島原城にやってきました。
早速城内に足を運びます。
「島原城由来」として、次のような解説が掲げられていました。
「奈良から入封した松倉重政が五層の天守閣を据える城を築きました。外郭を4キロの練塀で囲んだ、四万石の大名には過分な城です。
有馬氏時代から積み上げた海外貿易の利益と、松倉氏の意気込みが感じられます。
島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792年の地震と大津波にも耐えてきました。
明治維新で解体されましたが、1964年には天守閣が復元されました。」
城内の一隅に「古野梅苑」の石標が見えます。
城内には300本弱の紅梅、白梅が植栽されていました。
紅梅は1月下旬~2月上旬とされますが、今年は開花が遅いようです。
あちらこちらで、3分咲き程の紅梅が城内を飾っていました。
本丸から見下ろすと、周囲の階段状となった場所にも梅園を認めました。
古野梅苑の中に小さな祠があるのに気づきました。
その横に
「松倉豊後守重政公は徳川家康公に仕え、関ヶ原、大阪の陣にも軍忠を尽くしました。
7年の歳月を費やして島原城を築き、以来250年間政治の中心として栄えました。
この祠は重政公と築城工事中に死亡した人々を祀っております」
とあります。
これだけの城を築いた大名を祀る祠としては、極めて質素なものと言えます。
城内には普賢岳噴火活動の歴史を解説した観光復興記館があり、島原半島世界ジオパークの案内を見かけました。
これを見ても、島原半島が火山灰の堆積した、地味の貧しい土地であることは一目瞭然です。
地の利である周囲の海路を介した、海外との経済活動を絶たれた江戸時代に、住民がどれだけ苦労したかは容易に想像することができます。
城内に、「坂本龍馬が長崎へ最初に上陸した地は島原だった」との解説を見かけました。
だから何なの?と突っ込みたくなりますが、人気者の話題で、少しでも島原観光を盛り上げたいと、一生懸命に努力している市民の心意気を感じます。
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