前回、朝鮮戦争が単独講和・日米安保体制への転換点になったと述べました。その点でぜひ補足しなければならないことがあります。それは、朝鮮戦争と天皇裕仁(昭和天皇)と日米安保の関係です。
朝鮮戦争前後の関係する動きを年表にしてみます。(豊下楢彦氏『昭和天皇の戦後日本』など参照)
1947・9・19 天皇の「沖縄メッセージ」
48・2・27 天皇の「第2メッセージ」
8・15 大韓民国(韓国)樹立
9・8 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)樹立
49・11・26 天皇・マッカーサー第9回会談
50・6・22 天皇、吉田茂首相を引見。吉田・ダレス会談
6・25 朝鮮戦争勃発
6・26 天皇の「口頭メッセージ」(ダレス宛)
8・19 天皇の「文書メッセージ」(ダレス宛)
9・14 トルーマン米大統領、対日講和の協議開始声明
51・2・10 天皇、ダレスを引見
4・22 天皇、ダレスを引見
9・8 サンフランシスコ「講和」条約、日米安保条約調印
天皇裕仁が戦前から一貫して「国体」=天皇制護持のために行動してきたことは周知の事実です。それは「国政に関する権能を有しない」(第4条)と明記した新憲法施行後もなんら変わることはありませんでした。
天皇はマッカーサー連合国最高司令官と11回にわたって会談しましたが(写真左は第1回)、朝鮮戦争勃発の7カ月前に行われた第9回会談で、「なるべく速やかに講和条約の締結を見ることが望ましい」と言うマッカーサーに対し、こう述べています。
「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることをおそれます」(豊下氏『昭和天皇・マッカーサー会見』)
まるで朝鮮半島における武力行使をマッカーサーにたきつけているかのようです。
朝鮮半島の情勢が緊迫してくるにしたがい、天皇は吉田首相らにはまかせておけないと、政府頭越しの言動を強めます。それは、「昭和天皇自身が、自らの〝運命”と朝鮮戦争の帰趨を、文字通り〝直結”させて捉えていた」(豊下氏、『昭和天皇と戦後日本』)からです。
そしてついに朝鮮戦争勃発。
「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであったと言える」(豊下氏、前著)
そこで、「天皇は、朝鮮戦争の勃発をうけて、自らの『口頭メッセージ』をもって、直接ダレスやワシントンに働きかけることに踏み切った」(同)のです。
天皇は実に戦争勃発の翌日に、マッカーサーに代わってアメリカの責任者となったダレスに「口頭メッセージ」を送り、8月にはその内容を文書で再確認します。
この「メッセージ」で天皇はきわめて重大なことをアメリカ政府に提案します。
当時講和条約をめぐって、条約締結後は米軍基地は撤去すべきだという意見と、基地は残してどこでも使えるようにすべきだ(米軍が要求する「全土基地方式」)という意見の間で論争が続いていました。この点について、天皇はこう述べたのです。
「基地問題をめぐる最近の誤った論争は、日本側からの自発的提言により避けることができたはず」(ジョン・G・ロバーツ、グレン・デイビス著『軍隊なき占領』の巻末資料より)
つまり、日本の基地提供は、アメリカの要求ということにしないで、日本からの「自発的提言」だということにすれば問題は起こらないだろう、というのです。アメリカがこれに飛びついたのは言うまでもありません。
天皇「メッセージ」の狙いは、まさに「講和条約締結後も、米軍によって昭和天皇と天皇制を防衛する体制を間違いなく確保することにあった」(豊下氏、前著)のです。
こうして、沖縄を「捨て石」にし、日本全土を米軍基地化する対米従属のサンフランシスコ「講和」条約・日米安保体制は、「国体」=天皇制を維持するための天皇裕仁の憲法無視の行動によってつくられました。その天皇の超憲法的言動に拍車をかけたのが朝鮮戦争だったのです。
これは決して過去の話ではありません。そうやって出来上がった日米安保体制が戦争法によって新たな段階を迎えています。
そして、憲法の「象徴天皇制」の規定を踏みにじった天皇裕仁の言動に対し、きっちりとした審判を下すこともなく、日本は「天皇制」を引き継いでいるのです。