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子どもの体・心・頭

2011-03-04 09:57:13 | 教育
 たぶん誤解はないと思いますが、タイトルの中の「頭」は身体の頭部ではなく、知能・思考力の意味です。体・心・頭の順で、人間は成長していきます。体に関してなら、頭・胸・腹という順番で完成していきます。これについては、医療の専門家の方の講座があると思います。
 10年以上前から千葉県に住んでいまして、残念ながら近くにシュタイナー幼稚園はありません。ところが幸いなことに、知人がシュタイナー教育ふうの幼児クラスを作ってくれて、毎日ではないですが、そこに息子(平成9年生まれ)は通うことができました。とてもよい日々を送れた、と思っています。シュタイナー幼稚園ふうの遊びや人形劇があり、オイリュトミーもあって、よかったと思っています。それから、どこかに引越しをしてシュタイナー学校に行くという手もあったのですが、そうできない家庭の事情がありまして、今は近くの公立の小学校に行っております。とてもよい担任の先生に当たったので、ありがたく思っているんですけれど、しかし、やはり公立小学校の問題は多々あるんですね。
 うちの方は、運動会を9月の中ごろにやります。残暑が厳しいときに、連日、運動会の練習です。プールは梅雨の時期です。11月の下旬にはロードレース大会があります。寒い寒いと言いながら、子どもは半そで半ズボンで頑張ってやっております。先生は長そで長ズボンなんですよ。子供は風の子という考えからでしょうが、先生も半そで半ズボンでやっていただくと、どれくらいの感じか体験できますね。西洋では、日本ほど体を厳しく鍛えません。体を十分に保護して、適度な運動を行ないます。シュタイナー学校の体育では、内的な身体感覚を作ることに主眼が置かれます。ところが日本では、運動を通して精神を鍛えるという考え方が続いています。シュタイナーは、体の苦行をとおして精神力をつけるのは古い方法で、心魂そのものの修練が現代的と考えていました。外国の方が、日本の子どもが冬に裸足でいるのを見て、虐待だと勘違いすることがある、と聞きます。今日、中欧と日本の風土というテーマにも触れようと思っているんですが、シュタイナー教育が発祥したドイツ、ヨーロッパでは結構、冬しっかりと服を着させます。帽子を被って、マフラーをして、手袋をして外出します。いま日本では、暖房で室温を上げますが、服をしっかり着て、室温は上げすぎないほうが丈夫になります。
 学校のことをあらかじめ言っておきますと、僕が一番問題だと思うのは時間割です。同じ教科が曜日によって1時限目にあったり4時限目にあったり、ばらばらなんです。しかも、学校の都合で頻繁に時間割が変更になる。子供は一定の時間割、一定のリズムがあって、安心して落ち着いて勉強するし、意思も強くなる。ついでに言っておくと、体育の時間があって、そのあとに勉強の時間というのは子どもが勉強に集中できないので、シュタイナー教育ではしません。
 僕がどうしても馴染めないのが鍵盤ハーモニカ(ピアニカ)です。ああいう楽器で子供が音楽を体験することは本当にかわいそうです。なぜ音楽の先生たちは抗議なさらないんでしょうか。子どもを軽視して、子供はあんなのでいい、と思っていらっしゃるのか。不思議です。大人だったら、ああいう楽器はいやと思って警戒できますが、子どもは何でも無防備に体験します。警戒して有害なものを避けることはできないわけです。小さい子にこそ本物の音を聴かせることが大事です。それから、幼児には5音音階の歌で、長調・短調の曲は9~10歳以後なのですが、年齢に合った曲ではなく、いま流行の歌を学校で教えることが頻繁になされています。子どもには歌いきれない難しい流行歌も、よくやらされます。
 それから、コンピューターが1年生からあって、コンピューターで絵を描いたりします。シュタイナー教育を抜きにしても、それはどうかと思ったので、先生と話をしてみたんですが、話が通じない。とてもよい先生なんですけど。どう通じないかというと、僕はコンピューターの時間は例えば課外授業で選択制とか、少なくする可能性を検討できないかという意見なんですね。先生の答えは、「コンピューターの時間が少なくて申し訳ありません」。つまり、親はコンピューターの時間をもっと増やしてもらいたいという要求を持っている、と先生は思い込んでおられる。ピアニカのことは、「そういう難しいことは分かりません」と言われ、そこで諦めたんですが。コンピューターは仕事で使うよりも、遊びに使うときに害が多くなります。気をつけましょう。
 授業・教科書は僕の子どものころに比べて、格段によくなっています。唯一、醜悪なのは図工です。廃材利用の現代アート風になっていて、心や気持ちが美しさを感じるものではないです。現代アートの多くは知的で、美しさを壊すところに現代性を見出しています。それは子どもむきではありません。
 たぶん全国的に1年生の夏休みの宿題は朝顔の観察ではないでしょうか。種を蒔いて育てるのは、とても良いことです。しかし、観察して記録を書いて提出する、これは7歳ぐらいの子供に合ったことではないです。9歳を過ぎたら観察できます。しかし、1年生は成長して花が咲くのをともに喜ぶのであって、観察対象として客観的に見る年齢ではないです。
 それから「ゆとり教育」になりましたが、実際にはゆとりが増えたわけではありません。土曜・日曜が休めるというだけで、1日の学習時間は増えたし、先生方も仕事がうんと増えました。ほぼ12時間、書類作りや行事の準備で学校にいるそうです。朝7時に家を出て9時ごろ帰宅というのがふつうで、しかも月曜から金曜まで雑用が多いから土曜・日曜にしか授業の準備ができない(保育園の方々も、同じくらいの労働と聞きます)。夏休みも、公立の先生は出勤なんですね(この点、私立の先生は、まだ恵まれています)。時間も気持ちも先生は余裕が少なくなっている。
 以前の保護者は先生に強いことを言えなかったそうです。何か言ったら、うちの子を先生がどういうふうに扱うか心配だから意見を控えていた。学年末になって先生が代わると分かって、いっぱい文句を言った。ところが今は、最初からずいぶん厳しく保護者が先生に意見を言う。先生がおじけてしまって神経的にまいっている状況だそうです(モンスター親対策にかなり労力を裂いていらっしゃる)。親は先生を信用せず、先生は親を警戒するという、とてもまずい関係が各地で生じています。
 時間や気持ちに余裕がない先生は、そのなかでぎりぎり教えることをこなすしかない。そうなると、先生は真面目に授業をする。ところが、生徒は授業の中に真面目な部分と息を抜いたところがないと、楽しく勉強できない。準備・気持ちの余裕がないと、うまい息の抜かせ方ができなくなり、教える一方になりがちです。あたかも、息を吸い続けるようなものです。息を吐かなければ、生きていけないですね。
 この数年、お医者さんたちが子供を見ていると、子供の脳が昔に比べて変わってきているそうです。犯罪を犯す子供たちが心理的に云々以上に脳に異常が見られるということ以外に、子供たち全体の脳に変化が生じていて、脳が一息つけない状態になっている。いつも緊張している状態に脳がなっているそうです。体温は朝昼夜で変化しますね。ところが脳の温度が変化しなくなっているそうです。活動状態の体温を脳がずっと保っている。休息状態、脳の温度が下がる時期がなくなっている。夜間も子供たちの脳は緊張状態になっているそうです。
 これが今いろんな子供が授業をちゃんと聴けないとか、不登校の原因であろうと言われています。学校に行きたくないという気持ち以前に、脳がもう限界の緊張状態になっていて、どこかで休まないと身体的に持たないという信号を体が送っている。
 ここから言えることは、子供たちを十分休ませてあげよう、ということです。ところが、いま多くの家庭で、昔に比べて親が子供の教育を大事に考えています。放って置きっ放しではないんですね。その結果、子供は家に帰っても、勉強が大事という雰囲気で生活させられる。昔は家庭は学校と切り離されて、違う感じの時間を過ごした。でも今は、家庭も学校の延長線上にあって、家でも休息できずに、学校にいるようなプレッシャーがある(本当は「スクール」の語源を遡っていくと「レジャー」に行き着くので、プレッシャーはないはずなんですが)。だから、公立の小学校に行かせたら、家庭では脳を十分休ませる時間をとってあげることが大事かと思います。
 つい最近、学校の子供たちの作文集を読んでみたんですが、実にうまいです。○○小学校△年××××となっているんですが、最後に指導□□□□となっている。つまり、先生がうまく書き直させている。先生の指導力の大会みたいで、子供らしい文章ではなくなっている。僕らはつい大人の感覚で「これが良い」と思うことを、そのまま子供に適用してしまっている面があると思うんです。僕らが考えている理科や社会を簡略化して教えたら、それが子供用になっていると思っている。子供は感覚や発想が大人とは違う、ということを忘れている。
              *
 体も心も頭も健康であることが第1です。体の健康、第1に食事ですね。2004年秋号に森尾先生の記事があるので、繰り返す必要はないと思います。幼児期の食事が一生の健康の土台になります。
 シュタイナー教育の考えで言うと、生後9カ月から1年くらいは母乳でいきましょう。1年以上母乳というのはやらない方がいいという考え方です。あまり長期の母乳はお母さんからの影響を受けすぎて、自立に影響が出てくる。ご承知の通り、いま母乳が汚染されています。特に第一子が汚染の影響を受けます。それを避けるために粉ミルクのほうがいいのか、少々汚染されても母乳のほうがいいのかという議論が続いています。母乳か粉ミルクかで、50代後半以降どれくらい元気かが決まってくるそうです。もちろん母乳がいいのですが、いま言った現代の問題で、ドイツの一般的な医者は母乳は3ヶ月で止めようという意見になっています。
 母乳と同様、子宮も今は汚染状態といいます。できるだけ、出産以前から自分の体を健康にしておく。いいものを食べ、よい水を飲み、いい空気を吸って、いい体内環境をつくっておく。妊娠中、アルコールとジャガ芋は控えます。ジャガ芋は生後1年以内も与えないほうが無難です(思考力の育成のためです)。妊娠前も、アルコールを摂取していた場合、父になる人の飲酒は子どもの神経を害し、女性の飲酒は子どもの内臓を害する、とシュタイナーは言っています。また、シュタイナーがアルコールは自由な精神を妨害し、神や前世が見えなくなるというので、シュタイナー学校の先生やアントロポゾフィーの指導者たちのあいだでは自発的な禁酒が当然のことになっています。今後出産する方がいらしたら、妊娠中は気持ちがゆったりできる、安心できる生活を送るのが一番です。
 シュタイナーは、離乳以後も子供に乳製品・ミルクが持っている価値を強調しました。子供にはミルク、大人には蜂蜜、と彼は言っています。森尾先生のご指摘のとおり、日本人の腸は西洋人と違って牛乳をよく消化できないとか、アレルギーの問題があるということがあります。ときどき日本のシュタイナー教育の現場で、ドイツやアメリカの年中行事にしているところがありますが、日本の風土に育つ子供には日本の季節の行事を旧暦で体験させるほうが健康な子に育つというのと同じです。お子さんをよく観察なさって、どの程度だいじょうぶか見ながらいったほうがいい。お米も、玄米が大丈夫な胃腸かどうか見ながら、適度に変えていった方がいい。なにか一般原則があって、それで行こうではなくて、個人個人違いますから、よく見ることが大切です。
 僕らもそうであって、血圧は百いくらとか、体重は何十キロとか、平均を気にしすぎることはない、個人個人健康は違う、とシュタイナーは言っています。だから数値よりも、自分が一番調子がいいという感覚を大事にするといい。子供も小学校の頃から蜂蜜は大事になってきます。なぜかというと、大地に6角形の水晶の結晶ができるように、人体も6角形の力を持っているそうです。この6角形が年齢とともに弱ってくる。6角形の巣でできる蜂蜜は、体を補強できるのだそうです。これが大人、老年の体力を維持していくそうです。あらゆるものがそうですが、品質の良いものを選ぶことが大事ですね。小さなスプーンでちょっと掬うくらいで十分です。摂取したものが栄養になるというより、それを摂取・消化するときの刺激によってエーテル的な力が活性化するわけですから、ごく少量でいいわけです。オイリュトミーをやっていらっしゃる方はご存知のように、体を大の字にすると、そのペンタグラム形がエーテルの流れに合いますし、両腕・両脚を広げると、その2つの3角形がヘクザグラムになってアストラル界に合います。
 それから体の健康に関しては、季節に合っていること、睡眠と起床のリズムが大事です。ご存知の通り、いま子どもは夜が遅くなって睡眠時間が減っています。シュタイナー教育にかぎらず、健康について研究なさっている方は皆さんおっしゃいますが、夕食というのは夕方たべるのであって、夜ではないんですね。夕方に夕食を食べれば、食後ゆっくりしても寝るのはそんなに遅くならない。夕食後2~3時間たって寝るのが健康に良い。ベストは7時ですが、8時には寝たいですね。学校は朝早いですからね。そうなると、夕食は4時台。英国のファイヴ・オクロック・ティーは労働者階級の家庭の夕食ですが、それよりも早く。ぼくもドルナッハで4時のお茶に招かれたことがあって、おやつかと思ったら、それが夕食でした。小食なんですよ。日があるうちに夕食を食べるのは、なかなかいい気分ですよ。夜ここちよく眠って、朝きもちよく起きる。丁寧に着替えをして、ご飯を楽しんで出かける、という1日のパターンを作ってあげる。眠るときに良い気持ちで眠れるように、美しい詩などとともに寝かしてあげる(大人も枕頭の書があると有益です)。朝おきるときも、きれいな歌か、ライヤーを弾いてあげる。そんな美しさが生活のなかにほしい。今の時代は役立つものが重視されますが、直接的に効果が出なくても、気持ちの和む美しい時間がたっぷりあるのが子供にはいい。大人にもいい。ちょっと無駄のような、特に意味がないような美しいことが生活の中にあると、自分の心が柔らかく大きくなります。
