パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

231120 世界名作シリーズ⑥

2023-11-20 09:13:03 | パロディ短歌(2011年事件簿)
     バルザック『ラブイユーズ』を読む


 『ゴリオ爺さん』に次ぐバルザック編である。『ラブイユーズ』(国分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2022年)は、いろんな見方のできる小説である。表題になっているラブイユーズはフロール・ブラジエという美女を指す。元はルージェ医師の囲われ者であるが、ルージェ医師の死後、長男のジャン・ジャック・ルージェに軽い知的障害があるのを利用して、ルージェ家の財産を乗っ取ろうとする。

 しかし、彼女がこの小説のヒロインかといえば疑問符がつく。この作品は全部で3部に分かれており、第1部「兄と弟」、第2部「田舎の独り者」、第3部「遺産は誰の手に」という表題がついているが、ラブイユーズは第2部と第3部にしか出てこない。全編を通して活躍するのは別の人物なのである。第1部から出てくるのはジャン・ジャック・ルージェの妹アガトで「聖母マリアのように、結婚してからも清らかな乙女の美しさをいつまでも失わない」で、敬虔なクリスチャンでもあり、内務大臣付きの書記官・ブリドーと結婚しフィリップとジョゼフという二人の子供をもうける。

 これが対照的な兄弟で、フィリップは母に似て金髪碧眼の美丈夫。軍人を志しナポレオンの軍隊に志願し勲章までもらったので、母のアガトは「天才的な人物」と錯覚する。ジョゼフは黒髪の多い大きな頭をもち、しかめっ面をしていることが多く、端的にいえば醜い子供だった。ただし、観察力に優れた彼はのちに偉大な画家となる。兄はナポレオン時代が終わると賭け事、女、酒におぼれて身を持ち崩し、弟や母の金をくすねて生きている。しかし、母親は「時流が悪い」せいでフィリップが苦労している、としか考えない。

 バルザックには子供に盲目的な愛をそそいだ結果、自分は零落して貧窮のうちに死に、しかも葬式にすら子供たちが来ない、という悲劇の主人公「ゴリオ爺さん」という作品がある。父性愛のキリスト、という異名をもつ名作だが、『ラブイユーズ』の第1部は、これに対応する母性愛の物語という側面をもつ。ゴリオ爺さんは娘の教育に失敗したわけだが、フィリップの母アガトも堕落した息子をかばい続ける。時が来ればきっと、あの子は立ち直って偉大な人物になる、と信じ続ける。

 フィリップが不始末を仕出かすたびに、母の年金は減ってゆき、住まいも屋根裏部屋まで落ちぶれていく。フィリップが母の同居人からも、虎の子の金を盗んだときは、さすがに息子を勘当せざるを得ないが、それでも街角で汚い身なりをしたフィリップを見かけたら、駆け寄って有り金全部を財布ごと渡してしまうような母親である。

 「機転がきく性質ではなく、また美しい魂の持主がえてしてそうであるように人を簡単に信用してしまう」…これがアガトに付された性格である。要するに、世のありきたりの母親のイメージである。アガトが信心深いことは何の助けにもなっていない。フィリップの転落と対照的に、ジョゼフは着実に画家の地位を築いていくが、アガトには芸術が分からない。母としてはジョゼフにも申し分ないのだが、ジョゼフの本当の価値が分からない。母親の気高さと愚かさを描き切って、第1部「兄と弟」は単独の作品としてもいいくらいの出来栄えである。

 ただし、第2部に至って作品はがらっと趣きを変える。悪女ラブイユーズがアガトの兄、障害者のジャン・ジャック・ルージェを丸めこもうとしていることは紹介したが、当然のことながらラブイユーズには情人がいる。マクサンス・ジレ通称マックスだ。軍人でイギリス軍に捕らわれ廃船を利用した劣悪な収容所に4年間も閉じ込められていた。

 著者いわく「この4年間で彼の道徳心は完全に堕落」した。「ここ(筆者注、収容所)は苦しみを学ぶ学校であり、辛酸を嘗めた者たちがただひたすら復讐を夢見るところであった」。ナポレオンの百日天下の際、マックスは少佐の称号を得て軍隊に復帰するが、ワーテルローの戦いでナポレオンが敗れてからはすべてを失い、町の若者を集めて怪しげな「騎士団」をつくり、町民に迷惑ばかりをかけていた。彼が失脚しなかったのは、ラブイユーズと組んでジャン・ジャック・ルージェから巻き上げていた金の力である。

 マックスがジャン・ジャック・ルージェの財産を狙っていることは、町中がそれとなく知っており、アガトの元にも親戚を通じて注進が入る。アガトはジョゼフを伴って、故郷に帰り事態を打開しようとするが、マックスの悪知恵の前に軽く一蹴される。ここで登場するのが、堕落しきったフィリップ。第1部でみせた情けない姿を一新して、マックス退治にのりだす。考えてみれば、マックスとフィリップは瓜二つ。百日天下のナポレオン軍に仕えて、それぞれ少佐と中佐に任官され、ナポレオン没落後は自堕落な生活を送る…など実の兄弟のようである。

