西川隆範:シュタイナー教育随想

シュタイナー教育の考え方を紹介

講座案内

2011-03-01 17:28:33 | Weblog
2012年6月の講座

2日10時30分、シュタイナー浦和保育園「自由の哲学」
6日6時30分、池袋コミュニティカレッジ「シュタイナーに学ぶ精神世界の歩み方」
9日10時、久が原・ムッターゾンネ「自由の哲学」
10日10時、新松戸・天神庵「神秘学概論」
11日10時30分、若松河田地域センター・グラールの会「自由の哲学」
16日10時、東浦和・マイムマイム「子育て講座」
19日10時、鶴見クレスト東寺尾・メルクリウスの集い「心理学講義」
20日6時30分、池袋コミュニティカレッジ「シュタイナーに学ぶ精神世界の歩み方」
21日10時、逗子文化センター・海のこびと「色彩の本質」
   6時30分、神田・東京自由大学「神智学」
22日4時、国立・遊「今昔物語」
   7時、国立・桃太郎「シュタイナー自伝」
30日10時、横須賀シュタイナーこども園勉強会

プロフィール

2011-03-01 10:17:58 | Weblog
プロフィール

昭和28年、京都市に生まれる。
1982〜85年、ドルナッハ(スイス)とシュトゥットガルト(ドイツ)でシュタイナー人智学を研究。
1990〜96年、シュタイナー幼稚園教員養成所(スイス)講師。
1993〜96年、シュタイナー・カレッジ(アメリカ)客員講師。
池袋コミュニティー・カレッジ、朝日カルチャー・センター、早稲田大学オープン・カレッジなどで講義。
現在、多摩美術大学非常勤講師、自主学校〈遊〉オープン・ハイスクール講師。
嶺町幼稚園理事。東京自由大学顧問。元シュタイナー学園評議員。

おもな著書・訳書
『シュタイナー教育ハンドブック』(風濤社)
『人間理解からの教育』(筑摩書房)
『子どもの健全な成長』 (アルテ)
『教育の方法』(アルテ)
『精神科学による教育の改新』(アルテ)
『子どもの体と心の成長』(イザラ書房)
『シュタイナー教育の実践』(イザラ書房)
『シュタイナー教育の基本要素』(イザラ書房)
『シュタイナー教育小事典−子ども編』(イザラ書房)
『音楽の本質と人間の音体験』(イザラ書房)
『色彩の本質・色彩の秘密』(イザラ書房)
『健康と食事』(イザラ書房)
『こころの育て方−物語と芸術の未知なる力』(河出書房新社)
『シュタイナー芸術と美学』(平河出版社)
『あたまを育てる・からだを育てる』(風濤社)
『人間の四つの気質』(風濤社)
『こころの不思議』(風濤社)
『自然と人間の生活』(風濤社)
『人智学から見た家庭の医学』(風濤社)
『シュタイナー用語辞典』(風濤社)
『絵本・極楽』(風濤社)

共著
『いのちに根ざす日本のシュタイナー教育』(せせらぎ出版)
『家庭でできるシュタイナーの幼児教育』(ほんの木)

雑誌
『結』
「なぜシュタイナー教育なのか」
『TECO』(www.e-motorcycle.jp/u/)
「シュタイナー教育は可能か」
「今を生きぬくシュタイナー教育」
「親子というカルマ」
「シュタイナー式の教育を日本でどう活かせるか」

【著書訳書一覧】
『シュタイナー文学講義』(シュタイナー)アルテ 111125
『天地の未来』(シュタイナー)風濤社 110901
『シュタイナーはこう語った』(シュタイナー)アルテ 110525
『社会改革案』(シュタイナー)水声社 110225
『シュタイナー・キリスト論集』アルテ 101225
『神仏と人間』(シュタイナー)風濤社 101101
『シュタイナー経済学講座』(シュタイナー)ちくま学芸文庫 101010
『シュタイナー哲学講義』(シュタイナー)アルテ 100825
『からだの不思議を語る』(シュタイナー)イザラ書房 100605
『天国と地獄』(シュタイナー)風濤社 100501
『地球年代記』(シュタイナー)風濤社 091225
『ゲーテ:精神世界の先駆者』(シュタイナー)アルテ 091225
『優律思美な暮らし・華徳福ライフへの手引き』風濤社 091001
『絵本・極楽』風濤社 090701
『シュタイナー世直し問答』(シュタイナー)風濤社 090601 
『シュタイナー自伝・下』(シュタイナー)アルテ 090525
『シュタイナー輪廻転生譚』(シュタイナー)風濤社 090105
『シュタイナー自伝・上』(シュタイナー)アルテ 080925
『シュタイナー心経』風濤社(アルテ)80901
『子育てがうまくいく、とっておきの言葉』(共著)ほんの木 080805
『いかにして前世を認識するか』(新版、シュタイナー)イザラ書房 080515
『ニーチェ・同時代への闘争者』(シュタイナー)アルテ 080425
『職業のカルマと未来』(シュタイナー)風濤社 080401
『ベーシック・シュタイナー』(共著)イザラ書房 071117
『シュタイナー教育ハンドブック』(シュタイナー)風濤社 071101
『マルコ福音書講義』(シュタイナー)アルテ 071025
『心・身体を考える』(共著)ビブリオ出版 070420
『聖杯の探求』(シュタイナー)イザラ書房 060715
『色彩の本質・色彩の秘密』イザラ書房 051225
『家庭でできるシュタイナーの幼児教育』(共著)ほんの木 051220
『エーテル界へのキリストの出現』(シュタイナー)アルテ 051115
『光が形態を創造する』(モロー)青い林檎社 051020
『シュタイナーの美しい生活』(シュタイナー)風濤社 050831
『精神科学による教育の改新』(シュタイナー)アルテ 050515
『身体と心が求める栄養学』(シュタイナー)風濤社 050131
『教育の方法』(シュタイナー)アルテ 041028
『こころの不思議』(シュタイナー)風濤社 040831
『子どもの健全な成長』(シュタイナー)アルテ 040618
『自然と人間の生活』 (シュタイナー)風濤社 040331
『ゴルゴタの秘儀』アルテ 040324
『人智学から見た家庭の医学』(シュタイナー)風濤社 030930
『イエスからキリストへ』(シュタイナー)アルテ 030730
『性愛の神秘学』(ハワード、新版)アルテ 030630
『人体と宇宙のリズム』(シュタイナー)風濤社 030430
『神秘的事実としてのキリスト教と古代の密儀』(シュタイナー)アルテ 030120
『あたまを育てる・からだを育てる』(シュタイナー)風濤社 021130
『シュタイナー仏教論集』(シュタイナー)アルテ 020928
『シュタイナー用語辞典』風濤社 020730
『色と形と音の瞑想』(シュタイナー)風濤社 011130
『星と人間』(シュタイナー)風濤社 010630
『いのちに根ざす日本のシュタイナー教育』(共著)せせらぎ出版 010330
『天使たち 妖精たち』(シュタイナー)風濤社 001130
『精神科学から見た死後の生』(シュタイナー)風濤社 000720
『人間の四つの気質』(シュタイナー)風濤社 000323
『20世紀を震撼させた100冊』(共著)出窓社 980921
『シュタイナー経済学講義』(シュタイナー)筑摩書房 980725
『生き方としての仏教入門』河出書房新社 980325
『薔薇十字仏教』国書刊行会 980316
『こころの育て方−物語と芸術の未知なる力』河出書房新社 970625
『秘儀の歴史』(シュタイナー)国書刊行会 961021
『人間理解からの教育』(シュタイナー)筑摩書房 960710
『見えないものを感じる力−天使・妖精・運命』河出書房新社 960510
『スピリチャル・セッション』(共著)たま出版 951225
『あなたは7年ごとに生まれ変わる』河出書房新社 950920
『心理学講義』(シュタイナー)平河出版社 950915
『死後の宇宙生へ』廣済堂出版 950910
『魂の隠れた深み』(シュタイナー、共訳)河出書房新社 950220
『歴史のなかのカルマ的関連』(シュタイナー)イザラ書房 940915
『シュタイナー教育の実践』(シュタイナー)イザラ書房 940524
『カルマの形成』(シュタイナー)イザラ書房 940408
『シュタイナー教育の基本要素』(シュタイナー)イザラ書房 940115
『瞑想と祈りの言葉』(シュタイナー)イザラ書房 931225
『カルマの開示』(シュタイナー)イザラ書房 931210
『いかにして前世を認識するか』(シュタイナー)イザラ書房 931210
『霊視と霊聴』(シュタイナー)水声社 931205
『泉の不思議』(シュタイナー)イザラ書房 930925
『音楽の本質と人間の音体験』(シュタイナー)イザラ書房 930325
『色彩の秘密』(シュタイナー)イザラ書房 930315
『秘儀の世界から』(ベック)平河出版社 930310
『いまシュタイナーの民族論をどう読むか』(共著)イザラ書房 921130
『子どもの体と心の成長』(ハイデブラント)イザラ書房 921115
『西洋の光のなかの東洋』(シュタイナー、新版)水声社 921110
『神秘学概論』(シュタイナー)イザラ書房 921030
『世界史の秘密』(シュタイナー、新版)水声社 920930
『人智学指導原則』(シュタイナー、新版)水声社 920920
『インドの叡智とキリスト教』(ベック)平河出版社 920905
『民族魂の使命』(シュタイナー)イザラ書房 920820
『シュタイナー教育小事典−子ども編』(編訳)イザラ書房 920815
『病気と健康』(シュタイナー)イザラ書房 920425
『健康と食事』(シュタイナー)イザラ書房 920220
『アントロポゾフィーと仏教』シュタイナーハウス出版部 911218
『シュタイナーの宇宙進化論』イザラ書房 911215
『ルカ福音書講義』(シュタイナー)イザラ書房 910930
『釈迦・観音・弥勒とは誰か』(シュタイナー他) 水声社 910920
『神智学の門前にて』(シュタイナー)イザラ書房 910910
『創世記の秘密』(シュタイナー)水声社 910810
『いま、シュタイナーをどう読むか』(共著)イザラ書房 910730
『黙示録の秘密』(シュタイナー)水声社 910410
『神秘主義と現代の世界観』(シュタイナー)水声社 890810
『輪廻転生とカルマ』(シュタイナー)水声社 881215
『四季の宇宙的イマジネーション』(シュタイナー)水声社 880630
『芸術と美学』(シュタイナー)平河出版社 870515
『西洋の光の中の東洋』(シュタイナー)創林社 870331
『シュタイナー思想入門』水声社 871230
『性愛の神秘学』(ハワード)創林社 861020
『秘儀参入の道』(シュタイナー)平河出版社 860715
『世界史の秘密』(シュタイナー)創林社 860707
『第五福音書』(シュタイナー)イザラ書房 860420
『仏教の霊的基盤』書肆風の薔薇 851115
『霊界の境域』(シュタイナー)水声社 851110
『仏陀からキリストへ』(シュタイナー)水声社 850720
『人智学指導原理』(シュタイナー)日本人智学協会 8505
『薔薇十字会の神智学』(シュタイナー)平河出版社 850205
『蓮華の書』(コリンズ)水声社 830715

シュタイナー語録88後編(その3)

2011-02-02 11:56:01 | Weblog
81 人体の三部分


 人間の身体を考察するとき、そこに三つの系を区別しなければならない。
 第一の系については、人間はおもに頭部に位置する神経・感覚系を有している、と言うのが最もよいだろう。
 第二の系は律動系である。これは、呼吸・血液循環を包括する。また、律動的な消化活動なども含む。
 人間の第三の系は、運動系・四肢系・新陳代謝系であり、それらは関連している。手足の動きによって新陳代謝が促進され、また、手足は内に向けていつも有機的に新陳代謝器官と関連している。
 律動系は中間にあって、神経・感覚系と新陳代謝・四肢系の対極的な活動の均衡を作り出している。
 このように、人間の三つの系を区別できる。特に頭部に集約されている神経・感覚系、特に胸部に集約されている律動系、四肢と新陳代謝器官に集約されている新陳代謝・四肢系の三つである。 神経・感覚器官に働きかけるか、または律動系あるは新陳代謝・四肢系に働きかけるとき、どのような方法で治療すべきかを知ることが基本的に重要になる。
 口から飲んで胃に入れると、薬は新陳代謝系に働きかけ、新陳代謝系が他の系に働きかける。
 特に律動系に働きかけるような方法で摂取すべき薬もある。注射される薬は、律動系に働きかける。
 薬湯、塗り薬、マッサージのときに用いる薬、つまり、より外的な方法で用いる薬は神経・感覚系に働きかける。
 健康と病気には、自然の薬が作用するだけではない。いかに心魂が作用するかが重要である。精神的・心理的な方法を治療に生かすことができるのである。
 精神病は精神的な方法で治せると思いがちである。精神病には、心理的・精神的な方法はほとんど効果がない。いわゆる精神病の場合、心魂が外的な印象に対して閉ざされている。いわゆる精神病には、肉体的な病気が隠れているのが常である。
 肉体器官を治療することによって、有益な効果が期待できる。
 肉体的な病気の場合、精神的・心理的な方法は、薬その他の外的な方法による治療プロセスを助けることができる。
Anthroposophische Menschenerkenntnis und Medizin