 専門的に言ったら、おそらくシュタイナー教育の注意点は何十もあると思うんです。それが全部身についているに越したことはないですが、それらを頭に詰め込んで窮屈になるより、数個くらいの大原則に沿っていれば大丈夫で、その大原則を体得していれば、個々のケースに自然によい対応ができるはずです。その方が気持ちに余裕があって、うまくいくと思います。少々の失敗は悩まなくてもいいです。いくらか失敗があっても、子供は意外に柔軟で強いものだから、乗り越えていってくれる。反省して悩むより、そのときからでいいから改善していく。
 最初に言いましたように、うちの子はシュタイナー教育ふうの遊びに触れる機会がありました。いま普通の子と付き合っていますが、心配ないようです。何人かの方が心配するのは、幼稚園のときにシュタイナー教育にしても、そのあと普通の学校にやった場合ずいぶん違うものだから、むしろ普通の幼稚園ふうのことをやらせた方が、子供にとっていいんじゃないかということです。そういう方々は、シュタイナー教育はいいけれど、社会は楽園ではないんだから、幼稚園も普通一般のほうが、先のことを考えるといい、というんですね。最初から苦労に慣れているほうがいい、という考え方です。これは体に例えると、お昼ご飯を皆いけないものを食べるんだから、朝食も悪いものを食べておきましょう、というような考えです。でも、朝食だけでも良いものを食べておけば、お昼が少々問題でも、なんとか体はもっていく。だから、たとえ最初の数年間であっても良い教育があれば、それが基礎体力のようなものだから、その後もやっていけるんです。小学校に入った後、他の子が知っているポケモンのキャラクターの名前も、いくつか覚えました。しかし不思議なことに、ポケモンのテレビを見たい、とは一言も言わないですよ。でも、学校での会話は成り立っている。ということで、今のところはうまくいってます(この点は、現在でもそうです)。
 テレビについては、よくご存知でしょう。一つには、子供が自分から努力することなくテレビが楽しませてくれるので、受け身になってしまう。そうなると、自分から喜びを作り出すのが不得意になる。ずっと受身でいると、子どもはその状態に耐えられなくなります。息を吸ったら吐くように、受けると吐き出したくなる。じっとテレビを数時間以上見たら、活動したいという欲求が溜って、暴力的に発散する。壊したくなる。
 もう一つ、テレビ番組はとてもうまく作ってあって、分かりやすいです。そしたら、分かりにくいものを自分で理解して分かろうということができなくなる。特にテレビは聞いてすぐ分かるように話してくれるので、それに親しんでいると、込み入った難しい文章を読解できなくなってくる。今20歳前後の人で昭和初期の小説を読んで、言葉が難しくて分からないという人がいます。名作を味わえないのは、もったいないです。言語のことは、後でもう一度触れます。テレビを見ていいのは16歳からといいますね。妥協策は、10歳以後、親と一緒に見るです。テレビを持たないという方法、テレビ室を作って、そこに入るときは改まった気持ちになるという方法、テレビを見るときは正座にして、足が崩れたら消すという方法があります。
 テレビのことで、受け身になって破壊したい衝動が出てくるといいました。勉強では、子供が小学校に入って算数の時間、まず足し算をやります。足し算は付け加えて、積み上げていくものですね。こればかりやってると、その反動で崩したくなってくるそうです。普通の学校では、1学期中は足し算ばかりですね。そしたら、どこか算数以外のところで崩したくなってくる。シュタイナーの見解では、世界観自体が分解的になる。すべてのものは原子へと分解できる、という考えになるのだそうです。もし割り算をやっていたら、そういう思想は出てこない、と彼は言います。まとまりのある一体を思うそうです。だから算数で、付け加えと分解の両方をやっていれば、そこで気持ちがすっとする。授業でそれをやらせてもらえないと、ほかのところで壊したくなる。ですから最初から割り算をやる。割り算や掛け算は1年生には難しいのではないか、と心配する必要はありません。四則全部をやるほうが、算数の面白さを体験できます。なお、シュタイナー学校では集中授業方式のエポック(ブロック)授業で算数を学びますが、どの季節にどの学科がよいかを考慮しています。春はじまりの日本では、秋はじまりの欧米と別の工夫が必要です。
 子どもが勉強に身が入らないとき、爪を切ったら勉強に集中できることがある、とシュタイナーはいっています。髪に関しては、基本的に男の子は切った方がいい。女の子は、ある程度のばしているほうがいいといいます。女の子は髪を切ると元気になりすぎるそうです。だから、女性は中年以降、髪を短くするといい。髪を切った断面から空気中の栄養分を取り込める。少女は十分に元気だから、切ったら活発になりすぎるんだそうです。
 男女のことでは、お腹の中で約8週間は男女で差はないんですね。もともとは女で、8週を過ぎる頃から、男の子はYの染色体が出現して男性へと変化していく。出産直前に男女で脳の構造がやや違ってきます。小学校に入るとき、女の子が男子より1年すすんでいます。女性は7年周期で成長し、男は8年周期で成長します。たとえば、35歳の女性と40歳の男性が精神年齢は同じくらいになります。女性は同年の男を子どもっぽく感じるでしょう。
 幼児期のことをもう少し話しますと、第1に3歳頃、大人が見て危なげなく歩けるようになることです。しっかり歩けることが基本です。子供の気質によって歩き方にも差があるんですけど(胆汁質は地面に食い込むようにどしどしと、多血質はつま先で跳ねるように軽やかに、憂鬱質はうつむいて足を引きずるように、粘液質はおなかが出てだらだらと)、しっかり歩ける子供は、しっかりと話せる。5歳頃、日常的な話ができるようになればいいです。5歳頃しっかり話せたら、その子は7歳以降、しっかり考えられる。
 言語の話ですが、よいのはその土地の方言が話せることです。方言は素朴な心に関わっているように思えますが、頭にも関係してきます。というのは、方言は標準語よりも言語として複雑なんです。標準語では表現できない微妙なことを方言は表現できる。言い回しが細やかなんです。方言を話せるということは、複雑な思考をこなしているということです。心の面では、方言で嘘をつくと心が痛むけれど、標準語なら頭だけで嘘をつける、とシュタイナーは言っています。
 言うまでもありませんが、英語は小学校に入ってからやるものであって、幼稚園でやっても益はないです。幼いほうがネイティヴのように習得することは確かですが、外国語は1日2時間×2年で習得できます。ぼくは普通に中学高校で英語、高校大学でフランス語を勉強し、ドイツ語は勉強せず留学しました。1年間で挫折したのがラテン語、サンスクリット語、ギリシア語。独学で途中でやめたのがチベット語とエスペラントです。だから、語学は苦手なんです。前世で語学が得意だった人は、現世では特に語学が得意ではなく、心の開かれた人になっている、とシュタイナーは言っています。
 アリストテレスやペスタロッチも述べていますが、子供は親のまねをして育つ。これが道徳教育につながります。親がどういう考え、どういう感情で暮らしているか、それが親の言葉や動作に出てくる。子供は親の動作や口癖を真似して、その元になっている考え・思いをだんだん吸収していきます。約10年間この模倣を通して、子供の内面に染み込む道徳になっていきます。悪いことは嫌、良いことはうれしい、これが心に吸収する道徳なんですよ。頭のなかにとどまっている道徳、「これはしてはいけません」とかは表面的です。シュタイナー教育のことをよく「自由への教育」といいます。自由な人間に育てることが教育の目的。自由な人というのは、自分の内面の欲求に沿って生きていて、それが正しく生きていることになっている人。自分の内なる良心に従って、不自由を感じていない。ところが、頭に入れた道徳でやっていく人は、外から言われた規則に従っている。外から規制されたものでやっている。これは不自由な人間だ、というのです。自由で道徳的というのは、大人の模倣からできてくる。
 童話も心を作る力が大きいです。3歳では短くてストーリーが単純で、主人公が大きな苦労をせずにうまくいく話がいいと思います。だんだんと話が入り組んで、苦労を乗り越えて成功する話にいけばいいでしょう。繰り返し同じ童話を聞いていると、主人公が苦難を乗り越えて何かを達成するストーリーが自分の中に入ってくるので、努力しようという気持ちが身についてきます。皆さんの好きな童話を数話~十数話えらんで、繰り返し語ってあげると、とてもよいと思います。
 いま道徳教育の見直しの動きがありますが、今いった方向とは違って、昔のように厳しくしつけようという意見になっています。子どもは大人より進化してるんですから、昔の道徳に戻そうとするのは逆行です。もちろん甘やかすのは問題です。しかし、復古的に厳しければいい、ということはないでしょう。しかられるから行儀よくしている、というのは受け身。それが一定期間を過ぎると、自分からものごとに関心を持てなくなる。そして、その反動で、乱暴に全てを壊したいと思ってきます。
 さて、子供は大人を模倣すると言いました。古語「真似ぶ」が「まなぶ」に、古語「愛しむ」が「おしえる」になっています。模倣される大人はどうしていればいいか。これがさっき言った、美しい時間という余裕があること。真似をされるにふさわしい、伸び伸びした大人になっていること。だから、まず私たちは美しいことを楽しみましょう。ちょっと贅沢な時間を持つことです。ただ、安楽すぎる生活は心を虚弱にするので、日常の生活でせっせと体を使うことも大切です。大人は何かを断念すると、意志を強くできます。また、大人がむやみに世間や未来に批判的・悲観的だと、子どもはやる気をなくします。
 もう一つは、家族が仲良くて和やかな感じ。人間は一生の間、幼児期の家庭の雰囲気の余韻が意識下に残るといいます。意識下の幸福感、幸せな幼年期の余韻が心の一番深くにある。それが、この人生を生きようという一番の原動力です。生きるのは幸福だという根本の思いがあって、それが一生を生き抜く力になる。幼少のころを振り返ると、楽園のような根元的な幸福感があるので、大きくなってどんなにつらくても生き抜いていけます。
 子供が勉強をしだすのは、9歳~10歳という年齢を踏まえればいいと思います。3歳でしっかり歩く、5歳で言語の基礎ができる。6~7歳で学校に入りますが、まだ学問的な勉強ではありません。
 9歳頃までメルヘン的なイメージ世界を感じています。子どもも自分と同じように思考すると思って教育する大人がいます。女の気持ちが分からない男がいるように、子どもの感覚・思いが分からない大人が少なくない。子供の心身の感覚は大人と違う。9歳から10歳に、自分と自分以外を区別できてきます。それ以前の子どもは自然に包まれている経験をするのであって、自然を対象化して、距離を置いて眺めるのではありません。9歳・10歳頃から、ものに距離を置いて対象化できてきます。メルヘン的な世界から現実に目覚めてくる時です。
 9歳頃から生物の勉強ができます。植物に関しては、大地と切り離さず、大地と一体のものとして教えます。その植物が育つ地域の自然全体の話をする。そうすると、命はつながりがあるということが、おのずと分かってきます。動物は人体との比較で教えていきます。また、身近な地域の社会科的な話をします。
 つぎに12歳頃が大事で、物事同士の関係が理解できる時期に入ってきます。このとき理科では鉱物・化学の勉強を始めます。社会科では歴史。出来事同士の因果関係が理解できます。それまでは、歴史は物語であって、事件相互の関係を説明することはありません。
 ご存知のとおり、シュタイナー学校では教科書がありません。すべて先生が語ります。教科書に頼らずに自分で語れる先生が信頼されます。中学・高校では、テキストを題材にして考えることができます。9歳の終わりごろ、先生や親の能力に疑いを持つことがあります。9歳が終わる数週間、大人は特に確かな態度で対処する。すると、その後は子供が信用してくれる。
 大人が子どもに付き合って小中の勉強をやり直すのは良いことです。シュタイナー学校は8年間担任が持ち上がりです。8年間やったら先生自身が精神的に1段進歩する。だから、親も8年間勉強に付き合えば、精神的に一段高まるはずです。8年間かかるイニシエーションと言うことができるでしょう。神秘的な修行をしなくても、学校の勉強をきちんとやったら精神的に一段大きくなる。
 小学校の最初に、思考への導入としてフォルメン(フォーム・ドローイング)があります。クレヨンで図形を描くものです。これがとてもよい思考の準備になります。水彩できれいな色を塗るのは心に作用します。一方、形を描くときは、頭を使います。調和的な形を描くと、頭も心もすっきりします。
 ティーンエージャーのころ、大事なのは先生自身が自分の教える学科に、どれだけ熱中しているかです。自分がつまらないと思っているものを教えたら、生徒も面白いわけがないですね。どの学科も本当はとても面白い。勉強以外のことに気が散らないほど面白い。そもそも非行というのは、勉強がおもしろくないからです。もし10代で非行に走るなら、その原因は先生の授業がつまらないから。シュタイナー教育のメソッドは抜群にいいです。それが半分。あと半分は、どういう先生かなんです。公立学校や一般の私立にも、立派な人格の先生はたくさんいらっしゃいます。人智学は最も優れた思想と僕は思っているのですが、人智学の運動家が他の方々に比べて人間的に立派とは言い切れない現状も一部にはあります。
 先生方は学校に行く前に、きょう出会う生徒のことを一人ひとり思ってみます。親はむしろ夜、今日1日の子供の様子を思い浮かべてみます。自分の希望をこめずに、ただ思い浮かべます。
 最後に、僕たちは子供1人ひとりが持っている良い運を確信しているといいと思います。心配するよりも、その子の持っている良い運を確信している(その子の心魂の発展を見守る守護天使、その子の生活の安泰を願う守護祖先がいるといいます)。その確信は安心感として伝わるはずです。いろんな問題が世間にはありますが、まず自分たちが良い生活をしていくしかないでしょう。やがて今の社会の弊害・限界が表に出てきて今日の文明は苦しい事態に陥るのではないかと思います。この時に、そこを乗り越えて新しい社会や文化の可能性を作れるのは、いまの主流とは別の発想を持っている人でしょう。そんな人々の大きな部分がシュタイナー教育を受けた人だと、僕は思っています。

