新新☆もこほじゃほろみ日記

煩悩と私事のサイト

ネズミ女の怪?

2006-05-31 | 荒川静香
でも空気が白っぽい。緑が濃いなー。

 いやー、レスへの返事を書いていて遅くなっちゃたー。愛読者っているもんですね。ありがたや。ありがたや。

 少しだけ報告しちゃいます。第3話の初日アクセス数274件。これは第1話243件、第2話213件(いずれも初日のみ)を抜いてトップです。リンク元の約9割がしーパラから。7%がブログから。残りがHPからとなります。要するに、見ている人は、しーパラとブログの読者だけってことですよ。私のHP+ブログの社会的影響力なんてそんなもんですよ。

 今回トップになった要因は、否定的なレスをつけられたせいだと思いますが、どうですかね。

 今夜は、そうじゃなくて、用意した話題があったのでした。
 翻訳家・エッセイイストの米原真理さんが亡くなりました。56歳。
 私は、思想的にはこの人とはたぶん合わないと思う。ついでにいうと、お母様を介護されていたとか、それらには別に興味がない。私がこの人を面白いと思ったのは以下のエッセイを読んだ時である。

 米原真理さんは、少女時代をプラハで過した。その間に、すっかり西欧風な感性を身につけられたのでしょうね。やがて日本に戻ってきた米原さんは、日本で一番美しいと教えられた女優「吉永小百合」の写真を見て驚いたそうな。

 なんで、こんなネズミみたいな顔の女が美しいんだ?!

 西洋人の目を持った米原さんには理解できなかったそうな。そうかー。西洋人(チェコ人限定?)が吉永小百合を見ると、ネズミに見えるんだ!ひぇ~!

 ところが日本で長く暮らすうちに、米原さんにも、吉永小百合が美しく見えてきたんだそうである。日本で暮らすうちに、日本人の感性が身についたのでありましょうか。

 ちなみに私が見て一番美しいと思う女性は…、へっへっへっ、言うまでもないですがな。

 そうか…「島崎弥生」もありかも?

 

ヨイトマケの唄

2006-05-29 | 雑感
 やや雲多し。湿った風吹く。

私は、この唄にかなり思い入れがある。
三輪明宏がTVで歌うのも何回か聴いたこと(観たこと)がある。
私自身は、貧乏な家に育ったわけではない。だが、サチコちゃんのような貧しい家になぜか思い入れてしまう。そういう家の子が、華やかなフィギュアスケートの世界に生きるシズカちゃんにどんな気持ちを抱くか。それが目下私の心のテーマである。


ヨイトマケの唄
作詞・作曲:丸山明宏
編曲:川上栄一

1)
今日も聞こえる ヨイトマケの唄
今日も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

2)
子供の頃に 小学校で
ヨイトマケの子供
きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に くれながら
泣いて帰った 道すがら
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

3)
姉さんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天にむかって声あげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

4)
慰めてもらおう 抱いて貰おうと
息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿を 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰っていったよ 学校へ
勉強すると 云いながら
勉強すると 云いながら
 
5)
あれから何年たった事だろ
高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労 苦労で 死んでった
母ちゃん 見てくれ この姿
母ちゃん 見てくれ この姿

6)
何度か僕も グレかけたけど
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一

ダブルヘッダーの日

2006-05-28 | 雑感
午前 午後 まだ梅雨でないと申すか!?

 午前中○袋R学院にて、Sohnとともにチャペルコワイヤーに参加。なんやかやで結局合唱もやっちゃい、聖体まで拝領する。「陪餐」とか云っていたな。聖公会の訳語は加特力と微妙に異なるのだが、やってることはほとんど同じだった。グレゴリオ聖歌まで使っていたのには驚いた。ただし歌詞は日本語だけど。メロディーはそのままである。司祭の助手を務める連中は、アコライトというそうだが、ガウンをつけてこれも加特力とほとんど同じ。英国のハイチャーチの伝統なのだろう。オルガンの音が美しい。聖公会は音楽的には加特力より充実していると思う。儀式の荘厳さ+美しさではロシア正教(ギリシャ正教)が上かもしれないが。

 午後は仙川詣で。夜はKlavierのエクササイズ。すべて終るのが11時過ぎ。ダブルヘッダー、いやトリプルかも。本人も大変だろうが、親も大変だ。

 そういうわけで特に脈絡はないが、ジョン・レノンの「マザー」いってみよう。申し訳ないが、私のヘタクソな訳詩である。

    マザー    ジョン・レノン

  お母さん 僕は あなたのものだった
  でも あなたは 僕のものではなかった
  僕は あなたが欲しかった
  でも あなたは 僕を欲しくなかった
  だから 僕は あなたに 言わなければならない
  さようなら さようなら と

  お父さん あなたは僕を捨てた
  でも 僕は あなたを捨てなかった
  僕には あなたが必要だった
  でも あなたは僕を必要としなかった
  だから 僕は あなたに 言わなければならない
  さようなら さようなら と

