西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

シュタイナー語録88(その7)

2011-01-24 19:03:48 | Weblog
53 悪魔の働き
 ルシファー的存在たちは本来、彼らの課題を「月」で卒業しているべき霊たちだった。
 ルシファー的存在たちは、個我に働きかけることは、まだできなかった。ルシファー的存在たちはレムリア時代に、あらゆる側からアストラル体に直接働きかけた。そのことによって、人間のアストラル体は、本来「月」において作用しおわっているべき影響にさらされた。こうして、高次の存在たちのみが働きかけていたら受け取っていなかったはずの衝動・欲望・情熱が人間に植え付けられた。
 人間はルシファーの影響を二通りに受け取った。第一に、人間は熱狂し、熱中し、夢中になることができるようになった。しかし、この熱狂は個我によって導かれているのではない。第二に、人間は高次の存在から離反する可能性、悪を行なう可能性、また自由の可能性も得た。このように、主導性・熱狂・自由を、人間はルシファー的存在たちに負っている。しかし同時に、悪の可能性も人間のなかに発生したのである。
 人間のアストラル体がルシファー的存在たちに浸透されたことによって、人間はあまりに早く上空から地上に下った。
 多くの人々が邪悪になり、人間がルシファーの影響を受けて悪へと傾いたことによって、レムリア大陸に火の力が燃え上がった。
 もし、人類進化がアトランティス中期までルシファーの影響なしに進んでいたら、人間は高度の霊視的形象意識を発達させたことだろう。
 ルシファー的存在たちが人間をあまりに早く地上に引き下ろしたために、外界の背後の神霊世界が覆われ、人間は物質を透視しなくなった。
 進化から取り残された別の霊的存在たちが、アトランティス中期から、この物質のなかに混ざることができた。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神霊を見ることができなくなった。これがアーリマン的存在たちである。
 ルシファーは内面で活動する霊であり、アーリマンはその反対に、物質をヴェールのように霊的なものの上に広げ、神霊世界の認識を不可能にする霊である。この両方の霊が、人間の精神性への進化を抑止する。とりわけ、アーリマンの影響が人間のなかで力を発揮し、地球の一部、すなわちアトランティスの崩壊をもたらした。
Theosophie und Okkultismus des Rosenkreuzers

54 十二菩薩
 宇宙と地球に関係する菩薩は一二人いる。
 紀元前六世紀から五世紀にかけて仏陀となり、人類を慈悲と愛の教えのなかに摂取するという任務を果たした釈迦も、一二人の菩薩の一人である。
 一二人の菩薩それぞれが、個々の任務を持っている。釈迦が人類に慈悲と愛の教えをもたらすという任務を持っていたように、他の菩薩たちも地球進化のそれぞれ別の時期に果たすべき任務を持っている。釈迦が仏陀になった紀元前六世紀・五世紀から、次に弥勒菩薩が弥勒仏となるまでの現在の人類の課題は道徳の発展である。それゆえ、仏陀の教えは今日の人類にとって特別大事なものなのである。
 地球進化の経過にしたがって、菩薩たちは次々に地上に下り、自らの任務を果たしていく。地球進化の全体を見渡すと、そのような菩薩が一二人いることが分かる。
 一二人の菩薩たちは力強い精神共同体を形成しており、次々に特別の任務を持って地上に下り、人類の導師となる。一二人の菩薩の集まる共同体が地球進化全体を導いている。一二人の菩薩たちは「導師」として現われ、人類に偉大な霊感を与える。
 それでは、一二人の菩薩たちは、各時代ごとに果たすべき任務を誰から受け取っているのだろうか。
 一二人の菩薩たちの共同体のなかを見ることができれば、一二人の菩薩たちの輪の中心に、一三番目の存在を見出すことができる。この一三番目の存在は、一二人の菩薩たちのような導師ではない。この存在からは、叡智の実質そのものが流れ出ている。
 この存在を囲んで一二人の菩薩が座している。菩薩たちはこの存在に眺め入って、自分たちが地上にもたらすべき叡智を受け取っている。
 一三番目の存在は、一二人の菩薩たちに叡智を注いでいる。菩薩たちは、その智を人類に伝える導師である。この一三番目の存在は、菩薩たちが伝える叡智の本質そのものである。新たな時代ごとに、この存在は菩薩たちに智を注ぎ込む。
 この一三番目の存在を、太古の聖仙たちは毘首羯磨と呼び、ザラシュストラはアフラ・マズダと名づけた。私たちは、この存在をキリストと呼んでいる。
Das esoterische Christentum und die geistige Fu[¨]hrung der Menschheit

