気ままなひとこと

折々にふれ、思いつくままに、気ままに書き留めるBLOG

スローライフの彼岸花

2013-09-28 16:08:06 | 気候・季節
9月26日記:“彼岸明け、未だ開かず、彼岸花“
この日が彼岸明け、今年のお彼岸最後の日となりましたが、我が家の彼岸花はまだ開かず、あと一息がお彼岸の内に届きませんでした(笑)ですが、頑張っている様子を撮ったので、記録しておきます。
  
順に彼岸の入りの9月20日、お中日の23日、明けの26日です。
我が家の彼岸花はもともと我々が植えたものではなく、よくあるように、鳥が運んできたものらしいのです。数年前に皐月の植栽の隅っこに一輪だけ、ひっそりと顔を出したのが始まりで、今年はなんと四輪にまで増えてきました。しかも、皐月に埋もれて全く陽射しの届かない茂みの中で育ち、このお彼岸になって、やっと皐月の隙間から顔を出したかと思ったら、数日のうちに首がスルスルっと伸び、はっきりと存在を主張するようになったのです。その生命力のスゴさには驚かされますし、可愛いものです。

この時期、街のあちらこちらで見かける彼岸花ですが、他所様ほどには立派でなく、謙虚に(?)且つ根強く頑張っている我が家の彼岸花の姿を毎日嬉しく眺めています。と、ここまでを彼岸明けの26日に記録しておいて、開花を待ちます。

9月28日、彼岸が明けて2日になりますが、我が家の彼岸花もようやく、それらしくなりました!

正確な日付にこだわらない(苦笑)スローライフの彼岸花の名誉(?)のために最新の写真を記録しておきます。


「ことばで探るアメリカ」を読んで

2013-09-19 20:20:37 | 言葉
先日ブックオフの105円コーナーで興味深い本を見つけました。『ことばで探るアメリカ The American Mentality』というタイトルで、「日米コミュニケーション・ギャップ考」という副題がついています。日米の著者二人の討論の中から、同じ言葉でありながら異なる理解があることを追求、解明しようとしたものです。「異文化」に関心深い私にとって格好の本という次第なのです。

ここでは52のキーワードが取り上げられているのですが、その中でも特に印象深かったものをブログしておきます。

Fairness:アメリカでは日常生活に広く浸透している概念で、あらゆる人間関係でフェアであることに価値が置かれています。私自身、アメリカ企業で長い間働いてきて、アメリカ人が常に意識している概念であることを体感してきました。平等という意味ではなく、公平であること、機会均等とも言えることだと思います。日本人の考えるフェアと同じでありそうで異なることがあるので、それぞれの場合に説明が必要だと強調されています。

Ability:アメリカでは「努力」や「一所懸命」をあまり強調しないそうです。理由の一つがアビリティに対する考え方の違い。アビリティ(能力)は持って生まれたものであり、人々の間で同じではない、基本的に不平等なものだというのです。日本人が考えるように「一生懸命努力すれば、頑張れば・・・」というものではないと考えるので、努力を強調しない。民主主義のアメリカ憲法では「法の下の平等」をうたっていますが、能力が平等に生まれたわけではないという考え方です。興味深い指摘です。

Silence: 沈黙は罪である、沈黙は失敗。社交の基本は会話にあり。パーティーでしゃべり続けるのは、必ずしも好きだからばかりでなく、義務として、また自分の存在価値を失わないためでもあると指摘しています。日本で茶の湯に代表されるように、沈黙に価値を置く文化であるのと好対照ですね。

同じ言葉でも、その理解、価値にかなりの違いがあるということを知ることが、異文化理解の第一歩なのでしょうね。日米間での違いを知った上で、違うこと・その理由を明確に説明することで相手に納得してもらうことの大切さを再認識しました。

文化、価値観の違いは大いに興味深いもので、最近読んだイタリア人のエッセイでこんな指摘がありました。日本人は「カワイイ」を重視するのは、若さに価値をおき、老いを恐れているからかも。イタリアでは女性の魅力は良い意味でのセクシーさにあり、それこそが子供が真似の出来ない大人ならでは価値だと。成る程、成るほど、Viva Italia!

2013年後期が開講しました

2013-09-14 10:06:27 | 大学ボランティア
ボランティアでお手伝いしている武蔵大学でのデジタル恊働学、昨日、後期が始まりました。これまで同様に金曜日の第2限、10時半からのコマです。我々独自の運営に移行してから、今期で4回目になるので、大分慣れてきており、不安なく始められるようになりました。



前期は22名全員が女子学生、女子大に紛れ込んだような気もしましたが、今期は男女がほぼ半々。男子7名、女子9名の16名なので、4チーム編成でスタートすることになりました。1チーム少ない寂しさはあるものの、指導する側としては、多少は楽でもあります。

1年生と2年生が半々、企業活動のことなど全く知らず、また、人前でプレゼンテーションなどしたこともない彼等が、15回の講座を通じて成長していく様を見るのは、毎度楽しいことです。ありきたりの表現ですが、ホント、3ヶ月半の間に大きく変わるのです!心身ともにエネルギーのいるボランティアではありますが、元気に取り組んでいきたいものです。