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子どもの感覚をはぐくむ暮らし(後半)

2011-03-01 18:53:04 | 教育
では、感覚に入っていきましょう。
普通、五感といいますね。「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」。この「眼=色、耳=声、鼻=香、舌=味、身=触」が五感ですね。眼耳鼻舌身という順番ですが、赤ん坊が感覚を発展させる順序はちょっと変わります。最初の大事な感覚は触覚のように思います。まず、どういう素材の衣服を身に着けているかですが、子ども用の服に関しては綿100%が主流のはずなので問題は少ないと思います。これだと着ていて気持ちがいいはずです。そして素材だけでなく、どういう色や柄の服を着るかにも注意したいと思います。残念ながら、一般に売っている子ども用の服というのは、子どもの感覚・視覚にとって好ましくないものが多いように思えます。もっと穏やかな色がいいですね。柄も派手でない方が子どもにとっていいはすです。
衣服のほかにも、子どもの手が触れるものが気持ちいいものであるように気を配りたいですね。大人も、プラスチックなどはあまり気持ちよくないですよね。大人は皮膚の表面で感じて判断できて、嫌なものからは手を離したいと思いますが、子どもの感覚は無防備で、大人の何倍も深く皮膚より奥に入って感じてしまうので、体調に影響します。家具やおもちゃは天然のよい素材のものを選ぶのが一番です。
その次の感覚は、子どもにとっては耳、聴覚ではないでしょうか。今、大きい幼稚園の園庭で先生方が子どもたちの前でマイクやスピーカーを使って大きな声で話しておられることがあります。これは、あまりよくないです。静かに聴くことで、落ち着いた心が育ちます。静かな声や静かな時間を体験することで、繊細な耳になります。うるさいと大きな声や音に慣れてしまいますが、静かだと微妙な声を聞くことができます。人間は感覚に関しては昔より衰えているところがあります。
それと、さっきの言語とも関係するのですが、最近「子どもに英語を勉強させるのではなく、普段から英語を流しておいてだんだんと慣らしていきたい」とおっしゃる方がおられました。外国語学習に関しては、シュタイナー教育では小学校以降の方がいいとしています。二つの言語を幼少期から習得しようとするのは、一つのものを二様に表現する、つまり物事を二つに言い分ける癖がついてしまうのでよくないと言います。そして、英語を流しておくというのはカセットとかCDだと思うのですが、そうやって機械を通して再生される音楽や言葉は幼児にとってよくない。大人は機械の音と実際の音を聞き分けて解釈していますが、子どもはそのまま聞き取ります。のどから出る音と機械の音は違うはずですし、なにより機械の音には言葉と共に発せられる想いがない。ですから、機械音に触れるのはなるべく遅い方がいいです。どの年齢からOKかといえば、9歳から10歳が一つの目安です。テレビやコンピューターが完全に問題なしになるのは16歳からだそうです。ですから、10歳を過ぎたらそういう音を聴いてもいいけれど、聞いた後には何か他のこと、自然を体験するとかして、体験を中和することが必要になります。
次が目で見る、視覚ですね。「色(しき)」と書いていますが、仏教で言う色(梵語でrupa)は色彩のことではなくて、物のことです。物には形態と色彩があります。子どもは地上に来てまだ間がないですから、地上に慣れていない。お腹の中の穏やかさにずっと親しんできたので、穏やかな色や形に包まれている方が調子がいいはずです。
まず色彩ですが、原色を使うと子どもは反応しますので、大人はそれが子どもにいいと思ったりします。でも、これは刺激が強いことによる反応です。味に関しても、子どもはきつい味に反応して喜びますが、それは健康にはよくないです。このように、子どもが反応するからといって子どもにいいとはかぎらないので、どういうものを選んで与えていくかをよく考えることです。
小さい時は色彩体験が中心になります。基本的に穏やかな色、落ち着く色です。そして小学校に入って3、4年ぐらいからは形のほうが大事になります。大雑把に言いますと、色彩は人間の感情を豊かにし、開放し、形は考える力を作っていきます。ですから、考えようと思ったら、幾何学の図形を書くと、ずいぶんよい練習になります。
それと、日本は照明を明るくしすぎる傾向があります。暗いと目が悪くなると言うのですけれど、ほどよい明るさが一番よくて、明るすぎるのは問題です。感覚の点から言うと、日没の頃から電気をつけてしまうことで、だんだんと暮れて暗くなっていく微妙な色彩の変化を知覚する体験がなくなっている気がします。
次は嗅覚、鼻で香りを嗅ぐ感覚ですね。いろいろなものが匂いを発しています。いい匂い、嫌な匂いもあります。今は、よい材料ではない新築の家の場合、なにか匂いがしますから、これも気をつけたいですね。
五感の最後、味覚を考えましょう。五感は人間だけでなく動物も持っています。動物も聞いたり見たり嗅いだりしている。嗅ぐときには安全かどうかを調べており、縄張りも匂いで察します。舌の機能は二つあるように思われます。一つは、無害か有害かを判断する機能。これは動物だけでなく、私たち人間も腐ったものを味や匂いで感じますよね。もう一つは、食べている量が適量かどうかを判断する機能。僕らは食べすぎは胃袋で判断するのであって舌ではないと思っていますが、本来は舌で判断するものではないかと思います。胃袋で判断しようとすると、満腹感が脳に伝わるのにちょっと時間がかかるので、食べ過ぎてから満腹に気づいたりします。舌に注意すると、食べ過ぎる瞬間から味が落ちてくるのでわかるのです。ですから、おいしくなくなったら、これはもう十分だと思ってやめる方が健康にはいい。
あと、食事については細かいことがいろいろあります。まず赤ちゃんは母乳がいい。母乳の温度が子どもにとって一番いい温度だそうです。ちょっと大きくなった子はいろいろ食べますが、どのくらいの温度がいいのか。だんだん蒸し暑くなってきますが、冷蔵庫に入っているものを出してすぐに飲んだりするのは冷たすぎます。
シュタイナー教育では、一年もしくは一年未満ぐらいで母乳をやめる方がいいと言っています。一年以上飲んでいると、親への心理的な依存が大きくなるので、一年でやめた方がいいそうです。母乳のことを言いましたが、実は今、ヨーロッパでは母乳は3ヶ月でやめているところもあります。よくない食品を大人が食べている結果、母乳もよくないものを含んでいることがわかったので早くやめているのです。お子さんの健康のためにも、皆さん自身の健康管理が大切です。
舌はいろいろな味を感じますね。甘い味、辛い味、苦い味、すっぱい味、しょっぱい味・・・と、いろいろあります。ある年齢までは、苦い味は嫌いな子が多いですよね。苦い味の物を食べれば、人間は意志が強くなるそうです。そして、しょっぱい、辛い味は思考力に、甘い味は感情に関係する。大抵の子どもは甘いものを好み、とりすぎる傾向があります。先ほどの舌が適量を判断するという話ですけれど、白砂糖もしくは人工甘味料で味付けされた食べ物だと、適量を越してもまだおいしいと思って食べ続けてしまうそうです。甘いものは甘える気持ちを誘発するので注意が必要ですね。
細かいことを言いますと、お子さんのタイプによってどういう味がいいか分かれてくるそうです。今日は詳しく話す時間がありませんが、シュタイナーは子どもには4タイプあると言います。その中で塩辛い味付けがいいのは、のんびりしたタイプの子です。甘いものがいいのは、憂鬱なタイプの子どもと怒りっぽい子どもです。甘いものが少ないほうがいいのは、のんびりした子と気が散る子どもです。のんびりした子は食べすぎる傾向があります。
シュタイナーはこれら五感以外の感覚の話もしました。
まず、触覚以外に自分の体で感じる感覚がいくつかある、と言いました。一つは温度で、自分が周囲の熱を感じることも一つの感覚ととらえています。室温や気温を感じる感覚ですね。皆さん、お風呂の温度は手で測っておられるか、何度と設定してスイッチを押しているか、どちらでしょう。自分の体温はどうですか? もし体温計がなかったら、自分の感覚で判断しますね。今は外に基準になる機械があり、それに頼ってしまうからか、自分の感覚が鈍っているように思えます。だれもが本来、本能的に育児の感覚を持っているので、これを発揮すれば自然によい判断ができるはずです。ところが、たくさん育児知識を頭に詰め込んだだけだと、十分に消化できていない知識に頼って判断してしまう。知識は感覚を正常に育成する助けになるものです。
この熱感覚という感覚は、人間の気持ちの温度も感じます。ちなみに冷房暖房は、使いすぎると却って体は弱くなると言われています。東洋医学の先生によると、夏冷房しない方が冬冷えずに暮らせるそうです。冬も、厚着しないで室温を高くしていると、子どもは虚弱になると言います。のんびりしたタイプの子どもは食べすぎるだけでなく、暖かくしすぎる傾向があります。逆に暗いふうに考える子どもは暖かくするほうがいいそうです。
動きをとらえる運動感覚、均衡を感じる平衡感覚、これらによって人はきちんと動ける。自然にやっている動きで十分と思いますが、他にはオイリュトミーやライゲンがいいですね。オイリュトミーは音楽や詩にあわせた一種の踊りですね。ライゲンは歌やお話を体の動きを伴って体験するもので、とても楽しいはずです。
もう一つ、身体に関しては生命感覚というのがあります。自分の生命状態、健康状態を察知するものです。自分がどれぐらい健康か、疲労気味かを感じるものです。調子が悪いときに無理をしないと、早く回復します。
いろいろな音のほかに、言語が耳から入ってきます。でも、耳で言葉と判断するのではなく、脳で理解します。言語感覚とは、音と言葉を区別して把握する感覚です。そして、文章の内容を思考としてとらえる感覚が思考感覚。
子どもにとてもいいのは、童話や民話を語ることでしょう。童話は3歳の半ばぐらいから聞けると言われていますが、3歳の子どもにお話をすると、女の子の方が静かに聞いている率が高いです。今の医学でわかっているのは、脳の構造上、女の子の方が言語を理解するのに秀でていて、小学校に入学する時点で1年分ほどの差があるそうです。男の子は頭が悪いのではなく、そういう成長のテンポなので、わかってあげてください。
さて、童話のいい面はいくつかあります。その一つは、お話の言葉を通してストーリーの情景を想像して聞いているので、その想像力が頭を作っていくということです。今は読み聞かせが多いですが、その場合は自分の注意が本に行きますから、可能なら話を大体覚えて子どもの顔を見て話してあげた方がいいです。
多くの童話は大事な教えを素朴な形で含んでいます。よい心の人が幸福を得ていくという話が多いですよね。童話によって、10歳までに習得する道徳を補強できます。6話とか12話とか自分の好きな童話を大体覚えて、月替わりで子どもに話していくのもいいかもしれません。月替わりと言ったのは、人間は4週間毎日なにかを体験すると身につくからです。最初は短い単純なストーリーがいいと思います。小さい子は安心して聞いていたいという気持ちが強いので、はらはらする話はまだ早いです。5歳になれば、もうちょっと長い、入り組んだ話をします。主人公が何か難問にぶつかって、苦労して成し遂げていく話。これを幼年期に聞いていると、子どもの中で話が無意識にまで沈んでいって、将来何かあった場合、くじけずに乗り越えようとする気力がわいてくる。子どもにとって神話やお経に代わるものは童話なのです。気力も知恵も吸収できます。
もう一つ、自我感覚という感覚があります。これは自分の自我を感覚するという意味ではなく、他人の自我を感じ取るという意味です。人も自分と同様に考えや思いを持っているということを知る感覚です。
想像力も幼年期にはとても大事な能力です。シュタイナー教育では遊び、おもちゃを通して想像力を伸ばしていきます。ここの園で使っているおもちゃを見てもらえばわかると思うのですが、一般に売っているおもちゃとはちょっと違います。売っているおもちゃは、よくできている完成品なので子どもは喜びますが、自分で工夫したり思い描いたりせずに、そのとおりに使って遊ぶので、あまり想像力を働かせません。もっと未完成のものを使うと、自分でイメージを追加して遊ぶと思います。どこか想像で補う部分を残しているおもちゃが子どもには一番いい。
小さな子どもは、ひとり遊びが基本です。年長さんの頃から仲間で遊びだします。仲間で遊ぶというのは、人間が社会のルールを学ぶ一番最初の機会です。遊びというのは遊びたいからやるものですが、ルールは決まっている。みずから進んで、そのルールに従おうと思います。
最後に、大人のこともお話します。まず第一に、自分がどういうふうに自分および子どもの幸福や人生を考えているか、どういうのがいい人生だと考えているかをはっきりさせていることが大切です。これがないと、いろんな意見に左右されて、不安定な考えになり、親が不安定な考えだと子どもも不安になってきます。ですから、自分で一種の哲学を持ってほしいと思います。
それから、子どもを理解するために子どもをよく見るといいのですが、冷静に見ていることと、一段と深く見るために愛情を込めて見ることが大切です。主観的すぎる愛情は問題ですが、愛情があると深いところで理解できます。
先ほど言ったように、子どもは親の行動を真似ます。それから、親が思っていることを子どもは無意識に感じ取って、親の思いのような人になることがあるのだそうです。変な例ですが、とても勤勉でまじめにしている親、でもどこかで本当はサボりたいと思っている場合、なぜかそれが子どもに伝わってしまって、子どもがサボってしまうということがあるのだそうです。それを思うと、自分がどういう人間かというのが教育では一番大事な問題ですね。ただ、すべてが親のせいというわけではありません。子どもが持って生まれた方向性があります。それは親からの遺伝ではなく、その子自身に由来する、とシュタイナーは考えています。
育児には時間をとられますね。そういう中で、短い時間でもいいから、本当に自分のしたいことをする時間を確保するのがいいと思います。子どもが寝た後とか、幼稚園・保育園に行っているときとか、時間が空きますよね。そういう時に自分の趣味のことをして楽しんで、気持ちを開放するのはとてもいいことです。自分の心を豊かにするために自然を体験することもとてもいいですし、芸術的な体験もいいですね。勉強が好きという方は勉強もいいです。そういうことをして自分が満足できると、ゆったりした暖かい気持ちになってくる。そういう気持ちが子どもにとって親しみやすいのはもちろんですし、余裕のある気持ちでいる人は判断も間違わなくなってくると思います。
今はなかなか不景気ですけれど、一見不必要な美しい楽しみがあると生活が潤います。
一日が終わったあとには、今日の自分の子どもの姿・様子・行動を思い出してみるといいです。一見何でもないことですが、このことを通して段々と子どもの本当の姿が見えてくると思います。本当の姿というのは、その子がどういうふうに育ちたいかを告げるものです。シュタイナー教育では、子どもはあらかじめ何かをやろうと思って生まれてくると言います。それが日々の行動のどこかに見えてくる。
それから、お仕事などで子どもに会う時間が少なくても、お昼休みなどに家庭にいる子どものことを思い出すといいです。さっきお話した「身口意」の意=思いが、行為や言葉と同じくらいの力を持っていると考えられるからです。思いが通じていく心的空間があるのではないかと思います。ですから、会社に行っておられて子どもと会う時間が少ない方は、通勤途中や休み時間に子どものことを思うと、想いが繋がるそうです。その結果、短時間しか会わなくても関係が維持できるそうです。今日、男性の方が何人かおられますね。子どもというのは、具体的に見えるものでもって納得するそうです。ですから、会社が大変と言っても、見ていないから実感できないのだそうです。そのため、父子の関係をよくしようと思ったら、休日お父さんが家庭で目に見える働きをしていると、子どもはお父さんのことを高く評価する。日曜大工をするとか、外出した時のお父さんが颯爽と道案内するとかいう姿がいいのだそうです。

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子どもの感覚をはぐくむ暮らし(前半)

