高老師からは「精要螳螂拳」という型を学びました。全部で30動作程度の短い型です。高老師の先生で青島在住の先生が作った型だそうです。今回習ったものの他に総合螳螂拳もあるそうで、更に動作が長くなるとの事でした。
たどれば姜化龍老師に行き着くとの事でしたが、現代拳法的なその動きはどうも違うと思います。老螳螂拳としての味わいは少しもありません。これを続けて練習しても、螳螂門の理解の助けにはならないと思いますが、現代長拳を学んでいる方や武術運動として身体能力を高める補助として捉えるなら、この種の動きは分りやすいかもしれません。
一方で、王老師は我々の学習の合間を見て色々と質問してこられます。
「摘要のこの動作をやってみろ」だとか、「これはどのように習ったのか」とか。
結論として、海陽こそ螳螂拳の発祥地であり、それ以外はどんなに有名な先生の拳だろうと価値を認めないという姿勢です。説明には必ず意味を伴います。型だけで実用できない拳法は価値がないと言うことでした。
初めは王先生の動きには癖があって、動作を真似ることにも抵抗があったのですが、その力強さ、用法、そして時折みせる満面の笑顔から、もっと教えて頂きたいなと思うようになりました。スルメみたいに噛めば噛むほど味が出る感じです。
腕をぶつけて鍛えあう練習では、「こんなに近い間距離でやるのか?」と思う位です。単に腕をぶつけ合うのではなく、正に寸勁を併せ練るもので、腕を跳ね飛ばされました。
螳螂拳では「為行手」と言って、拳を開始する時に腰に引き付けた両手を返して下を押さえて、気を下腹部に落とします。
王老師に伺うと「現代の為行手は大げさすぎるし、羅漢功のようだ。実際にはこれで良い。」と言って見せて頂いたものは、王元亮先生から習ったものに近いものでした。
また終功の必要性も説かれ、教えて頂きました。
おっしゃられるように、激しい練習であればあるほど興奮して頭に血が上ります。相対練習や打撃を含む練習なら尚更でしょう。上った気血を静め、リラックスするための養生功で、言い換えれば現代のクールダウンです。確かに準備体操には時間をかけても、終功には気をまわしていませんでした。男女共できるようですから、これから実践して行きたいと思います。
たどれば姜化龍老師に行き着くとの事でしたが、現代拳法的なその動きはどうも違うと思います。老螳螂拳としての味わいは少しもありません。これを続けて練習しても、螳螂門の理解の助けにはならないと思いますが、現代長拳を学んでいる方や武術運動として身体能力を高める補助として捉えるなら、この種の動きは分りやすいかもしれません。
一方で、王老師は我々の学習の合間を見て色々と質問してこられます。
「摘要のこの動作をやってみろ」だとか、「これはどのように習ったのか」とか。
結論として、海陽こそ螳螂拳の発祥地であり、それ以外はどんなに有名な先生の拳だろうと価値を認めないという姿勢です。説明には必ず意味を伴います。型だけで実用できない拳法は価値がないと言うことでした。
初めは王先生の動きには癖があって、動作を真似ることにも抵抗があったのですが、その力強さ、用法、そして時折みせる満面の笑顔から、もっと教えて頂きたいなと思うようになりました。スルメみたいに噛めば噛むほど味が出る感じです。
腕をぶつけて鍛えあう練習では、「こんなに近い間距離でやるのか?」と思う位です。単に腕をぶつけ合うのではなく、正に寸勁を併せ練るもので、腕を跳ね飛ばされました。
螳螂拳では「為行手」と言って、拳を開始する時に腰に引き付けた両手を返して下を押さえて、気を下腹部に落とします。
王老師に伺うと「現代の為行手は大げさすぎるし、羅漢功のようだ。実際にはこれで良い。」と言って見せて頂いたものは、王元亮先生から習ったものに近いものでした。
また終功の必要性も説かれ、教えて頂きました。
おっしゃられるように、激しい練習であればあるほど興奮して頭に血が上ります。相対練習や打撃を含む練習なら尚更でしょう。上った気血を静め、リラックスするための養生功で、言い換えれば現代のクールダウンです。確かに準備体操には時間をかけても、終功には気をまわしていませんでした。男女共できるようですから、これから実践して行きたいと思います。