82 病気のさまざま
 個我と関係する病気、個我の外的な表現である血液と関係する病気は、基本的に慢性病になる。
 慢性病は遺伝するものである。だから、その治療に際しては、その人が周囲からどんな直接的・間接的影響を受けているか、明らかにしなければならない。そのようにすると、たとえば、その人を今とは違った自然環境のなかに置くべきだ、ということが分かるかもしれない。あるいは、仕事を変えたほうがいいと忠告すべきだ、ということが分かるかもしれない。
 つぎに、アストラル体の不規則性に原因のある病気を考察しよう。その病気は、神経系の不能として現われる。急性の病気の多くは、アストラル体の不規則性に関連している。
 このような病気の場合、まず食養生をする必要がある。消化のあり方を変えるのである。
 私たちの周囲の大宇宙と、私たちの内部という小宇宙は照応している。どの食べものも、私たちの器官と関連を持っている。
 一部は慢性で、一部は急性という病気がある。そのような病気はエーテル体、およびエーテル体の表現である腺組織と関連している。そのような病気は、遺伝とは関係がない。その病気は、民族・種族・人種と関係するところが多い。
 神秘学的な医学においては、それぞれの臓器が天体と結び付けられている。
 心臓−太陽
 脳−月
 脾臓−土星
 肝臓−木星
 胆嚢−火星
 腎臓−金星
 肺−水星
 個我に原因のある病気の場合、心理的な方法が最も効果がある。
 アストラル体の不規則性をとおして発生した病気を考察しよう。心理的な方法は、適応可能ではあるとしても、それほど大きな意味はない。
 エーテル体に原因のある病気の場合には、医薬によって治癒プロセスを支えることが正しい。
 四番目に、物質体に原因のある病気がある。それが伝染病である。
 五番目の病気がある。それは、人間のカルマに由来する病気である。
Geisteswissenschaftliche Menschenkunde

83 ルシファーとアーリマンと病気
 地球進化のある時期に、ルシファー的な力が人間の進化のなかに入ってきた。
 このことをとおして、人間のアストラル体に個我が適切な仕方で働きかけるまえに、ルシファー的存在から流れ出たものが植え付けられた。そのために、ルシファー的存在の影響は、特に私たちのアストラル体に作用するものであった。
 ルシファーの影響がなかった場合よりも、人間は激情や情念や欲情から行動するようになった。この影響の結果、人間はその影響がなかった場合よりも深く欲望世界に没頭することになった。
 ルシファーの影響がなかった場合よりも深く、人間はルシファーの影響によって身体のなかに進入し、自分を身体と同一視するようになった。
 こうして、地上世界に向けられた人間のまなざしは濁り、外界の印象にアーリマンの影響が混ざるようになった。このことをとおしてのみ、アーリマンは人間に介入することができ、外界を幻影にすることができたのである。
 ルシファーは情念と激情をとおして人間のアストラル体に働きかけ、アーリマンは外界に関する錯誤・誤謬をとおして外から人間に進入する。
 生まれてから死ぬまでに道徳的判断・悟性的判断に従ったことすべてが人間存在の地下に下り、欲界期ののちに来世に対して構築的に働いて、造形的な力のなかに刻印される。そして、その力が物質体・エーテル体・アストラル体を作り上げる。こうして、アーリマンへの帰依から発する誤謬は、エーテル体から人間に感染する病気の力になる。放縦、すなわち人生において道徳的判断に委ねられることがらは、むしろアストラル体から働きかける病気の原因になる。
 通常の場合よりも深くアストラル体が物質体およびエーテル体のなかに入り込むと、朝の目覚めのときに個我が物質体とエーテル体のなかに下るのと同様のことを、アストラル体が行なうことになる。
 病気とは、アストラル体が人間のなかで異常に目覚めている状態である。同様に、エーテル体はあまりに深く物質体のなかに下ると、異常な方法で目覚める。
 ルシファーに敵対する力が、ルシファーの影響下に生じた過程に苦痛を付け加える。
 ルシファーの影響に際して、痛みが対抗作用を行なうように、アーリマンの影響に対抗する作用が現われる。破壊過程が生じるのである。器官の破壊は、良い力によって引き起こされているのだ。
Die Offenbarungen des Karma

84 食べものについて
 菜食は、脂肪分の多いものではありえない。人体は自分で脂肪を製造する能力を有しており、「脂肪でないものから脂肪を作る」ように要求される。つまり、菜食にすると人間は内的に活動を展開しなければならず、脂肪の製造に必要なものを使い尽くすよう、内的に努力しなければならない。動物性脂肪を摂取すると、そのような活動が省かれる。
 唯物論者は、「努力なしに、たくさんの脂肪を得られるなら、それは人間にとってよいことだ」と言う。精神的な立場からは、「内的活動こそ、内的な生命本来の展開だ」と見なくてはならない。自分で脂肪を作り出す力を呼び起こす必要があるとき、その内的活動のなかで、個我とアストラル体が物質体とエーテル体に対して主導権を持つ。動物性脂肪を摂るなら、その結果、自分で脂肪を作り出す労力は節約できる。しかし、菜食にして、みずから活動する機会を得るなら、人間は自由になり、自分の身体の主人になる。
 私たちが動物界から自分のなかに受け入れるものは、動物の物質的な脂肪と肉だけではない。動物のアストラル体が行なったものも、一緒に受け入れるのである。
 菜食でアストラル体の無垢の力を呼び起こすとき、私たちは自分の内的活動力を完全に呼び出す。
 自分がまだ十分に強いとは感じられず、「自分のアストラル体にはすべては行なえない」と思われるときは、肉食によって支えが得られる。
 「人間が内的にますます自由になるのは、植物から得る素材のおかげだ」と言うことができる。
 物質的に生を味わい尽くすために自らの特性を発展させようと努める戦闘的な民族は、どんな生活をしているだろうか。彼らは原則的に肉食をしているのが分かる。
 その反対に、特に性格を内面化し、瞑想的なあり方をしている民族は、もっぱら菜食にしているのが分かる。
 菜食にすると人間は内面的になり、自立して、自分の存在全体を導けるようになる。菜食中心にすると、自分の内的な力が優勢になり、視野が広くなる。肉食中心の人は狭い範囲の領域に縛りつけられて、一面的に硬直するようになる。
 肉食を完全にやめた場合に、すべてをアストラル体から遂行するだけの力を持たない人に、ミルクは適している。
Ernaehrungsfragen im Lichte der Geisteswissenschaft

85 飲みものについて
 アルコールを取り上げてみよう。アルコールは植物から作られるものだ。人間が自分の中心点たる個我の力によって遂行しなくてはならないことを、アルコールは植物を通して外的に引き起こす。
 人間がアルコールを享受すると、通常なら個我から発する活動をアルコールが取り去ってしまう。これは、精神科学によって認識された事実である。
 アルコールは個我の活動を模倣する。しかし、そのようにして内的な自己の代理物を作り出す分だけ、人間はアルコールに従属した者になり、奴隷になる。アルコールを控えていれば、個我の最良の力を活動させるのに適していたはずの人間が、そうなってしまう。アルコールという壁がなければ個我自身が行なっていたはずのものが、この壁の背後で行なわれるようになるのである。
 多くの食品が独特の作用を人体に及ぼす。例えば、コーヒーである。コーヒーには、意味深い作用がある。コーヒーの作用は、アストラル体にまで及ぶ。カフェインによって、私たちの神経組織は、普段なら内的な力を通しておのずから生じる活動を、コーヒーの作用によって行なうことになる。「いかなるときにも、人間がすべてをアストラル体から行なうのはよいことだ」とは、だれも言えない。
 コーヒーも植物界から採られた製品だが、外的に植物プロセスをすでに一段高めている。その結果、コーヒーは人間の活動の一部を取り去る。神経活動における首尾一貫性と論理性すべてがコーヒーに担われるようになる。そうなると、人間は論理的関連、一つの思考への集中力をコーヒーに委ねることになり、人間本来の内的な力は弱まる。
 コーヒーを飲みながら世間話をすると、なにかを完全にこき下ろすまで、一つの対象に思考がとどまる。それは機知ではなく、コーヒーの作用なのである。
 お茶・紅茶は正反対の作用を生じさせる。特に濃い茶を飲むと、思考は飛び散り、明るくなる。茶の強い作用は、機知ある思考、まばゆい思考を輝かせるが、その思考の個々の部分は軽々しいものになる。
 コーヒーの力に援助された人は、一つの思考を別の思考へと精密に並べていく。
 茶は、その反対である。コーヒーを飲みながら世間話をすると、コーヒーは悪い意味で論理的に作用する。茶の場合、思考はばらばらになる。だから、茶が外交的な飲み物として好まれるのは、理由のないことではない。
Ernaehrungsfragen im Lichte der Geisteswissenschaft

86 労働とは何か
 「外的な状況を変えれば、すべてが達成される。人類を脅かすものからは、法律によって守られる」というのが、今日の人々の基本的な確信である。
 原因と作用のように、利己主義は困窮に関連している。人間の生活、社会秩序のなかで、利己主義は生存競争をもたらす。生存競争は、社会的な困窮と悲惨の出発点である。
 「自分の労働に対して報酬が支払われるのは当然だ。自分の仕事から、所得を個人的に得るのは当然だ」と、人々は言う。それは、利己主義を経済活動のなかに置き換えたことにほかならない。 「私たちは個人的に報酬を支払われねばならない。私が働いた分は、私に支払われねばならない」という原則を生きているかぎり、私たちは利己主義の下にある。
 ある人が無人島に移った、と考えてみよう。その人は、自給自足しなければならない。
 しかし人間は、ただ働かなくてはならないのではない。その労働に何かが付け加わらなくてはならない。もし、労働が単なる労働だったら、場合によっては、その労働はまったく無益なものでありうる。
 こうして、「労働そのものが生活に意味を持つのではなく、賢明に行なわれる労働が意味を持つのだ」という非常に重要な定理にいたる。
 私が全体への奉仕のために労働し、私が必要とするものを全体が私に与えるときにのみ社会は進歩できる、というのが本当である。自分の労働を自分のために用いないことによって、社会は進歩する。
 自分の仕事の収益を個人の報酬という形で得ようとしないことによって、社会の進歩が可能になる。「自分の労働からは自分のために何も得ようとするべきでない。自分は社会共同体に対して労働する責務がある」ということを知っている人は、事業をまったく異なった目的に導く。自分のために何も要求せず、社会共同体から自分に贈られるものによってのみ生計を立てるのである。
 このように、労働への衝動は報酬とは別のところになくてはならない。「賃金を労働から切り離すこと」が社会問題の解決になるのである。
 人々がもはや「生活が保障されるなら、私は怠けられる」と言わなくなる衝動を人間のなかに目覚めさせるのが、精神に関係する世界観なのである。
Die Weltraetsel und die Anthroposophie

87 経済
 経済活動のなかで何百年も発展してきたものを真剣に考察すると、経済学において「分業」という名で総括されるものの意味が明らかになる。
 分業の原則からは、「完全な分業がなされる社会有機体のなかでは、だれも自分のために何かを生産することはできない」という結論が出てくるにちがいない。
 純粋な経済活動においては、生産、消費、および生産と消費のあいだの流通にのみ人々は関わる。
 生産されたものは、流通することによって商品になる。
 もし私がどこかの土地を管理しなければならないとしたら、私の能力に従って管理できるだけである。そのことをとおして、土地の価格は変動する。私が管理する資本に関しても同様である。
 この事実の意味を実際的に研究する者は、「商品と、土地および資本とのあいだには、根本的な差異が存在する」と言うにちがいない。
 土地は経済活動のなかで、商品とは異なった扱いをされねばならない。
 本当の経済的判断は、経済活動に携わっている人々の合意からのみ生じる。個々人が部分的認識として得る認識は、他の人々の認識によって洗練されることによって妥当な判断になる。
 三つの領域が比較的独立して元来の性質を発展させれば、正しい意味で統一体へと協同できることを、まともな社会生理学は明らかにするだろう。精神領域と、人間が人間として他の人に向き合う法律・国家領域と、連合体へと前進しなくてはならない経済領域の三つである。
 精神領域は、それ独自の基盤から管理されねばならない。たとえば教師は、授業の管理者であるべきだ。だから私たちは、一方に教育学があり、他方では授業内容に関する政治的組織の指令に従う、というふうに分離しない。
 政治・国家領域では、すべてが人間と人間との了解を得て、適切な管理制度のなかで生起する。
 経済領域では、すでに述べたように、連合体が形成されなくてはならない。
 経済活動を刻々と実際的に研究する連合体ができれば、そこで観察の中心となるのは、いかに価格が上下するかということだ。連合体が価格の上昇下降を取扱い、審議することによって、十分な数の人間が経済的連帯を形成し、十分な数の人間が生産部門に携わるように按配される。
 社会生活において製品・商品の正当な価格とは、生産者が同じ製品を再び作り出すまで、本人と家族が生計を立てられ、必要なものを調達できる可能性を与えるものである。
Die Wirklichkeit der hoeheren Welten

