西川隆範:シュタイナー人智学の研究

シュタイナー思想を日本語で語りなおす

シュタイナー人智学概要

2011-02-05 10:36:57 | Weblog
 体・生命・心・魂
 人間について考えてみよう。まず知覚できるのは体だ。けれど、体は人間の本質の一部にすぎない。目で見ることができ、手で触れることのできるものが体だと思うなら、誤っている。人間の体には、高次の部分が混ざっている。人間の体は、たしかに鉱物と同じ素材からできている。でも、そのように見えるのは、体に他の部分が混ざっているからだ。目が見ているものは、本当は体ではない。体というのは、人間が死の扉を通過したあとに残るものだ。
 高次の部分から切り離された体は、それまでとは別の法則に従う。それまで体は、物理的・化学的な法則に対抗してきた。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分だ。生命オーラの頭・胴・肩は、体とほぼ同じ姿をしている。下に行くにしたがって、生命は体と似たところがなくなっていく。体と生命では、左右が逆になっている。体の心臓は、やや左側に位置している。生命の心臓は右側にある。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。生命の動きの柔軟さは、体の動きとは比べものにならない。健康な人の場合、生命は若い桃の花の色をしている。薔薇のような濃い赤から、明るい白までの独特の色合いで輝き、光っている。
 心が人間の第三の部分だ。人間の楽しみ・苦しみ・喜びなど、思いのオーラは輝く雲のように見える。それが心だ。心は、じつに様々な色と形を示す。たえず形を変えながら漂う雲のようだ。その雲のなかに作られるものは、人間が他人に対して持つ感情を表わしている。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。
 人間の第四の部分は魂。楕円形をしており、その中心は前脳にある。そこに、青く輝く球が見える。そこから卵のような楕円形で青色が流れ出ている。

 魂による心・生命・体の変容
 魂が心・生命・体に働きかけることによって、人間の仕事が始まる。魂はまず心への働きかけを始める。この自分への働きかけは「清め」と呼ばれる。心は二つに分けられる。働きかけられて浄化されたところと、そうでないところだ。魂が不屈に心に働きかけると、しだいに人間はよいことをするように自分に命じる必要がなくなり、よいことをするのが習慣になる。自分の命令に従うだけなら、魂は心に働きかけている。よいことを行なうのが習慣になると、魂は生命にも働きかけている。なにかが説明され、それを理解したとすると、魂が心に働きかけたのだ。心が繰り返し同じ活動をすると、生命に働きかけることになる。一度かぎりの理解は魂から心への働きかけであり、繰り返しは魂から生命への働きかけだ。生命の原則は繰り返しである。繰り返しがあるところには、生命が活動している。完結するのが心の原則だ。人間は魂から体に働きかけることもできる。それは最も困難な仕事だ。
 体・生命・心への働きかけには、意識的な働きかけと無意識的な働きかけの二つがある。無意識的な働きかけは、自分ではそれと知らずに、芸術作品の鑑賞や、敬虔な思い・祈りによって働きかけていることだ。人間の心は、無意識的な部分と意識的な部分の二つからなっている。魂が無意識的な方法で働きかけた心の部分は「感じる心」と呼ばれる。魂が無意識的に生命に働きかけたものが「知的な心」だ。長期にわたって無意識的に体のなかで改造されたものが「意識的な心」。ついで、意識的な働きかけが始まる。人間が意識的に心に働きかけてできたものが「精神的な自己」。人間が意識的に生命に働きかけたものが「霊化された生命」だ。意識的な呼吸によって、体は魂によって「霊体」へと改造される。

  眠りと目覚め
 目覚めているときの人間と、眠っているときの人間を考察してみよう。意識が眠りに落ち、喜びと苦痛が沈黙するとき、何が生じているのだろうか。そのとき、心と魂は、体と生命の外にある。眠っているときの人間は、体と生命が寝床にあり、心と魂は外に出ている。
 人間の心が夜、体と生命から出ていくのと同じ分だけ、神々の心が寝床に横たわる体のなかに入ってくる。神々の魂が入ってきて、血液の面倒を見る。そして朝、人間の心と魂が生命と体に帰ってくると、人間の心が神々の心を追い出す。夜のあいだ血液の面倒を見ていた神々の魂を、人間の魂が追い出す。人間の魂と心は夜、体と生命から去り、朝になると戻ってくる。

 死の直後
 生きているあいだ、生命は体と結び付いている。死ぬと、生命は体から離れる。
 死の瞬間、過ぎ去った人生全体が一つの画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。生命は体のなかにあるかぎり、みずからの力すべてを展開することはできない。人が死ぬと、生命は自由になり、人生をとおして自分のなかに書き込まれたことを、体の束縛なしに展開できる。死の瞬間、生命と心と魂が体から抜け出し、記憶映像が心のまえに現われる。さまざまな出来事が同時に心のまえに現われ、一種の画像のように概観を示す。この記憶映像は客観的なものだ。
 人間が生きているときに、眠りに陥ることなく起きつづけていられる時間の長さだけ、死後の映像は続く。回想の映像はそれくらいの長さ続き、そして、消えていく。
 生命のすべてが解消するのではない。生命の精髄を、死者はたずさえていく。生命の精髄とともに、人生の果実もたずさえていく。
 いまや人間は、生命の精髄と心と魂を有している。
 