2011-03-01 18:41:21 | 教育
今日は子どもの感覚を育む暮らしという題で、どういう生活・暮らしが子どもに良いかを考えていこうと思います。
シュタイナー教育というのは、20世紀ドイツを中心に広まっていった教育です。これはルドルフ・シュタイナーというオーストリア人が創始者ですが、そこに至る歴史はいろいろとございました。そこを簡単に振り返ってみますと、ヨーロッパで子どもを大事にしようということを最初に考えた方は18世紀のルソーです。それから、その傾向を受け継いでいった人にペスタロッチがいます。ペスタロッチは三つのことを言いました。一つは、子どもの成長にとって自然な順番で教育をすること。もう一点は、頭だけではなく、手と心も同時に教育していくというものです。そして、大人の真似をすることを大切にする。これらの考えはシュタイナーに継承されているように思います。まず年齢、順番を大事にする。何事も順番がありますよね。順番どおりにすると上手くでき、順番を乱すと失敗することがあります。
シュタイナーは、子どもの成長にとってどういう順番が自然かを考えました。
最初は体だ、と考えました。人間を家にたとえると、体は土台にあたると思います。多くの方は、若い時にはそんなに健康のことは考えないで、歳をとってから考えると思うのですが、体作りの基礎は子どもの頃ですから、子どもの頃どんなふうに健康であったかということが、ずっと将来に続きます。ですから、まず体を大事に考えたいと思います。
二番目に作るべきなのは心です。身体という土台があって心という柱が立っていくと考えます。この二つができてから屋根を乗せる・・・頭ですね。この3つの順番がシュタイナー教育の基礎です。今でも教育というと頭中心のように考えて、小さい頃から頭を使わせよう、覚えさせようとする方がいらっしゃると思うのですが、先に屋根を作って後から土台や柱を作るというのは無理がありますから、心身が完成した時点で頭に取り組む方がその子の将来にとってよいと思います。
年齢のことを、シュタイナーはもう少し詳しく考えました。
生まれてから1歳までは、よい環境、よい食事です。環境も食も、五感に関連します。1歳ごろ子どもは立ち上がろうとし、歩こうとする。子どもによって立ち上がる時期はまちまちですが、何事も急がせると失敗することが多いので、シュタイナーは余裕を持って見ようとしました。立ち上がって歩くのは3歳ぐらいまでに完成すればよくて、大人が早く立ち上がらせようとするのはよくない。
シュタイナーは、こんなことを言いました。幼年期がどうあるかによって、中年期や老年期に影響が出る、無理をして立った場合、その時の足腰の無理が老年に出てくる、と。もしそれが本当でしたら、それはよくないことですから、子ども自身が立ち上がるのを待つ。立ち上がるのは、とても大きな体験です。子どもたちにとって、自分の足で立つのは嬉しい気持ちがするものです。初めて立った子どもは、嬉しそうな表情をするのではないですか? 自分の力を感じて嬉しくなって笑ったりする。人間は自分の力を感じたり自信がある時は、気持ちが開放されてよく笑います。自分が弱い時は気持ちも小さくなって泣きたくなる。だから笑いたい気分というのはいいことなのですね。
このころ注意してほしいことは、子どもがどういうふうにしっかり歩けばいいか、大人が見本を示していることです。シュタイナーは、歩くことと話すことと考えることの3つは繋がっている、と考えました。しっかりと歩ける子どもは、しっかりと話せる可能性が高い。もし、しっかり話せなかったら、その人はしっかりと考えることも難しい。というのは、私たちは生活において言葉を使って考えているので、言葉があやふやだったら思考力もあやふやになっていく可能性が高いからです。しっかり話す基盤はしっかりした歩みです。人間のタイプによって歩き方は異なるので、画一的に仕込む必要はありません。でも、なるべく安定した足取りを親が見せていて欲しいですね。
今は日本の古いことが再評価されていますけれど、下駄や草履を使う人もいますね。足袋というのも、とても健康にいい気がします。皆さん、今日は靴下ですよね。すると、ゴムで締めつけていますね。足袋は足の形に添うものですから、締め付けずにぴったりという感じで、なかなかいいですよ。
次の2~5歳は言語が形成される時期です。多分お子様が2歳ぐらいになると簡単な日常のことは話せ、5歳になるとほとんどのことは話せるようになると思います。仏教でも、人間は身(しん)・口(く)・意(い)という三つの大事な働きをする、と言われています。身は体で、口は言葉で、意は心や想いとか考えです。体を使った行動、口から発する言葉、そして胸に思うこと、この3つがそれぞれ働きがある。体を使ってすることは目に見えますからはっきり分かりますが、言葉の作用はどうですか? どういうことを言われるか、どういうふうに言われるかによって受ける印象は大きいですよね。きれいな言葉を使えていると、その影響で心もきれいになる可能性が高い。だから、まずご家庭でよい言葉を使えたらいいと思います。
シュタイナー教育では、家庭で親が文法的に正しい言葉を使うことを勧めています。これは思考力と関係してきます。思考力というのは、論理的に考えていくと正解が出てきます。この論理性の基礎は言語の文法であるというのです。ただ日本語は文法的にきっちりしゃべる風習はなく、暗示的とか余韻を残すとか省略が多くて、それは直観力の練習になるのですが、できれば時々正しい文法で話すと、子どもの思考のためにはよいです。
思考と言語の関係では、シュタイナーは方言を勧めていました。標準語は簡略化された日本語、みんなが頭で理解して話せる言語です。方言は長年その土地に根付いて心身にしみこんでいる言語なので、言いたいことにぴったり合った表現がしやすい上、純朴で素朴な心によく合っているという面もあります。そして、方言は標準語よりも独特に込み入っている微妙な表現をよくします。込み入った言語を使いこなせる人間は、頭を使って話しているので、後々の思考力のよい基礎が出来上がるとシュタイナーは考えました。
子どもは大体3歳ぐらいで自分ということを初めて意識することが多いです。外国では3歳の子どもが自分のことを私、僕と言い始めます。これは日本では気づきにくいです。外国では私とか君とかいう言葉を普段から使っているので、そうなるのだと思います。皆さん、ご家庭で一人称二人称を使って話す機会は少ないでしょう? 子どもに「私は君を大事に思っている」とは言わないですよね。「おかあさんは〇〇ちゃんが好きよ」とか言いますよね。ですが、私という意識に関連する病気である自閉症は東西ともに3歳頃に症状が出ることからも、自我の意識は東西問わず3歳頃に生じると考えられます。
そして、この意識は9~10歳に一つの転機を迎えます。それまでは私という意識があるとしても、まだほのかなものです。自分と親との関係を深く感じている。これが9~10歳になると、自分と親とは違うのだと改めて自覚する。12歳というのは、物と物との関係を把握できる年齢といいます。ですから、本格的な勉強は12歳ぐらいからがいい。
幼年期全体は、親の真似をすることが一番基本です。シュタイナーは、真似ることで子どもの道徳観が作られる、と言っています。道徳というと、勉強して学んで、これはしていい悪いというふうに習うと思うのですけれど、それは頭での表面的な道徳であって、もっと深い道徳がある。それは子どもが親の行動や発言を真似ることを通して、身についていく。
自分の思っていること、考えや感情が背景にあって、私たちは行動したり言葉を使ったりします。子どもは親の口癖や身振りを真似しますが、それを通して親の持っている思いも吸収しているのです。例えば、怒っている時には動作にイライラ感が出るとか、発する言葉が険しくなるとかありますよね。それを真似すると、気持ちも自然に真似てしまうことになる。良い想いで暮らすと、その想いを子どもは吸収していく。大体生まれて10年間ぐらいの間、親の模倣を通して子どもは自然に学んでいきますので、それまでは親が見本を示すことが基本です。それ以前に子どもに任せるというやりかたは、あまりお勧めできません。任せた方が自由でいいという意見もありますが、10歳未満の子どもの場合、自分で何かを決める時に十分な知識や経験がないので、本当にこれでいいかどうか分からずに、正しくない選択をするケースもあります。そういうことがあった場合、自分の判断に自信が持てなくなってくる。それよりも親のよい見本を見習い、自信がついてから決断する方が子どもにとって健全です。
年齢の他に考えておきたいのは、日々の生活のテンポ・リズムです。これもテーマです。まず、朝と夕方は静かな落ち着いた時間にするのが子どもにとっていいです。朝は忙しいご家庭が多いかと思います。実は今朝、僕もちょっとあせったのです。というのは、朝起きてみたら今日は子どもが朝食を作る日だったのです。慣れないものですから、6時ごろから調理をしても7時過ぎても出来上がらない。僕は7時20分に出ないと、ここに間に合わない。なんとか15分間は落ち着いて食べたのですが。朝、静かにゆっくりした時間を過ごすことで、一日のあり方が決まってきます。
朝から一日は始まりますが、私の考えでは、よいテンポを作るためにはむしろ夕食の時間を第一に決めたほうがいい感じがします。夕食は夕方に食べる食事であって、夜ではないです。夜食は日が落ちてから食べるものです。夕食は日があるうちに食べるものです。お仕事の関係もあるでしょうけれど、夕食は早めのほうが特に幼児期の子どもには健康的ですね。
現代のお医者さんたちの説によりますと、夕食は4時から5時が一番いいそうです。そして幼稚園、保育園の時期は子どもの就寝の時間は7時から8時です。そうできたら、7時・8時以降、親が自分の時間が取れて、気持ちが豊かになれます。就寝前には、お話とか音楽とか何かやってあげるといいですね。
朝、起きます。この時、起きてパジャマから服に着替えるのを丁寧にやるといいそうです。日中と夜間をくっきり切り替える機会が着替えなのだそうです。そして食事が子どものしつけにとっては一番大事です。よい姿勢、よい行儀。料理については後からお話しますね。
そして、一日のほかに季節の移り行きを感じる子どもは感覚が豊かなはずです。なるべく外の自然を体験する機会を作ったらいいですね。

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シュタイナー心経

2007-01-01 12:57:10 | 精神科学
 [からだ・いのち・こころ・たましい]
 体は人間の一部だ。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分である。生命オーラの上部は体とほぼ同じ姿をしており、下に行くにしたがって、体と似たところがなくなっていく。体と生命オーラでは、左右が逆になっている。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。健康な人の生命は若い桃の花の色をしている。心が人間の第三の部分である。楽しみ・苦しみ・喜び、それらの思いのオーラは、輝く雲のように見える。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。人間の第四の部分は魂。その中心は前脳にあり、青く輝く球が見える。

 [いのちのゆくえ]
 死ぬと、生命は体から離れる。死の瞬間、過ぎ去った人生が大きな画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。

 [こころのゆくえ]
 地上への愛着から離れる時期が始まる。心のなかの衝動・願望は、死後も存在しつづける。体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具である体がないだけだ。地上に結び付いている欲望がなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、意識が明るくなっていく。生まれてから死ぬまで、自己の発展の妨げとなるものを作る機会が多々ある。自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。心霊の世界を通過していくとき、進歩の妨げを取り除く刺激を受け取る。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。ものごとが逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれど、それらが自分のほうに向かってくるように見える。自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、人生を誕生の時点へと遡っていく。

 [たましいのゆくえ]
 新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。そこでは、地上の鉱物があるところは空になっており、そのまわりに神的な力が生命的な光のように存在している。地上の事物のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。地上では生命は数多くの存在に分けられているが、精神の国における生命は一個の全体として現われる。精神の国の海だ。心のなかに生きるものが、精神の国の空気を作る。人間が地上で抱く喜びと苦しみが、精神の国では気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。精神の国のこれらの領域に思考が浸透している。

 [輪廻する人間]
 人間は精神の国で、みずからの元像を作る。精神の国に持っていった、地上の人生の成果・精髄が、そのなかに取り込まれる。この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は新しいものが学べるまでは、地上に下らない。生まれ変わるべき時期が来ると、魂は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして、神々によって両親へと導かれる。生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像が現われる。

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カルマと医療

2006-12-16 09:41:50 | 精神科学
 シュタイナーは、脳の作用によって心が現象しているとは考えず、魂が身体に受肉するという見方をしていた。周知のとおり、「カルマ」というのは「行為」を意味するサンスクリット語「カルマン」をヨーロッパ各言語が取り入れたものである。このカルマについて、シュタイナーはつぎのように考えていた。私がなにかをおこない、やがて忘れるとする。しかし、なんらかのきっかけがあると、私はその事件を思い出す。おなじように、私がなした行為を世界は記憶しており、きっかけがあると、世界はその出来事を思い出す。世界が思い出したとき、その出来事は私に向かって帰ってくる。そのように、いま私に生じていることは、過去の私に原因がある。その原因をいままでの人生のなかに見出せないなら、それは前世に由来すると考えることは可能だろう、というのである。
『徒然草』に、「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生まるとこそ、仏は説き給ふなれ」とある。この考えからいくと、「手のない人は、前世で人に酒を飲ませたのだろう」というカルマ論が成立する可能性がある。いまの身体的疾病は過去の自分の行為に由来するというわけである。たしかに、若いころの不養生が祟って、中高年になって病気になったという例は多い。その考え方を拡張して、いままでの生活のなかに病気の原因が見出せないなら、その原因は前世にあったのではないかという推論は成り立つ。ただ、そのように自業自得だといいきってしまうのは、病人に対して無慈悲なことだろう。
 私たちは、病気見舞いに来た文殊に維摩が答えた言葉を知っている。「一切衆生病むを以て、是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば、即ち我が病滅せん」。ここでは、自分のカルマではなく世間の業を担って病気になるという姿勢が示されている。カルマを考えるとき、個人のカルマだけでなく、人類のカルマ、時代のカルマという観点も必要になってくるのである。
 たとえば、侵入してきたフン族に対して感じたヨーロッパ人の恐れおののきが、やがて身体的に現われたのがレプラなのだいうような説明を、シュタイナーはしている。また、今後流行するのは神経症だ、と彼は述べていた。そして、その原因は近代の唯物論的な世界観なのだとしている(唯物論者の無意識のなかには心霊的なものへの恐れがあり、その恐れ、不安が神経症の原因のひとつとなるというのである)。
 シュタイナーがカルマ論の観点から病気の意味をどう考えたかを見てみるまえに、シュタイナー派の医学について概観しておきたい。

 シュタイナー派の医師たちは、人間の身体は頭部を中心とする神経-感覚系、胸部を中心とする循環系、腹部を中心とする新陳代謝系の三つからなると考えている。そして、これらの釣り合いが崩れると病気になると考えている(頭には植物の根、胸部には葉、腹部には花や実が効能があると考えられている)。
「自我」の表現であるとされる「血液」に関連する病気は、慢性病になりやすく、遺伝するという。回復のためには、まじめな生活態度と、生活環境の変化が必要であり、鉱物から採った薬などが用いられることもある。心理療法も有効だとされる(ちなみに、精神病には心理療法はあまり効果がないという。精神病の背後にある肉体の問題を探り、肉体を治療することが重視されている)。
「心魂」の乱れの表現である「神経」の病気は急性のものが多いという。この場合、食事療法が試みられたり、おもに植物から採った薬が用いられる。「生命」実質の表現たる「腺」組織の病気には、動物から採った薬などが用いられる。
 心は二つの側に偏る、とシュタイナーは見ていた。舞い上がって足が地につかないような心理状態を、彼はユダヤ教-キリスト教の堕天使の名を取って「ルシファー的」といい、物質に固執して精神的なものを否定する傾向を、ゾロアスター教の悪魔の名を借りて「アーリマン的」といっている。夢想に耽って現実感覚を喪失するのがルシファー的、凝り固まって攻撃的になるのがアーリマン的である。自我が十分に作用せず、心魂がこのどちらかの傾向に偏って乱れると、生命の流れが変調をきたし、肉体が病むというのである。
 癌は、生命実質が心魂-精神に対して優勢な状態にある。治療に当たっては、過剰な生命実質の活動を抑制することが課題になる。そこで、自然界において樹木の生命実質を吸い取っている宿り木を素材にしたイスカドールという薬が用いられる。宿り木が、体内における生命実質の異常繁殖つまり癌を崩すというのである。そして心魂-精神に、生命実質に対する劣勢を挽回させるために芸術療法が試みられる。

 現代人には思考に偏る傾向と、五感の刺激を求める傾向があるといえよう。情感とのバランスを崩したかたちで思考に偏ると心は生気を失うし、五感がたえず刺激にさらされていると人間は持続力を失う。
 空気を呼吸しないと生きていけないように、心は美を呼吸しないと枯渇する、とシュタイナー派の芸術治療では考えている。健康な生命の現われが美しい芸術なのであり、美しい芸術に接すると人間の生命は力を得るというのである。他者との関係、自然との関係が閉ざされぎみになっている心は、芸術行為をとおして解放的なものになるという。
 おおまかにいえば、線描は思考(頭部を中心とする神経-感覚系)、水彩画は感情(胸部を中心とする律動系)、彫塑は意志(腹部を中心とする新陳代謝系)に作用するという。また、吹奏楽器(メロディー)が神経-感覚系、弦楽器(ハーモニー)が律動系、打楽器(リズム)が新陳代謝系に働きかけるとされる。
 線描することをとおして、人間の意識ははっきりし、秩序への感覚が育てられる。水彩画では、何を描くかと頭を使うよりも、心で色彩を体験することが重視される。水を含んだスポンジで画用紙を適度に濡らしておいて、そこに赤・青・黄の3色で描いていくと、画用紙が水分を含んでいるので、絵の具は輪郭のはっきりした形をとらずに、にじんでいく。その色彩の流れ、広がりに、患者は喜ばしい解放感を体験する。また、乾いた画用紙に、非常に薄めた絵の具を塗っては乾くのを待ち、その上にまた塗っていくという技法で、重ね具合によって濃淡と形態ができていくようにすると、自分の感情に距離を保てるようになるという。
 患者は自分の好きなように描くのではなく、自分に欠けているものを補っていくような課題に取り組む。ものごとを一面的に判断するくせのある人は、いろんな角度から対象をスケッチするとか、小さなことにこだわっている人は大きな風景を描く等である。
 言葉に関しても、アは自分を世界に開く音、イは自分を意識する音、ウは内面に帰る音、エは他者に距離を置く音、オは包み込む音というふうに、言霊学的な考えを基にした治療が試みられている。韻律も重視されており、「長短短六歩格」の詩を朗読すると、呼吸と脈拍の関係が正常なものなる(子どもの場合は、「短短長格」が自然である)。

 病気をカルマとの関連で考えるなら、「過去に犯した罪の結果、病気になった」と思うよりも、「過去の過ちを清算し、自分が高まっていくチャンスとして、いま病気になっている」というふうに、病気の積極的な意味を考えることができる、とシュタイナーは述べている。病気を通過しおわれば、かつての過ちは清算されて、人間は前進していくことができる。闘病はカルマ解消のプロセスだというのである。
 病気になったときは、自分を振り返る機会なのである。自己認識を新たにして、病気を克服していくと、闘病をとおして人間の内面は強まり、新しい健康状態へと進むと考えられている。
 闘病をとおしてカルマを克服していくのだからといって、医療によって回復を助ければ十分カルマと格闘できなくなるのではないか、とは考えない。治癒のためにあらゆる可能性を試みることが大事なのであって、カルマへの影響を考えて治療を控えるなどということは、けっしてしない。医療の進歩ゆえに、闘病によるカルマ解消を十分にできなかったとしても、カルマに向かい合うべつの機会が運命的にやってくるというのである(ただシュタイナーは、科学-医学の進歩にはモラルの発展が先行していなくてはならないと考え,まだ神の領域に属する生命の問題を、神のごとき精神性を持たない人間が操作することについては強い警告を発していた)。
 なにも考えず、努力目標のない人生を送っていれば病気にならない、とシュタイナー派の医師たちは考えている。前進する人間は病気になるし、病気になる人間は進歩する。病気になるということは、人生が停止状態から前進に転じたことを意味するというのである。
 そして万一、病気が死にいたったとしても、闘病は来世における健康な身体を約束するという。ひどく悪化した器官は、いったん捨てて、来世に新しい肉体に生まれ変わると考えている。病気に負けたのではなく、死をとおして病気を克服したという考えかたをしているのである。
 シュタイナーは、物質の本源は光であり、光が凝固したものが物質なのだ、と語っている。人間の身体も自然界も、光が物質へと凝固したものだが、人間はいろんな欲望ゆえにいくらかは汚れている。自然界は無欲だから、そのような汚れとは無縁である。だから自然界から採ってきた薬が、そのなかに含まれている本来の清浄な光の作用によって肉体を癒すことができるというのである。また、人間の心は愛から織られたものだ、とシュタイナーは語っている。愛から織られたのに、心のなかには憎しみや邪まな思いが渦まくようになってしまっている。愛を注ぐことによって、心を病んでいる人は癒される、と彼は考えていた。
 シュタイナー派の治療教育の施設では、身体や心理に障害があっても精神は健常なのだと考えている。病んだ心身ゆえに精神を十分に発揮できないだけなのであり、障害のある心身のなかに生きる自我は、一連の輪廻のなかで特別の発展を遂げるのだという見方に立って、家庭的な生活がなされている。
 いわゆる障害児は心がきれいだから、社会を癒す存在でもある。

Ryuhan N.