88 泉の不思議 −「四つのメルヘン」より
 昔、ひとりの少年がいました。貧しいきこりのひとり子で、森の孤独のなかで育ちました。両親のほかには、わずかの人しか知りませんでした。体が弱く、肌は透けるようでした。その目は、深い精神の不思議を秘めていました。
 少年のまわりには、わずかの人しかいませんでしたが、友だちにはことかきませんでした。近くの山々に太陽が黄金の光を投げかけるとき、少年のもの思いにふけった目は、霊の黄金を魂のなかに吸い込みました。少年の心は朝の太陽のようでした。けれども、黒い雲が太陽の輝きをさえぎり、山々が暗い気分に覆われるとき、少年の目は曇り、心は悲しみに満ちました。
 このように少年は、自分の狭い世界の動きに夢中でした。花冠や萼や梢から、精霊たちが話しかけました。その囁きが、少年には分かりました。生命がないと人々には思われているものと、少年の魂が語り合うとき、秘密の世界の不思議が、少年に打ち明けられるのでした。
 夕暮れ時に、愛する息子がいないのに気づいて、両親が心配することがよくありました。そんなとき少年は、岩から泉が湧いていて、水のしずくが石の上で細かく飛び散るところにいました。魔法のようにキラキラと輝く色が戯れ、月の光の銀色の輝きが、水のしずくの流れのなかに映るとき、少年は何時間も岩の泉のところに座り込んでいました。少年が見ていると、水の動きと月の光のなかに、さまざまな形が精霊のように現われてきました。その形は三人の女の人になりました。この三人の女の人は、少年の魂が聞きたいと思っていることを語ってくれました。
 ある和やかな夏の夜、少年がこの泉のまえに座っていると、三人の女の人の一人が、色とりどりの何千ものしずくの粉を、二番目の女の人に渡しました。この女の人はしずくの粉から銀色に輝く杯を作り、それを三番目の女の人に渡しました。三番目の女の人は、この杯に月の銀色の光を満たして、少年に渡しました。
 夜、夢のなかで、少年はその続きを見ました。恐ろしい竜が、この杯を少年から奪ってしまうのです。
 この夜ののち、少年はもう三度だけ、泉の不思議を見ました。そのあとは、月の銀色の光に照らされた岩の泉に、もの思いに耽って座っていても、三人の女の人たちはやってきませんでした。
 三度、三六〇週が過ぎ去ったとき、少年はもう大人になっていて、両親の家と森を出て、見知らぬ町に引っ越しました。そこで、ある夜、彼はつらい仕事に疲れて、「これから先、何があるのだろうか」と考えました。
 突然、彼は岩の泉のことを思いました。彼はふたたび水の女たちを見、今度は、女の人たちが話すのを聞くことができました。
 一番目の女の人が言いました。「さびしいときは、いつも私のことを考えなさい。私は人間のまなざしを、エーテルの彼方と星の彼方に誘います。私を感じようとする者に、私は魔法の杯から、いのちの希望の飲みものを差し出します」
 二番目の女の人が言いました。「人生の勇気がなくなりかけたときは、私のことを忘れないでいなさい。私は人間の心の欲求を、魂の奥底と精神の高みに導きます。私のもとに力を求める者に、私は魔法の小槌で、人生を信じる力を作り上げます」
 三番目の女の人の声は、このように聞こえました。「人生の謎のまえに立ったとき、あなたは精神の目を私に向けなさい。私は思考の糸を、人生の迷路と魂の深みのなかで紡ぎます。私を信頼する者に、織物台の上で、人生の愛の輝きを織ります」
 その夜、夢のなかに、その続きが現われました。恐ろしい竜が彼をぐるりと取り囲みました。けれども、竜はそれ以上、近づけませんでした。昔、岩の泉で見、彼とともに故郷から見知らぬ土地に引っ越した女の人たちが、竜から守っていてくれるのでした。
Vier Mysteriendramen 

シュタイナー語録88後編(その2)

2011-02-02 11:49:45 | Weblog
75 さまざまな芸術
 建築における素材組み立ての法則は、すべて人体のなかに見出される。人体の法則を空間内に投影したものが建築である。
 エーテル体は物質体に結合している。建築作品を見るとき、私たちは「垂直と水平、および物質体内に働いている諸力の関係が空間のなかに据えられている」と言うことができる。
 私たちはアストラル体から溢れ出るものを、外にではなく、私たちの内部で、エーテル体へと運び込むことができる。私たちの本質から切り離して空間に据えるのではなく、私たちの内に移動させるのである。これが遂行されると、ちょうど建築に物質体の法則が投影されるように、エーテル体がアストラル体から受け取った、エーテル体の法則が物質化される。
 私たちの物質体から建築が発生したように、エーテル体から彫塑・彫刻が発生する。
 建築において物質体の法則を空間へと押し出したように、彫塑・彫刻において、エーテル体の法則を一段下にずらすのである。エーテル体の法則を私たちから切り離すのではなく、私たちの形姿のなかに入れ込むのである。建築が物質体の法則を私たちの外部に形成したものであるように、彫刻はエーテル体の法則を含むものとして、私たちの内部に探求される。
 アストラル的なものを一段下げてエーテル体のなかに移すと、すでに内的に人間のなかに生きているものを下に押しやることになる。
 エーテル体はリズムであり和音であるので、エーテル体のなかに移行するときに、アストラル体は空間的なものを持ち込むことはできない。ここで生まれるのは絵画である。建築が物質体の法則を内包し、彫刻がエーテル体の法則を内包するように、絵画はアストラル体の法則を内包する。
 つぎに、人間の第四の構成要素である個我を見てみよう。個我の法則をアストラル体のなかへと下げ、そのなかで運動・活動させると、別の芸術が生まれる。
 私たちは意識の地平をもって人間の構成要素の半段階下に、つまり個我をもってアストラル体のなかに沈潜することをとおして音楽が生まれるのである。
 音楽は個我の法則を含んでいる。日常生活における個我の法則ではなく、意識下、アストラル体に移行した形で個我の法則を内包しているのである。個我はアストラル体の表層の下へと潜り、アストラル体の法則性のなかを漂い、波打つ。
Kunst im Lichte der Mysterienweisheit

76 影の色
 あらゆる活動と生命のなかに心魂的なものを見てみよう。そうすると、多彩な色彩の世界が一個の世界になる。そして次第に、世界をアストラル的に把握することに慣れていく。
 植物のなかには、死んだ地上的素材が組み込まれている。しかし、この死んだ地上的素材は、本当は活気あるものなのだ。
 それらの素材が植物のなかに生き、活動している。いかに生命が死と闘い、死をとおして植物の像を創造したかを見ると、緑を「生命の死んだ姿」として知覚できる。
 つぎに人間を見てみよう。自然を見ると、健康な人間に最も似たものとして、春の桃の花の色が目に入る。この桃の花のような淡紅色のなかに、人間の内的な健康が表現されていると感じられる。淡紅色のなかに、生きいきとした、心魂が与える健康が見られる。
 植物の緑色を生命の死せる姿と感じるように、健康な人間の桃の花のごとき淡紅色のなかに、私たちは「心魂の生きた姿」を感じる。
 光のなか、白い空間のなかで目を覚ますと、私たちは個我を感じる。闇のなか、黒い空間のなかで目を覚ますと、自分を世界に疎遠なものと感じる。
 白は光に近いものだ。いかに個我が空間のなかで、白に面して内的な力を燃え立たせるかを感じてみよう。そのように感じて、思考を抽象的なものではなく、生きいきとしたものにすると、「白は精神の心魂的な現われである」と言うことができる。だから、白に面すると、「これは精神を意味している」と感じるのである。
 黒はどうだろうか。黒を見ると、黒は「死者の精神的な姿」に最も近いと感じられる。私たちの精神が黒い闇のなかで目覚めていなければならないとしたら、私たちは自分が殺され、麻痺したと感じる。黒は死者の精神的な像だ、と感じるのである。
 こうして、一つの円が形成される。どのように叙述しなければならなかったか、注意してほしい。緑は生命あるものの死せる姿である。私は生あるものの下に立ち止まった。桃の花のような色、淡紅色は心魂の生きた姿である。私は心魂の下に立ち止まった。白は精神の心魂的な像である。私は心魂の下に立ち止まり、精神に上昇する。黒は死者の精神的な像である。私は精神の下に立ち止まり、死者に上昇した。そして、緑が生命あるものの死せる像なので、元に戻る。ふたたび死者に戻り、円が閉じられる。
Das Kuenstlerische in seiner Weltmission

77 輝きの色
 淡紅・緑・黒・白を「像の色」あるいは「影の色」と言うことができる。反対に、赤・青・黄を「輝きの色」と呼ぶことができる。
 いかに世界は赤・青・黄の三色によって輝いているかを感じ取ると、「赤の輝きのなかに、私は特に生きたものを見る」と思うようになる。私たちが赤に向かい合うとき、生命的なものがみずからを私たちに開示しようとする。
 赤を「生命の輝き」と名づけることができる。
 精神が、たんに白として抽象的な一様性をもってみずからを開示しようとはせず、私たちに内的・集中的に語りかけようとするとしよう。その語りかけを私たちの心魂が受け入れようとすると、精神は黄色に輝く。
 黄色は「精神の輝き」である。
 心魂が内的であろうとし、そのことを色彩で芸術的に表わそうとすると、心魂は外的な現象から離れて、みずからの内部で完結しようとする。そうすると、青の穏やかな輝きが現われる。
 青の穏やかな輝きは「心魂の輝き」である。
 赤は生命の輝き、青は心魂の輝き、黄は精神の輝きと感じるところまで来た。いかに世界は淡紅・緑・黒・白という像の色と、赤・青・黄という輝きの色から成り立っているかを感じ取ろう。そうすると、私たちは色彩のなかに生き、感情で色彩を理解する。
 個々の色が私たちに何を語ろうとしているのか、感じ取れるようになる。青は心魂の輝きである。面に青を塗るとき、まわりを濃く塗って、中央は薄く塗らないと、落ち着かないはずだ。
 反対に、黄色を塗って、黄色に何かを語らせようとするなら、中央を濃く塗って、まわりを薄く塗る。そのように、色そのものが要求する。このように、色のなかに生きるものが、しだいに私たちに語りかけるようになる。色彩から形態を生み出すのである。色彩世界のなかから、感じながら描くのだ。
 このような仕方で世界を色彩として体験し、光輝く白い形態、つまり精神のなかに生きる形態を表わそうとすると、その形態を周囲にいくほど薄くなる黄色以外の色で表わすことは思いつかない。感じやすい心魂を衣服によって表現するには、内に向かって穏やかになる青を用いて衣服を描くほかに方法はない。
Das Kuenstlerische in seiner Weltmission

78 色彩の秘密
 赤い世界を漂い、赤と一体になり、心魂も世界も赤になると、赤い世界も赤い私たちも神の怒りの実質に貫かれる、と感じざるをえない。神の怒りがあらゆる方向から、私たちのなかにある悪と罪の可能性すべてを照らし出すのだ。
 私たちの心魂のなかに何かが現われ、自分を唯一無限の赤のなかに体験するとき、人は祈ることを学ぶ。赤のなか、神の怒りの放射と灼熱のなかで、心魂のなかの悪の可能性を体験し、赤のなかで祈ることを学ぶと、赤の体験は無限に深いものになる。
 ついで、私たちは善を放射する存在、善と慈悲に満ちた神を空間のなかで感じたい、と思う。
 善と慈悲が現われるまえ、赤は中心に集中していた。いまや善と慈悲が空間のなかに現われ、雲のように散っていく。慈悲によって赤は退く。私たちは、「赤が散っていかなければならない」と感じる。そして、「中央に赤紫をかすかに暗示し、それが放射して、飛び散る赤になる」という感情を持つ。
 橙色と一体になると、「橙色のなかで感じ、橙色のなかに生きることをとおして、私たちは世界のなかで強くなっていく。私たちは裁きに打ち砕かれるのではなく、力を得るのだ」と感じる。そのように、私たちは橙色とともに世界のなかで生きる。私たちは事物の内面を把握し、その事物と結合したいという憧れを持つ。私たちは橙色のなかに生きることをとおして、事物の内面を認識したいという憧れを持つのである。
 黄色の体験をとおして、私たちは時のサイクルの初めに戻ったように感じる。「いま私は、自分が初めて地上に受肉したときに私を創造した力のなかに生きている」と感じる。
 緑と一体になり、緑とともに世界を通過していくとする。緑の草原を見渡し、ほかのものから目をそらして、ただ緑の草原に集中し、緑の草原のなかに沈潜する。緑を色の海の表面だと見なして、緑のなかに潜っていく。そのように世界のなかに生きることを試みると、現世における内的な力が強化される。内的に健康になるのが体験できる。しかし同時に、内的に利己主義になり、内面の利己的な力が刺激されるのを体験する。
 青の平面に関して同様のことを行ない、世界を進んでいくと、青とともにどこまでも進んでいく必要を感じる。利己主義を克服し、大宇宙的になり、帰依の感情を発展させる。神の慈悲がやってくることによって、この表象にとどまることができれば、至福を感じる。そのように世界を進むと、神の慈悲によって恵みを与えられるのを感じる。
Das Wesen der Farben

79 長調と短調
 音楽にとっては、感受的心魂と感受体の共同が特別の意味を持っている。あらゆる意識は外界を克服することによって生じる、ということを知らねばならない。快感・喜びとして人間に意識されるものは、精神的なものが身体的・生命的なものに打ち勝ったこと、感受的心魂が感受体に打ち勝ったことを意味している。
 内的な振動をもって眠りから戻ってきた人間には、気分が高まり、感受的心魂が感受体に打ち勝つのを知覚できる可能性がある。心魂が自らを、身体よりも強いと感じることができるのだ。人間は短調の作用において、いかに感受体の振動が強いかを知覚することができ、長調において、感受的心魂がより強く振動して感受体を圧倒しているのを知覚できる。短三度だと、心魂の痛み、感受体の優勢が感じられる。長三度では、心魂の勝利が感じられる。
 音楽の深い意味が何に基づくのか、内的な事物の関連を知っている人すべてがなぜ芸術のなかで音楽に最高の位置を与えたのか、内的な事物の関連を知らない人もなぜ音楽を特別視するのか、音楽はなぜ私たちの心魂のなかで最奥の感情に触れるのか、それらが理解できるようになる。
 眠りと目覚めの交替のなかで人間が物質界からアストラル界へ、アストラル界から神界へと移行するとき、そのなかに私たちは人間の受肉-離肉過程の模像を見る。死に際して物質体を捨て、アストラル界を通って神界へと人間は上昇していく。神界に人間は本来の故郷を見出す。神界が人間の休息の場所なのである。神界における祝祭的な休息期間ののち、ふたたび物質界に下っていく。人間は絶えず一方の世界から他方の世界へと移行しているのである。
 人間は神界に属すものを、自分の故郷、自分特有のものと感じる。
 アストラル的なもの、物質的なものは、たんなる覆いのように感じられる。神界のなかに人間の本来の故郷がある。そして、この故郷、神的・霊的世界からの残響が、物質界のハーモニーとメロディーのなかに響いている。ハーモニーとメロディーは、この低次の世界を崇高で素晴らしい存在の予感で貫く。ハーモニーとメロディーは人間の最奥の本質を揺さぶり、この世が与えることのできない純粋な喜びと崇高な精神性の振動で人間の最奥の本質を震わせる。
 絵画はアストラル体に語りかける。音の世界は人間の最も内面に語りかける。秘儀に参入していない人間には、人間の故郷である神界はまず音楽のなかで与えられるのだ。このような関連を予感する人すべてが、音楽を高く評価するのである。
Das Wesen des Musikalischen und das Tonerlebnis im Menschen