 心霊の世界
 心にとって根本的に新たな時期が始まる。地上への愛着から離れる時期が始まるのだ。心のなかに存在しているものは、死後、体を捨てるとともになくなるのではない。衝動・願望は、すべて存在しつづける。
 体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具=体がないだけなのだ。その状態は、おそろしく喉が乾いているのに、乾きを癒す可能性がまったくないのに似ている。欲望を満たすために必要なものがないので、その欲望ゆえに苦しむのだ。
 これが心霊の世界の状態である。欲望を捨てていくところだ。ここで過ごす期間は、生まれてから死ぬまでの年月の三分の一の長さ。地上に結び付いている欲望がすべてなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。
 人間にとって、体のなかで体験することは意味のあるものだ。経験を積み、地上での行為をとおして、高みへと発展するからだ。
 別の面では、生まれてから死ぬまで、発展の妨げとなるものを作る、おびただしい機会がある。人に負担をかけて自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに物質的な苦痛を与えても、心理的な苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。
 心霊の世界を通過していくとき、人間は進歩の妨げを取り除く刺激を受ける。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。事物がすべて逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。心霊の世界を見るときには、すべてを逆にしなくてはいけない。
 心眼が開けたとしてみよう。そのとき、まず自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれども、それらが様々な姿で、あらゆる方角から自分のほうに向かってくるように見える。すべてが逆に体験されるのだ。
 ある人が六〇歳で亡くなり、心霊の世界で、四〇歳のときに人を殴った時点に到ったとしてみよう。そこで、相手が体験したことをすべて、自分が体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、自分の人生を誕生の時点へと遡っていく。
 一つずつ、心の発展の妨げとなるものを、心は捨てていく。心の発展の妨げとなったものを埋め合わせる意志衝動を、心は受け取る。そして、心は来世で、その意志を実現する。
 私たちは、自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。地上で苦痛として体験したものは、心霊の世界では喜びだ。記憶画像が与えることのできない、苦しみと喜びの遡行的な体験を心に与えるために、心霊の世界は存在する。
 心霊の世界を生き抜くと、心の死骸が捨てられる。この死骸は、人間が魂によって清めず、秩序を与えなかった心の部分だ。衝動と情熱の担い手として人間が受け取り、魂によって手を加えず、精神化しなかったものは、心霊の世界を通過したのち解消される。
 さらなる歩みにおいて、人間は心の精髄をたずさえていく。自分の力によって高貴にしたもの、美・善・道徳が心の精髄を形成する。心霊の世界の終わりに人間は魂であり、魂のまわりに心の精髄と生命の精髄、よい意志衝動がある。

 精神の国
 新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。
 地上には私たちが歩む陸地があり、水があり、空気があり、すべてに熱が浸透している。精神の国の陸地には、鉱物すべての形態が含まれている。地上の鉱物があるところは何も見えず、空になっている。そのまわりに霊的な力が、生命的な光のように存在している。
 精神の国へと上昇する意識にとって、物質は本質的なものではなく、そのまわりに見える力が本質的なものだ。鉱物の結晶は陰画のように見える。地上の物質形態のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。
 地上の植物・動物・人間の生命すべてが様々な存在に分配されているのが、精神の国の海・川のように見える。
 人間と動物の感じるものから、精神の国に大気圏が形成されている。心のなかに生きるもの、苦痛・喜びが、精神の国の空気を作る。すばらしく好ましい音が、精神の国の大気を貫いている。
 地上の陸地・海・空気に熱が浸透しているように、精神の国の三つの領域に思考が浸透している。思考は精神の国で、形態・本質として生きている。精神の国で人間が交流できる存在たちが、熱のごとく、精神の国全体に満ちている。
 人間が心霊の世界で物へのつながりを捨てた分だけ、意識が明るくなる。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、曇っていた意識が明るくなっていく。そして、精神の国を人間は意識的に体験する。
 精神の国における最初の印象は、過ぎ去った人生における自分の体を、自分の外に見ることだ。この体は、精神の国の陸地に属する。
 死後、人間は体の外にいる。精神の国に入るとき、体の形態を人間は意識する。こうして、「私はもはや地上にはいない。私は精神の国にいる」ということが明らかになる。
 地上では、生命は数多くの存在に分配されている。精神の国における生命は、一個の全体として現われる。すべてを包括する一個の生命が、精神の国に現われている。人々を結び付けるもの、調和するものを、人間は精神の国で体験する。
 人間が地上で抱く喜びと苦しみは、精神の国では風・気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。