55 イエス
 ルカ福音書に記されているイエスの系図を、マタイ福音書に記された系図と比べてみると、相違が見られる。
 イエスが生まれたのとほぼ同じころ、パレスチナで、やはりヨセフとマリアという名の夫婦に、イエスという名の子どもが生まれた。イエスという名の子どもが二人、そしてヨセフとマリアという名の夫婦が二組いたのである。
 一方のイエスはベツレヘムの出身で、両親とともにベツレヘムに住んでいた。ベツレヘムのイエスは、ダビデ家のソロモン系の血を引いていた。ナザレのイエスは、ダビデ家のナタン系の出であった。
 ルカはナタン系のイエスについて語り、マタイはソロモン系のイエスについて語っている。ベツレヘムのイエスは、ナザレのイエスとはまったく別の能力を示した。ベツレヘムのイエスは、外に現われる特性を発達させた。たとえば、周囲の人々にはあまり理解できないものではあっても、このイエスは生まれるとすぐに話をすることができた。ナザレのイエスのほうは、より内的な素質を有していた。
 ベツレヘムのイエスのなかには、偉大なザラシュストラが受肉したのである。ザラシュストラは、自分のアストラル体をヘルメスに、エーテル体をモーセに与えた。彼の個我は、紀元前六世紀にナザラトスあるいはザラトスという名でカルデアに受肉し、ついでイエスとして受肉したのである。このイエスはエジプトに行き、しばらくのあいだ自分に適した環境のなかに生き、エジプトの印象を自分の内に甦らせねばならなかった。
 ルカが語っているイエスとマタイが語っているイエスを同一人物と思ってはならない。ヘロデ王の命令によって、二歳以下の子どもはすべて殺された。洗礼者ヨハネとイエスの誕生のあいだに十分な年月の差がなかったら、洗礼者ヨハネも殺されていたはずである。
 一二歳のとき、ベツレヘムのイエスの個我、つまりザラシュストラの個我は、もう一人のイエスのなかに移り行く。一二歳以後、ナザレのイエスのなかにはかつての個我ではなく、ザラシュストラの個我が生きることになる。個我が去ったのち、すぐにベツレヘムのイエスは死んだ。ザラシュストラの個我がナザレのイエスのなかに移行したことは、ルカ福音書の「神殿における一二歳のイエス」の場面に語られている。
Die tieferen Gehaimnisse des Menschheitswerdens im Lichte der Evangelien

56 仏陀とイエス
 ナザレに住んでいたヨセフとマリアに、イエスという子どもが生まれた。この子は特別な存在だった。応身仏は、「私が力を貸せば、この子は人類を大きく前進させる可能性を身体のなかに有している」と、言うことができた。
 応身を一個の閉じられた体と表象してはならない。たんなる力でしかなかったものが、特別の存在になったのが応身である。私たちのなかで思考・感情・意志が結び付いているように、この存在組織は高次の世界で、ある個体の自我をとおして結び合わされている。透視者は、応身仏に属する諸存在を知覚する。
 このようなことを、ルカ福音書の著者はよく知っていた。彼は応身仏がイエスのなかに下ったことも知っていた。そのことを彼は、「イエスがベツレヘムに生まれたとき、精神界から天使の一群が下ってきて、何が起こったのか、羊飼いたちに告げた」と記している。この瞬間、羊飼いたちはある理由から、透視力を得たのである。
 ナザレのイエスの誕生に際して、イエスのアストラル体のなかに仏陀が下った。エーテル体に再び現われた仏陀が、ナザレのイエスに結び付いたのである。ナザレのイエスのアストラル・オーラのなかに仏陀がいるのである。それをルカ福音書は示唆している。
 ゴータマ・シッダールタ王子が生まれたとき、インドに一人の賢者がいた。阿私陀である。彼は、いま菩薩が生まれた、と透視する。彼は王城でこの子を見て、感激する。そして、泣きはじめる。
 「なぜ泣くのだ」と、王は聞く。「王よ、不幸なことがあるのではありません。生まれたのは菩薩であり、やがて仏陀になります。私は老人なので、仏陀になった姿が見られるまで生きていることができません。それで、泣いているのです」と、阿私陀は答える。
 やがて、阿私陀は死ぬ。そして、菩薩は仏陀になる。
 仏陀は精神界から下って、ナザレのイエスのオーラと結び付き、パレスチナの出来事に関与する。そのころ、カルマ的関連によって、阿私陀は再受肉する。シメオンである。シメオンは、仏陀になった菩薩を見る。紀元前六〇〇年には見ることのできなかった仏陀を、彼は見た。腕に抱いたナザレのイエスのオーラのなかに仏陀がいるのを見たのである。
 そして彼は、「主よ、あなたはこの下僕を平和のうちに去らせてくれます。私はわが主を見たのですから」という、美しい言葉を語る。「わが主」というのは、イエスのオーラのなかの仏陀のことである。
Das Lukas-Evangelium