80 音程の体験
 アトランティス人は三度・五度を体験することがなかった。七度を感じるときに音楽体験を持ったのである。彼らにとっては、最も狭い音程が七度であった。彼らは七度以上の音程を聞き取っていたのである。三度・五度の音程を、彼らは聴き落とした。三度・五度は、彼らには存在しなかった。
 そのために、音体験は今日とはまったく異なったものであった。心魂は音に対して、今日とはまったく異なった関係を持っていた。アトランティス人のように、中間の音程なしに、ただ七度のなかに生きるとしよう。そうすると、人間は音楽を、自分のなかに経過するものとして知覚しない。自分の身体から外に出て、宇宙のなかで音楽を知覚したのである。
 アトランティス人の音楽知覚は、そのようなものであった。七度の音程の発生に自分が関る、と言うことはできなかった。宇宙をとおして活動する神々が七度のなかに開示するように感じたのである。「私が音楽を奏でる」という感覚はまったくなかった。「私は神々が作った音楽のなかに生きる」としか言えなかった。
 本質的に五度の音程のなかに人間が生きるようになったポスト・アトランティス時代にも、このような音楽体験がまだ存在していた。それを、今日の五度体験の感受と比較することはできない。今日の人間は、「五度は満たされていない外界という印象を与える」と感じる。五度は現代人にとって、なにか空虚なものである。神々が人間から退いたことによって、五度は空虚になったのである。
 ポスト・アトランティス時代になっても、五度の音程を耳にすると、五度のなかに神々が生きている、と人々は体験した。のちになって初めて音楽のなかに三度、長三度・短三度が現われ、音楽は人間の心情のなかに入り込んだ。人間が音楽体験によって忘我の状態になることはなくなった。五度の時代には、人間は音楽とともに、忘我の状態に陥った。のちにやってきた三度の時代において、人間は音楽体験に際して自分のなかにいるようになった。
 そのため、三度体験とともに長調と短調の区別が生じた。一面で長調を体験し、他面で短調を体験する。物質体とエーテル体の担い手としての人間が、陽気な気分、喜びの気分、意気消沈した気分、苦痛の気分、苦悩の気分を体験する。このことに、三度の発生、長調と短調の発生という音楽体験は結び付いている。
Das Wesen des Musikalischen und das Tonerlebnis im Menschen

シュタイナー語録88後編(その1)

2011-01-30 19:23:29 | Weblog
《語録前編1〜66は「西川隆範:シュタイナー人智学の研究」に掲載》

67 父母と子ども
 父の特性と母の特性が同じ方法で、人間の個的な核によって利用されるのではない。そこには一定の法則がある。
 その法則を完全に把握するためには、人間の心魂のなかでいかに二つのものが活動するかを見なければならない。第一は、知性である。イメージ・表象を用いて思考することも、知性のうちに入れたい。もう一つは、意志と感情、情動の方向、周囲に感じる興味である。
 心魂が外界に対して有する興味のあり方という重要な要素が父から遺伝される。父親から遺伝された興味が、私たちが器官を用いることを可能にする。
 それに対して、知的な活発さ、想像力の活動、イメージ豊かな表象、発明の才を、生まれてくる子どもは母親から遺伝された特性として受け取る。
 事物に対してどのような態度をとるか、事物に対してどのような興味・欲求を持つか、どのように要求し、望み、意志するか、勇気をもって人生の状況に取り組む人間か、小心に退却するか、こせこせした人間か、太っ腹な人間かというあり方として父親のなかに生きているもの、つまり意志衝動に関連する特性を、私たちはある意味で父親から受け継いでいる。それに対して、心魂の活動、知性の活動を私たちは母親から譲り受けたのである。
 男の子に関しては、両親との関係を、「父から体格と、人生のまじめな送り方を受け継いだ。母から快活な性格、物語を作る喜びを得た」(ゲーテ「温和なクセーニエ」)と言うことができる。つまり、人間と外界との交流に関するものを、父親から得るのである。精神生活のありよう全体は、母親から受け継ぐのである。
 女の子の場合、父親の特性は次のような現われ方をする。父親の特性は意志衝動の本性から一段高められて、心魂のなかに現われる。
 父親においてはより外的に現われていた重要な特性が、娘においてはより内面化されて示されるのである。
 「父親の性格の特性は、娘の心魂のなかに生きつづける。母親の心魂の特性、精神の活動、才能、能力は息子のなかに生きつづける」と言うことができる。
 母親の特性は息子において一段下降し、器官の能力となる。父親の特性は娘において一段高められ、内面化され、心魂化されて現われる。
Antworten der Geisteswissenschaft auf die grossen Fragen des Daseins

68 幼児の教育
 物質体が誕生の時点まで母胎に包まれているように、生まれたあと、人間は精神世界に属する精神器官、すなわちエーテル体とアストラル体に包まれている。
 乳歯が永久歯に生え変わる時点にいたると、エーテル体は覆いから解き放たれる。誕生の時点で物質的な覆いから解き放たれたように、エーテル的な覆いから解き放たれるのである。
 アストラル体は、まだ覆いに包まれ、保護されている。身体を運動させ、身体に力を浸透させるものに、アストラル体は思春期まで包まれている。
 エーテル体があらゆる方向にむけて自由にならないうちは、外的な印象をエーテル体に与えるのは非常に有害である。また、思春期以前にアストラル体に直接的な影響を与えてはならない。
 人間にとってエーテル体は、心魂的に持続するものの担い手である。習慣や性格、良心や記憶、永続的な気質がエーテル体に付着している。
 アストラル体には、感情のほかに判断能力も付着している。
 七歳までに子どもの外的な感覚が自由になるように、一四歳までに習慣・記憶・気質などが自由になる。そして、二一〜二二歳までに、批判的悟性、世界との独自の関係が形成される。
 七歳までは、物質体に関することがらを育成する。子どもの感覚に働きかけることが重要なのである。
 この時期には、訓戒によっては何も達成できない。命令や禁止は何の作用もおよぼさない。最も大きな意味を持つのは模倣である。
 永久歯が生えるまえの子どもに文字の意味を教え込むことも正しくない。子どもは文字の形のみをなぞって、真似ることができるだけである。意味を理解するための力は、エーテル体が有するものだ。
 まじめで静かな子どもは、落ち着いた青や緑を周囲に見るべきである。元気で活発な子どもは、黄色や赤を周囲に見るべきである。
 子どもには積み木セットや人形のような、出来上がったおもちゃを与えるべきではない。むしろ、古くなったナプキンを丸めて、インクで目と鼻と口を描いた人形を与えるべきである。
 きれいに出来上がった人形の場合、なにかを想像によって付け加えることができず、そのように完成されたものを与えられると、身体内の器官は不活発になる。
Die Erkenntnis des Uebersinnlichen in unserer Zeit und deren Bedeutung fuer das heutige Leben

69 歩く・話す・考える
 這っていた子どもが立ち上がり、歩くということには、大きな意味がある。歩くことを学ぶには、自分の身体の均衡と運動の可能性を、世界の均衡と運動の可能性に順応させねばならない。歩行を学びながら、子どもは世界に対する均衡を探求する。歩行を学びながら、手および腕の動きと足の動きとの関係を探求する。手は心魂のいとなみに割り当てられ、足は身体の移動に仕える。それは、のちの人生全体にとって非常に大きな意味を持っている。足の活動と手の活動への分化は、心魂の均衡の探求を意味する。
 直立することには物質的な均衡があり、手と腕を自由に動かせるようになることには心魂の均衡がある。
 足で行なわれることは、人間の物質的・心魂的ないとなみのなかに、拍子、人生の区切りに関連するものをもたらす。
 こうして、人生の拍子とリズムのなかに音楽的・メロディー的な要素が入ってくる。
 それが基盤になって、話すのを学ぶことができる。
 歩くときに、だらだらせず、たくましい子どもは、正しく区切って話すための身体的な基盤を持っている。子どもは足の動きによって、正しい文章を作ることを学ぶのである。だらしなく歩く子どもは、文と文のあいだに正しいインターヴァルを置くことができず、輪郭のぼやけた文章を語る。腕の調和的な動きを学ばなかった子どもは、きれいな音調ではなく、嗄れ声で話す。指で生を感じることがなかった子どもは、調音ができない。
 人間にとって正しいのは、まず歩行を学ぶことである。歩くことを学ぶ、腕を動かすことを学ぶという土台ができたあとで、話すことを学ばねばならない。そうしないと、子どもの言語は基盤がなく、舌足らずなものになる。
 歩行と発話という土台ができたあとに子どもが学ぶ第三のものは、意識的な思考である。
 子どもはその本質上、思考を学ぶときに、発話の学びとは別のものを学ぶことはできない。話すというのは、まず聞いた音を模倣することである。子どもは音を聞き、腕の動きと脚の動きの関係を基盤にしつつ、その音を理解し、最初はその音に思考を結びつけることなく模倣する。最初、子どもは音に感情のみを結びつける。そのあとで、思考が言語から発展してくる。歩行を学び、発話を学び、思考を学ぶというのが正しい順序である。
Die paedagogische Praxis vom Gesichtspunkte geisteswissenschaftlicher Menschenerkenntnis

70 学童の教育
 七歳から一二歳までのあいだの子どもにとっては、権威・信頼・畏敬が大切である。習慣と性格は、エーテル体の特別の表現形態である。この年齢においては、判断力に働きかけてはならない。思春期前に判断力に働きかけると、害がある。
 エーテル体の形成は、男の子の場合は七歳から一六歳までのあいだ、女の子の場合は七歳から一四歳までのあいだに行なわれる。子どもに畏敬の念を育てることは、後年にいたるまで重要な作用を及ぼしつづける。
 歴史上の偉人だけでなく、たとえば親戚や知人のなかで尊敬に値する人物について語ることによって、子どもにその人物のイメージを与える。
 この時期に教育者・教師自身が子どもにとって権威であることには、非常に大きな意味がある。子どもが何らかの原理原則を信じるのではなく、人間を信じるのである。子どもの周囲にいる人間が、子どもの理想にならねばならない。また、歴史や文学作品のなかから、子どもは理想の人物を選ぶ。
 アストラル体の誕生前に自分自身の判断を下すと、健全な判断が害される。大切なのは、この時期に記憶を育成することである。
 この時期には、童話が恵みをもたらす。また、伝説や歴史上の英雄や偉人について語るようにする。
 芸術は、エーテル体とアストラル体にまで大きな影響を及ぼす。ほんものの芸術がエーテル体に浸透しなければならない。
 子どもは周囲に美しいものをたくさん見るべきである。
 完成された幾何学的な形態を組み立てる遊びほど、精神に悪いものは他にない。
 思春期になると、身体を包んでいたアストラル的な覆いがなくなる。異性への関心とともに、個人的な判断力が現われる。この時期になって初めて、肯定か否定かという判断力、批判的悟性に呼びかけることができる。この年代より大きくなると、判断力の形成が困難になる。
 第一の七年期には模範・模倣、第二の七年期には権威と手本を熱心に見習うこと、第三の七年期には原理原則が必要である。
Die Erkenntnis des Uebersinnlichen in unserer Zeit und deren Bedeutung fuer das heutige Leben

71 九歳と一二歳
 九歳から一〇歳のあいだに、人間は主体としての自分と客体としての外界を区別するにいたる。その年齢になると、自分を周囲から区別するのである。それ以前は、石や植物が人間のように話したり行動したりする童話や伝説のみを物語ることができた。それ以前は、子どもはまだ自分を周囲から区別していないからである。
 一二歳ごろになって、初めて子どもは原因と作用について聞くことができるまでに成熟する。おもに原因と作用に関わる認識分野、無機的な物理学などは、一一歳と一二歳のあいだのカリキュラムに入れるのである。それ以前に、鉱物・物理・化学について子どもに語ってはならない。
 歴史についていえば、一二歳ごろまでの子どもには、個々の人物のイメージ、全体が見渡せる美しいイメージを心魂に生きいきとした形で与えるべきである。のちの出来事を以前の出来事の作用として考察する歴史を、一二歳ごろまでの子どもに教えるべきではない。
 乳歯が永久歯に生え変わってから九歳・一〇歳までのあいだは、子どもの心魂が受け取るべきものをイメージのかたちで叙述することを試みるべきである。
 最も有効で実り多いのは、七歳〜八歳の子どもに何かをイメージの形で教え、一三歳〜一四歳のときにもう一度、べつの形でその内容に戻ることである。
 子どもが自分を周囲と区別しはじめる年齢、自分という主体と客体である外界の事物を区別する年齢(九歳)までは、子どものなかにあるものと子どもの外にあるものがすべて同一の性格を持っているように教育しなければならない。
 そして、植物界・動物界に関する示唆において、外界の叙述へと移っていく。これらの学習の基礎が形成されると、一二歳ごろに近づく。
 一二歳から性的成熟までの時点で、初めて無機的な自然についての考察へと移行することができる。子どもはこの時期になって、無機物を本当に理解しはじめる。
 七歳から九歳半・九歳四ヵ月までは、子どもはすべてを心魂的に受け取る。
 九歳四ヵ月ごろから一一歳八ヵ月ごろまで、子どもは自分のなかに見出される心魂的なものと、単に生命あるものとの相違を知覚する。私たちは生命あるもの、生き物としての地球について語ることができる。ついで、一一歳八ヵ月から一四歳ごろまで、子どもは心魂的なもの、生命あるもの、死んだものを区別する。原因と作用に関連することすべてを理解するようになる。
Die Kunst des Erziehens aus dem Erfassen der Menschenwesenheit