輪廻
 地上で知覚器官は、外的な素材によって作られる。私たちの体は、周囲から作られたものだ。
 精神の国では、周囲から霊的な器官が人間に形成される。精神の国で、人間は絶えず何かを周囲の生命から受け取り、周囲の要素から霊体を作る。人間は自分を絶えず生成するものと感じ、自分の霊体の様々な部分が次々と発生していくのを感じる。この生成を、人間は精神の国を遍歴する際に至福と感じる。
 人間は精神の国で、自分の元像を作る。死後、精神の国に滞在するたびに、人間はそのような元像を作ってきた。地上の人生の果実として、精神の国にもたらす生命の精髄が、そのなかに取り込まれていく。
 この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は過ぎ去った人生の精髄を精神の国にたずさえていき、それに従って新しい自分を作る。
 人間が地上に生まれるたびに、地表は変化している。地球は新たな文化と状態を人間に提供する。心は、新しいものが学べるまでは、地上に下らない。自分の新しい元像を構築するために、人間は生まれ変わるまでの時間を必要とする。この元像は構築されると、地上にふたたび現われようとする。
 生まれ変わるべき時期が来ると、人間は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして人間は、神々によって両親へと導かれる。その元像に適した体を与える両親のところへ導いていく神々を、人間は必要とする。それらの神々は、その元像に最も適した民族・人種に人間を導いていく。両親が与える体は、生まれようとする心と魂におおよそしか適さないので、体と心のあいだに、神々によって生命が入れられる。生命をとおして、地上的なものと天から与えられたものとが適合する。
 ふたたび地上に生まれるとき、人間は死後とは逆の道をたどる。まず心をまとう。ついで生命、最後に体をまとう。
 人間が生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像を見る。その予告の画像は、生命が組み込まれるときに現われる。

シュタイナー人智学解説

2011-02-04 10:34:09 | Weblog
 人間の体
 人間の身体は、たんなる物質ではない。生物は、生命のない物質・鉱物とちがって、生殖・成長する存在だ。超感覚的に見ると、「形成する生命力」「生命に満ちた霊的形態」が知覚される。
 人間の身体は物質的な体と、その体を生かしている生命からなっている。生命ある身体から生命が離れ、物質的な力に委ねられると、身体は崩壊する。生命が体を崩壊から守っているのだ。日中、体と生命に破壊的な力が働きかけ、睡眠中は構築的な力が働きかける。
 生命は体を形成する力であり、記憶・習慣・気質・性向・良心の担い手、持続する欲念の担い手だ。
 そして、思いの場である心がある。

 人間の心
 外界の印象を感じ取る活動の源泉は「感じる心」だ。
 人間は多くの場合、自分の感覚的な欲望(感じる心の要求)を満足させるべく思考している。便利で快適な生活、つまり、感じる心にとって心地よい生活を実現するために思考力を用いている。けれども、そこにとどまらず、人間は自分の感受について考え、外界を解明する。思考は心を、たんに感じる心が属さない法則性のなかに引き入れる。思考に用いられるのが「知的な心」だ。
 思考は感覚の欲求を満たすためにも使われるけれど、精神的な思惟に向かうこともできる。星空を見て感動するとき、その感動は個人のものだ。星について考え、星の運行法則を明らかにしたら、その思考内容は客観的な意味を持つ。思考をとおして認識された内容は、個人から独立して、万人に通用する。
 心のなかに輝く永遠のものは、「意識的な心」と名づけられる。魂が意識される場であり、精神が輝き入っているところだ。この意識的な心が、心のなかの心、精神的な心である。
 知的な心は感受・衝動・情動に巻き込まれることがあり、自分の感受を正当なものとして通用させようとする。けれども、真理は個人的な共感・反感に左右されない。そのような真理の生きる場が意識的な心だ。
 体は心を限界づけ、魂は心を拡張する。知的な心は、真・善を受容すると、大きくなる。自分の好き嫌いのままに生きる人の場合、知的な心は感じる心と同じ大きさだ。

 人間の魂
 心の中心は魂。体と心は魂に仕える。魂は精神に帰依し、精神が魂を満たす。魂は心のなかに生き、精神は魂のなかに生きる。
 魂を形成しつつ、魂として生きる精神は、人間の自己として現われるから、「精神的な自己」と呼ばれる。
 自己は天界と物質界に向かい合っている。物質界は感覚によって知覚され、天界は直観をとおして現われる。心、あるいは心の内に輝く魂は、身体的側面と精神的側面に向けて、扉を開いている。感覚的な知覚は個我のなかでの物質界の開示であり、精神的な自己は魂のなかでの天界の開示だ。
 地上に物質的な体があるように、天に霊的な体がある。物質的な体に生命が浸透しているように、霊的な体に精神的な生命が浸透している。
 心の核としての魂が衝動・欲望を支配できるようになると、心のなかに精神的な自己が出現する。精神的な自己は「変容した心」と言える。同様に、精神的な生命は変容した生命であり、物質的な体が変容したのが霊体だ。

