって判断することである。精神存在をインテュイションをとおして認識するのは、その精神存在と完全に一体になり、その内面と結び付くことである。
 修行者が、感覚的・現実的事物としての黒い十字架と赤い薔薇を意識からまったく消し去り、それらの部分を組み合わせている精神の活動のみを心魂のなかに保つように試みると、しだいにインスピレーションへと導いていく瞑想の手段を得たことになる。心のなかで「十字架と薔薇を象徴像へと結合するために、私は内的に何をしたのか。私が行なったこと(私自身の心魂の経過)を、私はしっかり保とう。しかし、イメージそのものは意識から消し去ろう。そのイメージを成立させるために私の心魂が行なったことを、私のなかに感じよう。しかし、イメージそのものを、私は表象しようとしない。このイメージを創造した私の自身の活動のなかに、まったく内的に生きようと思う」と、心のなかで考えてみるとよい。
 インテュイションへの修行は、修行者がイマジネーション獲得のために没頭したイメージのみを消去するのではなく、インスピレーション獲得のために沈潜した自分自身の心魂の活動のなかに生きることもなくすよう要求する。修行者は、以前に知った外的体験・内的体験の何ものをも心のなかに有してはならない。
 心魂が内的体験と外的体験を捨て去ったとき、意識が空にはならず、それらの体験を捨て去ったあと、何かが作用として意識のなかに残るときが、いつかやってくる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

36 イメージ世界と自己認識
 感覚界の植物は、その植物について人間がどのように感じ、どのように考えようと、そのままの姿にとどまる。心魂的・精神的世界のイメージは、それらのイメージを人間がどのように感じ、考えるかによって変化する。そのことをとおして、人間は自分自身に基因する特質をそれらのイメージに与えるのである。イマジネーション界で何らかのイメージが自分のまえに現われたと考えてみよう。そのイメージに自分が無関心だと、そのイメージは一定の姿を示している。そのイメージに対して、快感や不快感を感じた瞬間、そのイメージは姿を変える。イメージは修行者の外部にあるものを表現するだけではない。イメージは修行者自身のなかに存在するものも反射するのである。イメージは修行者自身の本質に浸透されている。修行者自身の本質が、ベールのように諸存在を覆っている。たとえ現実の存在が自分のまえに現われていても、修行者はその存在ではなく、自分が作り出したものを見るのである。
 修行者が有するものすべてが、心魂的・精神的世界に働きかける。たとえば、教育や性格によって表面に出ることが抑えられている、隠れた傾向を人間が持っていることがある。それらの傾向は精神的・心魂的世界に作用する。
 修行のこの段階からさらに進歩できるために、修行者は自分と霊的な外界を区別することを学ばねばならない。修行者は自己の作用すべてを自分の周囲の心魂的・精神的世界から取り除くことを学ぶ必要がある。自分が新しい世界に持ち込むものすべてについての認識を獲得しておく以外に方法はない。最初に正しい、徹底的な自己認識を有することによって、周囲の精神的・心魂的な世界を純粋に知覚することができるのである。そのような自己認識が、高次の世界への参入に際して自然に生じることになっている。それは、人間の進化の或る事実に必然的に伴うことである。人間は通常の物質的・感覚的世界で個我・自己意識を発展させる。個我は人間に属するものすべてを引き付ける中心点のように作用する。性癖・共感・反感・情熱・意見などが個我のまわりに集まる。また、この個我が人間のカルマを引き寄せる中心である。この個我をあらわに見たら、個我が前世でどのように生き、どのようなものを習得したかにしたがって決定された運命に、個我は現世・来世でも出合わねばならない、ということに気づく。心魂的・精神的世界のなかへと上昇するとき、そのように個我に付着するものすべてを伴って、個我は最初の像として修行者の心魂のまえに現われねばならない。霊的世界の法則によって、人間のドッペルゲンガーが霊的世界の最初の印象として現われる。
Die Geheimwissenschaft im Umriss

37 いかにして前世を認識するか
 第一歩は、通常の自己認識を訓練することである。自分の人生を振り返ってみて、つぎのように問うのだ。「そもそも、私はどんな人間であったか。私は内的に熟考する傾向のある人間であったか。それとも、たえず外界の刺激を愛し、あれこれのことが気に入ったり、気に入らなかったりした人間であったか。学校では、国語は好きだったが、算数は嫌いな生徒だったか。ほかの子どもをよく殴ったが、自分は殴られないようにしていた生徒だったか。あるいは、自分が損ばかりしていて、ほかの子どもに損をさせるような要領のいい子どもではなかったか」。