72 気質の対処
 だれかへの愛という回り道をしてのみ、長続きする興味が多血質の子どもに現われる。他の気質の子どもにも増して、多血質の子どもにはだれかへの愛が必要である。
 胆汁質の子どもの場合も、回り道をして発展を導く。確かな導きとなるのは、権威を尊重することである。多血質の子どもの場合のように、個人の特性を愛することが大切なのではない。胆汁質の子どもは、「先生はものごとを理解している」と、いつも信頼していることが大事である。
 ある個人への愛が、多血質の子どもに魔法の力を発揮する。個人の価値を尊敬することが、胆汁質の子どもに魔法の力を発揮する。胆汁質の子どもには、抵抗となるものごとを人生の途上に置くようにしなくてはならない。抵抗・困難が途上に置かれていなくてはならない。
 憂鬱質の子どもを導くのは容易ではない。しかし、魔法のような手段がある。
 憂鬱質の子どもの場合、教師は人生の試練を通過した人物であり、試練を経た人生から行動し、語る人物であることが大切だ。「先生は本当に苦痛を耐え抜いたんだ」と、子どもが感じなくてはならない。あらゆる人生のことがらにおいて、子どもが教師の運命に気づくようにさせる。そばにいる人の運命を共に感じることが、憂鬱質の子どもに教育的に作用する。
 憂鬱質の子どもは、「苦痛能力」「不快能力」を持っている。
 外的な生活のなかで適切な苦痛、適切な苦悩を経験させるのである。苦痛をなくすと、暗い気分が硬化し、内面の苦痛が硬化する。
 粘液質の子どもは、一人で成長させてはいけない。他の気質の子どもにとってもいいことなのだが、特に粘液質の子どもにとっては、遊び友だちがいることが大事である。遊び友だちがおり、さまざまな興味を持つことが必要だ。
 自己訓告は実りをもたらさない。適切な場面で多血質を示すことが大事なのである。多血質的に関心が移り変わるのがふさわしい状況を、自分で作り出すことができる。
 胆汁質の人は、自分の障害となる状況に遭遇するのがいい。怒っても何にもならない状況、怒っているうちに自分の矛盾に気づくような状況に出合うようにするのである。
 憂鬱質の人は、人生の苦痛と苦悩を見過ごしてはならない。世界の苦痛と苦悩を探し出し、同情して苦しむことによって、苦痛を正しい対象と出来事に向けるのである。
 粘液質の人は、本当におもしろくない対象にできるだけ関わるようにする。退屈なことに携わって、徹底的に退屈するのがいい。そうすると、粘液質が根本的に癒される。
Wo und wie findet man den Geist?

73 四季の経過
 まず、冬至の時期に目を向けよう。一二月下旬である。この時期の地球は、人間が空気を吸い込み、空気を自分のなかに摂取するときのような状態にある。
 私たちは自分が住んでいる地域を考察する。地球の裏側は反対の状態になっている。
 吸った息が、私たちの地域の内に保たれている。地球は完全に息を吸いこんでいる。この時期、地球はみずからの心魂を内に保っている。
 さらに地球の季節を追っていこう。春分、三月まで追っていこう。
 地球は息を吐いている。心魂はまだ半分、地球のなかにあるが、地球は心魂を吐き出した。地球の満ちあふれる心魂の力は、宇宙のなかに注ぎ出る。
 地球の呼吸がさらに進んでいくと、六月に地球は第三の状態になることが見出される。
 地球の心魂は、宇宙空間に注ぎ出る。地球の心魂全体が、宇宙空間に帰依する。地球の心魂は太陽の力、星々の力に浸る。
 宇宙に帰依する地球の心魂のなかに、星々の力、太陽の力が流れてくる。地球は息を吐ききっている。
 地球の表面に、星々の力、太陽の力、宇宙すべてが反射する。
 この呼吸をもっと追っていくと、九月末にいたる。吐き出した力が、ふたたび戻りはじめる。地球はふたたび息を吸いはじめる。宇宙に注ぎ出た地球の心魂が、ふたたび地球内部に戻る。人間は意識下、あるいは透視的印象において、この地球の心魂の呼吸を自分自身の心魂の経過として知覚する。
 夏の地球は、キリスト衝動にとって不透明である。キリスト衝動にとって不透明になった地球のなかに、アーリマン的な力が居を占める。地球が吐き出した力をとおして自分の心魂のなかに受け取った力を伴って、キリストの力を伴って、人間は地球に戻る。
 夏に息が吐き出されているあいだ、地球はアーリマン化している。アーリマン化された地球でイエスが誕生したら、それは悲痛だっただろう。季節の循環が完了するまえ、心魂を持った地球のなかにキリスト衝動が生まれ出る一二月になるまえに、地球は霊的な力をとおして、龍=アーリマン的な力から清められねばならない。九月から一二月まで流れ込む地球の呼吸と結合し、アーリマンに打ち勝ち浄化するミカエルの力と結び付かねばならない。そうすれば、正しくクリスマスに近づき、キリスト衝動が正しく誕生する。
Der Jahreskreislauf als Atmungsvorgang der Erde und die vier grossen Festeszeiten

74 季節の天使たち
 ヨハネ祭のころ、太陽から発する黄金の光から身体を織り上げた大天使ウリエルが高みに漂う情景を思い浮かべてみよう。ウリエルの目は、判定を下す目である。ウリエルの目は、地の結晶領域に向けられている。ウリエルは、いかに人間の誤謬が地中の結晶の光り輝く美しさにふさわしくないものであるかを見る。
 ウリエルの働きは、自然の諸力のなかに働きかける。真夏、ヨハネ祭のころ、自然をとおして人間のなかに生じることを心魂に思い描くなら、このウリエルの力を、宇宙のなかで放射し、雲、雨、稲妻、雷、植物の成長のなかに射し込むものと表象しなければならない。
 ラファエルは春のあいだに自分の力を自然のなかに流し込む。
 秋、宇宙的な大天使ミカエルが上空にいるあいだ、ラファエルは人間の呼吸体系全体を整え、祝福し、働く。
 ラファエルが春に宇宙に織り込むものを、人間は秋に、治療的な力として知るのである。
 夏のヨハネ祭の情景を表象してみよう。上方には、判定を下すようなまなざしの厳粛なウリエルが、警告するような身振りをしている。そして、ガブリエルの優しい、愛情のこもったまなざしと祝福するような身振りが人間に近づき、人間を内的に貫く。
 夏から秋になると、ミカエルの教示するようなまなざしが現われる。宇宙の鉄から鍛えた剣を持つミカエルの手は、人間に道を指し示すものである。下方では、ヘルメスの杖、地球の内的な力に支えられた深く沈思するまなざしのラファエルが人間に近づき、宇宙で燃え立たせた治療力を人間にもたらす。
 冬になる。ガブリエルが宇宙的な天使である。優しく、愛情のこもったまなざしで、祝福するような身振りのガブリエルが上方で、冬の雲のなか、白い雪の布帛のなかで活動する。下方では、判定を下し、警告を発する、厳粛なウリエルが人間の側にいる。
 ふたたび春がやってくる。上方には、ヘルメスの杖を持った、沈思するようなまなざしのラファエルが現われる。下方では、教示するようなまなざしのミカエルが人間に近づいてくる。
 一二月末から春の始まりまで、ガブリエルが宇宙的大天使として上空にあり、ウリエルが人間の側にいて、頭に宇宙の諸力を注ぎ込んでいるあいだだけ、地上の生へと向かう心魂たちのために扉が開かれる。毎年、この三ヶ月のあいだに、その一年に受肉する心魂が宇宙から地球に下りてくるのだ。
Das Miterleben des Jahreslaufes in vier kosmischen Imaginationen

シュタイナー教育

2007-07-16 10:03:33 | Weblog
 シュタイナー教育

 汎智学を唱えたコメニウスは、「あらゆる人に、あらゆる事柄を、わずかな労力で、愉快に、着実に教える方法」を考案しようとしました。人間が生来、内に持っている能力を成熟させて、自分自身の理性で物事を正しく認識・利用できる人間を育てようと説きました。
 モンテッソーリは一九〇七年(「子どもの家」を作った年)、神智学協会の代表者アニー・ベサント(一八四七−一九三三)によって「未来の教育者」とされました。モンテッソーリは一九三九年から四六年まで、インドの神智学協会本部に滞在して、彼女の教育学の新たな体系化を行なっています。
 ルドルフ・シュタイナーは一九〇七年、『精神科学の観点からの子どもの教育』を発表しました。彼は人智学を創始した思想家です。シュタイナー教育は、特定の宗教団体とのつながりのない教育運動のなかでは、世界で最も大きな広がりを持っています。モンテッソーリが「科学的教育学」を開発したのに対し、彼は「教育技芸」を唱えました。
 ルソーは書物中心の教育を批判して、感覚体験を重視し、自由な存在として生まれた子どもに幸福な幼年期を過ごさせることを説きました。彼は理性重視の合理主義に対して、心情の意味を強調しました。感性的判断(幼少年期)から悟性的判断(少年期後期)、そして理性的判断(青年期)にいたるという三段階の発展を説き、自分自身で生きていける人間を育てようと考えました。
 ペスタロッチは模倣を教育手段として、子どもの自然な歩みに従う教授法を打ち立てようとしました。頭(知性)と心(心情・道徳)と手(技能)の調和的な発達を大事に考えて、子どもの持って生まれた本来の素質を延ばす教育の方法を探求し、中世の画一的つめこみ主義を改革しようとしました。
 ペスタロッチに学んだのがフレーベルです。フレーベルもモンテッソーリも知育のための玩具=教具を使いますが、これはシュタイナー教育では用いません。
 
 シュタイナーは、人間を〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四つからなるものととらえました。そして、これらの部分がおよそ七年ごとのリズムで開発されていく、と彼は考えました。
 七歳までは周囲を反映し、人々は善であると感じているときで、愛を感じられる家庭環境であることが重要です。七歳から十四歳までは、生きることの楽しみを感じ、すべては素晴らしいと感じるときで、教師を信頼できることが大切な時期です。十四歳から二十一歳までは、内的な自立に向かいます。知識を概念・理念の形で受け取り、ものごとを自分で判断できる人間になる時期です。七年ごとの節目以外にも、自分と外界を区別する九歳、因果関係を理解する十二歳、将来の方向を意識する十八歳が注目されます。
 シュタイナーの人間観で特徴的なのは、子どもはこの人生でやるべきことがあるから生まれてくる、という見方です。自分のテーマを持たずに生まれてくる人間はいない、という人生観です。親と教師は、子どもが持って生まれた能力・素質を尊重し、それを成就させようとします。子どもは自分の課題に適した親を選んで生まれてくる、という言い方をシュタイナーはしています(親による子どもの虐待という問題がありますが)。自分の魂を生かすのに相応しい身体を、遺伝を通して与えてくれる親を選ぶというのです。

 子どもは一〇歳ごろまでに、親の言動を模倣することをとおして、親の考え方・感じ方を吸収します。それが、その子の道徳を形作っていきます。シュタイナー学校では、あらゆる学科が道徳感覚を育成するので、別個に道徳の時間はありません。例えば理科の授業で、自然界の秩序・調和を学べば、それが道徳感覚を育てるはずです。例えば生物を、個々のものに切り離して教えるのではなく、生命を成り立たせている環境全体との関連において体験させれば、生徒たちは自然界の法則=道徳を実感します。数学にしても、その美しい秩序を学ぶことによって、道徳感覚が養われます。地理や歴史からは、人間の存在の条件を感じ取れます。
 学童期は、イメージ的・絵画的・音楽的な学習が大切な時期です。この頃、尊敬できる大人がいないと、自由な人間へと成長していけない、とシュタイナーは考えていました。また、思春期に個性が目覚めないと、依存的・反抗的になっていく、と考えていました。少年期における抽象的思考は、批判的・衝動的な行動を誘発します。
 シュタイナー学校では、教師は教科書に頼って授業をしません。自分が身に付けた知を、メモにもノートにも頼らずに、語ることができて初めて、生徒はその先生の話に耳を傾ける、と考えています。
 子どもが自分で判断できる年齢になるまで、大人が模範を示すことが大事です。幼いうちから子どもに自分で決定させると、無気力で不機嫌な人間になります。子どもの言いなりにしていると、子どもは自分の基準とするべき見本がなくて、自分を支配できないようになります。見本を示されていると、思春期になって、自分の考えで自制できるようになります。なじみの話、いつもの遊びなど、生活のなかに繰り返しがあると、意志の強い、落ち着いた子になります。
「しかる・ほめる」が、思春期に良心が目覚める準備になります。自分の良心から行動する人間が自由な人間だ、とシュタイナーは考えていました(良心が目覚めるのは十歳ごろからです)。大人が感情的に怒ると、子どもは大人の怒りに反応し、叱られている内容を洞察できません。いつも叱られて、びくびくし、不安になると、子どもは不器用になっていきます。叱り過ぎると、子どもは過敏になり、叱らないと、良心が欠如した人間になります。甘やかすと、断念を学べず、意志の弱い、無気力な人間になる可能性があります。厳しいしつけは、子どもを受動的にし、やがて外界に対する関心を失わせ、ついには暴力的な行動に走らせます。
 学童にとって、大人は確かな判断をするオーソリティーである必要があります。教師の適性は、学識ではなく、生徒に信頼される人格(親しみやすいと同時に、よい意味での権威者として見上げられる風格)です。大人が子どもと同じレベルに下りる必要はありません。子どもは本来、大人を見上げて、そこに向かって成長していこうとするものです。
 大人の意志が弱っていると、子どもは落ち着きがなくなります。大人が手で仕事をすることが少なく、機械に頼りすぎたり、大人に将来への不安や悲観があると、子どもは落ち着きをなくします。大人が世間を中傷することが多い場合も、子どもは落ち着かなくなります。落ち着きのない子を癒すのは、大人が発する敬虔な雰囲気です。そのためには、大人が内的な平安を育てる時間を確保しておく必要があります。
 大人自身が知的に硬化していない、自由で創造的な人間である必要があります。そのためには、自然体験・芸術体験によって、心に抑圧のない、開放的でくつろいだ人間になっている必要があります。シュタイナー学校の教員養成では、まずシュタイナーの人間観・精神科学、第二に芸術体験、そして教育方法の習得というふうに、教師になる人の芸術体験が重視されています。
 思春期には、内面とは逆の行動するという特徴があります。思春期の少年は、内面に閉じこもりがちです。自分を外に出さず、不良の真似をしてみることもあります。少女の個我は、大自然に結び付いている心の影響を受けます。自由で開放的な自分を示しますが、人に対して批判的になります。シュタイナーは、少々のことは、いちいち注意せず、大目に見ていました。少年には、ユーモアをもって接するのがいい、と考えていました。思春期に必要なのは、理想を持っていることです。少年には、英雄の性格を物語り、少女には偉人の美しい行為を絵画的に物語ります。思春期の少年少女は本来、人生は崇高な目的のためにあると思っているので、それを挫くようなことを大人が言ってはなりません。自然の雄大な美を体験することが、思春期の非行を防ぎます。思春期には、父母を人間として知ること、両親が子どもの話相手になることができます。
 
