パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

231104 E.トッドからの連想二つ

2023-11-04 11:53:35 | パロディ短歌(2011年事件簿)
   ①  「周縁」の意味が明瞭な「アホ・バカ分布図」



 松本修『全国アホ・バカ分布考』(太田出版、1993年)を守山市立図書館から借りて読んだ。前回のブログでとりあげた「E.トッドの人類史」の中に、「最も古い形態(核家族)が周縁部に残存しているのは、古い方言が中心から遠いところに残るのと同じで、『周縁地域の保守性原則』に則っている」との記述があり、これを読んだ途端に『アホ・バカ分布考』という本があったなと思い出したからである。

 著者の松本修氏は朝日放送テレビのプロデューサーで、1988年に始まった「探偵!ナイトスクープ」という番組をうけもっていた。視聴者の依頼にもとづいて「この世のあらゆる謎や疑問を徹底的に究明する」ことをモットーとした娯楽番組である。最初は「アホとバカの境界線はどこにあるか?」という、他愛もない設問から入っている。

 関西からアホ圏をさぐり、関東からバカ圏をさぐる途中で、名古屋のタワケ圏に遭遇し「知らなんだー」とぼやく程度の素人集団が、本気を出してアホ・バカおよびこれに類する方言の研究を続けた結果、1991年度の日本民間放送連盟賞、テレビ娯楽部門最優秀賞、ギャラクシー賞選奨、全日本テレビ制作者連盟賞グランプリを受賞したのみならず、1991年10月に金沢で開催された方言学の学会「日本方言研究会」で研究発表を行うまでになる。

 その詳細はこの本に依ってもらうしかないが、ここで紹介したいのは言語周圏論という考え方である。著者の語るところは―
「昔、京の都で一つの魅力的な表現が流行すると、やがてそれは地方に向けてじわじわと広がっていった。つまり「言語は旅をした」のである。そして、次にまた新しい表現が京で流行ると、これもまたあとを追って地方に旅立つ。ちょうど池に石を投げ込むと、波紋が丸い円を描いて広がってゆくように、言葉もまた都から同心円の輪を広げながら、遠くへ遠くへと伝わっていった。人が移住して言葉が広まったのではなく、人から人へと口伝えに都言葉が伝播していったのである」

 アホ・バカおよび類語の分布を調べると、まさしくこのような同心円を描いていた、というのが結論で、著者は言語が旅をする速度が平均で1年に930メートル、1日に約2メートル10センチという数字もはじき出している。昔からいわれていたように「古語は辺境に残る」という事実が確認されたわけで、アホ・バカ系統の最も古い言葉は青森と鹿児島に残る「ホンジ(本地)ナシ」(具体的には岩手「ホウデェナス」秋田「ホジナシ」宮城「ホデナス」山形「ホジャネー」福島「ヘデナシ」、鹿児島「ホガネー」「ホガナカ」)である。


 この本の結論を示す色刷りの地図がある。本の白眉をなす地図なので、紹介するのは仁義に外れる恐れもあるが、細かい文字などが分からない縮尺なら許されるだろう。がアホでがバカの分布である。見事にが囲む形になっているが、この地図の内容はもっと細かくて深い。われわれが子供のころから慣れ親しんだ言葉(アホ!バカ!マヌケ!お前の母ちゃんデベソ!と叫んだ記憶がないとは言わせない)が、幾重にも展開する様は、読んでいるだけでも十分に楽しい。著者の言うように、言葉は京都を中心とした同心円を描いている(原著の地図をあたられんことを!)。

 この地図を読んだ後、あらためてE.トッドの「周縁地域の保守性原則」に思いを馳せると、ユーラシア大陸の周縁部とはヨーロッパと日本を含む東アジアなのであって、ここに古い家族形態(核家族や直系家族)が残る、と考えられる。ユーラシア大陸の中心部はメソポタミアとチャイナの二か所にある。現在のメソポタミアは内婚制共同体家族、現在のチャイナは外婚制共同体家族で最も新しく、ヨーロッパには絶対核家族(イングランド、オランダ、デンマーク)、平等核家族(スコットランド、アイルランド、北フランス、スペイン南部、ポルトガル南部、南イタリア、ポーランド、ギリシャ南部)という最古の核家族に直系家族(ノルウェー、スウェーデン、ドイツ、南フランス、スペイン南部、チェコ、オーストリア)が混じっている。東アジアには直系家族(日本、韓国、北朝鮮)が残っている。ヨーロッパ風の核家族がないのは、アジアがチャイナから距離が近いせいで起源的核家族は消えてしまったのだろう。しかし微視的に見れば、日本の中には起源的な核家族の形態が西南日本に認められる。つまり、ユーラシア大陸の東西の家族類型は似ているのである。

      ②梅棹の生態史観とトッドの人類史


 突飛なようだが、ここで思い出したのが梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫、1974年)である。このブログでも一度紹介した覚えがある。あらためて読みなおすと、次のような記述がある。イスラム諸国や中国、インドは均分相続制であるが、「日本と西ヨーロッパは、どちらも、伝統的制度としては、長子相続制である。これは、おそらくは両者に共通な封建制の発達ということと関係があるだろう。土地をやたらに分割したのでは、封建制の基礎がくずれてしまうのである」。

 均分相続制はトッドのいう共同体家族の相続形態であり、長子相続制はトッドのいう直系家族の相続形態である。西ヨーロッパ全体を長子相続とみるのは、現在に当てはまらないが、梅棹は「伝統的制度としては」と断り書きを入れている。つまり「歴史的にみると」ということであり、それなら間違ってはいない。他の条件もいろいろ加味した上で、「わたしは、明治維新以来の日本の近代文明と、西欧近代文明との関係を、一種の平行進化とみている」という梅棹の主張になる。


 梅棹は豊富なフィールドワークを通じて、旧大陸(ユーラシア)を第一地域と第二地域に分ける。図中の第二地域でⅠはチャイナ、Ⅱはインド、Ⅲはロシア、Ⅳは中東をさす。第一地域は封建制を経て近代文明を享受することができたが、第二地域はいくつもの巨大帝国ができたにもかかわらず、できては壊れ、壊れてはできる、といった有様で順序よく発展しなかった。その理由はユーラシア大陸の中央にある乾燥地帯から発生する人間集団にある。何故かはわからないが、この集団は第二地域の文明を吹き抜けて、しばしば癒しがたい傷を負わせて行った。第二地域の歴史は、破壊と征服の歴史である。

 これに比べると、第一地域は中央(乾燥地帯)の暴力が及ばないという利点があった。順次社会は発展していく余裕があった。文明の「生態」史観というのは、「遷移」という概念と関連付けられている。場所の気候条件に合わせて、植物の群落が次第に別の群落に変化していく有様をさしており、第一地域が順序よく遷移が運んだのに比し、第二地域は気象条件が厳しく(遊牧民の侵略により)遷移が途切れがちであったと目される。(現在のロシアとチャイナの権威主義的な政治体制は第二地域特有の帰結であり、中央からの膨張主義は歴史上繰り返されてきた、と梅棹史観では解釈できる)

 ユーラシア周縁部に人間社会発祥の形態である核家族原理が残って、いわば人類の記憶が梃子となって近代文明が興ったという、トッドの人類史と梅棹の生態史観が、期せずして同じような結論(周縁部に近代文明の勃興が認められる)に至るのは興味深い。ちなみに梅棹の「文明の生態史観」は初出が1967年(昭和32年)である。現在の状況にも合致するのには、あらためて驚くしかない。

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