 このように自分の人生を振り返り、つぎのように自問する。「知的、心情的・気分的、あるいは意志衝動において、自分には特にどのような素質があったか。どのようなことが自分は得意で、どのようなことが苦手だったか。何から逃げ去りたいと思っていたか。『そんなふうになったのは私には正しいことであった』と言えるのは、どんなことか」。
 そのように自分の人生を振り返るのは、自分の精神的・心魂的本質を親密に認識するためによいことである。とくに、自分が本来望まなかったことを、明瞭に心魂に思い浮かべるのである。
 そのように過去を振り返ってみることによって、「何を望まなかったか。何から逃れたいと思ったか」などを明らかにするのである。それが明らかになると、自分が最も気に入らなかったものをイメージできる。過去において自分が最も望まなかったものを取り出してくることが大事なのである。
 そして、つぎのような非常に奇妙な表象に没入しなければならない。「本来、望まなかったものを精力的に意志し、願望する」のである。つまり、「本来、望まなかったもの、嫌だったものを、激しく望んでいるかのように」精力的に心魂に思い浮かべるのである。
 いまある自分とは反対のイメージを思い浮かべると、「いまの人生では自分の姿として理解するのが困難なこのイメージが、自分に関わりがあるのだ。そのことは否定できない。このイメージを思い浮かべると、このイメージが自分の心魂のまえに漂い、結晶化していく。そうして、『このイメージは私に関わるものだ。だが、いまの人生に関わるものではない』ということが分かってくる」と言うことができる。
 「私が自分の意志に反してなったもののなかで、最も素質がないものを切実に望み、欲するようにしてみると、そこから得られる表象が自分の前世の像を形成する」と言うことができる。
Wiederverkoerperung und Karma

38 光の瞑想
 イマジネーション認識に参入すると、人間の内面生活は通常の意識とは異なった形態をとる。人間と宇宙との関係も変化する。
 容易に全体を見渡せる表象の複合に心魂の力のすべてを集中することによって、この変化が生じる。行法は容易に全体を見渡せるものでなくてはならない。瞑想のなかへは無意識な経過が一つでも入り込んではならない。瞑想のなかでは、すべてがもっぱら心魂的・精神的に進行しなければならない。数学の問題を解いている人は、もっぱら心魂的・精神的にその問題に取り組んでいるといえる。無意識的な、感情および意志の影響が入り込む余地はない。瞑想中も、そのようでなければならない。心魂的・精神的な集中状態に、記憶から取り出した表象を据えると、意識のなかにどれほど多くの身体的・本能的、そして無意識的・心魂的なものが入り込むかしれない。表象への静かな集中に、心魂の活動が入り込むことになるのである。
 それゆえ、瞑想の対象として、自分の心魂にとってまったく新しいものを選ぶのが最良である。精神界を熟知した師の助言を受け入れることによって、瞑想はあらゆる結果を顧慮したものになる。非常に単純で、いままで人が考えたことのないような瞑想の対象を、師は与える。瞑想の対象に、いままでに自分が経験したことがらや、感覚界のものごとに相応するようなものが入り込んではならない。外界にまったく依存しない象徴的な表象、たとえば、
「光のなかに叡智が流れつつ生きている」
という表象を把握するのである。このような表象複合に集中することが大切である。このような静寂のうちの集中によって、ちょうど仕事をすることで筋肉が鍛えられるように、精神的・心魂的諸力が強められる。一回の瞑想の時間は短くてよいが、成果が現われるまでには、長期にわたって何度も繰り返し瞑想しなければならない。数週間後には成果が現われはじめる人もいるし、何年も経ったあとで初めて成果が現われる人もいる。真の霊性探求者たろうと欲する者は、このような修行を厳密に系統立てて、集中的に行なわねばならない。
 性格を強め、内的誠実、平静な心魂のいとなみ、十分な思慮を得るように修練することは瞑想の助けとなる。このような特性が浸透して初めて、心魂は瞑想をとおして自らを徐々に人体組織全体に刻印づけていくのである。
Kosmologie, Religion und Philosophie

39 朝夕の瞑想詩
 朝 - 太陽の光が、
    暗い夜のあとに、
    一日を明るくする。
    魂の力が、
    眠りのやすらぎから
    目覚める。
    私の魂よ、
    光に感謝せよ。
    光のなかに、
    神の力が輝く。
    私の魂よ、
    勤勉に行為せよ。
 夕 - 美に感嘆し、
    真を保護し、
    高貴を尊敬し、
    善を意志する。
    それは人間を、
    人生のなかで目的へ、
    行為のなかで正義へ、