 ここで、この小説はピカレスク(悪漢小説)の色彩を帯びる。二人の悪漢が互いにつぶし合う物語である。ただ、不思議なことにフィリップは第1部の姿とは違い、町の人々から期待される人物になっている。第1部の終わりに、ナポレオン派の軍人の陰謀があり、フィリップは連座して逮捕されるのだが、肝心のところは口をつぐんでいたために、将校たちが助かったという来歴が第2部になって語られる。ご都合主義的な色彩もあるが、とにかくフィリップは決闘の末、マックスを死に追いやり勝利するのである。

 第3部になると、悪漢フィリップの活躍は更に勢いを増す。伯父のジャン・ジャックがラブイユーズに執着しているのを利用して、二人を結婚させる。しかも100万フランという持参金つきである。過去のいきさつを流して、伯父の幸福を願うかのような振舞いは、町の人々に深い感銘を与えたが、何のことはない、将来自分がラブイユーズと結婚するための布石にすぎなかった。伯父の囲われ者と結婚すればスキャンダルになるが、伯母との結婚なら後ろ指は指されないからである。伯父の遺産は受け継いだうえで、ラブイユーズの100万フランも取りかえすつもりだったからである。

 フィリップは伯父とラブイユーズを伴ってパリに赴く。伯父に女をあてがい、ラブイユーズにもパリの悪習をたたきこむ。伯父は間もなく死に、ラブイユーズに恋愛沙汰を起こさせて送金を断つ。その一方で、自分は軍に復帰して大佐となり、権謀術数を駆使して、爵位まで手に入れる。ラブイユーズは貧窮のうちに病院にもかかれず屋根裏部屋で死の寸前。医師の計らいで手当てを受けるが、そのかいもなく死亡。妻の死を悲しむブランブール伯爵(これがフィリップ)は、将軍となるため次の手を打つ。

 しかし、1830年の7月革命で王権が増強されると見誤ったフィリップは、株の投資に失敗して全財産を失い、軍務で赴任したアルジェリアで凄惨な死を遂げる。弟のジョゼフは画家としての名声を確保し、幸せな結婚をし兄の爵位まで受け継ぐ。最後は駆け足で事件のスケッチだけが語られ、ここは完全な勧善懲悪小説の体裁で終わる。しかし、前半のフィリップの堕落ぶりも見事なら、悪漢として活躍する後半も見事である。

 小説を通読すると、主人公はフィリップでもラブイユーズでもなく、ジャン・ジャックとアガトの父、ルージェ医師が抱えていた財産である。財産をめぐる活劇とみればⅠ部と2部の乖離も気にならない。財産に全く無関心なアガトは金銭にまつわる醜い争いからは逃れていても、貧窮に追い込まれて余計な苦労をするし、財産に目のくらんだフィリップたちが幸せな人生を送るわけでもない。

 財産に焦点を当てながら、1810年代から20年代の世相や社会を、これほど綿密にたどれる小説もバルザック以外には考えられない。20歳のころは、何ページにもわたるバルザックの細密描写を煩わしく感じたが、60年たった今、あらためて読んでみると、的確な描写と19世紀のブルジョワ勃興の時代を細かいニュアンスまで伝えていて見事である。こんな仕事をしたのはバルザック以外にいない。さらにバルザックの魅力を増しているのは、彼が造形した人物はすべて「限度を超え」ているところにある。ゴリオ爺さんしかり、本編のフィリップしかり。限度を超えることで、ある爽快さが生じるのは事実。

 トルストイやドストエフスキーが小説のモデルとして高く評価したバルザックのエッセンスが、(あまり知られていない、この小説にも)色濃く反映しているのは事実で、何はともあれ面白い。光文社の新訳が、この本に目を付けた見識は確かである。訳文もこなれていて、同社の古典新訳は(例外もあるが)だいたい当を得ているとの証左になる。半世紀前の翻訳には直訳体に過ぎて、日本語としての意味がよくわからないものも散見されるからである。半世紀の間に欧米の宗教や社会への理解が進んだ証拠であろう。

 今回、ほかに目を通したバルザックの作品の秀作は次の通り。面白いこと請け合う。

「ゴプセック」(『ゴプセック』―芳川泰久訳、岩波文庫、2009年―所載)
…何故、高い利息をとって貸し付けるか? 金を借りる人はそもそも資金がなく、貸してもらうことからすべてが始まっているわけだが、高い利息を返済することによって、自らの力を誇示し、借金したという事実を帳消しにする効果がある…このように高利貸しの哲学を語っていたゴプセック、容易なことでは心を動かさなかったゴプセックの死後、部屋を調べてみると、贈り物や質草が半ば腐りながら積み重なっていた、という結末。やはり、金貸しは金貸し。『ゴリオ爺さん』の娘の一人、レストー伯爵夫人が登場する。詐欺師のような相手との恋愛に巻き込まれ、金に困ってゴプセックのもとへ、夫のダイヤモンドを無断で持ち込む。(他の小説で)見覚えのある人物が登場すると、遠い親戚に出会ったような懐かしさを感じる。バルザックが発明した、人物再登場の効果は抜群。また、当時の財産制度や遺産相続の実相がよくわかって面白い。

「恐怖時代の一挿話」(『知られざる傑作』―水野亮訳、岩波文庫、1989年―所載)
フランス革命当時、ギロチンで死刑を執行されたルイ16世のミサをあげるだけで、命を狙われた司祭の物語。革命の起こす恐怖がまざまざと再現されている。
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