57 荒野の誘惑
 初めて地上の人体に受肉したキリスト存在は、まず荒野の孤独のなかで、ルシファーならびにアーリマンとの戦いに赴く。
 尊大・高慢・自惚れを持つ人間にルシファーは近づき、誘惑しようとする。ルシファーはキリストに立ち向かい、「わたしを見なさい。人間がいま置かれている、他の神々と霊たちによって築かれた世界は古いものだ。わたしは新しい国を築く。わたしは世界の秩序から自由になった。おまえがわたしの領域に歩み入るなら、古い世界の美と栄光をすべておまえに与えよう。そのためには、おまえは他の神々から離れ、私を認めねばならない」と語る。
 ルシファーは二度目の誘惑を試みる。今度はアーリマンの助けを借りて、ルシファーとアーリマンのふたりがキリストに語りかける。
 ルシファーは、こう語る。「わたしを認めれば、わたしの霊性をとおし、わたしがおまえに与えるものをとおして、今おまえが強いられているものから解き放ってやろう。おまえはキリストとして人間の身体のなかに入った。肉体はおまえを服従させる。おまえは肉体のなかで重さの法則を認識しなければならない。肉体は、おまえが重さの法則を超越することを妨げる。わたしはおまえを重さの法則から超越させる。わたしを認めるなら、わたしは落下からおまえを守る。おまえには何事も生じない。この山の頂から飛び降りてみるがよい」。
 恐怖心に訴えようとするアーリマンは、「わしがおまえを恐怖から守る。飛び降りてみよ」と語る。
 アーリマンはルシファーを去らせ、ひとりで最後の誘惑を試みる。
 「おまえが神の力を誇るなら、石をパンに変えてみよ」。
 キリストはアーリマンに答える。
 「人はパンのみによって生きるのではない。人は精神界から下る精神によって生きるのである」。
 アーリマンは語る。
 「人間の世界には、実際、石をパンに変えることを必要としている、おまえがまだ知らない者どもがいる。彼らは、ただ精神だけによっては生きていくことができないのだ」
 アーリマンが語ったのは、地上の人間には既知でありながら、地上に歩み入ったばかりの神には未知のことだった。
Aus der Akasha-Forschung. Das Fuenfte Evangelium

58 主の祈り
 一六歳から一八歳にかけて、ナザレのイエスは仕事やその他の事情によって、旅を多くした。これらの旅によって、イエスはパレスチナとパレスチナ以外の多くの土地を知った。
 さまざまの地方に、ミトラス神礼拝のための神殿が数多く建設されていた。アッティス神礼拝に似た儀式を行なっているところも数多くあった。
 イエスが多くの異教の祭祀で、司祭が祭壇に供儀を捧げているのを霊視力によって見たとき、その供儀をとおしてさまざまな悪魔的存在が引き寄せられてくるのが見えた。また、崇拝されている偶像の多くが高次の位階の善なる神霊存在ではなく、邪悪な、悪魔的な力の模像であることを発見した。この邪悪で悪魔的な力が儀式に参列している信者のなかに入り込むのがしばしば見られた。
 イエスの旅は、二〇歳・二二歳・二四歳まで続く。ルシファーとアーリマンによって生み出された悪魔が支配し、悪魔が神と思われていた。野蛮な魔力が神の偶像とされており、その偶像と儀礼によって野蛮な魔力が引き寄せられ、善良な信仰をもって祈る人々に乗り移っていた。それを見て、イエスはいつも心魂に苦い痛みを感じた。
 二四歳のとき、ナザレのイエスは、ある異教の祭祀の町に来た。司祭たちはずっと以前から、この祭祀の町を捨て去っていた。
 人々がイエスを祭壇に上らせたとき、イエスはまるで死んだように倒れ伏し、心魂が身体から去って行ったようであった。
 物質体から離れ去ったナザレのイエスの心魂は精神界に持ち上げられ、太陽存在の領域に入り込むのを感じた。イエスの心魂は、太陽存在の領域から響いてくる言葉を聞く。
 「アーメン、
  悪が支配する。
  崩れゆく個我の証しを、
  人に明かされる自己の罪を、
  日々の糧のなかに体験せよ。
  そのなかに天の意志は働いていない。
  人は汝らの国を去り、
  汝らの名を忘れた。
  汝ら、天に在ます父たちよ」
Aus der Akasha-Forschung. Das Fuenfte Evangelium