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シュタイナー人智学における芸術

2006-11-02 15:40:54 | 生活
 最近ではタルコフスキー、ボイス、エンデらに影響を与えた思想家、生存中にはカンディンスキー、クレー、モンドリアン、カフカなどに影響を与えた神秘思想家がルドルフ・シュタイナーです。1861年生まれのオーストリア人で、1925年にスイスで亡くなりました。シュタイナーを愛読した人には、マリリン・モンローや晩年のブルーノ・ワルターがいます。
 どの秘教家もそうですが、精神の世界という本源の世界からこの物質世界が現象しており、美の源泉も精神世界にあって、それが物質界に現われ出ている、とシュタイナーも考えています。個人個人が思い描く主観的な美があるというのでなく、精神世界という普遍的な実在界にある美のイデアを、各人が自分流に具現するわけです。物質界に先立って、物質界を生み出した世界として、客観的に精神世界が実際に存在するというのが、シュタイナーの発想の前提です。
 近代から現代にかけて、人生と社会の悲惨を描く、感動的な芸術作品がいくつも生まれました。シュタイナーは、心に調和と生気を与える美しい作品が未来社会における芸術だと考えていました。もちろん、なんの苦痛もない、ただきれいな作品というのではありませんが、観客にショックを与えるように意図的に頭で考え出した、単に「醜い」作品ではなく、これからの芸術は、魂を高みへと飛翔させる体験をもたらすものになっていく、と彼は考えていたのです。ただ、魂を高みへと飛翔させるということは、じつは問題もはらんでいます。思い込みや錯覚で、幻影へと突き進むことがあるからです。
 古代の芸術の多くは、密儀を源泉としていました。しかし、古代の密儀には確かに汲めども尽きぬ知と力がありますが、だからといって、その形式に戻ることだけが現代芸術のヒントになるわけではないでしょう。個人個人の運命が遭遇する今日的な秘儀体験を描くことが、これからの芸術を生み出していくと思います。芸術をとおして神々が人間に語りかけ、芸術は物質界のなかに精神世界をもたらすというのが、シュタイナーの考え方です。言うまでもなく、さっきも述べたように、地上の頭で考え出した単に面白い作品よりも、天に通じる魂から沸き上がる作品に価値があるわけです。

 ルドルフ・シュタイナーは自らの精神科学をアントロポゾフィー(人智学)と呼び、人間観・宇宙観を土台として、芸術論・社会論を展開しています。
 彼は人間を、日本語で言えば、体と心と魂からなるものととらえました。心は思いの場、魂は自分という意識です。心(思い)が主観的に揺れ動くのに対し、魂(自分)は本来確固としているものだ、とシュタイナーは見ていました。心は外界を感受して反応し、魂は神的な光を内に含んでいます。
 物質的な身体を生かしている要素を、彼は西洋の伝統に則って、エーテル体と呼んでいます。そして心のことも、西洋の伝統的な表現を用いて、アストラル体と呼んでいます。魂は個我です。
 シュタイナーは世界を、現代の日本語で言えば、地上・霊界・天国の3つからなるものと考えました。さらに天国を、有形の天国と、それを生み出す宇宙エネルギー領域である無形の天国に分類します。天国全体を7領域に区分し、上位3領域が無形の天国、下位4領域が有形の天国です。霊界も全部で7領域に分けられ、下方4領域は心の欲望の渦巻いている世界で、上方3領域が澄んだ光の世界とされます。
 人間は死後、心に染み付いている物質的な欲望を霊界で捨てていかねばならない、とシュタイナーは述べています。霊界の第6領域(活動的な心の領域)では、「おもしろい」という理由で芸術や学問に打ち込んだ心が浄化されるといいます。ちなみに霊界の第5領域(心の光の領域)では、宗教の説く楽園の空しさを悟るといいますから、宗教の説く楽園よりも、おもしろい芸術・学問のほうが1段高次の領域に由来することになります。
 しかし、シュタイナーの思想においては、霊界の第5領域に由来する芸術は、本当の芸術ではないということになります。「おもしろい」というよりも高い次元の魂から発する芸術と学問は天国の第4領域(物質・生命・心の原像を統治する世界)に結び付いている、とシュタイナーは述べています。ちなみに、ほんものの宗教は天国の第2領域(生命の原像の世界)の調和的な生命が反映したものとされますから、芸術はそれより2段階上の領域に類縁だということになります。霊界の第5領域がおもしろい芸術のかげろうのごとき砂上楼閣、天国の第4領域が本物の芸術の源泉です。

 シュタイナーはさまざまな芸術を、つぎのように区分しています。物質的な身体と同じ法則を持っているのが建築、エーテル体と同じ法則を持つのが彫塑、アストラル体と同じ法則を有するのが絵画、個我の法則を有するのが音楽。そして、詩は高められたアストラル体の法則を持つ、と彼は言います。高められたアストラル体というのは、心の思いが無秩序でなく、魂の力によって清められ、調和を与えられたもののことです。
 この建築・彫塑・絵画・音楽・詩という芸術の段階は、ヘーゲルが『美学』で唱えたものを継承しています。さらにシュタイナーは、自分が創始したオイリュトミー(美しいリズム)という一種の踊りを、高められたエーテル体の法則を含むものとしています。オイリュトミーが舞踊・舞踏と異なるのは、肉体の芸術ではなく、エーテル体の動きの芸術だからとされます。
 建築については、まず墓が死後に魂がたどる道を示す目的を持ったもので、ピラミッドも内部の通路が魂に天への道を示すものです。建築にはさまざまな様式がありますが、それぞれの時代の意識を反映しています。ギリシア神殿は、そのとおり神々の宿る建物。ロマネスク建築は安らぐのに適した内部空間を提供していますし、ゴシック教会は上へと引き上げる方向性を持っています。ゴシック教会の形態を体験した人々の心魂のなかに、やがて中世の神秘主義が生まれていったと言います。思想から形態ができたのではなくて、最初に形があって、それを体験した人々が、そこから思想を形成していくというのです。彼が言うには、ノアの箱船の形がいまの人体の形に影響を与えており、未来の人体の形態に影響を与えるのはソロモン神殿だそうです。それはともかく、どんな色形の空間のなかで生活するかで心身に影響が出ることは確かでしょう。体に合った服を着ないと気持ちが悪いように、またサイズの合っていない靴を履くと歩きにくいように、心身に合った家でないと落ち着かないでしょう。

 絵画に関してシュタイナーは、もっぱら色彩について語っています。彼が述べている、それぞれの色の性格は、赤は神の怒り、橙色は内面の力を強め、緑は健康(健全な利己主義)の色、青は帰依を引き出す色などです。空の青は敬虔さを呼び起こし、植物の緑は感謝を呼び起こします。緑を見ると、太古の時代へと人間は引き戻され、黄色も創造の原初へと人を導くと言います。シュタイナーはゲーテの色彩論を研究しましたが、彼独自の色彩論を展開しています。色を輝きの色と影の色に分けます。輝きの色から言うと、赤が生命の輝き、青が心の輝き、黄色が魂の輝きの色です。影の色は4色あって、まず緑が生命の物質化した色、桃花色が心の生命的な姿、白が魂の心的な色、そして黒が死の魂的な色です。ゲーテが上下に赤と緑を置き、黄と青を左右にして、赤と黄のあいだに橙、赤と青のあいだに紫を置くのに比べると、シュタイナーのほうが難解かもしれません。
 ロシアの神智学者ブラヴァツキーが示した色と音と星の関係に則ってスクリャービンは作曲しましたが、シュタイナーも緑-土星、橙色-太陽、菫色-月、赤-火星、黄色-水星、青-木星、藍色-金星という対応関係を語っています。さらに赤-牡羊座、橙色-牡牛座、黄色-双子座、緑-蟹座、水色-獅子座、青-乙女座、ヴァイオレット-天秤座、パープルがかったヴァイオレット-蠍座、青みかがったヴァイオレット-射手座、桃花色-山羊座、橙色がかったパープル-水瓶座、パープル-魚座としています。
 シュタイナーの考えでは、初めは暗闇だった宇宙に光が出現したあと、その光と闇を神々が混ぜることによって、いろんな色ができていきました。神々は色をとおして現われます。色が人間のいろんな気分や感情を引き起こすように、色は霊的存在を引き寄せる働きもします。色だけでなく、形や香りや音も、そうです。
 ルネサンス期に遠近法ができましたが、これからの絵画は色彩遠近法、たとえば赤は人に接近してくるし、青は人を遠くに引いて行くなどという、それぞれの色が持っている性質を生かして描くのがいい、とシュタイナーは考えていました。物質に固着した色彩ではなく、重さを持たずに心の世界を漂う色彩で描く絵画です。生まれる前の記憶である線で描くのではなく、睡眠中に滞在する心の世界の色で描くというのです。
 色が心の世界に由来するのに対し、音は魂の世界に由来する、とシュタイナーは言います。色がイマジネーションの世界、音がインスピレーションの世界です。音楽の源泉はピュタゴラスが探求した天球の音楽にあり、音楽はエーテル体の振動に関連しています。西洋で論理的思考は、アポロンの竪琴によって人間に与えられたと言います。
 アストラル体がエーテル体にまさって快適なのが長調、アストラル体がエーテル体に屈して安堵するのが短調です。色と同じですが、高貴な音はよい神々を呼び寄せ、嫌な音は邪悪な霊を引き寄せます。単に心理的にそんな感じがするというのではなく、実際にそのようなことが生じるというのが、シュタイナーの見解です。歴史以前の太古には、9度や7度のインターヴァルに、人々は神の出現を感じたそうです。それから、5度を通して精神世界とのつながりを人々は感じるようになりました。現代では3度が中心で、それとともに音楽は主観的なもの、長調・短調の音楽になりました。子どもは9歳ごろまで5度の気分を生きており、9歳になって長調・短調を理解し、12歳ごろにオクターヴを体験する、とシュタイナー教育では考えています。ド-火星、レ-水星、ミ-木星、ファ-金星、ソ-土星、ラ-太陽、シ-月です。
 シュタイナーは文学についても、市井の瑣事を描いた作品よりも、作家が神の目をとおして運命的な事件を描いた作品を評価していました。ホメロスやアイスキュロスやダンテやシェークスピアやゲーテを評価していました。シュタイナー作『神秘劇』は、主人公たちの秘儀参入の経過を描いた作品であり、また転生のドラマです。だれもが語りうる日常ではなく、芸術家は霊感に満ちて、より深い、あるいは高い次元で物語るというわけです。ギリシア悲劇は密儀から発しています。ありえないような試練を通過する主人公に感情移入することによって、観客は魂の死と復活を体験します。なにも大仰な構成、大掛かりな設定でなくても、日常的な題材のなかに秘儀を見出して、作品に結晶させることができるでしょう。
 シュタイナーは母音と子音を、au(太陽)、a(金星)、i(水星)、e(火星)、o(木星)、u(土星)、ei(月)、w(牡羊座)、r(牡牛座)、h(双子座)、f(蟹座)、t(獅子座)、b(乙女座)、c(天秤座)、s(蠍座)、g(射手座)、l(山羊座)、m(水瓶座)、n(魚座)としています。

 定形詩のリズムは、呼吸と血液循環を整えます。西洋の詩では、ヘクサメーター(強弱弱6歩格・長短短6歩格)の詩が、健康には最もいいものです。日本の五七調・七五調はどうなんでしょう。
 芸術療法ということでは、音楽・絵画・彫塑がよく行なわれます。音楽は、元気が出る曲を聞かせればいいというものではありません。静かな音楽が「癒し」をもたらすというのは、すでに行なわれていますが、シュタイナー派の芸術療法では、個々の病気によって、どの楽器、どんな曲と詳しく研究されています。ごく大まかにいえば頭に関連するのは笛です(木管と金管で異なります)。胸部に関連するのは弦楽器です。腹部に作用するのは打楽器です。頭はメロディー、胸部はハーモニー、腹部と手足はリズムです。最もよく使用される楽器はライアー(竪琴)です。
 絵画では、水彩画がよく行なわれます。湿らせた画用紙に絵の具を塗って、色がにじみ広がるのを体験して、凝り固まった考えを解きほぐします。また、非常に薄い絵の具を、塗っては乾くのを待ち、その上に重ね塗っていくのを繰り返すという手間のかかる方法は、自分に対する客観性を獲得できると言います。線描では、フォルメン(フォーム・ドローイング)というのが行なわれます。図形・文様を描くことです。調和的な図形を丹念に描くことによって、思考や感情を整えていきます。マンダラみたいなものと言えるかもしれませんが、ダイナミックな動きを持つ模様を描くことによって生気が得られます。彫塑は意志を確かなものにします。
 エーテル体が健康だと、美しい作品ができます。また、美しい芸術によってアストラル体を調和と活気と落ち着きのあるものにすると、エーテル体は回復します。しっかりした思想・哲学を持つと、個我が力強くなり、アストラル体・エーテル体に作用が及びます。これが健康の根本です。音楽や絵画が安らぎ・解放・均衡をもたらし、詩の朗唱は、そのリズムと内容によって心身を整えていきます。治療オイリュトミーというのもあります。病気によって、ごく単純な動きをいくつか行なうのですが、じつにエーテルの動きが実感できます。東洋医学ではエーテル体を整えて治療することが多いように思います。シュタイナー派の場合、身体の動きをとおしてエーテル体に作用することと、芸術によってアストラル体を澄んだものにしていくことが中心になっています。
 美しい絵を見ることも「癒し」をもたらします。シュタイナーは聖母像を眺めて、それが夢にも現われれば治療が行なわれると言っていました。またエジプトのイシスは、変わった考え方ですが、まだ病気がなかった時代の神なので、この神を思うと健康がもたらされるというのです。いつ病気が始まったかというと、シュタイナーの言い方ではルシファーという堕ちた天使が人間に作用して、人間を高慢にし、神から離れた主観的なあり方になったときからと言います。この存在は、退廃的な美の源泉でもあります。しかし、この存在がいなかったら、芸術は清く正しいものばかりで、つまらなくなっていたでしょう。ルシファーは、もっぱら人間の心(アストラル体)を明るい現実から引き離して、幻想のなかに誘い込みます。耽美的というのはルシファー的なわけです。
 それからシュタイナーは、病気は運命を改善する機会であるととらえています。病気は過去の業を洗い流して、運命を転換する機会であり、自分の運命を改善するのにふさわしい病気が、適切な時期にやってくるという考えをすると、病気に積極的に取り組む気持ちになる可能性があるのではないでしょうか。
 現代人は知的に傾いていて、心が美を呼吸することが少なくなっているので病んでいると言います。自然の美しさ、美しい芸術作品に触れること、そして創作であれ演奏であれ、芸術的行為が現代人を正常にしていくはずです。

 美は有形の天国を故郷とする、とシュタイナーは言います。そして、美はエーテル体において体験される魂の輝きで、アストラル体に作用すると言います。
 人間は五感のほかに、生命感覚・運動感覚・均衡感覚・熱感覚・言語感覚・思考感覚・個我感覚(他人の個我を知覚する感覚)を持っている、とシュタイナーは考えます。感覚を研ぎ澄ましていくと、物質的な対象を知覚する意識のほかに、超感覚的な世界を知覚する3つの意識段階が現われてくるとしています。色と形の世界、音の世界、言葉と光の世界を知覚する意識です。それらの世界から何かをつかんでくるのが芸術である、と彼は考えています。芸術家は直感や霊感でそれらの世界に触れるわけですから、創作に打ち込む精神の状態をとおして、芸術活動という形をとおして根源的な現実界に日々入っていっていることになります。昔は、何日も座禅したあと筆を取って一気に書を仕上げることはよくありましたし、瞑想状態をとおして鬼気せまる作品を生み出すエネルギーがあふれてくるところまでいくこともありました。狂気にいたってしまっては不幸ですから慎重にしなくてはなりませんが、精神探求は単に高次元の世界認識だけでなく、創造の泉に触れることであり、生命力の更新でもあります。
 シュタイナーは社会は3つの部分からできていると考えていました。政治と経済と文化です。国家というのは政治をするもので、経済は政治から独立して、生産者と流通・小売業者と消費者の3者が共同で検討して担当するという考えです。2者で協議すると、どちらかが不利益をこうむったり、第3者を犠牲にする可能性が生じるので、3者で検討することを勧めています。3者だと、自分の利益を優先するという発想ではなく、社会が正常に機能するために、たがいが何をすべきかという観点から経済を検討するようになるというのです。ちなみに、芸術作品の適正な価格は、芸術家が次の作品を仕上げるまでの生活費と諸経費をまかなえる額だ、とシュタイナーは考えています。
 彼が言う文化は、学問・芸術・宗教の3つからなります。文化が社会のなかで果たす役割を彼は非常に重視しており、社会は文化的な理想を持っていると発展するし、精神的な思潮を失うと衰退していくと言っています。シュタイナーが重視したゲーテは、学問と芸術を有する者は、すでに宗教を有している。学問と芸術を持たない者は、宗教を持たねばならない、と言っていました。芸術家なら、創造の源泉が物質を超えた次元にあることは、経験から自明のことでしょう。芸術家が、美のイデアを手に入れるべく魂の世界に旅をして、その美をたずさえて地上に帰還すると、作品が生まれる。ルシファー的な幻惑的な美ではない、自己と宇宙思考との静かな対話のなかから作品を生み出す芸術家が、現代社会で預言者の働きをするはずです。美と生命の源泉から生み出される芸術作品が、社会に未来の方向を示すことになるはずです。

Ryuhan N.