 人間の本質
 人間が死ぬと、体の形態は次第に消えていき、体は鉱物界の一部になる。体は、自らのなかにある鉱物的な素材と力によっては、形態を保てない。形態を保つためには、体は生命に浸透されていなくてはならない。人間が生きているあいだ、体を崩壊しないようにしているもの、体のなかに存在する鉱物的な素材と力に一定の形・姿を与えるものが生命だ。
 生命の力は、意識の光を輝かすことはできない。生命は自らに没頭するなら、絶えず眠っていなくてはならないだろう。繰り返し人間を無意識の状態から目覚めさせるものが心だ。ものごとの印象を感じるのが心であり、感受とともに喜怒哀楽が生じる。人間が目覚めているとき、生命は心に浸透されている。
 人間は動物とちがって、体に由来しない望みや情熱を抱くことができる。その望みや情熱の源泉は魂にある。地上の鉱物・植物・動物にはないものだ。内的体験の転変のなかに持続的・永続的なものがあることに気づくと、個我感情が現われる。
 生命に結び付いていないと、体は崩壊する。心に浸透されていないと、生命は無意識に沈む。同様に、魂によって現在へともたらされなければ、心は繰り返し忘却のなかに沈む。心には意識が特有のものであり、魂には記憶が特有のものだ。
 現存する対象についての知を呼び起こすのは感受の働きであり、その知に持続性を与えるものが心だ。この両者は密接に結び付いており、感受と心が一体になっているのが「感じる心」だ。
 魂は、対象そのものから離れ、自分が対象についての知から得たものに活動を向けるとき、感じる心よりも高い段階にある。そのような活動をするのが「知的な心」だ。知的な心も、感じる心と同様、関心は外界、つまり感覚によって知覚されたものに集中している。知的な心は魂の性質を分有しているけれども、魂の精神的本性をまだ意識していない。
 心が自分を魂として認識するとき、人間のなかに住む神が語る。心の第三の部分は、自らの本質を知覚したとき、神的なものに沈潜する。この第三の部分、「意識的な心」において、魂の本性が明らかになる。魂は、この部分をとおして知覚される。意識的な心のなかに一滴のしずくのように入ってくるのが、永遠の魂だ。
 魂は心に働きかけることができる。知的な進歩、感情と意志の純化は、心を変化させる。魂によって変容させられた心が「精神的な自己」だ。
 魂は生命にも働きかける。性質・気質を魂が変化させるとき、生命に働きかけている。宗教的な信条は、心のいとなみのなかに確固とした秩序を生み出す。また、芸術作品の精神的な基盤に沈潜することによって魂が受け取る衝動は、生命にまで働きかける。この働きかけによって、生命は「生命的な精神」へと変化していく。
 魂は物質的な体に秘められた精神的な力と結び付いて、物質的な体を変化させることもできる。変容した体は、物質的な人間に対して、「精神的な人間」と呼ばれる。

 心霊の世界
 心の特性、衝動・欲望・感情・情熱・願望・感受などは、心霊の世界に由来する。心霊の世界は地上よりもずっと精妙・動的・柔軟であり、心霊の世界は物質界と根本的に異なっている。初めて心霊の世界を見る者は、物質界との相違に混乱する。心霊の世界に物質界の法則を当てはめようとすると、間違う(心は一方では体、他方では魂に結び付いており、そのために、体と魂の影響を受けている。この点に留意して、心霊の世界を観察する必要がある)。
 心霊の世界の存在は心的な素材からなり、心霊の世界を「欲望・願望・要求の世界」と呼ぶことができる。心的な存在は、親和性があると相互に浸透し、相反するなら反発しあう。そして、地上の空間的距離とは異なって、内的本性(好き嫌い)による距離を示す。
 心霊の世界の存在には、共感の力と反感の力の作用が見られる。他のものと融合しようとする共感の力と、他を排して自分を押し通そうとする反感の力だ。共感・反感がどう作用するかが、心霊の世界の存在の種類を決める。
 反感が共感にまさっている段階では、周囲の存在を共感の力によって引き付けようとするけれども、この共感と同時に反感が内にあって、周囲にいるものを押しのける。その結果、自分のまわりの多くのものを突き放し、わずかなものだけを、愛情を込めて自分のほうに引き寄せる。近寄ってくる多くのものを反感が突き放し、満足しようがない。この段階の存在は、変化しない形態で心霊の世界を動いている。この存在の領域が心霊の世界の第一領域、「欲望の炎の領域」だ。
 心霊の世界の第二段階の存在には、共感・反感が同じ強さで作用している。共感・反感が均衡を保ち、周囲のものに中立的に向かい合う。自分と周囲のあいだに、はっきりした境界を引かず、周囲のものを自分に作用させ、欲望なしに周囲のものを受け入れる。このような心の領域が「流れる刺激の領域」だ。
 第三段階の存在においては、共感が反感にまさっている。けれども、共感の力の及ぶかぎり、あらゆるものを自分の領域に引き入れようとするので、この共感は自己中心的だ。この存在の領域が「願望の領域」。
 第四段階では、反感が完全に退き、共感だけが作用している(反感があるかぎり、その存在は自分のために、ほかのものと関わろうとしている)。ただ、この段階では、共感が存在自身の内だけで作用している。「快と不快の領域」だ。
 以上の四層が、心霊の世界の下部をなしている。
 第五・六・七領域では、共感の作用が存在を越え出ている。第五層は「心の光の領域」、第六層は「活動的な心の力の領域」、第七層は「心の生命の領域」。これらの三領域が心霊の世界の上部を形成している。