59 火星の仏陀
 七世紀・八世紀に黒海の近くにあった秘儀の中心地に仏陀は霊体で現われ、秘儀を伝授した。このような学院には肉体を持った教師もいたが、上級の弟子たちはエーテル的形姿の導師から教えを受けた。この当時の仏陀の弟子の一人は、数世紀後、アッシジのフランチェスコとして再受肉した。アッシジのフランチェスコの性向と人生が仏陀の弟子たちに酷似しているのは、彼自身が仏陀の弟子だったからにほかならない。
 アッシジのフランチェスコのように熱心に霊を求めて精進する人と、工業技術や現代文明の恩恵に熱中する人とのあいだに性向の違いを認めるのは容易である。多くの神秘学者が、将来人類が二つに分かれるのは避けがたいと考えて、頭を悩ませている。実生活に没頭して食物の確保と機械文明に心を労する人間と、アッシジのフランチェスコのように、霊的な人生を送るために実生活を放棄する人間の二種類である。両者の仲裁に入る者がいなければ、人類は二つに分裂していくことになる。
 ローゼンクロイツは、最も優れた存在たちに会議への参加を要請した。傑出した人類の導師である仏陀もこの会議に出席し、ある決定がなされた。仏陀が火星に赴くという決定である。仏陀は一六〇四年に火星に赴き、ちょうどキリストが地球上でゴルゴタの秘儀を成し遂げたように、火星上で特別の秘儀を成就することになった。
 仏陀の涅槃と解脱の教えは、特に火星にとって意味深いものなのである。
 仏陀の教えは、死者たちには特別重要な価値を持つ。火星を浄化するために、仏陀の教えをもたらす必要があった。神的な愛の本質であるキリスト存在は、ただ一度地上に下り、人々を結び付けた。一七世紀に、平和の王子である仏陀は戦争と闘争の星である火星に赴き、火星上の好戦的で凶暴な死者たちに、解脱の教えを浸透させることになった。
 火星で仏陀による秘儀が成就されて以来、人間は死後、火星から今までとは異なった力を受けるようになった。そして、この仏陀の霊的な行為によって、死者たちは火星から今までとは違う力を受けるようになった。それだけではなく、精神界を求めて瞑想する人にも、火星から仏陀の霊力が流れ込むようになった。ローゼンクロイツによって与えられた瞑想を行なう者は、火星から送られてくる仏陀の力を受け取るのである。
 仏陀が火星から地球に力を送り届けるようになって以来、俗世を捨てずに修道生活ができるようになったのである。
Das esoterische Christentum und die geistige Fuehrung der Menschheit