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シュタイナー教育

2005-11-25 11:17:42 | 教育
 汎智学を唱えたコメニウスは、「あらゆる人に、あらゆる事柄を、わずかな労力で、愉快に、着実に教える方法」を考案しようとしました。人間が生来、内に持っている能力を成熟させて、自分自身の理性で物事を正しく認識・利用できる人間を育てようと説きました。
 モンテッソーリは一九〇七年(「子どもの家」を作った年)、神智学協会の代表者アニー・ベサント(一八四七-一九三三)によって「未来の教育者」とされました。モンテッソーリは一九三九年から四六年まで、インドの神智学協会本部に滞在して、彼女の教育学の新たな体系化を行なっています。
 ルドルフ・シュタイナーは一九〇七年、『精神科学の観点からの子どもの教育』を発表しました。彼は人智学を創始した思想家です。シュタイナー教育は、特定の宗教団体とのつながりのない教育運動のなかでは、世界で最も大きな広がりを持っています。モンテッソーリが「科学的教育学」を開発したのに対し、彼は「教育技芸」を唱えました。
 ルソーは書物中心の教育を批判して、感覚体験を重視し、自由な存在として生まれた子どもに幸福な幼年期を過ごさせることを説きました。彼は理性重視の合理主義に対して、心情の意味を強調しました。感性的判断(幼少年期)から悟性的判断(少年期後期)、そして理性的判断(青年期)にいたるという三段階の発展を説き、自分自身で生きていける人間を育てようと考えました。
 ペスタロッチは模倣を教育手段として、子どもの自然な歩みに従う教授法を打ち立てようとしました。頭(知性)と心(心情・道徳)と手(技能)の調和的な発達を大事に考えて、子どもの持って生まれた本来の素質を延ばす教育の方法を探求し、中世の画一的つめこみ主義を改革しようとしました。
 ペスタロッチに学んだのがフレーベルです。フレーベルもモンテッソーリも知育のための玩具=教具を使いますが、これはシュタイナー教育では用いません。
 
 シュタイナーは、人間を〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四つからなるものととらえました。そして、これらの部分がおよそ七年ごとのリズムで開発されていく、と彼は考えました。
 七歳までは周囲を反映し、人々は善であると感じているときで、愛を感じられる家庭環境であることが重要です。七歳から十四歳までは、生きることの楽しみを感じ、すべては素晴らしいと感じるときで、教師を信頼できることが大切な時期です。十四歳から二十一歳までは、内的な自立に向かいます。知識を概念・理念の形で受け取り、ものごとを自分で判断できる人間になる時期です。七年ごとの節目以外にも、自分と外界を区別する九歳、因果関係を理解する十二歳、将来の方向を意識する十八歳が注目されます。
 シュタイナーの人間観で特徴的なのは、子どもはこの人生でやるべきことがあるから生まれてくる、という見方です。自分のテーマを持たずに生まれてくる人間はいない、という人生観です。親と教師は、子どもが持って生まれた能力・素質を尊重し、それを成就させようとします。子どもは自分の課題に適した親を選んで生まれてくる、という言い方をシュタイナーはしています(親による子どもの虐待という問題がありますが)。自分の魂を生かすのに相応しい身体を、遺伝を通して与えてくれる親を選ぶというのです。

 子どもは一〇歳ごろまでに、親の言動を模倣することをとおして、親の考え方・感じ方を吸収します。それが、その子の道徳を形作っていきます。シュタイナー学校では、あらゆる学科が道徳感覚を育成するので、別個に道徳の時間はありません。例えば理科の授業で、自然界の秩序・調和を学べば、それが道徳感覚を育てるはずです。例えば生物を、個々のものに切り離して教えるのではなく、生命を成り立たせている環境全体との関連において体験させれば、生徒たちは自然界の法則=道徳を実感します。数学にしても、その美しい秩序を学ぶことによって、道徳感覚が養われます。地理や歴史からは、人間の存在の条件を感じ取れます。
 学童期は、イメージ的・絵画的・音楽的な学習が大切な時期です。この頃、尊敬できる大人がいないと、自由な人間へと成長していけない、とシュタイナーは考えていました。また、思春期に個性が目覚めないと、依存的・反抗的になっていく、と考えていました。少年期における抽象的思考は、批判的・衝動的な行動を誘発します。
 シュタイナー学校では、教師は教科書に頼って授業をしません。自分が身に付けた知を、メモにもノートにも頼らずに、語ることができて初めて、生徒はその先生の話に耳を傾ける、と考えています。
 子どもが自分で判断できる年齢になるまで、大人が模範を示すことが大事です。幼いうちから子どもに自分で決定させると、無気力で不機嫌な人間になります。子どもの言いなりにしていると、子どもは自分の基準とするべき見本がなくて、自分を支配できないようになります。見本を示されていると、思春期になって、自分の考えで自制できるようになります。なじみの話、いつもの遊びなど、生活のなかに繰り返しがあると、意志の強い、落ち着いた子になります。
「しかる・ほめる」が、思春期に良心が目覚める準備になります。自分の良心から行動する人間が自由な人間だ、とシュタイナーは考えていました(良心が目覚めるのは十歳ごろからです)。大人が感情的に怒ると、子どもは大人の怒りに反応し、叱られている内容を洞察できません。いつも叱られて、びくびくし、不安になると、子どもは不器用になっていきます。叱り過ぎると、子どもは過敏になり、叱らないと、良心が欠如した人間になります。甘やかすと、断念を学べず、意志の弱い、無気力な人間になる可能性があります。厳しいしつけは、子どもを受動的にし、やがて外界に対する関心を失わせ、ついには暴力的な行動に走らせます。
 学童にとって、大人は確かな判断をするオーソリティーである必要があります。教師の適性は、学識ではなく、生徒に信頼される人格(親しみやすいと同時に、よい意味での権威者として見上げられる風格)です。大人が子どもと同じレベルに下りる必要はありません。子どもは本来、大人を見上げて、そこに向かって成長していこうとするものです。
 大人の意志が弱っていると、子どもは落ち着きがなくなります。大人が手で仕事をすることが少なく、機械に頼りすぎたり、大人に将来への不安や悲観があると、子どもは落ち着きをなくします。大人が世間を中傷することが多い場合も、子どもは落ち着かなくなります。落ち着きのない子を癒すのは、大人が発する敬虔な雰囲気です。そのためには、大人が内的な平安を育てる時間を確保しておく必要があります。
 大人自身が知的に硬化していない、自由で創造的な人間である必要があります。そのためには、自然体験・芸術体験によって、心に抑圧のない、開放的でくつろいだ人間になっている必要があります。シュタイナー学校の教員養成では、まずシュタイナーの人間観・精神科学、第二に芸術体験、そして教育方法の習得というふうに、教師になる人の芸術体験が重視されています。
 思春期には、内面とは逆の行動するという特徴があります。思春期の少年は、内面に閉じこもりがちです。自分を外に出さず、不良の真似をしてみることもあります。少女の個我は、大自然に結び付いている心の影響を受けます。自由で開放的な自分を示しますが、人に対して批判的になります。シュタイナーは、少々のことは、いちいち注意せず、大目に見ていました。少年には、ユーモアをもって接するのがいい、と考えていました。思春期に必要なのは、理想を持っていることです。少年には、英雄の性格を物語り、少女には偉人の美しい行為を絵画的に物語ります。思春期の少年少女は本来、人生は崇高な目的のためにあると思っているので、それを挫くようなことを大人が言ってはなりません。自然の雄大な美を体験することが、思春期の非行を防ぎます。思春期には、父母を人間として知ること、両親が子どもの話相手になることができます。
 
 特に日本で問題になるものに、テレビがあります。テレビは、ただ見ていれば、自分の努力なしに楽しめるものです。その結果、テレビを見ていると、思考が受動的・表面的になります。言葉が単純になり、集中力・創造性が低下します。意志が弱くなり、攻撃的になります。シュタイナー教育では、テレビを見ても害がないのは十六歳以降と考えています。十歳以後なら、害はいくぶん少なくなりますが、親が一緒に見て、番組の内容についてあとで話し合って消化する必要があります。
 子どもは、人類が通過してきたことを、自分の成長につれて順に体験していくものです。例えば、楽器はまず昔からあるもの(笛や弦楽器や打楽器)を手にし、近代の楽器(ピアノ)は、もう少し大きくなってからにします。現代の発明品であるコンピュータは、大人になってから-早くても青年になってから-習得するものです。コンピュータは仕事に使うものであって、ゲームに使うものではありません。遊びに使うと、没頭してしまって、受ける影響が多くなります。

 建築に譬えれば、小学校までが、基礎を固める時期です。小学校時代は柱を立てる時期、中学・高校時代は屋根を乗せる時期だといえます。インスタント食品で手早く料理することもできますが、味わい深いものは、本格的に、じっくりと時間をかける必要があります。基礎(体)や柱(心)がしっかりできていないうちに、急いで屋根(頭)を乗せようとすると、安定感に欠けた家になります。
 三歳ごろにしっかり歩けることが、しっかり話せる基盤になります。五歳ごろにしっかり話せると、しっかりと考えられる基盤ができていきます。早く歩かせようとしたり、大人が子どもに幼児語で話しかけたり、いろんなことを記憶させたりすると、のちに心身に問題が出ることがあります。幼年期の成長力が、やがて想像力に変化し、さらに知力に変化していきます。感覚的印象と想像力が脳を形成していきます。穏やかな感覚的印象と、想像力を刺激する素朴なおもちゃが大事になってきます。完成されたもの(本物そっくりにできている玩具)だと、想像力がせき止められるし、知育目的の抽象的な遊びは、子どもを生活から引き離していきます。遊びは、大人の仕事の真似をして、生活能力へとつながっていくものがいいのです。想像力がないと、他人に敷かれたレールの上を歩むことしかできなくなります。
 幼児は全身で周囲の印象に没頭しているので、環境が穏やかで安らかな印象を与えることが大切です。子どもは、きつい味付けのものを好むことがありますが、それが体によくないことは、だれでも知っています。同様に、けばけばしい色・形や騒々しい音は、子どもの心身を害していきます。まわりの大人の行為と思考が、落ち着きと愛情あるものであることも重要です。
 一日を静かに始め、元気に過ごしたあと、静かに終えることが大切なので、たとえば童話を語るときも、劇的にせず、淡々とした語りに終始します。幼稚園時代に知育すると、心身が虚弱になる可能性が出てきます。最も大事なのは、親が明確な考えをもって行動することです。真似をする手本を親が示さないと、子どもの意志は盲目のものになります。
 子どもは、親の手伝いをできることがうれしいのですから、「これをしてくれたら、ほうびをあげる」と言う必要はありません。親の手助けをできること自体がうれしかったのに、ほうび目当てに手伝うようになってしまいます。叱るときも、「罰を与える」と言うと、自分の行為の善悪を考えないまま、罰を恐れて行動を控えます。それだと、教育になりません。
 
 両親がそろっている家庭の場合、妻が夫をどう思っているか、夫が妻をどう思っているかが、そのまま子どもに伝わります。父親と母親の間に、教育方針のずれがあると、子どもは迷ってしまいます。父親の態度が、思春期の子どもに大きな意味を持ちます。会社員の場合、子どもは父親が働く姿を目にしていないので、休日に家庭労働をすると、子どもは父親の価値を認めます。また、母親が子どもに家庭で、父親のことをしばしば話題にすると、子どもと父親との結び付きを支援できます。
 子どもをしつけるには、まずその子を信頼することから始めます。すると、親の信頼に応えて、子どもが親を信頼します。親は夜、自分の子が今日どんなふうだったかを、ありのままに思い浮かべてみます。教師は、学校に行くまえに、自分の担任する生徒たち一人一人を思い浮かべます。そのようなことが、不思議なことに、子どもとの関係をよくしていくものです。
 幼年期・少年期に体験した暖かさ・楽しさは、たとえ意識の表面からは消え去っても、生きていこうとする力として、深みから作用しつづけます。

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年齢に応じた教育

2005-11-24 11:20:43 | 教育
 シュタイナー教育では、子どもの成長を「0歳~7歳」「7歳~14歳」「14歳~21歳」に分けて考えています。これはシュタイナーの人間観と密接に関連しています。
 シュタイナーは人間を、〈からだ・いのち・こころ・たましい〉の四部分からできているもの、と考えました。〈いのち〉は〈からだ〉を形成するもの、〈こころ〉は自分の思い、〈たましい〉は自分そのものです。誕生した日から約7年間をかけて、子どもの〈いのち〉は〈からだ〉の構築に従事します。親から遺伝された〈からだ〉を、自分の課題を果たすのにふさわしいものへと作り変えている時期です。
 どういうことかと言いますと、誕生以前から〈たましい〉は存在しており、自分が宿りたい〈からだ〉をイメージしている、とシュタイナー教育では考えています。子どもの〈たましい〉は、自分が成し遂げようと思うことを行なうのに適した〈からだ〉を得ようとするのですが、両親から提供された〈からだ〉は、自分がイメージしたものにぴったりのものとはいえないそうです。それで、〈いのち〉の形成力によって〈からだ〉を自分に適したものに作り変えるというのです。
 この作業の終了したしるしが、乳歯が抜けて、永久歯が生えてくるという現象です。もしも、この7年間に〈からだ〉の作り変えに専念せず、知的な方向に力を回すと、〈こころ〉と〈たましい〉は自分にぴったりしない〈からだ〉のなかで生きていかなくてはならず、〈こころ・たましい〉と〈からだ〉とのあいだに無意識的な違和感が響きつづけます。
 成長力はやがて想像力に変わり、さらに知力へと変化していきます。約7年間で〈からだ〉の基礎を構築した〈いのち〉は、記憶をたくわえ、イメージを形成するという活動を始めます。いままで心身の区別がはっきりしてなかったのが、7歳ごろ、〈こころ〉が独自の思考・感情・意志の力を発揮しはじめます。
 7歳から14歳まで呼吸系・循環系が発達します。呼吸と血液循環との調和が生まれると、子どもはリズム・音楽を欲します。生まれてから7歳までは感謝の気持ちが育成される時期、7歳から14歳は愛情が発達する時期になります。
 生まれてから7歳ごろまで、子どもは「世界は善いものだ。みんな善人だ。わたしは愛されている」と感じています。7歳から14歳までは、「世界は美しい。どれもこれも素晴らしい」と思っています。14歳を過ぎると、「世界は真実なものだ」と考えるようになります。本当にそのような社会を築いて行くことが、今日の私たちの急務です。
 生まれてから7歳まで、体の動きによって意志が形成されます。そして、7歳から14歳まで心・感情を育て、14歳から頭・思考を使うという、おおまかな見通しが立てられます。よく観察すると、もっと細かい区分が可能になってきます。3歳で歩行の一応の完成、5歳でかなりの言語能力、7歳で思考の基盤ができます。早くから歩かせようとすると、のちに身体の不調を引き起こします。大人が子ども言葉を使うと、しっかりした心身になりません。記憶させようとすると、神経がのびのびしません。9歳ごろ、子どもは自分と外界を区別します。12歳ごろ、原因と結果の関係を理解するようになります。

