西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

隆範伝・隆範療養記

2013-07-12 09:49:32 | Weblog
 私は昭和癸巳年(長流水)立春、京都(東本願寺と五条大橋の中間)で生まれた。振り返ればまことに恥ずべき点の多い歩みであったが、別の人生、今まで出会ってきた人々に巡り会わない別の人生というのは望まない。ここまで生き延びてこられた幸運を思うと、私に付き添う神霊の働きを想わざるをえない。
 父(大正12年生まれ)は薬学を修めたが、塗料会社の研究員をしていた。母(昭和4年生まれ)は亀岡から嫁いできた。母の叔父は透視者であった。母の弟が音楽教師と結婚し、私はその叔母にピアノを習うため亀岡に通った(私には妹がいたそうである。母と毎月、生駒山の水子地蔵に通った。母は命日を覚えていなかったので、後日、鎌倉の宗教家に相談したら、「西川ヒカル児之神霊・昭和29年6月21日帰幽」にしようと言われた。のちに西川家の菩提寺の住職から「智光嬰女」という戒名をいただいた。私自身にも昭和60年6月30日に妊娠3週間で流産した水子がいて、まず高野山で供養してもらい、のちに私が妹に合わせて「恵光嬰女」と名づけた。それからだいぶ経って善通寺でこの子の供養を頼んだとき、たまたま80名あまりの僧が四国巡礼中で宿坊に泊まっておられ、計100名ほどの僧が読経してくれた理趣経で成仏したと感じた)。
 宋から帰った道元が13年間閑居した深草(伏見稲荷大社から歩いて10分ほどのところ)で、小学校入学からの時期を過ごした。「弘法救生」を思いとして「重擔を肩に置ける」がごとく感じていた彼が「弘通のこゝろを放下」して「しばらく雲遊萍寄」しようとした地である。東本願寺の斜向かいに住んでいたころは、浄土真宗寺院の経営する幼稚園に通った。小学校は公立だったが、中学校は再び浄土真宗の大谷中学である。高校は、美術コースが併設されている日吉ケ丘高校。通学途中によく東福寺の雲水に出会った。大学紛争の時代で、高校もその影響を強く受けていた。芸術的な方面で身を立てたいと思っていた。大学に行こうとは考えておらず、渡欧しようと思って放課後に関西日仏学館に通ったのだが、それは1ドル360円の時代(308円になるのは1970年代)には果たすことができず、一浪して上京、仏文科に通うことになった。中学時代・高校時代は、浄土思想と般若経典にのめりこんでいた。
 祖父は呉服商で、宮津出身の祖母は幼年の私を奈良の真言律宗寺院によく連れていった。真言律宗は南都七大寺の一つ西大寺を総本山とする小さな宗派であるが、奈良の法華寺、海龍王寺、元興寺極楽坊、般若寺、京都府の浄瑠璃寺、金沢文庫の称名寺、鎌倉の極楽寺などを擁する。
 20歳のとき初めて高野山に登り、これが決定的な体験となった。密教学の方向に進もうと考えて、西大寺の松本実道長老に相談したら、出家を勧められた。こうして1976年3月6日、西大寺で得度した。そして、高野山宝寿院で加行に入り、宝寿院門主の蓮華定院・添田隆俊僧正から伝法灌頂を受けて、空海の血脈に連なった。
 その後、東京のカルチャー・スクールで高橋巌氏の講座を聴くことになる。シュタイナーが述べる死後の人生は私の抱いていた疑問に答えるものだったし、彼が語る宇宙史は私の求めていたものだった。勉学時間をかせぐために大学院(宗教学)に進んだ。
 鎌倉での高橋巌氏の勉強会に参加し、1979年からは鎌倉雪の下に住んだ。高橋巌氏・高橋弘子夫人・子安美知子女史・上松佑二氏・横尾龍彦氏・笠井叡氏ら、いまでは互いに袂を分かっている人々がつどっていた、日本の人智学運動の蜜月期である。私の記憶ちがいでなければ、高橋氏は戦後、あるプラトン研究家から薔薇十字団について研究するよう勧められた、と聞いたように思う。高橋氏が軽井沢で正田美智子さんと知り合いになられる話も興味深かった。
 1982年春からドルナッハの隣町アーレスハイムに間借りしてゲーテアヌム精神科学自由大学で1年、それからシュトゥットガルトに移ってクリステンゲマインシャフト神学校で2年学び、1985年に帰国した。1990年からベルンのシュタイナー幼稚園教員養成所の講師を6年間つとめた。
 道元は深草に僧堂を建てるにあたって、「思ひ始めたる事のならぬとても、恨みあるべからず。ただ柱一本なりとも立てゝ置きたらば、後来もかく思ひ、くはだてたれども成らざりけりと見んも、苦しかるべからずと思ふなり」と述べている。「我等後代亡失不可思之」だ。