 心霊の世界における死後の心
 体の調子がよいとき、心は心地よく感じる。逆の場合は、不快だ。同様に、魂も心に作用する。正しい思惟は心を爽快にし、誤った思惟は心を不快にさせる。
 心が魂の表明に共感すればするほど、人間は完成する。心が体の活動によって満足させられている分だけ、その人は未完成だ。魂が人間の中心であり、人間は自分の働きのすべてが魂によって方向づけられないと、自分の使命を達成できない。
 体は、魂が物質界を認識し、地上で活動するための仲介役を果たしている。体が知覚したものを心が体験し、それを魂に伝える。一方、魂が抱く考えは、心の中で実現への願望となり、体を用いた行為になる。
 死後、魂は体から離れても、心とは結び付いている。そして、体が魂を物質界につなぎとめていたように、心が魂を心霊の世界につなぎとめる。私たちが眠くなると、体は心と魂を離す。同様に心は、地上的・身体的なものへの執着を脱すると、魂を精神の国へと解き放つ。死ぬときに地上的な欲を捨て切っていれば、人間は死後ただちに精神の国に向かえる。
 死ののち、心は物質への執着を解消するための期間を過ごすことになる。物質への執着が強い場合、その期間は長く、そうでない場合は短い。その期間を過ごすのが、「欲望の場所」だ。そこを通過するうちに、「体によって満足させられる欲望を抱くことは無駄だ」と、心は悟っていく。そして、物質的・身体的な関心が心から消えていく。心が心霊の世界の高次領域、すなわち共感の世界に入っていき、利己心が消えて、心霊の世界と一体になったとき、魂は解放される。
 魂は地上に生きることをとおして、自らを体と同一視することがある。だが、それよりも、魂と心の結び付きのほうが強固だ。魂は心という仲介物をとおして体と結び付いているけれど、魂と心はじかに結び付いているからだ。
 心霊の世界の最初の領域に入った死後の心は、体のいとなみに関連する粗雑で利己的な欲望を消滅させていく。物質生活への欲望を捨てられずにいる心は、満たしようのない享受を求めて苦しむ。
 地上では、欲望は満足させられると、一時的になくなったように見える。けれども、欲望が消滅したわけではない。幾日か経つと、また欲求が生じる。その対象を入手できないと、欲求は高まる。
 死後、心に染み付いた身体的な欲望は、満たされないので、高まることになる。心霊の世界の第一領域で、欲望は、その高まりによって燃え尽きていく。これが浄化だ。生前、身体的な欲望から自由だった人は、死後、心霊の世界の第一領域を、苦しみなく通過していく。一方、身体的な欲望への執着が強かった心は、死後、この領域に長く引き留められる。
 心霊の世界の第二領域は、人生の外的な瑣事への没入、流れゆく感覚の印象の喜びによって生じた心の状態に関連する。そのような欲求も、感覚的・物質的な事物が存在しない心霊の世界では叶えようがないので、消えていかざるをえない。
 第三領域の性質を持つ心は自己中心的な共感を有し、その共感の力によって対象を自分の中に引き入れようとしている。この願望も成就できないので、次第に消えていく。
 心霊の世界の第四領域は、快と不快の領域だ。地上に生きているときは、快・不快が身体と結び付いているので、人間は体が自分であるかのように感じる。この「自己感情」の対象である体が失われると、心は自分が失われたように感じる。死後、心霊の世界の第四領域で、「身体的自己」という幻想を打ち砕く必要がある(自殺者は、体に関する感情を心の中にそっくり残している。体が次第に衰弱していったのではないので、死は苦痛を伴う。そして、自分を自殺へと追い込んだ原因が、死後も当人を苦しめる)。
 心霊の世界の第五領域は、周囲に対する心の喜びと楽しみに関連している。心は、自然のなかに現われる精神的なものを体験することができる。けれども、感覚的に自然を楽しむこともある。そのように感覚的に自然を享受する心の性質が、ここで清められる。また、感覚的な平安をもたらす社会を理想とする人の心は、利己的ではないのだが、感覚界を志向しているという点で、この第五領域で浄化される。心は第五領域で「楽園」に出会い、楽園の空しさを悟ることになる。地上の楽園であれ、天上の楽園であれ、宗教をとおして感覚的な安楽の高まりを要求する人々の心が浄化される。
 第六領域では、利己的ではなく、理想主義的・自己犠牲的に見えながらも、感覚的な快感の満足を動機とする行動欲が浄化される。また、面白いという理由で芸術・学問に没頭している人は第六領域に属する。
 心霊の世界の第七領域で、「自分の活動のすべてが地上に捧げられるべきだ」という意見から、人間は解放される。こうして、心は完全に心霊の世界に吸収され、魂はすべての束縛から自由になって、精神の国に向かっていく。

