アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

伊勢サミットに憲法違反・「宗教的行為」の疑惑

2016年05月29日 | 天皇制と人権・民主主義

   

 伊勢志摩サミットが始まる前に、伊勢神宮の性格からみて、各国首脳が訪れることの問題を考えました(5月17日のブログ参照 http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160517)。

 ここでは別の視点から、安倍首相がサミットで各国首脳を伊勢神宮に連れて行ったことの問題点を考えます。それは首脳らの伊勢神宮「訪問」は、日本国憲法(第20条)の「政教分離の原則」に反する宗教的行為ではないか、という重大な問題です。

 伊勢神宮が天皇家の皇祖神・天照大神を祀っている国家神道のれっきとした宗教施設であることは天下周知の事実です。したがって政府も今回のことが宗教活動とみなされないように、首脳らは「訪問」したのであって、宗教的行為となる「参拝」ではないと強弁してきました。

 結果はどうだったでしょうか。
 政府は、「首脳らに日本の自然や伝統文化を肌で感じてもらった。神仏を拝むような宗教的行為を強要することはなかった」と言います。ところが政府は、「境内での行動の詳細は明かさないまま」(27日付琉球新報)なのです。

 「首脳らは内宮の最も奥に位置する正宮まで進んだ。天照大神が祭られ、神道の作法である『二拝二拍手一拝』する場所だが、外務省はこの場での安倍首相や首脳なの行動を非公表とした。正宮での取材は禁じられ、中継映像でも様子は放映されなかった」(同)

 各国首脳が伊勢神宮内でどのような行為をしたのか、一切非公表なのです。これでは政府がいくら「神仏を拝むような宗教的行為はなかった」と強弁しても、それを証明することはできません。
 ほんとうにやましい所がないのなら、なぜ取材禁止にしたのでしょうか。堂々と公開すればいいではありませんか。隠すほど現る。首脳らが宗教的行為を行った疑惑は極めて濃厚です。その場合、首脳らは安倍首相の指示に従った(あるいは見様見真似)でしょうから、事実上安倍首相が「参拝」を強要したことになるでしょう。

 もう1つの見逃せないのは、「記念植樹」(写真右)です。
 植樹は「地鎮祭」などと違ってそれ自体が宗教的行為とは言えないでしょう。しかし、植樹によって樹木を伊勢神宮に提供することは、神宮への寄付行為にあたるのではないでしょうか。そうだとすれば、サミット費用から特定の宗教施設に公金を支出したことになり、憲法上重大な問題が発生します。専門家の見解を聴きたいところです。

 ところで、今回のサミットで一番先に日本に来たのは、カナダのトルドー首相夫妻でした。トルドー氏らはタイトなスケジュールの中、伊勢志摩へ向かう前日、東京に滞在しました。真っ先に訪れたのは、明治天皇を祀っている明治神宮でした。そして次に行われたのが、皇居での天皇・皇后との面談でした。
 こうした日程がトルドー氏の希望だったとは考えにくく、日本政府、というより安倍首相がつくった工程表だったとみるのが妥当でしょう。

 首脳らを伊勢神宮に連れていくのは安倍首相の強い意向でした。安倍氏は首脳らに「日本の伝統や精神性に触れてもらいたい」とし「(伊勢神宮は)日本の精神性に触れるには大変良い場所」(琉球新報同前)だと公言していました。

 伊勢神宮は国家神道の中心であり、天皇裕仁はアジア太平洋戦争に突入する前に行って「戦勝祈願」(1940年6月9日)し、敗戦後に再び訪れて「終戦奉告」(1945年11月2日)を行うなど、侵略戦争推進の精神的支柱になった所です。

 日本の首相が、このような宗教的・歴史的意味をもつ宗教施設を「日本の精神性」を代表する所だとして各国首脳を案内し、おそらく「参拝」させたであろうことは、憲法違反の宗教的行為であると同時に、極めて重大な思想上、イデオロギー上の問題だと言わねばなりません。

 そしてこうした安倍首相の「思想」、政治的思惑が、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」(前文)、「天皇は、日本国の元首」(第1条)とする「自民党憲法改正草案」(2012年4月27日決定)と深くつながっていることを見逃すことはできません。

 


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