 生まれてから7歳までは、心と頭の土台になる体を築くことが最も大事です。幼児は全身で周囲の印象に没頭しています。自分と周囲との境界は、はっきりしません。ですから、環境からとても大きな影響を受けます。安らかな印象を与える環境づくりが第一です。周囲の音やものの色・形だけでなく、まわりの大人の行動も子どもに影響します。落ち着いた、愛情のある言動を大人たちがしていることが大事です。いらいらしていると、子どもはその様子を真似して、同じような気分になっていきます。大人が美的なことを楽しんで、心をのびのびさせていることが大事です。
 生後9カ月ぐらいまで、母乳で育てるのが理想です。ただ、最近は食料などの問題で母乳も汚染されているので、注意してください。9カ月以上、母乳を与えつづけると、子どもは母親からの遺伝を受け取りすぎて、個人として自立する度合いが弱まることがあります。
 蛋白質は、良質の穀物・実から摂取するのが最適です。幼児が肉・卵・ジャガ芋から蛋白質を過剰に摂取すると、健全な栄養本能が損なわれ、適切なものを適量欲することができなくなります。脂肪は、葉菜に含まれているものを中心に摂るのが好ましいはずです。カルシウム・マグネシウム・鉄分の不足にも気を付けましょう。
 問題は砂糖です。精製された砂糖に慣れると、それは嗜癖品になり、子どもの独立した個我の発展を弱めます。糖分は炭水化物から取るのが最良です。糖分そのものは、適量摂取していると個性がはっきりした人になり、不足するとあまり個性を発揮できなくなるので、大切なものです。
 味付けにも注意しましょう。甘いにしろ辛いにしろ、どぎつい味は禁物です。また、熱すぎるもの、冷たすぎるもの(冷蔵庫から出したてのもの)を、子どもが口にすべきではありません。刺激物の摂取過剰、騒音、強い視覚印象は、子どもを病気にします。
 1歳・2歳から、同じ言葉を何度も繰り返すことによって、記憶ができていきます。そして、毎日おなじ時刻に同じことが行なわれるよう、求めます。同じ話を繰り返し聞きたい、と思います。3歳ごろ、イメージを記憶するようになります。また、手足の活発な動きから、2歳・3歳で想像が豊かになっていきます。
 先に述べたように、3歳で歩行が完成し、5歳で言語の基礎が出来上がり、7歳で思考の基盤が現われるのですが、この3つの能力の萌芽は、すでに3歳までに現われてきます。1歳で歩きはじめ、2歳で話すようになり、3歳で思考の目覚めが現われます。

 3歳ごろ、言葉の習得が進み、正しい構造の文を語るようになります。それとともに、思考が目覚めてきます。記憶がはっきりしてきて、それと同時に、自分を意識するようになります。個我の最初の目覚めが生じるのです。こうして、第一反抗期が始まります。目覚めゆく思考のなかで個我が出現し、その結果、反抗が現われるわけです。
 ちなみに、幼児にテレビを見せるべきではありません。テレビを見るのは、可能なら16歳からにします。無理なら、10歳を過ぎてから、親と一緒に見ます。テレビに親しんでいると、自分が努力しないでも楽しませてくれるものに慣れます。また単純な言語に慣れて、難解なものに取り組めません。一定時間以上、受動的にテレビを見ると、暴れたくなります。
 幼児期・児童期・青年期全体にわたって、生活に安定したリズムがあることが重要です。特に小さいときほど、同じ日程の繰り返しが安心感を与え、意志を強くします。
 幼児期全般にわたって、子どもは親を模倣して育つものですから、真似をする見本なしに、自分で決定するように言われると、意志の方向を定めようがなくなります。子どもを甘やかしすぎる、たとえば、子どもが「いや」と言えば、なんでもやらせずにすませていると、子どもは自制する力を持てません。放任主義にした場合、子どもは無気力になりがちです。逆に、しつけを厳しくすると、子どもは受け身になって、自分からものごとに関心を示さなくなります。叱ってばかりだと、その怒りに反応して萎縮し、不器用になることがあります。感情的になるのではなく、威厳をもって落ち着いて諭すのが教育的でしょう。また、たいしたことでもないのに、おおげさにほめるのも考えものです。手伝ってくれたときは、「ありがとう」で十分。ほうびは不要です。
 3歳半ばごろから、童話を聞くことができます。童話というのは、これから人生を歩んでいくために、故郷から与えられた伴侶のようなものだ、とシュタイナーは言っています。きれいな心の主人公に幸いがもたらされるというイメージが、子どもの生涯を力づけます。子どもが小さいうちは、ストーリーに葛藤の少ないもののほうがいいでしょう。もうすこし大きくなったら、主人公が古い世界の加護から離れ、自分で先へと進むことによって、調和的な結び付きにいたる過程を物語るメルヘンを取り上げるとよいと思います。一つの童話を4週間、あるいは1カ月つづけて語るのがいいと思います。3週間ごとに変えるのでもいいでしょう。たくさんの童話ではなく、厳選した十数話ぐらいを繰り返すほうが、メルヘンに含まれた力が子どもに浸透していくと思います。

 頭部の形成に従事していた〈いのち〉は、3歳ごろ自由になり、胸部に作用していた〈いのち〉は、5歳ごろ、記憶力として活動するようになります。
 3歳になると、歩行が安定してきます。もう、滅多に転びません。もしも、頻繁に転ぶとしたら、いわゆる頭でっかちになっているかもしれません。それとは別に、身体的に頭が、全身に比して大きいか小さいか、という問題もあります。これは、頭の小さい子どもは大人ぽい知的タイプ、頭の大きい子は子どもらしいファンタジー・タイプということです。2つのタイプなのですから、どちらが好ましいということではありませんし、違うタイプに変えることはできません。
 3歳までと同様、生活環境が大事です。幼児は周囲の大人、特に親の仕草・口ぶりを自然に模倣し、吸収しています。大人の言動の元には、その言動を引き起こした考え・思いがあります。子どもは大人の行為を模倣することによって、大人の思考・感情を自分の内に取り入れます。大人は普段から、自分の考え・思いを濁りのないものにしている必要があります。そのような思考・感情から自然に発する言動を、子どもは見聞きし、模倣をとおして吸収します。親の行為・言動を模倣することをとおして、子どもは親の考え・思い、つまり、親の道徳性を吸収するわけです。これが、その子の道徳性を形成していきます。学校に入ってから教わる道徳は、ただ頭に知識として入るだけで、心の力とはなりません。親の行為の模倣をとおして受け取ったものが、内的な道徳を作り上げます。頭による理解よりも、よいことは好き、悪いことは嫌いという心の反応のほうが身につきます。よいことを喜び、悪いことを悲しむようにして、道徳感を発達させます。善人・悪人の登場する童話を、原作どおりに物語って聞かせることによっても、道徳観が根付きます。語るときには、勧善懲悪的な抑揚はつけません。

 7歳ごろ、〈いのち〉は〈からだ〉を形成する仕事を終え、その一部が思考活動のために用いられるようになります。一挙に切り替わるのではありません。低学年のあいだは、幼児期の余韻が響いており、まだファンタジーに浸っているのが適しています。このころに知的な勉強をさせられると、創造的な力が奪われます。
 歯が生え変わると、先生を尊敬したいという気持ちが湧き起こります。権威者から学び、成長したいと願うようになります。7歳から14歳のあいだに権威者を見上げることを学ばなかった子どもは、成人してから自由な人間になれない、とシュタイナーは考えています。教師が生徒に仰がれるかどうかは、教師の精神性が深いかどうかによります。子どもを深く見る目を持った教師の精神は豊かになります。そして、子どもの本質を深く見る教師は、子どもを敬う気持ちを持ちます。もしも、教師が美術的・音楽的なものへの喜びに浸されておらず、知的な授業をすると、生徒はその教師を利己的だと思い、尊敬しなくなります。
 シュタイナー学校に入ると、図形・紋様を描く授業があります。これが思考の練習になります。そして文字を、抽象的な記号ではなく、象形文字のように、絵から派生させるしかたで教えていきます。
 小学生は、おもしろいもの、興味あるものを、労苦なしに覚えていきます。それまでは、大人の行為を真似して、いろんなことを身につけていたのが、言葉をとおしてものごとを習得するようになっていきます。この時期の勉強に関して大事なのは、どの授業も美術的・音楽的な要素に貫かれていることです。算数も理科も社会も、美的・リズム的な要素に浸透された教え方をすると、子どもに伝わっていきます。小学生、特に7歳から9歳までは、美術的・音楽的なものへの要求を強く持っています。
 脳を知的に活動させると疲労し、芸術的・創造的な活動は子どもを元気にします。今日、知識偏重と協調性強要によって、子どもたちの脳は慢性疲労状態にあり、それが不登校や切れる原因になっているといいます。家庭では、さらに勉強を課すより、子どもが美的な楽しみに時を過ごせるようにしたいものです。
 7歳を過ぎると、子どもは外界を感情によって受け入れようとします。まだ、知的に受け入れるのではありません。ですから、9歳以前の子どもには、ものごとを科学的に説明しません。

 3歳で目覚めた個我は、9歳で一つの発展段階を迎えます。子どものなかに個我が入り、幼年期の夢のような世界は消えていきます。他人を個人として感じるようになり、自分と他人とをはっきり識別します。また、人間と人間以外のものとを、はっきり区別するようになります。いままで気づかなかったものごとに気がつくようになり、親や教師を批判的に見るようになります。9歳までは先生を無条件に敬っていたのが、9歳をすぎると疑問を抱くようになります。これまでは世界をメルヘン的にとらえていたのが、知的・科学的に把握しようとします。自意識が発達し、世界を外から観察しはじめます。
 このころ、子どもは外界としっくりいっておらず、内面に不安を持っています。子どもは孤独を感じます。かまいすぎると、子どもはますます内に閉じこもります。自分の内にこもるのですが、人に理解してほしいと望んでいます。9歳・10歳のときに必要なのは、人間性への信頼を失わないことです。大人が内的に成長しようという気持ちで生きていると、子どもも自らを肯定できるといいます。
 このころ、子どもはさまざまな問いを発します。どこから自分は来たのかと子どもが問うとき、〈からだ〉の由来ではなく、〈たましい〉の由来を答えてほしいと思っています。子どもが自分を周囲の世界と区別した時点で、子どもを周囲の世界のなかに導くことが教育の課題になります。
 シュタイナー学校では、9歳になると生物(動物・植物)の勉強を始めます。文法の勉強も始めます。文法の学習は、自意識の健全な発展に寄与します。音楽に関して、9歳までの子どもは、五音音階(レミソラシ)の曲にふれているのがよく、9歳・10歳から長調・短調の体験を取り入れます。

 9歳まで、子どもはまだ天上的な故郷とのつながりを持っていました。思春期を経て、地上との結び付きが深まるにつれて、天上的な故郷は遠ざかっていきます。
 12歳になると、ものごとの因果関係を理解したい、と思うようになります。知的・思考的な勉強に向いてきます。シュタイナー学校では、5年生で歴史・地理、6年生で鉱物学・物理学、中学1年で化学に取り組みはじめます。
 身の回りのことができないのに、偉そうなことをしゃべる人は滑稽です。小学1年生から編みもの、4年生から縫いものを教え、6年生で運動靴を作れるようにすると、本当に賢い人間になれます。
 青年期には理想を持っていることが、なによりも大切です。大人が社会に対して悲観的だったり、不安を抱いていると、子どもは安定して育つことが難しくなります。大人があまりに批判的な態度だと、子どもは落ち着きを失います。大人が内的な時間を大事にして、敬虔な気分を育成し、人生を肯定していると、子どもは「生きよう」と思えます。

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四つの気質

2005-11-22 11:22:32 | 教育
 古代ギリシア以来、人間には四つの気質があるとされてきました。
 赤を好む、割り算的な気性が、火のような胆汁質です。意志が強く、決断が早く、目的がはっきりしています。怒りやすく、危険を好みます。背は低く、肩幅が広く、首は短く、目鼻立ちがはっきりしています。地面にめりこむような歩き方をします。時間に正確で、食べ物に好き嫌いはありません。
 黄色が好きな、掛け算的な性格は、風のような多血質です。気が変わりやすく、興味がつぎつぎに移っていきます。跳びはねるような歩き方です。ものの見方は肯定的・楽観的です。スタイルがよくて表情豊か、身のこなしは軽やかです。しかし、浅はかで、だらしなく、優柔不断なところがあります。
 緑色を好む、足し算的な性格は、水のような粘液質です。太っていて無表情、だらだら歩きます。一人でいるのが好きです。整頓が好きで、人から言われたことは正確に行ないます。友だちを作りにくいのですが、できた友だちには忠実です。のんびりしていて、激することがありません。几帳面で、持続力があります。食べすぎ・寝すぎ・厚着の傾向があります。
 藍・紫を好む、引き算的な性質が、土のような憂鬱質です。痩せていて、猫背になりがちです。足を引きずるように歩きます。寝付きが悪く、朝は不機嫌です。大人のように振る舞い、悲観的で敏感で、自己中心的です。自分を閉ざしているのですが、好きな人にはすなおです。不幸な人を見ると安心して、同情します。

 胆汁質の子どもは、大きな関心を示していてもらわないと不満です。その子の能力を少し越えた課題を与えるのが有効です。尊敬できる権威者がいると、自制できます。多血質の子どもには、生活に静かなリズムが必要です。一つの遊びに変化をつけながら、その遊びを続けるようにします。
 粘液質の子どもには、早朝の手伝いをさせるとよいでしょう。その子自身には、無関心なふうにしているのがよいのですが、その子がものごとに興味を持つようにさせる工夫が必要です。いっしょに散歩しているときに、「見てごらん、きれいな花が咲いているよ」と注意を促すのではなく、「ああ、きれいな花だなあ」と大人が気づいていればいいのです。一緒に遊ぶときに、すこしテンポを早めていきます。
 憂鬱質の子は、心身の暖かさを必要としています。大人は人生の苦悩を背負う人間として、みずからの苦しみへの対処を、その子に語るようにします。お話も、悲話を選びます。
 同気質で向かい合うという方法があります。胆汁質の子どもと競争して、大人が胆汁質的にがんばって、勝つようにします。多血質の子どもと一緒にいて、大人がその子以上に真面目に多血質的に振る舞ってみます。粘液質の子どもに対して、こちらがその子以上にゆっくりとしてみます。憂鬱質の子どもを、娯楽で楽しませようとすると、失敗します。
 食べものによる対処法もあります。胆汁質の子どもには、穀物・生野菜のほか、甘いものを与えるとよいはずです。多血質の子どもには、砂糖や肉を控えめにします。乳製品がお薦めです。粘液質の子どもには、雑穀・葉菜を与え、おかずは塩味にします。卵は控えめにします。憂鬱質の子どもには、蜂蜜や、花のハーブティー、果物、サラダ、そして甘いお菓子を与えるようにします。考え込む癖があるのですから、思考を促す根菜は控えめにします。キャベツも控えめです。
 老婆心ながら、気質に関係なく、一歳未満の子どもにはジャガ芋は与えません(妊娠期間中の大人もジャガ芋は摂りません。また、父親が飲酒していたら子どもは神経に問題が生じ、母親が飲酒すると子どもの内臓に影響が出ます)。子どもが口にするタンパク質・脂肪・糖分は、良質のものである必要があります。良質の食糧を摂っていると、必要な栄養素を本能的に欲し、味覚によって適量を判断できるようになります。砂糖は、天然のものだと適量で満足するのですが、人工的に精製したものは癖になって、度を越して欲しがるようになります。