 精神の国
 精神の国は思考を素材として織りなされた領域だ。地上の人間の思考は、精神の国を織りなす思考素材の影である。物質界は現象・結果の世界、精神の国は原因・発端の世界。
 精神の国には、物質界と心霊の世界に存在するものたちの原像が生きている。その原像は創造的であり、精神の国は絶えざる活動の世界だ。それらの原像は、協力しながら創造している。
 心霊の世界では、さまざまな神霊が色・形で現われ出ている。精神の国に入ると、原像が響きを発する。
 精神の国も七領域に区分される。第一領域には、無機物の原像がある。鉱物の原像であり、植物・動物・人間の物質体の原像である。地上では、空間中に物質が存在している。精神の国では、物質の存在しているところが空になっており、その周囲の空間に、物質を創造するものたちが活動している。この領域が、精神の国の「大陸」だ。
 第二領域には、生命の原像が存在する。思考を素材とする生命が流れており、生命は調和ある統一体をなしている。「海洋」と言われる領域だ。
 精神の国の第三領域=大気圏には、心の原像がある。地上と心霊の世界における心の活動が、この領域に天候のように現われる。
 第四領域には、精神の国の第一領域・第二領域・第三領域の原像を統率し、秩序を与える原像が生きている。第四領域は、思考の原像の世界だ。
 第五領域・第六領域・第七領域は、精神の国の上部領域。精神の国の下部領域の原像に、原動力を与えるものたちの領域だ。この領域に達すると、人間は宇宙の基盤にある意図を知る。この領域には、言葉が響いている。この領域で、あらゆるものが「永遠の名」を告げる。

 精神の国における死後の魂
 人間の魂は死後、心霊の世界を遍歴してから精神の国に入り、新しい身体存在へと成熟するまで、そこにとどまる。精神の国に滞在する意味を知るには、輪廻の意味を理解する必要がある。過ぎ去った人生の果実は、人間の精神的な萌芽に摂取される。そして、死んでから生まれ変わるまで滞在する精神の国で、その果実は熟する。その果実は熟して素質・能力となり、新しい人生のなかに現われる。地上での人生で獲得した果実が、精神の国で熟すと、人間は地上に戻る。
 人間は地上で、「精神存在」「精神の国の使者」として、創造活動を行なう。地上で活動するための意図・方向は精神から来る。地上での活動の目的は、地上に生まれるまえに、精神の国で形成される。精神の国で設計したプランにしたがって、地上での人生が歩まれる。魂のまなざしは常に、自らの地上的な課題の舞台に向けられている。地上での活動が人間の魂の課題なのだけれども、体に宿る魂は、繰り返し自分自身の領域つまり精神の国に滞在しないと、この世で精神存在でありつづけることができない。
 人間の魂は、精神の国の諸領域の本質に浸透されることによって成熟していく。
 精神の国の第一領域は、物質の原像の世界。その原像は、地上の事物を生み出す思考存在だ。この領域で、人間は自分の遺骸・物質的身体を、外界の一部として認識する。
 精神の国の第一領域では、家族への愛や友情が、死者の内側から甦る。この領域を生きることによって、家族への愛や友情は強まっていく。地上でともに生きた人々を、精神の国でふたたび見出す。地上でたがいに関係があった者たちは精神の国で再会し、精神の国にふさわしい方法で共同生活を続ける。
 精神の国の第二領域は、地上の共通の生命が思考存在として流れているところだ。地上では個々の生物が個別に生命を有するけれど、精神の国では生命は個々の生物に限定されずに、精神の国全体を循環している。その残照が地上で、全体の調和への宗教的な畏敬として現われる。
 精神の国の第一領域で、死者は家族・友人と再会した。その関係を維持しながら、第二領域では、同じ信条を持つ者たちが集うことになる。
 精神の国の第三領域には、心霊の世界の原像がある。心霊の世界に存在するものが、ここでは「生命的な思考存在」として出現する。ここでは、利己的な欲求が心に付着していない。地上で人々のために無欲に行なったことが、ここで実を結ぶ。地上で奉仕的な行為に専念するとき、人間は精神の国の第三領域の残照のなかに生きている。
 精神の国の第四領域には、芸術や学問など、人間の魂が創造するものの原像が存在している。地上で人間が日常的な生活・願望・意志の領域を超えて従事したものすべてが、この領域に由来する。死後=生まれる前に、人間はこの領域を通過してきたので、地上で個人を超えた普遍的・人間的なものに向かえるのだ。
 精神の国の第五領域まで上昇すると、人間の魂はどんな地上的な束縛からも解放される。そして、精神の国が地上のために設けた目標・意図の意味を体験できる。
 第五領域で、魂としての本来の人間があらわになる。第五領域で、人間は本来の自己のなかに生きている。精神的な自己は、ここに生きている。ここで、前世と来世の展望が開ける。
 第五領域と同質の精神性をあまり獲得しなかった人間は、来世は苦しい人生を欲する。「苦しみの多い人生が自分には必要だ」と、精神の国の第五領域で思うのだ。
 精神的な自己は、精神の国を故郷と感じる。そして、精神の国の観点が、地上生活の基準になる。自己は自らを、神的宇宙秩序の一部分と感じる。自己の活動の力は、精神の国からやってくる。

