僕は考えた。「嫉妬って何なのだろう?」、と。嫉妬ってよく聞く言葉だけど、嫉妬って一体何なのだろう。嫉妬は、別の言葉では、「やきもち」とも言う。やきもちって一体何なんだ・・・
これは、考えるだけの価値のあるテーマのようにも思える。もちろん心理学では「嫉妬(Jealousy;Eifersucht)」についての研究は結構さかんに行われているし、日常的にもよく馴染みのある言葉ではある。だが、「嫉妬とは何か?」と問われると、答えるのが苦しくなる。一体、嫉妬とはどのような現象なのだろうか。
辞書をひくと、次のように書いてある。
①人の愛情が他に向けられるのを憎むこと。また、その気持ち。特に、男女間の感情についていう。やきもち。悋気(りんき)。
②すぐれた者に対して抱くねたみの気持ち。ねたみ。
(ちなみに、英語のjealousは、ラテン語zelus(熱意:zeal)に由来している。故に、jeal(熱意)+ous(に富む)という意味であり、ある対象に対してありふれた熱意を向けることを示す言葉である♪)
①の説明は、なかなかうまく表現できているように思う。愛する人の愛情(彼氏/彼女の愛情)が他の異性に向けられることを憎むこと、もっといえば、それを恐れること、それが嫉妬である。自分の愛する人が別の人を愛してしまう、というのはとても辛いことだろう。付き合っていなければ、「絶望感」が漂うことだろう。付き合っていれば、「破局」という二文字が脳裏をよぎるだろう。
母子間で言えば、例えば、長男/長女にだけ愛情を注いでいた母親が、新たに誕生した次男/次女に愛を注ぐとき、長男/長女は、精一杯の「嫉妬」をして、ぐずったり、わざと駄々をこねたりし始める。「赤ちゃん返り」する子どもも少なくない。自分への愛情が、別の存在に奪われることへの抵抗ともいえるだろう。人間は、根本的に(つまり生得的に)、特定の他者から愛情を得ることを欲しているのかもしれない。
成人同士である夫婦間だと、嫉妬はさらにねじれていく。自分の夫の愛情が別の女性に向かうことを極度に恐れる妻は、自分の夫が浮気していないかどうか不安になり、嫉妬にあけ狂う。ねじまがった妬みや嫉妬ややきもちは、時として、とんでもない方向へと展開する場合もある。「別の女を愛している(かもしれない)夫は許せない。憎らしい。この世から抹消したい」・・・そういう感情が芽生えないとも限らない。その前提には、「夫は妻を愛していなければならない」という強い確信があるのだろう。
恋人間では、嫉妬はもはや定番、というか、なくてはならない現象かもしれない。「もしかしたら別の人を愛しているのかもしれない」、という感情は、不安定な恋愛関係においては、むしろ自然の現象であって、逆にそういう感情がないほうが恐ろしい。僕も、かつては嫉妬に苦しんだ。僕がかつて愛した女性は、僕という彼がいるにもかかわらず、別の男性のことを気にかけていた。もちろん、その女性は別の男性を愛しているわけではなかったが、何ともいえない気分になって、その彼女をうらみ、憎み、わざと嫌われるようなことも言った。それは、愛情を自分に向けてほしい、という若き日の自分の精一杯の愛情表現だったのかもしれない。
そうか。嫉妬とは、たしかに、自分が愛する人が別の異性に愛情を向けることへの憎しみや恨みのことを言うが、もっと根本的には、「しっかり自分に愛情を向けてほしい」、という願望を示す信号のようなものなのかもしれない。もし自分が嫉妬しているとすれば、それは、他者への愛情の要求であり、愛されたいという願望の現われであり、もっと言えば、他者に対して「自分をしっかり愛せ」という強烈な要求なのである。そこには、きっと健全な嫉妬と不健全な嫉妬があることだろう。(この点はもっと考えていかねばならない点かもしれない)
おそらく、僕の教え子である女子学生は、①の意味での嫉妬に苦しんだのだろう。だが、僕としては、もう一つの嫉妬②も、是非とも体験してもらいたいと思う。①の嫉妬は、男女の恋物語の定番として、あるいは恋の風物詩として、人間の成長を助けてくれるだろう。だが、それだけではつまらない。やはり②の意味での嫉妬も体験したいところだ。
嫉妬の二番目の意味は、「すぐれた者に対して抱くねたみの気持ち」である。すぐれた者に対して、あれこれと悩んだり、ねたんだり、羨んだりすることは、たしかに悲しいことかもしれないが、「すぐれた者」を意識する、という点では十分に評価できることなのではないだろうか。ヘルマンヘッセの【車輪の下】でもそういうシチュエーションがあった。「この人にはかなわない」と思うような友達や先輩。そういう人との出会いは、自分の人生に深く刻み込まれるはずだ。
僕もそういう友達や友人に数回ばかり出会っている。「こいつには勝てない。でも勝ちたい。こいつだけモテて・・・ こいつばかりチヤホヤされて・・・ なんでコイツだけ・・・」といった風に。その裏には、①と同様、自分をもっと見てほしい、自分をもっと認めてもらいたい、という「他者の愛情の要求」が潜んでいる。先生をしていると、②の意味での嫉妬は時折あるものだ。「なんであの先生は学生たちに好かれていて、僕は好かれないんだ?!」、「僕の方がいいはずなのに、どうして?」、「なんだか気に入らないな」・・・となり、嫉妬に狂うようになる。そこには、「他者との比較」による自己の劣等性が問題となる。「自分は劣っている」ということの認知の否認。
(こうした嫉妬は、スポーツ選手によく見られる現象ではないだろうか。プロ野球を観ていると、つくづく思う。目立つ選手の背後にいる多くのベンチ選手のことを。一軍のスタメンに出られる選手はほんのごく一部である。そのスタメンで活躍できるのはさらにそのごく一部である。選手たちの妬みや嫉妬はどれほど大きなものだろう・・・)
ようするに、嫉妬とは、「他者との比較」による「自己」の「過小評価」に基づいて生じるものであり、自己の危うさに結びついているのである。自分に自信のある人は嫉妬しない。自分に自信がないから、嫉妬するのであろう。嫉妬とは、相手を憎むことというよりはむしろ、他者を憎む自分自身への憤りを示しているではないだろうか。
とすると、嫉妬を克服するためには、相手を自分に振り向かせることをするのではなく、「他者との比較」をしてしまう自分自身を律すること、「自己の過小評価」を否認すること、危うい自分自身のあり方を問い直すこと、つまりは、自己を捉えなおすこと、そういう努力を怠らないことが重要であろう。嫉妬は、自分自身の生き方やあり方を問い直す糸口となってくれるものなのかもしれない。
・・・また、もし、本当に恋人が別の異性を愛しているということが分かってしまったら、その時、自分の中で生じるのは、嫉妬ではなく、本当の憎しみ/怒りであろう。また、夫婦間で言えば、【浮気】とラベリングされることとなる。嫉妬は、本当に絶対的危機を示す症状ではなく、その予兆(アウラ)なのだろう。現実への感情ではなく、可能性への感情と言ってもいいかもしれない。そういう意味では、嫉妬は、一つの大きな哲学的なテーマなのである。
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