 特に日本で問題になるものに、テレビがあります。テレビは、ただ見ていれば、自分の努力なしに楽しめるものです。その結果、テレビを見ていると、思考が受動的・表面的になります。言葉が単純になり、集中力・創造性が低下します。意志が弱くなり、攻撃的になります。シュタイナー教育では、テレビを見ても害がないのは十六歳以降と考えています。十歳以後なら、害はいくぶん少なくなりますが、親が一緒に見て、番組の内容についてあとで話し合って消化する必要があります。
 子どもは、人類が通過してきたことを、自分の成長につれて順に体験していくものです。例えば、楽器はまず昔からあるもの(笛や弦楽器や打楽器)を手にし、近代の楽器(ピアノ)は、もう少し大きくなってからにします。現代の発明品であるコンピュータは、大人になってから−早くても青年になってから−習得するものです。コンピュータは仕事に使うものであって、ゲームに使うものではありません。遊びに使うと、没頭してしまって、受ける影響が多くなります。

 建築に譬えれば、小学校までが、基礎を固める時期です。小学校時代は柱を立てる時期、中学・高校時代は屋根を乗せる時期だといえます。インスタント食品で手早く料理することもできますが、味わい深いものは、本格的に、じっくりと時間をかける必要があります。基礎(体)や柱(心)がしっかりできていないうちに、急いで屋根(頭)を乗せようとすると、安定感に欠けた家になります。
 三歳ごろにしっかり歩けることが、しっかり話せる基盤になります。五歳ごろにしっかり話せると、しっかりと考えられる基盤ができていきます。早く歩かせようとしたり、大人が子どもに幼児語で話しかけたり、いろんなことを記憶させたりすると、のちに心身に問題が出ることがあります。幼年期の成長力が、やがて想像力に変化し、さらに知力に変化していきます。感覚的印象と想像力が脳を形成していきます。穏やかな感覚的印象と、想像力を刺激する素朴なおもちゃが大事になってきます。完成されたもの(本物そっくりにできている玩具)だと、想像力がせき止められるし、知育目的の抽象的な遊びは、子どもを生活から引き離していきます。遊びは、大人の仕事の真似をして、生活能力へとつながっていくものがいいのです。想像力がないと、他人に敷かれたレールの上を歩むことしかできなくなります。
 幼児は全身で周囲の印象に没頭しているので、環境が穏やかで安らかな印象を与えることが大切です。子どもは、きつい味付けのものを好むことがありますが、それが体によくないことは、だれでも知っています。同様に、けばけばしい色・形や騒々しい音は、子どもの心身を害していきます。まわりの大人の行為と思考が、落ち着きと愛情あるものであることも重要です。
 一日を静かに始め、元気に過ごしたあと、静かに終えることが大切なので、たとえば童話を語るときも、劇的にせず、淡々とした語りに終始します。幼稚園時代に知育すると、心身が虚弱になる可能性が出てきます。最も大事なのは、親が明確な考えをもって行動することです。真似をする手本を親が示さないと、子どもの意志は盲目のものになります。
 子どもは、親の手伝いをできることがうれしいのですから、「これをしてくれたら、ほうびをあげる」と言う必要はありません。親の手助けをできること自体がうれしかったのに、ほうび目当てに手伝うようになってしまいます。叱るときも、「罰を与える」と言うと、自分の行為の善悪を考えないまま、罰を恐れて行動を控えます。それだと、教育になりません。
 
 両親がそろっている家庭の場合、妻が夫をどう思っているか、夫が妻をどう思っているかが、そのまま子どもに伝わります。父親と母親の間に、教育方針のずれがあると、子どもは迷ってしまいます。父親の態度が、思春期の子どもに大きな意味を持ちます。会社員の場合、子どもは父親が働く姿を目にしていないので、休日に家庭労働をすると、子どもは父親の価値を認めます。また、母親が子どもに家庭で、父親のことをしばしば話題にすると、子どもと父親との結び付きを支援できます。
 子どもをしつけるには、まずその子を信頼することから始めます。すると、親の信頼に応えて、子どもが親を信頼します。親は夜、自分の子が今日どんなふうだったかを、ありのままに思い浮かべてみます。教師は、学校に行くまえに、自分の担任する生徒たち一人一人を思い浮かべます。そのようなことが、不思議なことに、子どもとの関係をよくしていくものです。
 幼年期・少年期に体験した暖かさ・楽しさは、たとえ意識の表面からは消え去っても、生きていこうとする力として、深みから作用しつづけます。

年齢に応じた育児

2007-07-16 10:02:19 | Weblog
 シュタイナー教育では、子どもの成長を「0歳〜7歳」「7歳〜14歳」「14歳〜21歳」に分けて考えています。これはシュタイナーの人間観と密接に関連しています。
 シュタイナーは人間を、〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四部分からできているもの、と考えました。〈いのち〉は〈からだ〉を形成するもの、〈こころ〉は自分の思い、〈たましい〉は自分そのものです。誕生した日から約7年間をかけて、子どもの〈いのち〉は〈からだ〉の構築に従事します。親から遺伝された〈からだ〉を、自分の課題を果たすのにふさわしいものへと作り変えている時期です。
 どういうことかと言いますと、誕生以前から〈たましい〉は存在しており、自分が宿りたい〈からだ〉をイメージしている、とシュタイナー教育では考えています。子どもの〈たましい〉は、自分が成し遂げようと思うことを行なうのに適した〈からだ〉を得ようとするのですが、両親から提供された〈からだ〉は、自分がイメージしたものにぴったりのものとはいえないそうです。それで、〈いのち〉の形成力によって〈からだ〉を自分に適したものに作り変えるというのです。
 この作業の終了したしるしが、乳歯が抜けて、永久歯が生えてくるという現象です。もしも、この7年間に〈からだ〉の作り変えに専念せず、知的な方向に力を回すと、〈こころ〉と〈たましい〉は自分にぴったりしない〈からだ〉のなかで生きていかなくてはならず、〈こころ・たましい〉と〈からだ〉とのあいだに無意識的な違和感が響きつづけます。
 成長力はやがて想像力に変わり、さらに知力へと変化していきます。約7年間で〈からだ〉の基礎を構築した〈いのち〉は、記憶をたくわえ、イメージを形成するという活動を始めます。いままで心身の区別がはっきりしてなかったのが、7歳ごろ、〈こころ〉が独自の思考・感情・意志の力を発揮しはじめます。
 7歳から14歳まで呼吸系・循環系が発達します。呼吸と血液循環との調和が生まれると、子どもはリズム・音楽を欲します。生まれてから7歳までは感謝の気持ちが育成される時期、7歳から14歳は愛情が発達する時期になります。
 生まれてから7歳ごろまで、子どもは「世界は善いものだ。みんな善人だ。わたしは愛されている」と感じています。7歳から14歳までは、「世界は美しい。どれもこれも素晴らしい」と思っています。14歳を過ぎると、「世界は真実なものだ」と考えるようになります。本当にそのような社会を築いて行くことが、今日の私たちの急務です。
 生まれてから7歳まで、体の動きによって意志が形成されます。そして、7歳から14歳まで心・感情を育て、14歳から頭・思考を使うという、おおまかな見通しが立てられます。よく観察すると、もっと細かい区分が可能になってきます。3歳で歩行の一応の完成、5歳でかなりの言語能力、7歳で思考の基盤ができます。早くから歩かせようとすると、のちに身体の不調を引き起こします。大人が子ども言葉を使うと、しっかりした心身になりません。記憶させようとすると、神経がのびのびしません。9歳ごろ、子どもは自分と外界を区別します。12歳ごろ、原因と結果の関係を理解するようになります。

 生まれてから7歳までは、心と頭の土台になる体を築くことが最も大事です。幼児は全身で周囲の印象に没頭しています。自分と周囲との境界は、はっきりしません。ですから、環境からとても大きな影響を受けます。安らかな印象を与える環境づくりが第一です。周囲の音やものの色・形だけでなく、まわりの大人の行動も子どもに影響します。落ち着いた、愛情のある言動を大人たちがしていることが大事です。いらいらしていると、子どもはその様子を真似して、同じような気分になっていきます。大人が美的なことを楽しんで、心をのびのびさせていることが大事です。
 生後9カ月ぐらいまで、母乳で育てるのが理想です。ただ、最近は食料などの問題で母乳も汚染されているので、注意してください。9カ月以上、母乳を与えつづけると、子どもは母親からの遺伝を受け取りすぎて、個人として自立する度合いが弱まることがあります。
 蛋白質は、良質の穀物・実から摂取するのが最適です。幼児が肉・卵・ジャガ芋から蛋白質を過剰に摂取すると、健全な栄養本能が損なわれ、適切なものを適量欲することができなくなります。脂肪は、葉菜に含まれているものを中心に摂るのが好ましいはずです。カルシウム・マグネシウム・鉄分の不足にも気を付けましょう。
 問題は砂糖です。精製された砂糖に慣れると、それは嗜癖品になり、子どもの独立した個我の発展を弱めます。糖分は炭水化物から取るのが最良です。糖分そのものは、適量摂取していると個性がはっきりした人になり、不足するとあまり個性を発揮できなくなるので、大切なものです。
 味付けにも注意しましょう。甘いにしろ辛いにしろ、どぎつい味は禁物です。また、熱すぎるもの、冷たすぎるもの(冷蔵庫から出したてのもの)を、子どもが口にすべきではありません。刺激物の摂取過剰、騒音、強い視覚印象は、子どもを病気にします。
 1歳・2歳から、同じ言葉を何度も繰り返すことによって、記憶ができていきます。そして、毎日おなじ時刻に同じことが行なわれるよう、求めます。同じ話を繰り返し聞きたい、と思います。3歳ごろ、イメージを記憶するようになります。また、手足の活発な動きから、2歳・3歳で想像が豊かになっていきます。
 先に述べたように、3歳で歩行が完成し、5歳で言語の基礎が出来上がり、7歳で思考の基盤が現われるのですが、この3つの能力の萌芽は、すでに3歳までに現われてきます。1歳で歩きはじめ、2歳で話すようになり、3歳で思考の目覚めが現われます。

 3歳ごろ、言葉の習得が進み、正しい構造の文を語るようになります。それとともに、思考が目覚めてきます。記憶がはっきりしてきて、それと同時に、自分を意識するようになります。個我の最初の目覚めが生じるのです。こうして、第一反抗期が始まります。目覚めゆく思考のなかで個我が出現し、その結果、反抗が現われるわけです。
 ちなみに、幼児にテレビを見せるべきではありません。テレビを見るのは、可能なら16歳からにします。無理なら、10歳を過ぎてから、親と一緒に見ます。テレビに親しんでいると、自分が努力しないでも楽しませてくれるものに慣れます。また単純な言語に慣れて、難解なものに取り組めません。一定時間以上、受動的にテレビを見ると、暴れたくなります。
 幼児期・児童期・青年期全体にわたって、生活に安定したリズムがあることが重要です。特に小さいときほど、同じ日程の繰り返しが安心感を与え、意志を強くします。
 幼児期全般にわたって、子どもは親を模倣して育つものですから、真似をする見本なしに、自分で決定するように言われると、意志の方向を定めようがなくなります。子どもを甘やかしすぎる、たとえば、子どもが「いや」と言えば、なんでもやらせずにすませていると、子どもは自制する力を持てません。放任主義にした場合、子どもは無気力になりがちです。逆に、しつけを厳しくすると、子どもは受け身になって、自分からものごとに関心を示さなくなります。叱ってばかりだと、その怒りに反応して萎縮し、不器用になることがあります。感情的になるのではなく、威厳をもって落ち着いて諭すのが教育的でしょう。また、たいしたことでもないのに、おおげさにほめるのも考えものです。手伝ってくれたときは、「ありがとう」で十分。ほうびは不要です。
 3歳半ばごろから、童話を聞くことができます。童話というのは、これから人生を歩んでいくために、故郷から与えられた伴侶のようなものだ、とシュタイナーは言っています。きれいな心の主人公に幸いがもたらされるというイメージが、子どもの生涯を力づけます。子どもが小さいうちは、ストーリーに葛藤の少ないもののほうがいいでしょう。もうすこし大きくなったら、主人公が古い世界の加護から離れ、自分で先へと進むことによって、調和的な結び付きにいたる過程を物語るメルヘンを取り上げるとよいと思います。一つの童話を4週間、あるいは1カ月つづけて語るのがいいと思います。3週間ごとに変えるのでもいいでしょう。たくさんの童話ではなく、厳選した十数話ぐらいを繰り返すほうが、メルヘンに含まれた力が子どもに浸透していくと思います。

