某乳児院の園長先生から非常に興味深い話を聴いた。
『乳児院の保育士は、やはり自宅から通っている人がいいなと思っています。一人暮らしをしている人と家族で暮らしている人だったら、家族で暮らしている後者の人を採用したいと考えています。「家庭」の中で暮らしている人は、たしかに視野は狭くて、経験に乏しいかもしれませんが、家庭で生きるたいへんさをよく知っています。乳児院は、やはり家庭そのものであります。祖父母の方と一緒に暮らしている人だともっとよいですね』
この話を聴いて、僕がずっとひっかかっていたことが一つはっきりと分かった気がした。対人援助職の絶対条件というか、保育士の前提条件が見えた気がした。
片親でもいい、共働きでもいい、義父母でもいい、パッチワークファミリーでもいい、いずれにしても、家族と共にしっかり(家族と向かい合って)生きている人が、保育や福祉の仕事に適しているのだ。(というより、そういう人こそ保育者になるべきだということ)
どんな形態であれ、家族の人から、たっぷりと愛情を注がれ、たくさんの時間を家族と過ごし、執拗なほどにかかわりあい、ぶつかりあい、そして、支えあう。
そうした複雑で重層的な家族関係を乗り越えてこそ、他者の援助が可能となる。ケア論の中で、「自分自身をケアできないものは、他人をケアすることはできない」とよく言われている。まさにそうだ。ちょっとパラフレーズすれば、「自分自身を家族の中で生かせない人は、他人の家族の中を生きることはできない」、となる。
とりわけ、乳児院や養護施設は「家庭的機能」を最も重視する施設である。ゆえに、家庭がどんな場所でありうるのかをしっかり熟知していないものには、とても難しい場所なのである。また、家庭を生きることが困難な人は、そうした児童福祉施設で、自分の問題と他人の問題を重ね合わせて見てしまうことになりかねない。心に傷を残した人間は、自分とよく似た境遇の人に対して、共感ではなく、同化してしまう。自分の気持ちを相手に重ね合わせてしまうのだ。
園長先生のお話は、まさに児童福祉の根源にかかわる話だったように聴こえた。お金持ちだろうと、貧しかろうと関係ない(点子ちゃんとアントンを見よ)。大切なのは、愛し愛される家族関係をしっかり築いているかどうか。そして、家族の中で生きることのたいへんさと素晴らしさをよく知っているかどうか。
僕は保育業界の関係者として、児童福祉にまつわるディープな話をよく聴かせてもらっている。そのほとんどが笑えない話ばかりだ。生後数週間の赤ちゃんが、母親から離れて、一人施設で暮らしている姿を見ると、どうしようもない気持ちになる(それでも赤ちゃんの顔はとても素敵なのだ。そこがまた切なくなるのだが・・・)
そんな時、保育士がしっかり家庭を生きることができていれば、その子に対して「家族の一員」としてかかわることができる。たっぷりの愛情を受けていればこそ、たっぷりの愛情を注ぐことができる。愛情というのは目に見えないが、常に流れ込むものでもある(*愛情を受けることは自分にはできないが、愛情を注ぐことは自分ですることができる!・・・だが、愛情を惜しみなく注ぐことができるかどうかは、どれだけ愛情を受けているかにかかってくるのだが・・・)。惜しみなく無条件で与え続ける愛は、やはりしっかり愛されているものでなければできないことなのかもしれない。この愛情の循環構造はもっと解明されねばならない現象であると思うのだが・・・
僕は、18歳の時に、家族に対する考え方がガラリと変わった。それ以降は、自分の親や家族を大切にしている(自分が自ら家族に対峙している)。家族というのは、やはり儚いもので、いずれ、遅かれ早かれ別れ別れになってしまう。親というのは、ほぼ必ず子よりも早く死ぬ。家族は、永遠ではなく、やはり瞬間の集合体なのだ。その一瞬一瞬がとても貴くて、かけがえがないのだ。そう思えれば、家族に対する考え方そのものがガラリと変わってくれるだろう。
とりわけ、家庭人のプロである保育士は、自分の育った家族、自分が育てていく家族、どちらであっても大切にしなければならない。どんな事情があれ、どんな過去があれ、自分自身の家庭をケアできなければ、他人の家族のケアなどできるわけがないのだから。。。
それは教師も同じだ。家庭が崩壊している凄腕教師というのはそういるわけじゃないと思う。力のある先生はやはり家庭も大切にしている。家族を犠牲にして教育業に専念する先生を「良い先生」とは言わないだろう。保育士であっても、自分の家庭を肯定的に見ることのできない人が他人の家庭を肯定することなどできるはずもない。
どんな家庭であろうと、その家族としっかり向かい合って、ある程度距離が取れていなければ、乳児院の保育士は勤まらないのだろう。園長先生のお話は非常に説得力のあるお言葉だった。