    感情のなかで平和へ、
    思考のなかで光へと導く。
    そして、存在するあらゆるもののなか、
    宇宙のなか
    魂の根底のなかで、
    神の支配を
    信頼せよと教える。
Wahrspruchworte

40 朝のマントラ
 「光の純粋な輝きのなかに、
 宇宙の神性が煌めいている。
 あらゆる存在に対する愛のなかに、
 私の魂の神性が輝く。
 私は宇宙の神性のなかにやすらう。
 宇宙の神性のなかに、
 私は自分自身を見出す」
 朝、目覚めてすぐ、他の印象が入ってこないうちに、内面を完全に静寂にする。外的な印象や思い出を排除し、苦悩や心配事から心魂を自由にする。そうして、右の朝のマントラが五分間、意識のなかに生きるようにする。
 「光の純粋な輝きのなかに、
 宇宙の神性が煌めいている」
という言葉を唱えるとき、銀色に輝く月の光のように神性が外界に注ぐのをイメージする。自分がその光に浸透され、自分のまわりにその光が流れているようにイメージする。
 「あらゆる存在に対する愛のなかに、
 私の魂の神性が輝く」
という言葉を唱えるとき、つぎのようにイメージする。外界に神性を認識しようと外界に赴いたあと、自分の内面に戻る。自分をあらゆる存在に結び付ける愛をとおして、神性とのつながりを見出し、自分自身の魂の神性を感じる。
 「私は宇宙の神性のなかにやすらう」
という言葉を唱えるとき、神性とのつながりを感じることによって、自分の内面に安らぎと平和を見出す。安らぎが自分のまわりにあり、自分に浸透する。
 「宇宙の神性のなかに、
 私は自分自身を見出す」
という言葉を唱えるとき、輝きを発する火花が、遠くから自分に光を放ち、自分はその光に向かう、とイメージする。その光のなか、神性のふところのなかに自分を見出すのである。
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41 朝晩の瞑想
朝「霊のきらめく、波打つ海の、
 光り輝く形象たちよ、
 お前たちから魂は離れる。
 神性のなかに魂は滞在し、
 神性のなかに魂は安らいだ。
 存在の覆いの領域に、
 私の個我は意識的に歩み入る」
夜「私の個我は意識的に、
 存在の覆いの領域から出て行き、
 宇宙の本質のなかに安らう。
 神性のなかへと個我は向かう。
 魂よ、この領域にいたれ。
 光り輝く形象たちの、
 霊のきらめく、波打つ海に」
 「霊のきらめく、波打つ海の、光り輝く形象たちよ」という言葉を唱えるとき、光の海をイメージする。その海のなかで、さまざまな形態が形成される。「お前たちから魂は離れる。神性のなかに魂は滞在し、神性のなかに魂は安らいだ」という言葉を唱えるとき、目覚めとともに心魂がこの光の海から浮上するのを感じる。「存在の覆いの領域に、私の個我は意識的に歩み入る」という言葉を唱えるとき、目覚めとともに身体という覆いのなかに入っていく、と考える。夜は、物質的・感覚的世界の印象から離れて、神的世界に入っていく。自分のまわりの空間、および自分のなかの空間が超感覚的な光に満たされている、とイメージする。さまざまな色に輝く光の海である。その光の海は、熱の流れに貫かれている。熱の流れの一つが自分の心のなかに流れてくる。光は神の叡智、熱は神の愛である。このように数分イメージしたあと、マントラを唱え、一日を逆に振り返る。
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42 夜と朝の瞑想
夜「宇宙の深みから、
 キリスト太陽が、
 昇ってくる。
 その光は霊である。
 その光は全てのなかに輝き、
 私のなかで霊化し、
 私の個我のなかに生きる」
朝「それは私の個我のなかに生きる。
 それは私のなかで霊化する。
 それは全てのなかで輝く。
 それは霊の光、
 それはキリスト太陽の光である。
 宇宙の深みから、
 キリスト太陽はやってくる」
 「宇宙の深みから、キリスト太陽が、昇ってくる」という言葉は、表象する。
 「その光は霊である」という言葉はは、表象しつつ感じるようにする。
 「その光は全てのなかに輝き、私のなかで霊化し、私の個我のなかに生きる」という言葉は、感じるようにする。
 「それは私の個我のなかに生きる。それは私のなかで霊化する。それは全てのなかで輝く」という言葉は、感じるようにする。
 「それは霊の光、それはキリスト太陽の光である」という言葉は、表象しつつ感じるようにする。
 「宇宙の深みから、キリスト太陽はやってくる」という言葉は、表象する。
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43 試練
 秘儀参入をとおして与えられる知識と能力を、人間は秘儀参入なしには遥かな未来に--幾度もの転生ののちに--まったく別の道で、まったく別の形で獲得できるだろう。秘儀に参入する者は、そうでなければ後にまったく異なった状況下で経験するものを、いま体験する。
