乱接と摘要、崩歩と八肘は同様の系統として認識される。
乱接から摘要に至れば鬼神と言えども避けがたし、崩歩から八肘に至れば神仙と言えどもかわしがたしと言われる所以である。
乱接、八肘は最も古くから拳譜に見られる型であり、乱接は手法と発力を学ぶ。摘要は近代になってまとめられたもので、同じく手法と発力を学ぶが、組み合わせを学ぶのに優れている。手法360手を学ぶといわれる所以である。宋子徳系には摘要の7番目の型があり、これは地躺拳と言われているが、古存拳と言われる拳法をベースにまとめたものだ。海陽の摘要は6段であり、莱陽の摘要は7段である伝承か。
乱接は非常に癖のある型であるが、こなれてくると身体操作に大きな影響を及ぼす。跨を練って上肢と下肢とを別々にコントロールすることを要求されるため、大きく体を使うことができ、一般に嫌われる身体のねじれを防ぐのである。また、膝や足先がこわばって力が分散するのを極力嫌うため、意識を末端に置く必要がある。
力は外に発する必要があるが、足が不安定な形を取っているため、引き手のバランスと力の弾性が必要である。発したあと力を緩めることがバランスをとる要点でもあるから、緩急を自ずと学ぶことになる。
螳螂拳の原則は、両手は両肩を出ず、歩は軽く行う。言いかえれば肩、胸を緊張させること嫌い、体のねじれと居つくことを嫌う。これを乱接で学ぶのである。
それには先ず、スピードに囚われないこと。空中に描かれた手本を追うように、力まず型を演じる。それによって脚の筋力もつけることができる。体を意識することと同時に、用法や力を意識することが重要だ。
次に力まないでスピードをもって演じる。節奏を身につける。ここで緩急や連続性を学び、カケや作りを意識する。ここまで来たら摘要に移ってみる。摘要は変化、組み合わせを学ぶから、身体の操作も乱接ほど違和感はないはずだ。発力もこの型が分りやすい。こうして摘要と乱接を行き来してみると手法、発力は有意義に学べる。
拳の型はバリエーションがあって面白いが、次から次への学習は弊害をもたらす。身につかないというのが結論だ。
先にも述べたとおり、一定量の稽古から導き出せる体の使い方を意識してから次に移ること。でないと覚えるのに費やした時間は無駄になる。現代の受験勉強と同じで、次から次へと暗記するだけでは身についた実践に役に立たない。
乱接から摘要に至れば鬼神と言えども避けがたし、崩歩から八肘に至れば神仙と言えどもかわしがたしと言われる所以である。
乱接、八肘は最も古くから拳譜に見られる型であり、乱接は手法と発力を学ぶ。摘要は近代になってまとめられたもので、同じく手法と発力を学ぶが、組み合わせを学ぶのに優れている。手法360手を学ぶといわれる所以である。宋子徳系には摘要の7番目の型があり、これは地躺拳と言われているが、古存拳と言われる拳法をベースにまとめたものだ。海陽の摘要は6段であり、莱陽の摘要は7段である伝承か。
乱接は非常に癖のある型であるが、こなれてくると身体操作に大きな影響を及ぼす。跨を練って上肢と下肢とを別々にコントロールすることを要求されるため、大きく体を使うことができ、一般に嫌われる身体のねじれを防ぐのである。また、膝や足先がこわばって力が分散するのを極力嫌うため、意識を末端に置く必要がある。
力は外に発する必要があるが、足が不安定な形を取っているため、引き手のバランスと力の弾性が必要である。発したあと力を緩めることがバランスをとる要点でもあるから、緩急を自ずと学ぶことになる。
螳螂拳の原則は、両手は両肩を出ず、歩は軽く行う。言いかえれば肩、胸を緊張させること嫌い、体のねじれと居つくことを嫌う。これを乱接で学ぶのである。
それには先ず、スピードに囚われないこと。空中に描かれた手本を追うように、力まず型を演じる。それによって脚の筋力もつけることができる。体を意識することと同時に、用法や力を意識することが重要だ。
次に力まないでスピードをもって演じる。節奏を身につける。ここで緩急や連続性を学び、カケや作りを意識する。ここまで来たら摘要に移ってみる。摘要は変化、組み合わせを学ぶから、身体の操作も乱接ほど違和感はないはずだ。発力もこの型が分りやすい。こうして摘要と乱接を行き来してみると手法、発力は有意義に学べる。
拳の型はバリエーションがあって面白いが、次から次への学習は弊害をもたらす。身につかないというのが結論だ。
先にも述べたとおり、一定量の稽古から導き出せる体の使い方を意識してから次に移ること。でないと覚えるのに費やした時間は無駄になる。現代の受験勉強と同じで、次から次へと暗記するだけでは身についた実践に役に立たない。