 頭部の形成に従事していた〈いのち〉は、3歳ごろ自由になり、胸部に作用していた〈いのち〉は、5歳ごろ、記憶力として活動するようになります。
 3歳になると、歩行が安定してきます。もう、滅多に転びません。もしも、頻繁に転ぶとしたら、いわゆる頭でっかちになっているかもしれません。それとは別に、身体的に頭が、全身に比して大きいか小さいか、という問題もあります。これは、頭の小さい子どもは大人ぽい知的タイプ、頭の大きい子は子どもらしいファンタジー・タイプということです。2つのタイプなのですから、どちらが好ましいということではありませんし、違うタイプに変えることはできません。
 3歳までと同様、生活環境が大事です。幼児は周囲の大人、特に親の仕草・口ぶりを自然に模倣し、吸収しています。大人の言動の元には、その言動を引き起こした考え・思いがあります。子どもは大人の行為を模倣することによって、大人の思考・感情を自分の内に取り入れます。大人は普段から、自分の考え・思いを濁りのないものにしている必要があります。そのような思考・感情から自然に発する言動を、子どもは見聞きし、模倣をとおして吸収します。親の行為・言動を模倣することをとおして、子どもは親の考え・思い、つまり、親の道徳性を吸収するわけです。これが、その子の道徳性を形成していきます。学校に入ってから教わる道徳は、ただ頭に知識として入るだけで、心の力とはなりません。親の行為の模倣をとおして受け取ったものが、内的な道徳を作り上げます。頭による理解よりも、よいことは好き、悪いことは嫌いという心の反応のほうが身につきます。よいことを喜び、悪いことを悲しむようにして、道徳感を発達させます。善人・悪人の登場する童話を、原作どおりに物語って聞かせることによっても、道徳観が根付きます。語るときには、勧善懲悪的な抑揚はつけません。

 7歳ごろ、〈いのち〉は〈からだ〉を形成する仕事を終え、その一部が思考活動のために用いられるようになります。一挙に切り替わるのではありません。低学年のあいだは、幼児期の余韻が響いており、まだファンタジーに浸っているのが適しています。このころに知的な勉強をさせられると、創造的な力が奪われます。
 歯が生え変わると、先生を尊敬したいという気持ちが湧き起こります。権威者から学び、成長したいと願うようになります。7歳から14歳のあいだに権威者を見上げることを学ばなかった子どもは、成人してから自由な人間になれない、とシュタイナーは考えています。教師が生徒に仰がれるかどうかは、教師の精神性が深いかどうかによります。子どもを深く見る目を持った教師の精神は豊かになります。そして、子どもの本質を深く見る教師は、子どもを敬う気持ちを持ちます。もしも、教師が美術的・音楽的なものへの喜びに浸されておらず、知的な授業をすると、生徒はその教師を利己的だと思い、尊敬しなくなります。
 シュタイナー学校に入ると、図形・紋様を描く授業があります。これが思考の練習になります。そして文字を、抽象的な記号ではなく、象形文字のように、絵から派生させるしかたで教えていきます。
 小学生は、おもしろいもの、興味あるものを、労苦なしに覚えていきます。それまでは、大人の行為を真似して、いろんなことを身につけていたのが、言葉をとおしてものごとを習得するようになっていきます。この時期の勉強に関して大事なのは、どの授業も美術的・音楽的な要素に貫かれていることです。算数も理科も社会も、美的・リズム的な要素に浸透された教え方をすると、子どもに伝わっていきます。小学生、特に7歳から9歳までは、美術的・音楽的なものへの要求を強く持っています。
 脳を知的に活動させると疲労し、芸術的・創造的な活動は子どもを元気にします。今日、知識偏重と協調性強要によって、子どもたちの脳は慢性疲労状態にあり、それが不登校や切れる原因になっているといいます。家庭では、さらに勉強を課すより、子どもが美的な楽しみに時を過ごせるようにしたいものです。
 7歳を過ぎると、子どもは外界を感情によって受け入れようとします。まだ、知的に受け入れるのではありません。ですから、9歳以前の子どもには、ものごとを科学的に説明しません。

 3歳で目覚めた個我は、9歳で一つの発展段階を迎えます。子どものなかに個我が入り、幼年期の夢のような世界は消えていきます。他人を個人として感じるようになり、自分と他人とをはっきり識別します。また、人間と人間以外のものとを、はっきり区別するようになります。いままで気づかなかったものごとに気がつくようになり、親や教師を批判的に見るようになります。9歳までは先生を無条件に敬っていたのが、9歳をすぎると疑問を抱くようになります。これまでは世界をメルヘン的にとらえていたのが、知的・科学的に把握しようとします。自意識が発達し、世界を外から観察しはじめます。
 このころ、子どもは外界としっくりいっておらず、内面に不安を持っています。子どもは孤独を感じます。かまいすぎると、子どもはますます内に閉じこもります。自分の内にこもるのですが、人に理解してほしいと望んでいます。9歳・10歳のときに必要なのは、人間性への信頼を失わないことです。大人が内的に成長しようという気持ちで生きていると、子どもも自らを肯定できるといいます。
 このころ、子どもはさまざまな問いを発します。どこから自分は来たのかと子どもが問うとき、〈からだ〉の由来ではなく、〈たましい〉の由来を答えてほしいと思っています。子どもが自分を周囲の世界と区別した時点で、子どもを周囲の世界のなかに導くことが教育の課題になります。
 シュタイナー学校では、9歳になると生物(動物・植物)の勉強を始めます。文法の勉強も始めます。文法の学習は、自意識の健全な発展に寄与します。音楽に関して、9歳までの子どもは、五音音階(レミソラシ)の曲にふれているのがよく、9歳・10歳から長調・短調の体験を取り入れます。

 9歳まで、子どもはまだ天上的な故郷とのつながりを持っていました。思春期を経て、地上との結び付きが深まるにつれて、天上的な故郷は遠ざかっていきます。
 12歳になると、ものごとの因果関係を理解したい、と思うようになります。知的・思考的な勉強に向いてきます。シュタイナー学校では、5年生で歴史・地理、6年生で鉱物学・物理学、中学1年で化学に取り組みはじめます。
 身の回りのことができないのに、偉そうなことをしゃべる人は滑稽です。小学1年生から編みもの、4年生から縫いものを教え、6年生で運動靴を作れるようにすると、本当に賢い人間になれます。
 青年期には理想を持っていることが、なによりも大切です。大人が社会に対して悲観的だったり、不安を抱いていると、子どもは安定して育つことが難しくなります。大人があまりに批判的な態度だと、子どもは落ち着きを失います。大人が内的な時間を大事にして、敬虔な気分を育成し、人生を肯定していると、子どもは「生きよう」と思えます。

四つの気質

2007-07-16 10:01:23 | Weblog
 古代ギリシア以来、人間には四つの気質があるとされてきました。
 赤を好む、割り算的な気性が、火のような胆汁質です。意志が強く、決断が早く、目的がはっきりしています。怒りやすく、危険を好みます。背は低く、肩幅が広く、首は短く、目鼻立ちがはっきりしています。地面にめりこむような歩き方をします。時間に正確で、食べ物に好き嫌いはありません。
 黄色が好きな、掛け算的な性格は、風のような多血質です。気が変わりやすく、興味がつぎつぎに移っていきます。跳びはねるような歩き方です。ものの見方は肯定的・楽観的です。スタイルがよくて表情豊か、身のこなしは軽やかです。しかし、浅はかで、だらしなく、優柔不断なところがあります。
 緑色を好む、足し算的な性格は、水のような粘液質です。太っていて無表情、だらだら歩きます。一人でいるのが好きです。整頓が好きで、人から言われたことは正確に行ないます。友だちを作りにくいのですが、できた友だちには忠実です。のんびりしていて、激することがありません。几帳面で、持続力があります。食べすぎ・寝すぎ・厚着の傾向があります。
 藍・紫を好む、引き算的な性質が、土のような憂鬱質です。痩せていて、猫背になりがちです。足を引きずるように歩きます。寝付きが悪く、朝は不機嫌です。大人のように振る舞い、悲観的で敏感で、自己中心的です。自分を閉ざしているのですが、好きな人にはすなおです。不幸な人を見ると安心して、同情します。

 胆汁質の子どもは、大きな関心を示していてもらわないと不満です。その子の能力を少し越えた課題を与えるのが有効です。尊敬できる権威者がいると、自制できます。多血質の子どもには、生活に静かなリズムが必要です。一つの遊びに変化をつけながら、その遊びを続けるようにします。
 粘液質の子どもには、早朝の手伝いをさせるとよいでしょう。その子自身には、無関心なふうにしているのがよいのですが、その子がものごとに興味を持つようにさせる工夫が必要です。いっしょに散歩しているときに、「見てごらん、きれいな花が咲いているよ」と注意を促すのではなく、「ああ、きれいな花だなあ」と大人が気づいていればいいのです。一緒に遊ぶときに、すこしテンポを早めていきます。
 憂鬱質の子は、心身の暖かさを必要としています。大人は人生の苦悩を背負う人間として、みずからの苦しみへの対処を、その子に語るようにします。お話も、悲話を選びます。
 同気質で向かい合うという方法があります。胆汁質の子どもと競争して、大人が胆汁質的にがんばって、勝つようにします。多血質の子どもと一緒にいて、大人がその子以上に真面目に多血質的に振る舞ってみます。粘液質の子どもに対して、こちらがその子以上にゆっくりとしてみます。憂鬱質の子どもを、娯楽で楽しませようとすると、失敗します。
 食べものによる対処法もあります。胆汁質の子どもには、穀物・生野菜のほか、甘いものを与えるとよいはずです。多血質の子どもには、砂糖や肉を控えめにします。乳製品がお薦めです。粘液質の子どもには、雑穀・葉菜を与え、おかずは塩味にします。卵は控えめにします。憂鬱質の子どもには、蜂蜜や、花のハーブティー、果物、サラダ、そして甘いお菓子を与えるようにします。考え込む癖があるのですから、思考を促す根菜は控えめにします。キャベツも控えめです。
 老婆心ながら、気質に関係なく、一歳未満の子どもにはジャガ芋は与えません(妊娠期間中の大人もジャガ芋は摂りません。また、父親が飲酒していたら子どもは神経に問題が生じ、母親が飲酒すると子どもの内臓に影響が出ます)。子どもが口にするタンパク質・脂肪・糖分は、良質のものである必要があります。良質の食糧を摂っていると、必要な栄養素を本能的に欲し、味覚によって適量を判断できるようになります。砂糖は、天然のものだと適量で満足するのですが、人工的に精製したものは癖になって、度を越して欲しがるようになります。

 どの気質も本来よいものなのですが、極端になると、弊害が出てきます。
 親や教師の気質が、子どもに影響します。その影響は、その子が成長して中年になるころに、身体に現われます。大人は、自分の気質をよく認識して、適度なものにするように気遣う必要があります。
 親・教師が胆汁質すぎる場合、子どもは血液循環に障害をきたすことがあり、リューマチになったり、消化器に症状が現われることがあります。大人が多血質すぎる場合、子どもは活力がなくなることがあります。方向が定まらず、意志・忍耐力の弱い人間になる可能性があります。大人が粘液質すぎる場合、子どもは精神的な呼吸困難に陥り、神経質になりがちです。愚鈍になることもあります。大人が憂鬱質すぎる場合、子どもは感情が抑圧され、呼吸器や心臓を病むことがあります。
 胆汁質の大人は、子どもを驚かせるような言動をしてしまうので、子どもは不安を感じ、虐げられていると感じます。多血質の大人は子どもから深い印象を受けず、子どもは生命の喜びを抑えられます。シュタイナーは、唯物論は人間への興味を失わせるので、唯物論の影響を受けた大人は子どもに無関心、すなわち粘液質になる、と言います。憂鬱質の大人は自分自身に関わっており、子どもとの関係を築こうとしないので、子どもの心が冷えます。
 大人は自分の気質を、みずからの努力によって改善することができます。たとえば多血質の人は、関心をつぎつぎと変えるのがふさわしい状況を作り出して、そこで多血質を使い果たすのです。胆汁質の人は、怒っても何もならない状況に身を置くようにします。憂鬱質の人は、自分の苦悩ではなく、世間の苦悩に関与してみます。粘液質の人は、本当に退屈なことをしてみます。粘液質の人は、適度のダイエットによっても、心魂の発達が促されます。
 人間は大体、子どものころは多血質、青年期は胆汁質、中年は憂鬱質、晩年は粘液質的になります。
 シュタイナーの精神科学=人智学によると、自我が強く出ている人は胆汁質、さまざまな心の思いが主になっている人は多血質、ゆるやかな生命の波のなかに生きている人は粘液質です。憂鬱質の人は頭脳を基盤として生きており、身体から解放されていないと感じています。
 十歳以下の子どもの場合は、大人と異なっています。胆汁質の火のような力が、子どもの場合は、心をとおして現われます。多血質の子の軽快さは、生命領域において示されます。身体が優勢になっている場合、粘液質の子どもになります。憂鬱質の子どもの場合、自我が勝っています。

