without a trace

ヤマザキ、フリーターを撃て!

ドッペルゲンガー

2005-11-30 03:10:01 | 映画
 映画「ドッペルゲンガー」

 監督、脚本:黒沢清。役所広司、永作博美、ユースケ・サンタマリア

 ドッペルゲンガーとは自分の分身のこと。それを見ると数日以内に死ぬという。役所広司が科学者で体を動かせない人たちのための機械を研究してる。彼の元に突如としてドッペルゲンガーが現れる。分身は自分と全く逆の性格で興味は女と金だ。役所は彼を利用して研究を続けるようになる。分身は暴走して嬉しそうに研究所を壊しちまう。これは「アカルイミライ」での理由なんてないけど会社を壊す自己の内と外が区別ない若者たちみたいだ。誰もが自分自身の中に持つ二面性が同時に出てしまってる。どう収集をつけるのかと思ったらどうでもいいじゃねえかって何だそれ。黒沢清の映画って不思議で後からすごいなと気づくんだ。というわけで後から後から気づいていくかもしれない。

 役所広司が二人いるのを見てると「ガイアの夜明け」っぽいが、ヴェンダース調ではない。話が進むうちにスラップスティックなコメディーとホラーを混ぜたような展開になっていく。ちょっと前に見た「ゼブラーマン」の屋根落ちと同様にここで分身を見たってのが重要なキーとなってる。二人いる男のどちらが本物か、登場人物がおかしくなっていくんでこの映画自体が死んでる中で描かれてるのかわからなくなってくる。そのまんま「ファイトクラブ」だ。自己が分裂してる事に気づかないタイプと分裂した自己との間に物語が進むってのは比較すると面白いかも。握手してるシーンが何度かあるがセックスシーンは直接的にはない。これは接触の度合いなんだ。セックスってのは一体化なんで同質化してしまう。画面を分割したりして距離感にこだわってるんだ。特典映像でなんたら言ってたけどよくわからなかった。特典にある同じ立教大メンバーの篠崎誠との対談がかなり面白い。
 黒沢清鑑賞5本目。★★★

マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行

2005-11-27 03:20:16 | 映画
 映画「私のイタリア映画旅行」

 マーティン・スコセッシによる「私のイタリア映画旅行」を見る。ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニを中心に10年代から60年代くらいまでのイタリア映画をスコセッシが解説しながら紹介する。最近は世界中がハリウッド一辺倒じゃねえかとスコセッシが立ち上がった。どこがどう素晴らしいかってのを監督が説明してくれるというファンが泣いて喜びそうな作品だ。4時間以上あるけどゴダールの映画史のような難解さはなくて面白い。あれは見るのに苦行のように2週間かかったんだけどこれは一気に見れた。イタリア映画に興味が無い人でも十分に楽しめると思う。ジョルジオ・アルマーニのドキュメンタリー映画「アルマーニ」でスコセッシが登場して作っていた時のがこれでアルマーニプロデュース。

 以前に読んだ本だと20世紀初頭の日本ではアメリカ映画が入ってくる以前にはイタリア映画が主流だったらしい。というわけで日本映画にも繋がるんじゃないかな。
 戦争で映画スタジオを破壊されたイタリアではカメラとフィルムを路上に持ってドキュメンタリーとフィクションを混ぜたネオレアリスモが誕生する。貧しく、そしてそこら辺の路上からスカウトした役者を使ったりしてリアリティを出す。このネオレアリスモに影響を受けたフランスではヌーヴェルヴァーグが起こっていく。今でもイランなんかはこんな感じだ。

 スコセッシの生い立ちとフィルムが映し出される。ニューヨークのイタリア人街ではイタリアから移民してきた連中がブロック毎に出身地別に暮らしていたという。ここからはどこどこ村からの移民という風に。小国家の集合体イタリアからの移民だからか彼らは隣のアパートとの人間と結婚する事もできなかった。そういったコミュニティーで育ったスコセッシにとってアイデンティティーは彼の出自と信仰が大事だという。映画を見ることによって移民として自覚し、イタリアを知る事が自分探しなんだ。作品では触れてないけど、劣等感が強い人なんで埋め合わせでもあるのか。その孤独感と自己破壊が惹きつけてしまうんだ。彼は自分はハリウッドでもなく、かといってイタリア映画でもないと位置付けている。

 動物ドキュメンタリーから路上のネオレアリスモになったロッセリーニ、戦前の二枚目大スターから出発して重苦しいレアリスモからコメディーまで撮るデ・シーカ、貴族出身ながら共産主義者というヴィスコンティ、自伝要素に祭りやサーカスなど明るいフェリーニ、逆に閉塞感と人間不信に包まれてるアントニオーニ。もう圧巻するしかない。このブログ始めて見た中で文句なしで一番衝撃的だったのはヴィスコンティの「若者のすべて」だった。
 この映画ではヴィスコンティは投獄された後の大戦直後にファシストがリンチされたり処刑されたりするドキュメンタリーが流れる。ドキュメンタリー出身者が多いんだなと驚いた。
 というわけでこれ見てイタリア映画熱が急上昇してきた。最後のスコセッシの言葉は響く。こんな映画を10代なんかに見てたら人生変わるよ。
 メモ:「ミーン・ストリート」の元はフェリーニ「青春群像」。スコセッシ曰く「自分にとって人生を変えた一本は8 1/2」。ロッセリーニ娘とスコセッシは結婚していたことがある。
 ★★★★1/2