 すでに今日だれかが秘儀に参入すれば、その人には、正規の進化の経過のなかで相応の秘密が伝えられるまで輪廻転生をとおして経験していくものが欠けているだろう。だから、秘儀参入の扉のところで、それらの経験が何か別のもので代替されねばならない。
 それが、修行者が体験しなければならない、いわゆる「試練」である。
 多くの人にとって通常の生活が、すでに多かれ少なかれ「火の試練」をとおした無意識な秘儀参入のプロセスである。豊かな経験をとおして自信・勇気・不屈さが健全な方法で増大し、苦痛・失望・失敗を心魂の偉大さによって、そして特に不屈の力で平静に耐えることを学んできたのである。
 修行者が秘密の文字を学んだら、さらなる試練が始まる。その試練をとおして、高次世界で自由かつ確実に動けるかどうかが明らかになる。
 この試練は「水の試練」と名づけられる。足が底に届かぬ水中での運動に際しては支えがないように、高次領域のなかでの活動においては外的な状況をとおした支えがないからだ。--志願者が完全な確実さを得るまで、この経過は繰り返されねばならない。
 人間はこの試練をとおして、自制心を形成する大量の機会を有する。それが大事なのである。秘儀参入以前に、人生をとおして自制心を獲得してきた人々には、この試練は容易になる。個人的な機嫌と恣意に左右されずに、高い原則と理想に従う能力を獲得した人、自分の傾向と感情が義務から逃れようとするときも、その義務を果たすことを心得ている人は、すでに通常の生活のただなかで無意識に秘儀に参入している。
 志願者がこのような方法で十分に前進すると、第三の試練が待っている。この試練においては、目的が感じられない。すべてが彼自身の手に置かれる。なにも自分を行動に促さない状態に彼はある。彼はまったく一人で、自分から道を見出さねばならない。彼を何かへと動かす事物や人物は存在しない。いまや、彼以外の何も、誰も、彼が必要とする力を彼に与えることはできない。この力を自分自身のなかに見出さないと、彼は以前に立っていた所にすぐ戻るだろう。
 この試練は、秘密の学院で「空気の試練」と呼ばれる。
Wie erlangt man Erkenntnisse der hoeheren Welten?

44 境域を見張る者
 精妙な体(アストラル体とエーテル体)の内部で意志・思考・感情を結ぶ糸が解けはじめると、人間は「境域の監視者」に出会う。
 「監視者」は次のような言葉で、自分の意義を語る。「いままで、君には見えなかった力が君を支配してきた。その力は、君の今までの人生の経過において、君の良い行ないには恩賞、悪い行ないには悪い結果を引き起こしてきた。その影響をとおして、君の性格が君の人生経験と思考から築かれてきた。
 カルマの諸力は、君の以前の行ない、君の隠れた考えと感情すべてを見てきた。そして、その諸力が、君が今どのようであり、今どう生きているかを決定している。
 しかし、いま、君の過去の人生の経過の良い面と悪い面すべてが、君に開示されるべきだ。それらは、いままで君自身の存在のなかに織り込まれていた。君は自分の脳を物質的に見ることができないように、それらの面を見ることができなかった。しかし、いま、それらは君から離れ、君の人格の外に出る。それらは独立した姿を受け取る。それを君は、外界の石や植物を見るように、見ることができる。--それが私なのだ。君の高貴な行ないと邪悪な行ないから、体が作られた存在だ。私の妖怪じみた姿は、君自身の人生の元帳から織られている。今まで、君は私を見ることなく自分の内に担ってきた。そうであったのは、君のために有益であった。君には隠された運命の叡智が、今まで、私の姿のなかの醜い汚れを消すために、君のなかで働いてきたからである。私が君から出た今、この隠れた叡智も君から退く。その叡智は今後、もはや君のことを構わないだろう。それは仕事を君の手に委ねるだろう。
 君が私の境界を越えたら、私の姿は一瞬たりとも君のそばから離れないだろう。君が今後、不正なことを行なったり考えたりしたら、私の姿が醜い悪鬼のように歪むのを見て、君は自分の罪をただちに知覚するだろう」
 修行者は共同体から出て行かなくてはならない。民族神霊・人種神霊固有の力を自分で身につけておかないと、個人として自分のなかに固まり、破滅に向かうだろう。
 闇から、境域の監視者のさらなる警告が響いてくる。「君自身が闇を照らし出せるのが明らかになる前に、私の境域を越えるな」。
 種族・民族・人種の神霊が、まったき姿を現わす。修行者は、いままで自分がどのように導かれてきたかを正確に見ると同時に、もはやその導きがなくなることが明らかになる。
Wie erlangt Erlenntnisse der hoeheren Welten?