オリンピック招致プレゼンテーション

2013-09-09 14:59:54 | Weblog
2020年東京オリンピック招致決定、おめでとうございます。
昨日は目覚めと同時にiPad miniでニュースを知り、東京の最終プレゼンテーションをベッドに横になったまま見入りました。

IOC委員の投票にどれだけ影響があったのかは計り知れないことですが、各国のプレゼンテーションをじっくり見ると、それぞれの特徴が出ていて興味深いものがありました。その上で、こと、プレゼンテーションだけに限ると、身びいきでなく(?) 東京がベストだと思いました。

スペインの訴求は二つ、80%の施設が完成済みという点と、コンパクトさだったでしょうか。本命視される中で、控えめだったように思えました。ユニフォームも、男女ともブラックスーツと地味なもの。デレゲーションの目玉ともいうべきフェリペ皇太子を最後の締めにもってきたことが、結果として、それまでのプレゼンを退屈なものにしたような感もあったような・・・

トルコは、何と言っても“若さ”を強調していましたね。国民の40%が25才以下だとか!会場内応援団席の前方に座ったのが、無名の若いアスリート達というのは、政治家たち、いわゆる“お偉いさん”が並んだ日本とは好対照でした。とは言え、アジアとヨーロッパの架け橋という訴求ポイントを、ありきたりの映像以外で表現出来なかったことでは、強い印象を与えることはなかったのではないでしょうか。

対する我が日本は、プレゼンの出足を巧みに使ったように思えました。
皇族を登場させたことの是非は別として、最初に登場した高円宮妃殿下が大震災への支援への一般的なお礼に続いて、IOC/JOCがジョイントで被災地の子供を支援するプログラム “つばさプロジェクト”が子供達をどれほど元気づけているかに触れて謝意を表されました。これが、開催地としての売込みでなく、IOCと日本との繋がりをIOC委員に訴えたのではないでしょうか。
妃殿下の挨拶に続いて映写されたビデオが秀逸でした。津波の被災地と思われる空き地で10才位の少年が一人でバスケットボールをして遊んでいる。そのボールがバスケットとポールの間に挟まって取れなくなり困っている所に、外国人バスケットボール選手の一団を乗せたバスが通りかかる。一人の選手がバスを止めて駆け寄り、ボールを取り、少年と遊ぶ。やがて他の選手達もその輪に加わる。帰り際に、「将来はプロかな?」と声をかけて別れる。
そんな映像に続いて登壇したのが、パラリンピアンの佐藤真海選手、19才のとき病気で片足を失ったが、そんな辛い時にスポーツが自分の命を救ってくれ、生きる自信を取り戻すことができたこと、また彼女は被災地・気仙沼の出身で、自身、一週間ほど家族の消息が分からないで不安だったこと、震災後に選手仲間たちとボランティアとしてスポーツを通じて被災者を励ます活動を続けていることを語りました。

もう、ここまでで完璧なプレゼンでしたね。大震災、被災地の子供、障害者、そういった弱者・困窮する人々を救ったのがスポーツだというメッセージは、東京に直接繋がるものではないですが、それが却って人々の心に訴えるものがあったのではないでしょうか。
その後の一般的なプレゼンはオマケのようなものだったと思います。出足で聴衆の心をしっかりと掴んだという点で、三か国のうちでベストなプレゼンテーションだったと思います。後で知ったのですが、今回のプレゼンテーションは、ロンドンとリオデジャネイロと、二回続けて開催地に選ばれた招致活動をアドバイスしたイギリス人コンサルタントと、東京も契約してアドバイスを受けたとか。成る程、納得!国内の大手広告代理店まかせにせず、世界の中からトッププロを選んだことが大きな勝因になったのでしょうね。日本にしては上出来と、感心しています。

こういったプレゼンテーションがインターネットで公開されるというのも素晴らしいことですね。一ヶ月ほど前にはローマ教皇がブラジルで開催されたワールドユースデーを訪ねた時も、ミサを含め中継されていましたが、今回のIOC総会もインターネット中継され、直ぐにでも後でも見ることが出来るということは、本当にテクノロジーの進歩を身近に感じさせてもらえ、嬉しいことです。

冷たい麺二皿

2013-09-07 13:34:48 | 料理・酒類(内食)
イタリア語の友人に奨められて冷製パスタを試してみました。パスタと言えば温かい料理と決め込んでいたのですが、この夏の余りの猛暑と、友人(それも二人も!)がブログで夏向きとして冷たいパスタを奨めているもの、つられて(笑)・・・とは言え、材料の都合があるので、そっくりそのままの真似ではなく、我が家にある材料でトライしました。Pasta fredda alla mia casa

パスタは17ミリのスパゲッティを茹でて、冷水で冷やして、冷蔵庫に2時間ほど保存。食事時に水を通してほぐしてからお皿に盛りつけ。具は、中玉トマト、ブラックオリーブ、前夜の残りの焼き野菜(ナス、ピーマン、タマネギ、ポテト)、仕上げにバジルで飾りました。
成る程、これはさっぱり!バジル、トマト、それにオリーブオイルをかけたのでイタリアンですが、麺そのものは冷や麦のようにも感じられ、夏向きと納得。イタリア人も食べるのかなあ?