宇宙と人類の歩み

2011-02-03 10:29:29 | Weblog
 土星=熱惑星期
 体は人間の最も古い部分であり、最も完成されたものだ。
 人間だけでなく、地球も進化しており、地球は何度かの転生を経てきている。最初は熱状態、ついで空気状態、その次には水状態だ。
 宇宙の熱状態期=熱惑星期には、熱だけがあった。熱惑星は響きを発し、外から来る光・音・匂い・味を反射していた。熱惑星で、人間の体の萌芽、感覚器官の萌芽が形成されていった。生命・心・魂は、まだなかった。鉱物・植物・動物もいなかった。
 熱惑星期の人間の意識は漠然としていたが、包括的なものだった。昏睡意識、今日の鉱物の意識だ。
 熱惑星期の最初の段階では、物質的な熱はまだなく、心的な熱があった。熱惑星の進化の中期に、熱から人間の体が形成された。〈意志の神々〉が自らの本質を、人体のために流出したのだ。ついで、〈人格の神々〉が人体に宿って、人間段階を通過した。そのあと、すべてが宇宙の眠りに入っていく。

  太陽=空気惑星期
 宇宙の眠りのあと、熱惑星が新しい形態のなかに出現した。空気惑星だ。空気惑星は、最初に熱惑星状態を短く繰り返した。空気惑星期の中期に、熱惑星の熱は空気へと凝縮した。空気惑星は熱を保ち、空気を発展させた。光が生まれ、空気惑星は輝き・響き・香りを発していた。空気惑星は周囲から注がれる光・味・匂い・熱を、自分のなかに浸透させてから反射した。空気惑星で〈叡智の神々〉が自らの実質を注ぎ出し、人間に生命が注ぎ込まれた。人間は今日の植物の段階に達した。生命が組み入れられたことによって、人間の体も変化した。栄養摂取器官・分泌器官・消化器官・生殖器官が加わった。体は、いまや振動する熱の卵であり、輝いたり消えたりする。
 空気惑星期に、〈炎の神々〉が人間段階を通過した。〈炎の神々〉は人体に宿って、個我意識を得た。
 熱惑星期に人間段階・個我意識に到らなかった〈人格の神々〉がいた。この神々は空気惑星期に、遅れを取り戻さなければならない。この神々は空気惑星で、生命に浸透されていない体にのみ宿れた。だから空気惑星に、もう一度、体のみからなるものが発生しなくてはならなかった。それが今日の動物の祖先だ。

  月=水惑星期
 空気惑星は、水惑星として生まれ変わる。水惑星は、まず熱状態・空気状態を繰り返し、体と生命が形成された。それから、水が付加された。やがて、太陽が熱と光を伴って、水惑星から出ていった。高次の存在も、水惑星から出ていった。水惑星は、太陽のまわりを回るようになった。水惑星は音に浸透され、規則正しい動きをもたらされた。形姿とリズムを体験することによって成熟した体は、心を受け取った。〈動きの神々〉が、自らの実質から、人間に心を流出したのだ。人体に神経組織が発生し、人間は動物段階に達した。
 水惑星期に人間段階を通過したのは〈黎明の神々〉だった。
 空気惑星期の段階に取り残された〈炎の神々〉は、体と生命しか持たないものを作った。それが今日の動物界の祖先だ。水惑星期に体しか有していなかった存在たちは、今日の植物界の祖先。
 植物的な性格を持った鉱物、鉱物的な性格を持った植物が、水惑星の固体・液体状の土壌を形成した。水惑星は動的・生命的であり、その上に生きる存在たちは、自分を寄生動物のように感じていた。
 水惑星期に、人間は外的な事物を知覚しなかった。人間が知覚したのは、生命を有した夢のイメージのごときものだった。内的に上昇・下降する、生命を有したイメージだ。このイメージは外界と関連しており、人間はそれらのイメージに導かれていた。心は、体と生命を遥かに越えて聳えていた。
 水惑星期に、人間は内的な熱をまだ有していなかった。人間は周囲にある熱を受け取り、その熱をふたたび流し出していた。

 ポラール時代とヒュペルボレアス時代
 水惑星は宇宙の夜のなかに消え去り、宇宙の夜から地球が出現する。地球は自らの内に、太陽と月を含んでいた。このころの地球はエーテル状で、今日の土星の軌道ほどに大きかった。地球は霊的な大気に包まれ、人間の心は上空にあって、地上の人体形姿に働きかけた。
 地球は最初に、熱状態期・空気状態期・水状態期を繰り返した。そして、人体に血液が組み込まれた。
 熱惑星状態の繰り返しのあいだに、地球から土星が分離した。空気惑星状態の繰り返しのあいだに、木星と火星が分離した。ついで水惑星状態が繰り返され、太陽が地球から分離した。太陽は、地球から分離したあと、水星と金星を放出した。
 太陽と月と地球がまだ一体であった時代がポラール時代、太陽が地球から出ていった時代がヒュペルボレアス時代。ヒュペルボレアス時代の人体は鐘の形をしており、上方の太陽に向かって開かれていた。ヒュペルボレアス時代の人間は、子どもを生むと、すぐに自分の心が子どもの体のなかに入っていったために、死を経験しなかった。