60 エーテル・キリスト
 暗黒時代は、紀元前三一〇一年に始まった、と計算しなくてはならない。人間の心魂が地上に受肉するたびに、神霊世界に向けた人間のまなざしはだんだん閉じられていき、外的な感覚世界に限定されていった。
 私たちが暗黒時代において達成できたのは、個我意識の強化である。
 神霊世界との関連を完全に失いたくない人間は、精神的なものを個我のなかで体験することを学ばねばならなかった。個我を発展させ、その個我が自らの内面において、「神霊世界が存在する。人間は神霊世界に属する。高次の神霊存在たちが存在する」と確信できるようにならねばならなかった。
 だれかがキリスト・イエスの時代に、当時における本来の真理を語ったら、「かつて、人間は天国を自分の個我の外、霊の彼方で体験できた。自分から抜け出たときに、霊の彼方に到達した。個我の彼方で、人々は天の国々を体験したにちがいない。いまや、人間は天の国々をそのように体験できない。いまや、人間は大きく変わった。個我が自らのなかに天の国々を体験しなければならない。天の国々は人間に近づいて、個我のなかに働きかけるにいたった」と言うことができただろう。
 かつて、天の国々は人間の外にあった。いまや人間は、自分に最も近いもの、すなわち個我のなかで、近づいてくる天の国々を把握しなくてはならない。
 人間は暗黒時代には、もはや感覚世界から神霊世界へと出ていけないので、神的存在=キリストが物質的・感覚的世界まで下ってこなければならなかった。
 一八九九年に暗黒時代は終了した。いま、私たちは新しい時代に生きている。いま始まるものが、人間に新しい心魂能力を準備していく。
 この心魂能力の最初の兆候は、個々の心魂のなかで、比較的すみやかに気づかれるだろう。一九三〇年代なかばに、その兆候ははっきりと示されるだろう。およそ、一九三〇年から一九四〇年のあいだである。
 人間は今まで知覚できなかったエーテル的なものを周囲に見る能力を有するようになるだろう。
 「エーテル明視」と名づけられるものが到来するだろう。
 いま述べた時期に、キリストはエーテル的形姿で再来するだろう。
Das Ereignis der Christus-Erscheinung in der aetherischen Welt

61 弥勒菩薩
 徳の発展は、地球進化の衝動とは少し異なる。ゴルゴタの秘儀の前に、仏陀の後を継ぐ一人の菩薩が地上に受肉し、ゴルゴタの秘儀の準備をした。ナザレのイエスの生まれる一世紀前に、この菩薩はパンディラのイエスのなかに受肉した。仏陀の後を継ぐ菩薩であるパンディラのイエスと、キリストと呼ばれる宇宙存在に三年間貫かれたナザレのイエスとは別の存在である。パンディラのイエスのなかに受肉した菩薩は、何度も地上に出現する。そして、いまから三〇〇〇年後に仏の位階に達し、弥勒仏として最後の地上での人生を送る。
 キリストはナザレのイエスの肉体に三年間だけ留まり、その後は地上に受肉することはない。第五ポスト・アトランティス文化期にはキリストはエーテル体に、第六文化期にはアストラル体に、そして第七文化期には人類の偉大な心魂の集合体のごとき宇宙個我のなかに出現する。
 今日の精神科学の内容は、浄飯王の子である菩薩が仏陀となったときに説いた東洋の霊智と変わるところはない。釈迦の説いた教えを実現するのは、つぎに仏になる菩薩の仕事だと言われている。この菩薩は全世界に、真のキリストを啓示する光の智を伝えることになる。パンディラのイエスに受肉した菩薩は、キリスト衝動の偉大な師になった。このことは、菩薩ヨアサフがいかにキリスト教の師バルラームから教えを受けたかを伝えている物語『バルラームとヨアサフ』が明瞭に示している。将来、弥勒仏となるこの菩薩を、東洋の神秘学は「善をもたらす者」と呼んでいる。今日の人間には、その概念を持つことができないほどの高次の段階の言葉の力が弥勒仏のなかに存在することになる、と神秘学では考えている。高度の霊的感覚器官をとおして世界の進化を知覚することによって、三〇〇〇年後に弥勒仏が説く教えを知ることができる。
 弥勒仏の説法は、キリストの力が浸透したものである。弥勒仏の生涯はキリストの生涯と同じ形をとるだろう、ということが霊的な探究の結果あきらかにされている。古代には、人類の師となるべき偉大な人物が世に現われると、その人物は若いころから特別の才能と心魂の資質を現わしたものだった。とはいえ、人生のある時期にいたって人格を一変させるような導師も存在する。そのような人類の導師の個我は、人生のある時期に肉体という外被から去り、べつの存在の個我がその肉体に入る。イエスはこのような導師の典型である。イエスが三〇歳のとき、彼の個我は物質体から離れ去り、代わって、キリスト存在がイエスの内部を占領した。弥勒菩薩はどの転生においても、この型の生涯を送ることになる。
Das esoterische Christentum und die geistige Fuehrung der Menschheit