四季の行事

2007-07-16 09:26:43 | Weblog
 生活のなかにテレビが入り込んで以来、一般に思考力・生命力が衰えてきていますが、生命力を取り戻すのに季節の体験は大きな効力を発します。毎年おなじ行事を繰り返していると、安定した郷土感が生まれ、安心して暮らせるようになります。大人は知的な学びをしますが、子どもは行事・儀式から吸収するものが多くあります。
 2006年1月から8月にかけて各国で行なわれた教育・医学会議で、「ヨーロッパ中心主義のヴァルドルフ教育運動に非難がなされている。ヴァルドルフ教育における一般的・人間的なものを強め、東洋文化に敬意を払わなくてはいけない。ヴァルドルフ教育の本質的な課題は、民族文化に結び付くことだ。西洋的な教育内容によって、小学生を自らの根から引き離してはいけない」という「意識の植民地主義からの脱却」が確認されたそうです(『ダス・ゲーテアヌム』2006年41号)。「シュタイナー教育を日本に根付かせる」と言うとき、舶来品種を日本の土壌で育つように手を加えること以上に、日本文化の中に息づいてきた人智を現代的に開花させることが肝要だ、と僕は考えています。シュタイナー教育と見られているもののうち、どれが普遍的・本質的な部分で、どれがゲルマン社会の風習か、見極める必要があると思います。もしも、シュタイナーが日本に数年滞在して、日本の人々に精神科学を語っていたら、西洋とは異なった表現を用いたことでしょう。私たちが日本を選んで生まれてきたのは、日本の麗しい感性をとおして、人智学を洗練していくためではないでしょうか。究極のところに目を向けてきた東洋を通過して、人智学は深化するはずです。
 
 シュタイナーが季節について何度も語ったのは1923年のことです。地球は心的・星気的な呼吸をしており、息を吐き出しているのが春夏、息を吸い込んでいるのが秋冬。地球は春夏に眠り、秋冬に目覚める、と彼は言います。
 ペルシア起源のミトラス教の祭日、古代ローマにおける太陽の誕生日(冬至)がクリスマスになりました。原始キリスト教ではイエスの誕生日として、1月1日、1月6日、3月27日などが候補にあがっていたのですが、4世紀に西方教会(カトリック)で12月25日と決定されました。これに対して、東方正教会と後のプロテスタントは異なった見解を有してきました。シュタイナーによると、大昔には人間の生殖は季節に関連していて、全員12月25日に生まれていたそうです。12月25日は「ルカによる福音書」のイエス(ナタンの子孫)の誕生日で、「マタイによる福音書」でソロモンの子孫イエスのところに東方の三博士がやってきたのは1年ちかく前、同年1月6日とのことです。クリスマス・ツリーは、古代ゲルマン文化圏で冬至〜新年に常緑樹を飾る習慣があったのが、近世になってキリスト教に取り入れられたものです。薔薇や林檎を33飾るのもきれいですが、シュタイナーは古代・中世でいう七惑星の印と、五芒星・エジプト十字・タロット印・三角・四角、そして左右にアルファとオメガを付けるように、と話しています。僕がよく体験したのは、樅のリースに4本のローソクを付けて、待降節のあいだ、日曜ごとにローソクに火を灯したり、青い紙で五角形十二面体を作り(上の面は抜いて)、中にローソクを灯し、話をして過ごすことで、どちらもよい雰囲気をかもしだします。聖夜は世間の喧噪から離れて、自分の心のなかに神が誕生するのを体験するような気持ちで過ごしたいものです。しずかに音楽に耳を傾けるのもいいですね。子どもたちが蜜蝋ローソクを付けた林檎を手に持ち、樅の枝で作った渦巻き形の道を通って、中央のローソクから火をもらってくるのは、日本のシュタイナー幼稚園などでもよく行なわれていて、古代の奥深い森での秘儀のような印象を受けます。
 復活祭はユダヤ教の過越祭のときですが、ギリシアのアドニス神や小アジアのアッティス神の死と復活が春分のころに祝われたのを受け継いでいます。「イースター」という英語は、北欧の春の女神の名に由来します。クリスマスという誕生の祝いが子どもにはよく理解できるのに対して、死と復活というテーマは子どもには難しいものです。ですから、大自然の春の生命を喜ぶという感じがよいと言います。西洋ふうにやるなら、親子で卵の殻に絵を描くのが楽しいのではないでしょうか。
 ヨハネ祭は夏至のころです。古代ヨーロッパでは、夏至の前夜に火を焚いて、太陽に力を与えました。これは、いまでもシュタイナー学校でやったりします。この夜には川や泉が治癒力を発揮する、と言います。ミカエル祭は収穫祭のころです。素朴な農夫の祭りでした。
 イスラムやユダヤ教では1日は日没とともに始まると考えており、シュタイナーはこれを支持しています。旧約聖書では天地創造の神々エロヒムが7日目に休息したので、週の7日目を安息日にしますが、これは金曜の日没から土曜の日没までです。シュタイナーは、土曜から一週が始まると考えていました。

 1月は7日に「白馬見にとて、里人は車きよげにしたてて見に行く」のが大事な行事です。「三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいま咲きはじむる」「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。・・・・九月九日の菊を、あやしき生絹のきぬにつつみてまゐらせたるを、おなじ柱に結ひつけて月頃ある薬玉にときかへてぞ棄つめる」「七月七日は、くもりくらして、夕方は晴れたる空に、月いとあかく、星の数も見えたる。九月九日は、あかつきがたより、雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたく濡れ・・・・」。大晦日は「亡き人の来る夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほすることありしこそ、あはれなりしか」、元旦は「大路のさま、松立てわたして、はなやかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」。
 民話『うぐいすの里』の正月の座敷では床の間に松竹梅を飾り、鏡餅・海老・昆布・橙が置いてあります。子どもたちは赤い着物を着て、甘酒を飲んでいます。2月の座敷は初午で、稲荷の鳥居が並んでいます。3月の座敷では雛祭りです。4月の座敷は花祭り。5月の座敷は端午の節句で、鯉のぼりがたなびき、武者人形が飾ってあります。6月の座敷では、歯固めの氷餅を作っています。7月の座敷は七夕。8月の座敷は月見で、団子・牡丹・薄を飾り、里芋を食べています。9月の座敷は十三夜で、栗や青豆が用意されています。10月の座敷は秋の景色。11月の座敷は恵比須講で、鮭が振る舞われています。12月の座敷は正月の支度です。

 東洋の天文学では、黄道を28に区分して「二十八宿」を設けました。そして、黄経を24等分して、15度ずつの節目を設けたのが「二十四節気」です。1年を72に分けて季節の変化を示したのが「七十二候」です。七十二候それぞれの名称はとてもきれいです。
〈立春〉のあと、雪が雨に変わる〈雨水〉、虫が活動しはじめる〈啓蟄〉。〈春分〉は彼岸の中日で、春分の前後7日のあいだに墓参に行くのですが、春分の日は「自然を讃え、生物を慈しむ日」とされています。それから、気持ちのよい〈清明〉、雨が穀物をうるおす〈穀雨〉。
〈立夏〉のあと、草木が茂る〈小満〉、芒のある穀物の種をまく〈芒種〉。黄経80度の日が入梅です(梅の実が熟し、黴が生えるころなので、梅雨・黴雨と言います。旧暦で言えば五月雨で、梅雨の晴れ間が五月晴)。そして〈夏至〉、梅雨明けが近い〈小暑〉、〈大暑〉と続きます。立秋前の18日間が夏の土用=暑中です。
〈立秋〉のあと、陰暦の七夕の翌日〈処暑〉に暑さが止み、台風襲来の二百十日があって、野草に露がやどる〈白露〉から秋気が加わります。〈秋分〉の前後7日間は秋彼岸で、秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ日」とされています。それから、肌寒くなる〈寒露〉、露が霜に変わる〈霜降〉です。
〈立冬〉のあと、冷え込む〈小雪〉〈大雪〉〈冬至〉。冬至には南瓜を食べたり、小豆粥を食べたり、柚子湯に入って、疫鬼を祓います。先に述べたとおり、冬至のころの夜、神の子(大子)が各地を巡って、人々に幸いと新たな命を与えると言います。ついで、寒さ厳しい〈小寒〉が寒の入り、そして〈大寒〉です。

 旧暦1月7日は七草。春の七草をいただき、七草粥の汁に手をつけて、爪を切ります。ちょっと改まった気持ちで、実行可能でしょう(勉強に身の入らない子は爪を切ってみよう、とシュタイナーは言っています)。
 旧暦3月3日は桃の節句で、終日、山遊び・磯遊びをし、流し雛で厄を祓います。近くの山・水辺に弁当もちで遠足はいかがですか。
 旧暦5月5日の端午の節句は、高温多湿の時期なので、菖蒲・蓬を軒に吊るして、邪気を祓います。宮中では競馬をします。「菖蒲」が「尚武」に通じるので武者人形を飾りますが、それよりも、菖蒲・蓬を飾ってみればどうでしょうか。
 旧暦7月7日は七夕で、節句のなかで唯一、夜の祭りです。文運を司る魁(北斗七星の第1星)の誕生日です。鵲の橋を渡って織姫と彦星が会う日です。7本の針に糸を通したり、五色の短冊に和歌を書いて竹の葉に飾ります。私たちも和歌を作って、短冊に毛筆で書いてみましょう。そして夜、親子で星空を見上げて、星の物語をしてあげればいかがでしょう。
 旧暦9月9日は菊の節句です。陽(奇数)の極み=9が重なるので、重陽と言います。菊は霊薬です。旧暦5月5日に付けた薬玉に代えて、菊と茱萸を柱に付け、邪気を祓います。私たちも、取り替えを真面目な気持ちでやってみればどうでしょう。中国では茱萸を髪に差し、菊酒を飲みながら、紅葉をめでました。前夜に菊に綿をかぶせ、9日の朝、その綿で体を拭くと、老いが去るそうです。
 旧暦11月15日の七五三や旧暦3月13日の十三参り(知恵詣)は、季節の祭というより通過儀礼で、冠婚葬祭中の冠に当たります(ちなみに祭は先祖供養)。七五三は、遠くの有名神社ではなく、産土に行きます。老婆親切ながら、住所・氏名・生年月日を言い忘れないように。歩行完成の3歳、言語確立の5歳を経て、7歳になると人間の生命実質が身体形成の仕事から解放されて、記憶や習慣の担い手としての働きを始めます。身体も7歳で、遺伝されたものから、自ら作り替えたものへと移り行きます。

 春は命の「張る」季節です。新暦2月11日の建国記念日は、BC660年の神武天皇即位の日とされています。日本を作った大国主=国魂神は天照の孫に国を譲り、『日本書紀』によると、それから179万2470年あまり経って、45歳の神武の軍隊が九州を出発しました。そして、悪戦苦闘の末、大和民族に受け入れられ、旧暦の1月1日に橿原宮で即位したとのことです。大国主が日本先住の「国つ神」の代表で、神武は渡来の「天つ神」の血を引いています。旧暦2月15日は涅槃会です(シュタイナーの説では、釈迦の死はBC483年10月13日。アジア諸国で用いられている仏滅紀元の暦は、BC543年が元年です)。神道では、春の花が飛び散るときに疫病神が分散するというので、旧暦3月末は鎮花祭です。
 旧暦4月1日は、江戸時代以来の衣がえです(平安貴族は年7回衣がえをしていました)。旧暦4月8日は灌仏会=花祭です(アジア諸国では4〜5月の満月の日)。生まれたばかりの釈迦が7歩あるき、天と地を指さして、「天地のなかで個我が最も尊い」と言いました。9匹の竜神がよい香りの水をこの赤ん坊に注いだので、この姿の仏像に甘茶を灌ぎます。旧暦7月13〜15日は孟蘭盆です。精霊棚を作り、先祖を供養します。目蓮が餓鬼道に落ちた母を救うため、7月15日に布施をしたことに由来します。夏は地上が幽界化し、心霊世界に通じやすくなる時期です。天使は人間の魂の向上を応援し、先祖や産土は生活の安泰をもたらします。仏壇があるお宅は、いつも以上に丁寧に勤行をなさるといいですね。先祖には頼みごとをするのではなく、先祖の安寧を祈り、感謝しましょう。
 秋は「飽きる」ほど収穫があり、空が「明らか」です。旧暦8月15日は仲秋の名月、十五夜の芋名月です。いまでは月見団子と薄ですが、本来は神の依代となるものに里芋を供えました。これも、やってみればどうでしょうか。中国では太陰星君・月光馬児を祭って月餅を食べ、子どもは兎児爺で遊びます。日本の月待では、月読尊か勢至菩薩を祭ります。僕らが知っているのは、自らを供犠に捧げた兎(前生の仏陀)が月に昇ったという話ですね。「片月見はするものではない」ので、芋名月に続いて、旧暦9月13日は十三夜(豆名月・栗名月)です。親子で月をめでると楽しいです。この夜の天気によって、来年が豊作かどうか占います。
 冬は魂が「増ゆ」ときです。旧暦10月1日は衣替え。新暦11月23日は勤労感謝の日、新嘗祭の日です。旧暦では、12月13日から正月の準備を始めます。大晦日には、関東の人は鮭、関西の人は鰤を召し上がられたでしょうか。中国文化圏では、正月は先祖の霊と交流する日です。日本でも、門松・注連繩で神祭の場を作ります。旧暦で大晦日と三が日を神聖な気分で過ごすのもいいものです。春分の前日が節分。炒り豆をまき、柊に鰯の頭をさして玄関に掲げます。「鬼」を外に追い出すかべきどうか、複数の見解があります(物部から藤原への政変にあたって、神々の正邪が逆転された可能性がよく指摘されます)が、晴れやかな気分で立春を迎えたいものです。