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鶴見俊輔『教育再定義への試み』

2017年05月04日 20時53分13秒 | 文学
鶴見俊輔『教育再定義への試み』(岩波現代文庫)を読んだ。
この本は高橋源一郎が何度か言及していて興味を持っていたが、やっと読めた。
内容は『思い出袋』と重なるところも多い。ある人の思想を理解しようと思ったら、そのひとの本を何冊か(三冊くらい)まとめて読めばいいと思っているのだが、もうちょっと読めば鶴見俊輔について何かつかめるかもしれない。
(都留重人は、)《私が哲学科をえらぶことには批判的で、哲学というのは、はっきりとした問題ととりくむなかで、方法上の工夫をかさねる、そこから生まれてくるのがいい、と言っていた。この考え方は、哲学科に入ったにもかかわらず、私にとっては六〇年後の今日まで導きの糸となっている。はっきりとした問題ととりくむときの、方法の吟味が哲学だというとらえ方だ。》(69頁)
というところがまさしく鶴見俊輔の哲学で、もう何年も前に一度鶴見俊輔の本を読もうとしたときに、ぴんと来なかったのは、そのとき私の考えていた哲学とイメージが違ったからだろう。難しい単語(「現象学的還元」とか)があって、それについて説明するのが、哲学だと思っていたように思う。
鶴見俊輔の哲学はもっと具体的で、一見哲学のように見えない。
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鶴見俊輔『思い出袋』

2017年05月04日 00時59分18秒 | 文学
鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)を読んだ。
この間加藤典洋と高橋源一郎の『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』という本で、鶴見俊輔について主に高橋源一郎が語っているのを読んで興味を惹かれて読んでみる。

《特に、大学出の知識人は、当時では平均十八年間も学校で教師にならえという習慣がついているので、学校をはなれたあとも、なめす働きに対し弱い。》(80頁)
ルールを守るということ、上の人間に従うということがさらに大事になっている気がする。
そしてインターネットの世界というのはまるで自由ではなくて、他人がルールを守っていないかをものすごく監視しているようなところがあり、その傾向を強めている気がする。
もっと昔は、こんなにひどい世の中じゃなかったんじゃないかなという気が最近よくする。しかしまあ、気のせいかもしれない。

《日本の国について、その困ったところをはっきり見る。そのことをはっきり書いてゆく。日本の国だからすべてよいという考え方をとらない。しかし、日本と日本人を自分の所属とすることを続ける。》(158頁)
この鶴見俊輔の決意はいまでも有効だろう。見習いたい。

最近すこし宮沢賢治に興味があり、時間のあるときにiPhoneに入れている『春と修羅』を読んだりするが、さっぱり頭に入らない。これは電子書籍というもののせいか、そもそも宮沢賢治の詩が私には難しすぎるのか。
そのうち紙の本を読んでみようかと思っているが、詩はやはり難しいのかもしれない。
沢木耕太郎が父親の俳句を読んでいったように、私も宮沢賢治を身内のように仮定して読んでみたら読めるかもしれない。
わたくしといふ現象は仮定された宮沢賢治の一つの遠い親戚です。
興味があってもなかなか詩は読めない。
先に童話を読むつもり。

それと、新聞で三浦綾子の『銃口』についての記事を読み、三浦綾子でも読んでみようかとも思っている。
以前佐藤優の本でこのひとの『塩狩峠』について書かれてあるのを読んだことがあるが、まとめて読んでみたいと考えている。
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