光の雨

2005-11-26 03:13:05 | 映画
 映画「光の雨」

 監督:高橋伴明。原作:立松和平。萩原聖人、裕木奈江

 立松和平の同名小説の映画化。序盤から占拠されてる安田講堂、破壊される新宿駅、火炎瓶の炎に包まれる御茶ノ水と60年代のノスタルジックな本物映像から始まる。連合赤軍によるあさま山荘事件に至るまでの残酷な12人粛清殺害事件。その素材を作中で映画化し、役者や監督が撮りながらもその事件を考えていく。現代の役者に語らせるのでちょっと押し付けがましく感じる。高橋伴明という監督は自身が学生運動で大学除籍されている人。というわけで彼なりの総括なのか。あの事件を一部のキチガイが起こしたと描かない。かといって当時のノンポリに描いてもらいたくなかったんだろう。それは団塊世代らしく、あの頃のおれたちは熱かったやばかった間違いなかったというリアル革命ごっこな展開に。

  裕木奈江と山本太郎が完全に仕切ってる。気に食わないとお前は共産主義的に良くないという理由で総括と称し殺害。 それで毛沢東なんかを研究してるんだけど、裕木奈江はどう見ても紅青なんだ。気に食わない奴らは殺しちまえと。それに従うメンバーはここまでくるとRPG脳。革命闘士になるために性を捨てよ、個人の欲望は捨て自己を否定し他人から否定されて自己の弱さを克服して完璧な人間になるのだと。駅前で歌わされたりするセミナーやカルト教に近い。彼らにはマジメすぎるがゆえにムチはあっても飴がないんだ。徐々にエスカレートしていく。

 当時大学に通っていてそれなりにお坊ちゃんお嬢さんの方々は暴れまくる。高卒の叩き上げ警官はそりゃ頭にきたに違いない。高度成長による共同体の崩壊と大学の大衆化によるアノミーが起こり、世界も揉めてるんでええじゃないかと盛り上がっちゃったのか。 裕木奈江が最後に「あの時代より今のほうが悪いかもしれません」なんて当たり前のこと言われても。これよりも「突入せよ!あさま山荘事件」の方が突っ込みどころが多くてずっと面白いや。映画見ながら思ったのは「バトルロワイヤル」はひょっとしたらすごい映画かもしれないってこと、あと裕木奈江って最近何してるんだろうと気になってしょうがなかった。
 
 強烈な同時代体験ってのを経験してない世代としてはノスタルジーにしか見えない。最後に役者や監督がなぜ自己完結してるのか革命的にわからない。
 ★1/2

ドッジボール

2005-11-25 01:04:14 | 映画
 映画「ドッジボール」

 監督、脚本:ローソン・マーシャル・サーバー。ベン・スティラー、ヴィンス・ボーン

 赤字続きのスポーツジムが目の前の金持ちジムに乗っ取られようとしてる。そこで金を稼ごうと負け犬どもがドッジボール大会で頑張るスポ根コメディー。冴えないダメ人間とはいえ大人が真剣にドッジボールに燃える姿はおかしくてしょうがない。金持ちジムのボスのベン・スティラーが変態モード全開。デヴィッド・ハッセルホフを崇めるドイツチーム、ふんどしに鉢巻きの日本チーム、ファッション重視のスラム街チームをぶっ潰してライバルの馬鹿チームと戦う。他にもツール・ド・フランスで有名なランス・アームストロングやチャック・ノリスまでがゲスト出演してる。

 下品で面白いんだけど肝心のドッジボール大会のバトルが少ないんだ。お前ら「少林サッカー」を見習えよってほどに。「少林サッカー」に「アタック・ナンバーハーフ」といいスポ根コメディーが密かに熱い!ポップコーンにビールでも飲みながらゲラゲラ笑える映画。
 ★★1/2

青春残酷物語

2005-11-23 03:16:52 | 映画
 映画「青春残酷物語」

 監督・脚本:大島渚。桑野みゆき、川津祐介、渡辺文雄。60年

 歪んだ青春を送ってる大学生たち。アンポがどうたら言ってる女学生を捕まえて自分に惚れさせて授業料を払ってもらうとポイ、複数の女性を常にキープして自分の欲望を満たす。チンピラに因縁をつけられて金が必要になると美人局を行ってジジイを殴り倒して金を奪う。今じゃ65才くらいの爺さんが90才くらいの爺さんを殴ってるのには笑える。しかも今の若者とやってることは変わらないんだ。

 人と物の区別がつかない人間を宮台真司は’底の抜けてる人間’という。そういう青少年の増加が不気味にみえるために少年犯罪は昔(この映画の時代)と比べても減ってるのに注目されるという。この映画でいうと川津祐介には物と人を同視してる様子は感じられないが、ヤクザ役の佐藤慶にはハッキリと感じる。気に食わない売春婦を階段から蹴り落として笑ってるような男だ。これが今だと黒沢清や青山真治の映画でそこら辺の若者として登場しても違和感がない。

 これはセックスに対する世間の共通認識に対してケンカを吹っかけてるような映画。恋人だろうが、知らない女だろうが売春婦だろうがセックスに差ってあるのかと。学生運動で暴れたって社会は変わるのかという虚無を感じ、馬鹿馬鹿しい大学に居場所など無く、かといってエネルギーが充満してるバカチン生徒は青春って何だと自問する間もなく下半身中心の生活をする。そしてやはり戦前世代のオヤジに対しての反発。お前らがどう苦労したかなんて知るか、問題は今だという反発だ。その反動(大衆の視点でもある)に潰されていく。社会の総意が残酷性を生む。吉田喜重の「血は渇いてる」での写真の視点みたいに。

 車やバイクに暴力の使い方は今見ても十分面白い。川津祐介って人は不思議にポール・ニューマンみたいに見えてくる。
 大島渚鑑賞5本目。★★★