 どの気質も本来よいものなのですが、極端になると、弊害が出てきます。
 親や教師の気質が、子どもに影響します。その影響は、その子が成長して中年になるころに、身体に現われます。大人は、自分の気質をよく認識して、適度なものにするように気遣う必要があります。
 親・教師が胆汁質すぎる場合、子どもは血液循環に障害をきたすことがあり、リューマチになったり、消化器に症状が現われることがあります。大人が多血質すぎる場合、子どもは活力がなくなることがあります。方向が定まらず、意志・忍耐力の弱い人間になる可能性があります。大人が粘液質すぎる場合、子どもは精神的な呼吸困難に陥り、神経質になりがちです。愚鈍になることもあります。大人が憂鬱質すぎる場合、子どもは感情が抑圧され、呼吸器や心臓を病むことがあります。
 胆汁質の大人は、子どもを驚かせるような言動をしてしまうので、子どもは不安を感じ、虐げられていると感じます。多血質の大人は子どもから深い印象を受けず、子どもは生命の喜びを抑えられます。シュタイナーは、唯物論は人間への興味を失わせるので、唯物論の影響を受けた大人は子どもに無関心、すなわち粘液質になる、と言います。憂鬱質の大人は自分自身に関わっており、子どもとの関係を築こうとしないので、子どもの心が冷えます。
 大人は自分の気質を、みずからの努力によって改善することができます。たとえば多血質の人は、関心をつぎつぎと変えるのがふさわしい状況を作り出して、そこで多血質を使い果たすのです。胆汁質の人は、怒っても何もならない状況に身を置くようにします。憂鬱質の人は、自分の苦悩ではなく、世間の苦悩に関与してみます。粘液質の人は、本当に退屈なことをしてみます。粘液質の人は、適度のダイエットによっても、心魂の発達が促されます。
 人間は大体、子どものころは多血質、青年期は胆汁質、中年は憂鬱質、晩年は粘液質的になります。
 シュタイナーの精神科学=人智学によると、自我が強く出ている人は胆汁質、さまざまな心の思いが主になっている人は多血質、ゆるやかな生命の波のなかに生きている人は粘液質です。憂鬱質の人は頭脳を基盤として生きており、身体から解放されていないと感じています。
 十歳以下の子どもの場合は、大人と異なっています。胆汁質の火のような力が、子どもの場合は、心をとおして現われます。多血質の子の軽快さは、生命領域において示されます。身体が優勢になっている場合、粘液質の子どもになります。憂鬱質の子どもの場合、自我が勝っています。

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四季の行事

2005-11-21 11:23:37 | 教育
 生活のなかにテレビが入り込んで以来、一般に思考力・生命力が衰えてきていますが、生命力を取り戻すのに季節の体験は大きな効力を発します。毎年おなじ行事を繰り返していると、安定した郷土感が生まれ、安心して暮らせるようになります。大人は知的な学びをしますが、子どもは行事・儀式から吸収するものが多くあります。
 2006年1月から8月にかけて各国で行なわれた教育・医学会議で、「ヨーロッパ中心主義のヴァルドルフ教育運動に非難がなされている。ヴァルドルフ教育における一般的・人間的なものを強め、東洋文化に敬意を払わなくてはいけない。ヴァルドルフ教育の本質的な課題は、民族文化に結び付くことだ。西洋的な教育内容によって、小学生を自らの根から引き離してはいけない」という「意識の植民地主義からの脱却」が確認されたそうです(『ダス・ゲーテアヌム』2006年41号)。「シュタイナー教育を日本に根付かせる」と言うとき、舶来品種を日本の土壌で育つように手を加えること以上に、日本文化の中に息づいてきた人智を現代的に開花させることが肝要だ、と僕は考えています。シュタイナー教育と見られているもののうち、どれが普遍的・本質的な部分で、どれがゲルマン社会の風習か、見極める必要があると思います。もしも、シュタイナーが日本に数年滞在して、日本の人々に精神科学を語っていたら、西洋とは異なった表現を用いたことでしょう。私たちが日本を選んで生まれてきたのは、日本の麗しい感性をとおして、人智学を洗練していくためではないでしょうか。究極のところに目を向けてきた東洋を通過して、人智学は深化するはずです。
 
 シュタイナーが季節について何度も語ったのは1923年のことです。地球は心的・星気的な呼吸をしており、息を吐き出しているのが春夏、息を吸い込んでいるのが秋冬。地球は春夏に眠り、秋冬に目覚める、と彼は言います。
 ペルシア起源のミトラス教の祭日、古代ローマにおける太陽の誕生日(冬至)がクリスマスになりました。原始キリスト教ではイエスの誕生日として、1月1日、1月6日、3月27日などが候補にあがっていたのですが、4世紀に西方教会(カトリック)で12月25日と決定されました。これに対して、東方正教会と後のプロテスタントは異なった見解を有してきました。シュタイナーによると、大昔には人間の生殖は季節に関連していて、全員12月25日に生まれていたそうです。12月25日は「ルカによる福音書」のイエス(ナタンの子孫)の誕生日で、「マタイによる福音書」でソロモンの子孫イエスのところに東方の三博士がやってきたのは1年ちかく前、同年1月6日とのことです。クリスマス・ツリーは、古代ゲルマン文化圏で冬至~新年に常緑樹を飾る習慣があったのが、近世になってキリスト教に取り入れられたものです。薔薇や林檎を33飾るのもきれいですが、シュタイナーは古代・中世でいう七惑星の印と、五芒星・エジプト十字・タロット印・三角・四角、そして左右にアルファとオメガを付けるように、と話しています。僕がよく体験したのは、樅のリースに4本のローソクを付けて、待降節のあいだ、日曜ごとにローソクに火を灯したり、青い紙で五角形十二面体を作り(上の面は抜いて)、中にローソクを灯し、話をして過ごすことで、どちらもよい雰囲気をかもしだします。聖夜は世間の喧噪から離れて、自分の心のなかに神が誕生するのを体験するような気持ちで過ごしたいものです。しずかに音楽に耳を傾けるのもいいですね。子どもたちが蜜蝋ローソクを付けた林檎を手に持ち、樅の枝で作った渦巻き形の道を通って、中央のローソクから火をもらってくるのは、日本のシュタイナー幼稚園などでもよく行なわれていて、古代の奥深い森での秘儀のような印象を受けます。
 復活祭はユダヤ教の過越祭のときですが、ギリシアのアドニス神や小アジアのアッティス神の死と復活が春分のころに祝われたのを受け継いでいます。「イースター」という英語は、北欧の春の女神の名に由来します。クリスマスという誕生の祝いが子どもにはよく理解できるのに対して、死と復活というテーマは子どもには難しいものです。ですから、大自然の春の生命を喜ぶという感じがよいと言います。西洋ふうにやるなら、親子で卵の殻に絵を描くのが楽しいのではないでしょうか。
 ヨハネ祭は夏至のころです。古代ヨーロッパでは、夏至の前夜に火を焚いて、太陽に力を与えました。これは、いまでもシュタイナー学校でやったりします。この夜には川や泉が治癒力を発揮する、と言います。ミカエル祭は収穫祭のころです。素朴な農夫の祭りでした。
 イスラムやユダヤ教では1日は日没とともに始まると考えており、シュタイナーはこれを支持しています。旧約聖書では天地創造の神々エロヒムが7日目に休息したので、週の7日目を安息日にしますが、これは金曜の日没から土曜の日没までです。シュタイナーは、土曜から一週が始まると考えていました。

 1月は7日に「白馬見にとて、里人は車きよげにしたてて見に行く」のが大事な行事です。「三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいま咲きはじむる」「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。・・・・九月九日の菊を、あやしき生絹のきぬにつつみてまゐらせたるを、おなじ柱に結ひつけて月頃ある薬玉にときかへてぞ棄つめる」「七月七日は、くもりくらして、夕方は晴れたる空に、月いとあかく、星の数も見えたる。九月九日は、あかつきがたより、雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたく濡れ・・・・」。大晦日は「亡き人の来る夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほすることありしこそ、あはれなりしか」、元旦は「大路のさま、松立てわたして、はなやかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」。
 民話『うぐいすの里』の正月の座敷では床の間に松竹梅を飾り、鏡餅・海老・昆布・橙が置いてあります。子どもたちは赤い着物を着て、甘酒を飲んでいます。2月の座敷は初午で、稲荷の鳥居が並んでいます。3月の座敷では雛祭りです。4月の座敷は花祭り。5月の座敷は端午の節句で、鯉のぼりがたなびき、武者人形が飾ってあります。6月の座敷では、歯固めの氷餅を作っています。7月の座敷は七夕。8月の座敷は月見で、団子・牡丹・薄を飾り、里芋を食べています。9月の座敷は十三夜で、栗や青豆が用意されています。10月の座敷は秋の景色。11月の座敷は恵比須講で、鮭が振る舞われています。12月の座敷は正月の支度です。

 東洋の天文学では、黄道を28に区分して「二十八宿」を設けました。そして、黄経を24等分して、15度ずつの節目を設けたのが「二十四節気」です。1年を72に分けて季節の変化を示したのが「七十二候」です。七十二候それぞれの名称はとてもきれいです。
〈立春〉のあと、雪が雨に変わる〈雨水〉、虫が活動しはじめる〈啓蟄〉。〈春分〉は彼岸の中日で、春分の前後7日のあいだに墓参に行くのですが、春分の日は「自然を讃え、生物を慈しむ日」とされています。それから、気持ちのよい〈清明〉、雨が穀物をうるおす〈穀雨〉。
〈立夏〉のあと、草木が茂る〈小満〉、芒のある穀物の種をまく〈芒種〉。黄経80度の日が入梅です(梅の実が熟し、黴が生えるころなので、梅雨・黴雨と言います。旧暦で言えば五月雨で、梅雨の晴れ間が五月晴)。そして〈夏至〉、梅雨明けが近い〈小暑〉、〈大暑〉と続きます。立秋前の18日間が夏の土用=暑中です。
〈立秋〉のあと、陰暦の七夕の翌日〈処暑〉に暑さが止み、台風襲来の二百十日があって、野草に露がやどる〈白露〉から秋気が加わります。〈秋分〉の前後7日間は秋彼岸で、秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ日」とされています。それから、肌寒くなる〈寒露〉、露が霜に変わる〈霜降〉です。
〈立冬〉のあと、冷え込む〈小雪〉〈大雪〉〈冬至〉。冬至には南瓜を食べたり、小豆粥を食べたり、柚子湯に入って、疫鬼を祓います。先に述べたとおり、冬至のころの夜、神の子(大子)が各地を巡って、人々に幸いと新たな命を与えると言います。ついで、寒さ厳しい〈小寒〉が寒の入り、そして〈大寒〉です。

 旧暦1月7日は七草。春の七草をいただき、七草粥の汁に手をつけて、爪を切ります。ちょっと改まった気持ちで、実行可能でしょう(勉強に身の入らない子は爪を切ってみよう、とシュタイナーは言っています)。
 旧暦3月3日は桃の節句で、終日、山遊び・磯遊びをし、流し雛で厄を祓います。近くの山・水辺に弁当もちで遠足はいかがですか。
 旧暦5月5日の端午の節句は、高温多湿の時期なので、菖蒲・蓬を軒に吊るして、邪気を祓います。宮中では競馬をします。「菖蒲」が「尚武」に通じるので武者人形を飾りますが、それよりも、菖蒲・蓬を飾ってみればどうでしょうか。
 旧暦7月7日は七夕で、節句のなかで唯一、夜の祭りです。文運を司る魁(北斗七星の第1星)の誕生日です。鵲の橋を渡って織姫と彦星が会う日です。7本の針に糸を通したり、五色の短冊に和歌を書いて竹の葉に飾ります。私たちも和歌を作って、短冊に毛筆で書いてみましょう。そして夜、親子で星空を見上げて、星の物語をしてあげればいかがでしょう。
 旧暦9月9日は菊の節句です。陽(奇数)の極み=9が重なるので、重陽と言います。菊は霊薬です。旧暦5月5日に付けた薬玉に代えて、菊と茱萸を柱に付け、邪気を祓います。私たちも、取り替えを真面目な気持ちでやってみればどうでしょう。中国では茱萸を髪に差し、菊酒を飲みながら、紅葉をめでました。前夜に菊に綿をかぶせ、9日の朝、その綿で体を拭くと、老いが去るそうです。
 旧暦11月15日の七五三や旧暦3月13日の十三参り(知恵詣)は、季節の祭というより通過儀礼で、冠婚葬祭中の冠に当たります(ちなみに祭は先祖供養)。七五三は、遠くの有名神社ではなく、産土に行きます。老婆親切ながら、住所・氏名・生年月日を言い忘れないように。歩行完成の3歳、言語確立の5歳を経て、7歳になると人間の生命実質が身体形成の仕事から解放されて、記憶や習慣の担い手としての働きを始めます。身体も7歳で、遺伝されたものから、自ら作り替えたものへと移り行きます。

 春は命の「張る」季節です。新暦2月11日の建国記念日は、BC660年の神武天皇即位の日とされています。日本を作った大国主=国魂神は天照の孫に国を譲り、『日本書紀』によると、それから179万2470年あまり経って、45歳の神武の軍隊が九州を出発しました。そして、悪戦苦闘の末、大和民族に受け入れられ、旧暦の1月1日に橿原宮で即位したとのことです。大国主が日本先住の「国つ神」の代表で、神武は渡来の「天つ神」の血を引いています。旧暦2月15日は涅槃会です(シュタイナーの説では、釈迦の死はBC483年10月13日。アジア諸国で用いられている仏滅紀元の暦は、BC543年が元年です)。神道では、春の花が飛び散るときに疫病神が分散するというので、旧暦3月末は鎮花祭です。
 旧暦4月1日は、江戸時代以来の衣がえです(平安貴族は年7回衣がえをしていました)。旧暦4月8日は灌仏会=花祭です(アジア諸国では4~5月の満月の日)。生まれたばかりの釈迦が7歩あるき、天と地を指さして、「天地のなかで個我が最も尊い」と言いました。9匹の竜神がよい香りの水をこの赤ん坊に注いだので、この姿の仏像に甘茶を灌ぎます。旧暦7月13~15日は孟蘭盆です。精霊棚を作り、先祖を供養します。目蓮が餓鬼道に落ちた母を救うため、7月15日に布施をしたことに由来します。夏は地上が幽界化し、心霊世界に通じやすくなる時期です。天使は人間の魂の向上を応援し、先祖や産土は生活の安泰をもたらします。仏壇があるお宅は、いつも以上に丁寧に勤行をなさるといいですね。先祖には頼みごとをするのではなく、先祖の安寧を祈り、感謝しましょう。
 秋は「飽きる」ほど収穫があり、空が「明らか」です。旧暦8月15日は仲秋の名月、十五夜の芋名月です。いまでは月見団子と薄ですが、本来は神の依代となるものに里芋を供えました。これも、やってみればどうでしょうか。中国では太陰星君・月光馬児を祭って月餅を食べ、子どもは兎児爺で遊びます。日本の月待では、月読尊か勢至菩薩を祭ります。僕らが知っているのは、自らを供犠に捧げた兎(前生の仏陀)が月に昇ったという話ですね。「片月見はするものではない」ので、芋名月に続いて、旧暦9月13日は十三夜(豆名月・栗名月)です。親子で月をめでると楽しいです。この夜の天気によって、来年が豊作かどうか占います。
 冬は魂が「増ゆ」ときです。旧暦10月1日は衣替え。新暦11月23日は勤労感謝の日、新嘗祭の日です。旧暦では、12月13日から正月の準備を始めます。大晦日には、関東の人は鮭、関西の人は鰤を召し上がられたでしょうか。中国文化圏では、正月は先祖の霊と交流する日です。日本でも、門松・注連繩で神祭の場を作ります。旧暦で大晦日と三が日を神聖な気分で過ごすのもいいものです。春分の前日が節分。炒り豆をまき、柊に鰯の頭をさして玄関に掲げます。「鬼」を外に追い出すかべきどうか、複数の見解がありますが、晴れやかな気分で立春を迎えたいものです。

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