  子どもたちよ 僕のしたことを してはならない
  僕は 歩けないのに 走ろうとした
  だから 僕は 君たちに 言わなければならない
  さようなら さようなら と

  ママ 行かないで
  パパ 帰ってきて

  ママ 行かないで
  パパ 帰ってきて

  ママ 行かないで
  パパ 帰ってきて

  ・・・・・・・・・・・・・・

 私はビートルズが大好きだった(今も)。中でもジョン・レノンが好きだった。これは解散後のジョンの最初のアルバムより。解散後の作品は、ともすればヨーコとの個人的なものに傾きがちだが、この「マザー」は万人の心を打つ名作であろう。

 少年期に家庭に恵まれなかったジョンの切ない心が、ヨーコという伴侶を得たことで、融けて溢れ出たのであろうか。ジョンにとって、恋人であり、妻であり、母であったヨーコの存在。「ジュリア」というジョンの母の名前をタイトルに持つ歌では、「オーシャン・チャイルド(=洋子)」という名で登場する。

週末なのに

2006-05-27 | 雑感
一日中霧 しっとりしとしと。雑草がぐんぐん伸びるのにはまいる。

 週末なのに忙しい。仕事関係じゃないんだけど、ある意味仕事より大事。まったくもう。自分の時間は夜しかない。だから寝不足になる。隠れてなにかするのも大変だ?!

 館野泉のDISKをゲット。時間を作って聴くことにしよう。TVで紹介されていた間宮芳雄の曲が入っている。ブラームス編の「シャコンヌ」も楽しみである。

 では明日も早いので寝るとしょかのう。寝る前にしーちゃんのカッコイイ写真でも見るかな。へっへっへっ…

『レンヌ=ル=シャトーの謎』借りたどー!

2006-05-26 | 雑感
 晴天は長続きしない。

 『レンヌ=ル=シャトーの謎』を借りることができた。勤務先に大きな図書館があるのはさすがに便利である。A5版で500ページ以上ある分厚い本である。目次を見ると第12章に「イエスの結婚」「イエスの妻」「最愛の弟子」、また補遺に「プリウレ・ド・シオン団の総長」なんてのがある。おお、これだな。さすが『ダ・ヴィンチ・コード』のネタ本と云われる?だけのことはある。これを6月10日までに読まねばならない。すでに7~9日はどうしようもない予定が入っている。大丈夫かねー。

 ここのところ睡眠不足が続いた。じっとしてても眠くなる。えーい、もう寝るぞ!!

『レンヌ=ル=シャトーの謎』

2006-05-25 | 雑感
1日爽やか。朝久し振りに雪ベッタリの富士。昨夜降ったか?

 『レンヌ=ル=シャトーの謎』買おうと街まで出かけたら~、あんまり高くて~買うのやめちゃった~。と云っても4800円なのだ。これが飲み代だったら「お、安いじゃん!」と思うのだが。4800円の本が思い切って買えない私は、サチコちゃんと同様貧乏人である??そういや以前、私の知ってる、とある社長は「シフさん、私はねー、2万円以上の靴がどうしても買えないんですよー」と言っていたな。そうですかー。私なんか1万円以上の靴も買ったことないっすよ、とは言わなかったけど。

 『レンヌ=ル=シャトーの謎』は、だから図書館で借りることにしよう。予約がいっぱいかも知れないけどねー。立ち読みした感触では、かなり分厚く難解そうな本だったけどね。それにしても「ダ・ヴィンチ・コードの謎解き」系の本が多いのには驚くほどである。みなさん便乗してますねー。さほどキリスト教に関心のなさそうな日本で、もしガンガン売れているのだとしたら、流行って恐ろしい…


 では、今夜も詩を読まう。またしても中原中也だよ。

「在りし日の歌」より
   
   北の海
 
  海にゐるのは、
  あれは人魚ではないのです。
  海にゐるのは、
  あれは、浪ばかり。
 
  曇つた北海の空の下、
  浪はところどころ歯をむいて、
  空を呪つてゐるのです。
  いつはてるとも知れない呪。
 
  海にゐるのは、
  あれは人魚ではないのです。
  海にゐるのは、
  あれは、浪ばかり。


 昔、ふざけて「北の湖」なんて言ってたっけ。北の湖の全盛時代を知っている私でした。(大鵬・柏戸の現役時代も知ってるぞ。分解写真、懐かしー!) 

中原中也を読みました

2006-05-24 | 雑感
午後より激しい。土曜日を上回るかも。

 相変わらず手抜き企画。
 だってぇ、中原中也ってティーンの頃よく読んで懐かしいんだもの。ティーンはやっぱり中也だよ!(エッ?違うの…、お前は何時代の若者かって?ふーんだ!)

