白爺の駐車場にある桜の花も、暖かな日が続くのでどうやら開花しました。靖国神社の標準木桜は数日前に開花したようですが、我が家の近所は千代田区より2~3日遅いようです。
桜草は今が満開です。
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花が咲かないので通路の側に捨てておいた水仙に、今年は花が咲きました。「過保護にしないほうが立派に育つ」を実践した感じです。巷では、桜の開花がニュースになっていますが、我が家の庭もすっかり春に変わりました。
テニアンから帰国した翌日、大雪に埋もれた我が家の庭も1ヶ月半が経過しました。
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「まぐろ納豆」という料理を知っていますか?
白爺は、カジノホテルにある和風食堂で初めて食べたのですが、あまりに美味しかったので忘れることが出来ない料理になってしまいました。
日本料理として運ばれて来た「まぐろ納豆」は美しく盛り合わ . . . 本文を読む
サイパン空港の待合室です。午前6時のフライトですから、暗いうちから大勢の人が集まっていました。
飛行機は予定時刻にサイパン空港を離陸しました。暫らくは暗い夜空を飛行していたのですが、漸く窓の外に雲の姿が見えてきました。
更に明るくなってきたようです。
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午前3時にガラパンにあるホテルを出発してサイパン空港に行きました。白爺たちが到着したときには既にデルタ航空の受け付け窓口には行列が出来ていました。
搭乗手続きはビソーさんが全部やってくれたので、白爺は見ているだけで出国手続きが出来ました。このゲートから日本に帰ることになりました。
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白爺たちが今晩宿泊する「向日葵ホテル」に到着しました。
明日のデルタ航空フライトは6:5Amなので、午前3時頃まではこのホテルに滞在します。日本人が経営しているようで、1階には食堂とスーパーマーケットがありました。
マーケットのカウンターでチ . . . 本文を読む
日本時代のお寺跡を探していたのですが、かすかに覚えていた記憶を辿って歩いてみると、記憶どおりの場所に昔の門標が残っていました。
お寺の名前は「南洋寺」です。子供の頃は宗派など気にしていませんが、浄土真宗のお寺だったようです。
お寺の門標の隣には「フィエスタリゾートホテル」という大きなホテルが建っていま . . . 本文を読む
サイパン空港に降り立った白爺たちは、ネパールの友人ビソーさんの出迎えを受けて、お宅に立ち寄り昼食をご馳走になりました。昼食後、車でサイパンの海岸通をドライブしました。途中景色の良い海岸を通過したので降りてみました。キリリ・ビーチと言う所らしいです。
沖合いには、何時もテニアンのバーブイビーチで釣りをしながら眺めていた、アメリカのスタンバイ艦?が沢山停泊していました。
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白爺達が11時30分にフライトする便に、二人のチャムロの方が搭乗しました。6人乗りのセスナ機だったので、心配した荷物も同じ飛行機でサイパンに飛び立ちました。ラッキー!
飛び立ってから下を見ると、毎日のように車で走っていたブロードウエーが見えました。
戦争中米軍が造ったこの道路は、テニアンの中心を南から北へ縦断して続いています。
暫らく飛ぶ . . . 本文を読む
テニアン空港のカウンターです。右の受付は「スターマリアナ航空」、左の受付は「フリーダム航空」です。スターマリアナ航空は中国系のカジノホテルが経営しているようでした。フリーダム航空は経営難で北マリアナ政府が融資などをしていると聞きました。白爺は以前からフリーダムのセスナ機以外は乗らないので、今回も利用させてもらいました。
フリーダム航空の時刻表です。以前は人が集まれば飛 . . . 本文を読む
白爺がテニアンへ行ったのは1月の16日です。ピケちゃんの家には、お飾りのお餅と南国の花が並べられていました。
庭には美しいハイビスカスが咲いています。
沢山の木がありますが、全て違う花を咲かせて . . . 本文を読む
約1ヶ月のテニアン滞在は、明日でお別れになりました。夕日の中で見るフレミングホテルも、今日で見納めになります。
雨漏りがするのでバケツを置いた部屋も、今晩限りでお別れとなると淋しい感じがします。
NHKは視聴登録をしてないので綺麗に映らないテレビも、天気 . . . 本文を読む
白爺たちが帰国するので、リノさんが最後の夕食会を開いてくれました。テニアンに一人残っている息子さんのファミリーも出席してくれました。
テーブルの上にはチャムロ料理が沢山並んでいました。
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青春時代に戻った「後期高齢者」の楽しい話は途切れる暇がありません。初恋の話から孫の話まで、話題が多くありますからねー。
カラオケが始る前に、白爺が作った「東京の灯よいつまでも」の替え歌「中電の友いつまでも」を全員起立して歌いました。2~3番の歌詞を紹介しましょう。(2番) (3番)溜まる電報 手クズレ悲し すぐに忘れる 飲み屋 . . . 本文を読む
OB会に集まった仲間は40名になりました。この人たちは、嘗て東京千代田区にあった「東京中央電報局」で日本全国の電報送受信に携わっていた人たちです。
歴史を振り返ってみましょう。日本の電報は、明治2年(1069)東京~横浜間の電信柱架設から始りました。古文書を開くと、慶應2年(1866)福沢諭吉が西洋事情に「伝信」と記したのが電信の語源と書いてありました。当時は「針金で遠くのことが . . . 本文を読む