もう一つは、最近のひそかなマイブーム、日本の麺のぶっかけです。冷たい日本の麺に好きな具をのせ、麺つゆをぶっかける、というものです。外では何度も食べたことがあるのに、家では思いつきませんでした。

蕎麦でも、素麺でも、冷や麦でもOK。これまではこれらの麺類は爽やかなのですが、ざる蕎麦ではボリュームと栄養バランスに難点を感じていました。それが、しばらく前に新聞でぶっかけ蕎麦の記事を読んで、そうだ、我が家でも、と思いついた次第です。これもパスタ同様、好きな具(残りもののことが多いですが)を使えるのが便利、ボリューム感もあり、気に入っています。何と言うことのない簡単なことなのに気付かないでいること、意外にあることを再認識する機会にもなりました。

スローシティ Citta Slow ~ イタリアからの新しい波

2013-09-01 16:01:06 | イタリア
はっきりいつからとは言えませんが、多分、5、6年前頃からBS日テレで始まった『イタリアの小さな村の物語』を見るようになってイタリアの小さな村・町に憧れるようになり、インターネット上でそれらしき町や村の情報を求めてネットサーフィンし、小さな町を取り上げた書籍を読みあさり、年甲斐もなく(?) “恋しい想い”を密かに持ち続けてきました。あのTV番組のプロデューサーは、それは哲学の問題だとの指摘をしているのですが、イタリアの小さな村・町は本当に不思議なほどの魅力を持っているのです。それが“哲学”と言われると困るので、何か別の見方をしたいなと考えている時に、格好の本に出会いました。

島村奈津著『スローシティ:世界の均質化と闘うイタリアの小さな町』(2013年3月初版)

イタリアは20年位前に始まったスローフード運動発祥の地、同じ著者の『スローフードな人生~イタリアの食卓から始まる』を興味深く読んでいたので、この本を見つけた途端、直ぐに購入してしまいました。ページをめくる前から、私のイタリア好きのテーマの一つである小さな町の分析に関するものに違いないと確信していましたが、その通りのものです。どうやって小さな町が元気でいられるのか、なぜ小さな町が魅力的なのか、その鍵はサブタイトルにある“均質化と闘う”ことにあるようです。元々“均質”が文化とも言える日本に対して、個性尊重と見られているイタリアで“均質化と闘う”というのは不思議な気もするのですが。でも読んでみて、程度こそ違え、イタリアでも同様の問題があることが理解できました。

イタリアで1999年にスローシティを謳う連合が出来た時の初代会長は、スローシティ宣言の中で「人間サイズの、人間らしいリズムが残る小さな町を心がけよう」と挨拶したそうです。スローシティに認定されている町の元町長は「人が生きていく上で根源的なもの、それは環境であり、人間サイズのほど良い大きさの町で、そこに文化的なものが息づいていること。(中略)スローシティとは、決して町の構造や建築だけの問題ではない。むしろ大切なのは、目に見えないものの価値だ。人と人との交流、会話、農家の知恵、職人の技、食文化、・・・」因に、「人間サイズのほど良い大きさ」として、人口2万人以下を認定条件の一つにしているそうです。

こういった考えの実現のためには、拡大を求めず、むしろ人口増加や企業の進出を制限すらすることで、人間サイズの価値を維持しようとしているとか。日本だと小さな村・町の活性化というと、即、経済規模の拡大、人口の増加、そのための企業誘致という流れが当たり前になっているようですが、それは正に個性を犠牲にして均質化に向かう道なのですね。ある町長は、拡大しすぎてしまった現状を少し縮小したいとまで言っています。また、ある町では、大規模スーパーの進出を必死に抵抗して防いだとか。そして、過疎の村の良さに気付いて活性化のきっかけとなったのは、外国からの旅行者や移住者だった例もあるとか。興味深い事例が多数ありました。

著者曰く;
現代の文明国と呼ばれる国々にみられる閉塞感の理由の一つに「生活空間の均質化」あるのではないか。巨大なショッピング船体―、世界中で同じような映画ばかりのシネコン、駅前に連なるチェーン店、画一的な住宅街・・・

ううんと唸らされてしまいます。確かに私の地元でも、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどの大規模チェーンに置き換えられてしまい、昔ながらの個人商店は殆どが姿を消してしまっています。買物する上での不便はないし、むしろ便利なのですが、その一方で、確かに会話がなくなっています。買物に行って会話をするのは、個人経営の酒屋さんとパン屋さんくらいかな。この傾向・現象をどうとらえるかがスロー路線との分かれ目になるのでしょうね。私自身、矛盾をかかえながらですが、それでもスローライフを意識していたいものです。

それにしても、スローフードといい、このスローシティといい、いわゆる近代的経済発展に逆行するような動きを世界に先駆けて始めるイタリアという国に、あらためて敬意を表し、また一段とイタリア好きになりました!