 では、読む。

「在りし日の歌」より
   
   曇天
 
  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 
  手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
 綱も なければ それも 叶はず、
  旗は はたはた はためく ばかり、
 空の 奥処(をくが)に 舞ひ入る 如く。

  かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
 屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
  かの時は そを 野原の 上に、
 今はた 都会の 甍の 上に。
 
  かの時 この時 時は 隔つれ、
 此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
  はたはた はたはた み空に ひとり、
 いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。


 この独特のリズムと、特異な行換え+分かち書きが不思議に面白くて、「黒い旗って何を意味するんだろう?」とよく考えたものだ。実は今でも意味は解からない。解からないなりに、なぜか惹かれる詩である。

 もう一つ!中原中也の不思議なリズムここにありという詩。

「在りし日の歌」より
   
  正 午
     丸ビル風景
 
 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
 あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
 空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
 ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
 なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
 空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 このアリの巣でも観察してるような詩人の視点が面白いですな。昼休みのサラリーマンへの人間的な共感なんか微塵も感じられない。なんか現実世界から離れた自分があって、それが詩人にとっての真実の自分で、現実世界とは逆に、詩人にとっては、真実が戯画化されたもの、みたいに思っているのだろうか。思っているのだろうな、多分。これは立原道造にも感じたことである。

立原道造もいいね

2006-05-23 | 雑感
時々 陰鬱な空の下、緑は日々に濃く。

 さぁて、今夜も手抜き企画だよ!

 それじゃあ、立原道造を読んでみようかねぇ。

『萱草(わすれなぐさ)によす』より 

 SONATINE No.1
  
   わかれる昼に
 
  ゆさぶれ 青い梢を
  もぎとれ 青い木の実を
  ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
  私のかへつて行く故里(ふるさと)が どこかにとほくあるやうだ

  何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
  追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
  単調な 浮雲と風のもつれあひも
  きのふの私のうたつてゐたままに

  弱い心を 投げあげろ
  噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
  ゆさぶれ ゆさぶれ

  ひとよ
  いろいろなものがやさしく見いるので
  唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ


 詩人の手にかかると、カノジョとの別れもずゐぶん高邁になる。

 そいじゃ、も一ついきますか。

『優しき歌 II』より

   X 夢見たものは‥‥

  夢見たものは ひとつの幸福
  ねがつたものは ひとつの愛
  山なみのあちらにも しづかな村がある
  明るい日曜日の 青い空がある

  日傘をさした 田舎の娘らが
  着かざつて 唄をうたつてゐる
  大きなまるい輪をかいて
  田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

  告げて うたつてゐるのは
  青い翼の一羽の 小鳥
  低い枝で うたつてゐる

  夢見たものは ひとつの愛
  ねがつたものは ひとつの幸福
  それらはすべてここに ある と

 私は、詩人の心を通して見る、この景色がたいへん好きである。同時に、詩人にとっては、山里の現実よりも、自分の心に映った風景の方が、より真実なんだろうな、と少し意地悪く思ふのである。そこが詩人たる所以なのではあるが… 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』を観る

2006-05-22 | 雑感
のち 南風強し。

 早速と云うか、半分偶然なんだけど、映画『ダ・ヴィンチ・コード』を観た。観た場所が、なんと、お台場である。平日の今日、お台場で、しかも女房と二人である。これはまあ、何でこんなことになったかと云うと、とある事情で平日に(当然仕事は休んで)お台場に行く羽目となり、そこで数時間を潰す必要があり、じゃあ『ダ・ヴィンチ・コード』でも観るべ、となったわけである。

 平日のお台場は非常に空いていて、しかも日本語吹替版の初回(11AM)だったせいもあり、我々の他は3カップルと1親子連れという、ほとんど貸し切り状態で観ることができた。これが休日だったら、また有楽町や新宿の館だったら、こうはいかなかっただろう。

 さてその映画だが、ネタバレにならない程度に感想を述べる。

 まず私は原作は読んでいない。テーマはTV等で一応知っている。あのテーマを映画で描ききるのは難しいし、キリスト教について詳しくない人間が観ても、共感を得にくいだろうと思ふ。肝心のダ・ヴィンチの絵についても、詳細な分析は『最後の晩餐』だけで、他の作品はあまり登場しないのだな。その辺が物足りなかったぞ。アクションやサスペンスのシーンはふんだんにあり、こちらはけっこうハラハラドキドキさせられる。アメリカでは評判がよかったとは、こういうところだろうか。アメリカ人ってあんまり賢くないなぁ…って思うのは私だけ?

 まあ、この映画(または原作)を理解するには、聖書、特にマグダラのマリアについての「正しい」知識、教会史およびヨーロッパ史、聖書外典についての知識などが必要と思われる。でないと「聖杯」とかいわれてもピンとこないしね。

 自慢するけじゃないが、拙文「マグダラのマリア」でも読まれると、少しは理解の足しになるかもしれない。ちなみにこの文章は、現在7千アクセスを突破し、今なお爆発的にアクセスが増えているんである。恐るべし『ダ・ヴィンチ・コード』!