 2011年春、命と引き換えに原発事故を収束させようと祈念したら、心不全になった。
 2012年は2月と6~7月に、胸水貯留のため日医大北総病院に入院した。7月にカテーテルで心室の組織を採取して生体検査をしてもらい、アミロイドーシスとの診断が確定した。異常蛋白質がさまざまなところに蓄積する難病で、私の場合は心臓に蓄積して心筋が変性している。心アミロイドーシスの平均余命は、発症から8ヶ月だそうである。8月2日の診察のとき、「いま生きているのがおかしい」と主治医に言われた。
 アミロイドーシスには、免疫グロブリン性・反応性・老人性・家族性があり、反応性以外が国の特定疾患治療研究事業の対象になる。私は免疫グロブリン性である。反応性というのは、骨髄腫・関節リウマチ・結核などに続発するものである。
 アミロイドーシスには治療法がないのだが、8月6日から、多発性骨髄腫に用いるベルケイドの静脈注射が始まった。4週間が1クールで、そのあと1週休んで、9月10日から第2クールに入った。回を重ねるごとに副作用が強くなって、ほぼ飲食不可能になり、ときどき気を失って倒れるようになった。海外の資料によると、第2クールまで投与すると効果が現われるということだったので、そこまでは頑張りたいと思っていたのだが、第2クール4週目の注射のまえに、もうここまででいいという気持ちになり、10月1日から、レブラミドの服用にかえてもらった。薬効はベルケイドより劣るが、副作用は軽くなる。3週が1サイクルで、そのあと1週間休んで、また3週である。
 9月21日付で、身体障害者手帳3級を交付された。「家庭内の日常生活活動が著しく制限される心臓機能障害」と記されている。同月26日、特定疾患受給者票を交付された。12月13日には、障害基礎年金2級(病状が日常生活に著しい制限を加えるもので、日常生活が極めて困難な程度のもの)の受給が決まった。
 要介護の両親のことを考えると、私は一人子なので、寛解にいたればありがたい。そうならなければ、身体を離れて天空を飛行しよう。西川家の墓は三十三間堂南西の専称寺にある。戒名は自作した。慈光隆範禅定門。
2013年4月30日、循環器内科の診察に行ったら、鬱血性心不全で、そのまま入院になった。ドレーンで胸水を吸引してもらったが、水を抜いたあと数日で肺の半分までまた水が溜まった。「病院にいてもこれ以上よくならないので、いったん退院して、必要に応じて再入院」ということになり、5月18日に退院した。5月15日にはシュタイナー派の牧師が病院に来てくれ、終油について説明してくれた。彼が言うには、終油は明瞭な意識を保って彼岸に赴くために行なうのだそうである。秋に麺麭と葡萄汁を持ってきてくれることになった。
 6月13日、循環器内科の診察のとき、特定疾患医療受給者票を重症認定にしようか、と主治医に言われた。同24日、血液内科の診察に行ったら、レブラミドが効いていないのでベルケイドに戻ることになった。2012年12月に副作用による治療断念が減少する皮下注射が認可されたので、今度は皮下投与になる。
20130712