 レムリア時代
 太陽が分離したあと、地球にとって重苦しい時代が始まった。地球は、まだ月と結び付いていた。生命を阻止する力は、おもに月のなかに働く力に属している。この力が当時、地球のなかで強力に作用していた。最も強い心だけが、御しがたい体に打ち勝ち、地上に生きた。レムリア時代だ。
 レムリア大陸の気温は非常に高く、地球全体が火のような、液体のような状態で、火の海があった。地球は火の霧に包まれていた。火・液体状の地球から、島が形成されていった。人体を形成していた実質は、まだ柔らかく、ゼリーのようだった。
 月が分離していくにしたがって、徐々に人体の改善が行なわれた。魚・鳥のような姿だったレムリア大陸の人間は、直立するようになった。脳が発達し、人間は男女に分かれた。そして、人間は死から再誕までのあいだ、心霊の世界と精神の国に滞在するようになった。
 地球で人間に魂を注ぎ込んだのは〈形態の神々〉だ。月が分離したレムリア時代中期になって、魂が人間のなかに入ってきた。海と陸が分かれ、人間が空気を吸うことによって、魂が人間のなかに入ってきたのだ。
 レムリア時代に人間の心に働きかけたのが、堕天使ルシファーだ。ルシファーは人間を、神々の予定よりも早く、物質界に引きずりおろした。ルシファーが人間の心に働きかけたことによって、神々のみが働きかけていたら受け取っていなかったはずの衝動・欲望・情熱が、人間に植え付けられた。人間は神々から離反する可能性、悪を行なう可能性、そして自由の可能性を得た。
 自然法則と人間の意志は分離していなかった。人間の邪悪な情欲は自然に働きかけ、火の力を燃え立たせた。多くの人々がルシファーの影響を受けて、悪へと傾いたことによって、レムリア大陸に火の力が燃え上がった。レムリア大陸は、荒れ狂う火によって没落する。


 アトランティス時代
 助かった人々は西に向かい、アトランティス大陸に行った。霧の国だ。アトランティス時代前半には、人体はまだ柔らかく、心の意のままになった。アトランティス大陸の人間のうち、愚かで感覚的であった者は巨人の姿になった。より精神的な人間は、小さな姿になった。そして、アトランティス時代に言語が発達した。
 進化から逸脱した霊的存在アーリマンが、アトランティス時代中期から、物質のなかに混ざり込んだ。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神を見ることができなくなった。アーリマンは人間の魂を濁らせ、天界を人間の目から隠す。
 人間の内面・心を惑わせようとするルシファーと、外から人間に向かってきて、外界を幻影つまり物質として人間に現われさせるアーリマンがいるのだ。ルシファーは内面で活動する霊であり、アーリマンはヴェールのように物質を精神的なものの上に広げて、天界の認識を不可能にする。
 アトランティス人は記憶力が発達しており、先祖の体験したことがらを明瞭に記憶していた。アトランティス時代後期に、生命の頭と体の頭が一致することによって、自己意識が発生した。アトランティス時代の終わりには、二種類の人間がいた。第一に、アトランティス文化の高みに立っていた透視者である。彼らは魔術的な力をとおして活動し、天界を見ることができた。第二に、透視力を失い、知性・判断力を準備した人々がいた。彼らは計算・概念・論理的思考などの萌芽を有していた。
 アトランティス人は意志によって種子の力、空気と水の力を支配できた。アトランティス人の意志が邪悪なものになり、心の力を利己的な目標に使うようになったとき、彼らは水と空気の力も解き放った。こうして、アトランティス大陸は崩壊する。
 アトランティス大陸には秘儀の場があり、そこでアトランティス大陸の叡智が育成された。さまざまな惑星から下ってきた人間の心にしたがって、七つの神託が設けられた。太陽神託の秘儀参入者は、魔術的な力をもはや有していない素朴な人々を集めた。そのような人々が、アトランティス大陸の沈没から救出され、新しい時代を築いていく。

 アトランティス後の時代
 アトランティス時代後の最初の文化は、太古のインド文化(蟹座時代の文化)だ。アトランティス大陸を沈めた洪水から逃れ、太古のインドに集まった人々は、天界への憧憬を有していた。そこに、太陽神託の秘儀参入者は七人の聖仙を遣わした。太古のインド人は、「物質界は幻影である。私たちが下ってきた天界のみが真実である」と感じた。
 つぎの双子座時代である太古のペルシア文化期に、物質界は虚妄ではなく、精神的なものの表現・模像であると認識され、地上を改造しようという思いが現われた。
 第三のエジプト文化期(牡牛座時代)において、天空の星々に神的な叡智が込められているのを、人間は見出した。人間はまなざしを上空に向け、その法則を究明しようとした。
 第四のギリシア・ローマ文化期(牡羊座時代)に、人間は完全に物質界に下った。そして、外界・物質に、自分の魂を刻み込んだ。