星さんぞう異文化きまぐれ雑記帳

異文化に接しての雑感を気ままに、気まぐれに

ケロウナ便り(29) Adopt-a-Road

2006年08月27日 01時44分33秒 | Weblog

現役サラリーマンであった1990年代にカリフォルニア州で自動車を運転していた頃から気になっていながら、意味の分からなかったことがあります。Adopt a Highwayと書かれた立て札というか小さな看板のようなものでした。ハイウエイの出入り口近くに立てられていますが、割合と小さな看板であるため、高速で運転してると細部にまで目を通すゆとりがなく、疑問を晴らさずに放置して今日に至ってしまいました。

高校時代のアメリカ留学はホストファミリーの家族の一員となる建前のプログラムでしたから、This is our adopted son from Japan, Sanzo.と紹介され、「おれは貰われてきたのか?」とちょっと驚いた記憶があります。「里親になる」「子供を養子にする」意味のadoptです。Let's adopt this solution to solve that problem.で「採り入れる」「採用する」と訳す、あのadoptです。その延長からは「highwayadoptする」ことの意味が分からなかったのです。

ケロウナで目にしたAdopt a roadなる看板が、長年眠っていた私の疑問を呼び覚ましました。アメリカのHighwayがケロウナではRoadと書かれている違いはありますが、その看板の数は10年前よりも間違いなく目立つ存在に育っているように感じられます。

何人かの友人に聞いても確答が得られませんでしたがインターネットで答一発でした。便利な世の中になったものです。詳細は下のウエブサイトを見てください。

1985年にテキサス州でスタートしたハイウエイの美化運動で、いまやアメリカ合衆国50州のうち49州が採り入れている活動であり、お隣のカナダでも広く普及している運動なのです。ウエブサイトはワシントン州のものですが、どの自治体にも似たようなサイトがあり、運動の更なる普及を呼びかけています。

道路のごみ拾い、雑草取りなどの美化活動に実際に労働奉仕するボランティア活動からスタートして、清掃は専門業者に任せてその費用に充てるための資金を寄付で集める運動に発展したようです。地方自治体と一般市民・企業とが共同で進める運動で、ハイウエイHighwayにとどまらず一般道路Roadまでも対象とする幅広い運動に発展したようです。

道路美化のための資金を寄付をした個人・団体は道路の一定区間の「里親」と認定され、その道路にたてる看板にその個人・団体の名前が記されて、いわば顕彰されるとの見返りがあります。環境にやさしい企業・団体とのイメージアップにつながるので大企業が大規模な寄付をこぞって進めるとの好循環も産んでいるようです。

持てる者が持たざる者を助ける、自分の生活を少し切り詰めてでも他者への手助けを惜しまない、奉仕精神の豊かなアメリカ人、カナダ人の懐の深さを表す運動と思うのは思い入れが強すぎますかねぇ? 

ポイ捨てされた空き缶、空き袋が目立つ日本の道路をついつい思い出してしまい、公徳心の彼我の差を痛感するとともに、「おらがみち運動」なんてのが日本でも始まらないかなと期待してしまいます。

 http://www.wsdot.wa.gov/biz/adoptahwy/


ケロウナ便り(28) 日系人会ゴルフ

2006年08月15日 17時02分00秒 | Weblog

ケロウナに「日本人会」がないことは前に書きました。日本からの移住者で組織する「日系人会」はあり、その会が主催するゴルフ会が8月12日、13日の両日にわたって開催されたので、興味深深参加させてもらいました。ここのところ日系人づいていますね。

ケロウナから国道97号線を40キロほど北上したVernon郊外のゴルフ場に、オカナガン地方に在住するゴルフ好きの日系カナダ人老若男女およそ100人が参集してワイワイガヤガヤと「楽しそうな」集いでした。

個人がストロークを競う通常のトーナメントではなく、老若男女4人一組のチームが二日にわたって、いろいろな趣向とルールを凝らしたスクランブル方式で、「競う」というより「遊ぶ」、まさに「親睦」の名に相応しいイベントでした。ゴルフ好きが一年ぶりに顔をあわせ、持ち寄った景品を抽選で分け合ったり、スポンサーから集めた賞品、当日集めた金を福引で引き当てたりと、食事をしながらワイワイガヤガヤ。まさに社交の場で、ゴルフは飽くまでもその手段であり、「前菜」「つまみ」なのです。

ゴルフの好きなことは人後に落ちませんが、日系人の知己を得たいという野心も持ち合わせていますが、なんせ知り合いの少ない「よそ者」の哀しさ。昔からの仲間同士で盛り上がっている話の輪の中に入るには、かなり勇気の要る雰囲気です。同じような境遇の参加者2~3人で一つのテーブルにつき、他のテーブルの盛り上がりを遠巻きに眺めた二日間でした。「楽しそうな」集いと敢えて表現した所以です。

ならば、楽しくなかったのかと言えば、そうでもなく、結構面白かったのです。4人のチームメイトの中で一番ハンデが低いということでキャプテンを拝命しました。このホールはパーオンを狙わずにAさん(82歳男性)のティーショットを採用して、アプローチの巧いBさん(48歳男性)の手腕に期待しようとか、私がグリーンを直接狙うから、万一に備えてCさん(65歳女性)は池の手前にレイアップしてくれとか、ホール攻略のための戦略を立てたり、チームの4人がそれぞれに活躍できる場を作るなど、キャプテンの役割も結構大変ながら、狙い通りに展開すると楽しいのです。期待された自分が失敗した時など、ついつい ”I'm sorry, it's my fault!"なんて悲壮な声を出し勝ちですが、所詮今日のゴルフは前菜、つまみなのです。”Having FUN”が目的なのですからドンマイドンマイなのです。

二日間良いところがなかったとしょげ返っていたCさんが、最終ホールの超ロングバーディーパットを決めてくれたお陰でわがチームが第3組グループ7チーム中トップで優勝。賞金100ドルを4人で山分けする時には、戦友同士の連帯感でハイファイブ!

回を重ねるに従って「楽しそうな集い」が「楽しい集い」に進化するのは間違いありません。

伝統ある日系人ゴルフ会に、夏だけ遊びに来ている「一見の客」みたいな我々が参加するのは場違いで、失礼ではないかとの気後れも正直のところありましたが、どこまでも広い心を持つわが同胞諸兄姉は温かく迎えてくれました。心の広さのお返しにお世辞で言うわけではないのですが、同じ日本人の顔でありながら、日系人の顔って、どうしてあのように穏やかなのでしょうか?眉間に「たて皺」を寄せている人にはついぞお目にかかりません。個人的には色々悩みを抱えていながら、それを表に出さないように自制しているのでしょうか?穏やかな気候風土が人間の風貌までを穏やかにするのでしょうか?生活のゆとりなのでしょうか?

ここまで考えて、この疑問にはあまり意味がないことに思い当たりました。日系人だから穏やかなのではなくて、カナダ人だから穏やかなのです。せちがらく、穏やかでない「日本人」と、穏やかな「日系人」とを比較するのではなく、検証すべきは「日本人に比べてカナダ人は何故穏やかなのか」なのです。

何故でしょう?


ケロウナ便り(27) オカナガン地方の日系人

2006年08月13日 01時20分02秒 | Weblog

2005年にケロウナは市制100周年を迎えました。その機会にケロウナ市が発刊した「ケロウナ100年史」の中にオカナガン地方の日系カナダ人(Japanese-Canadian)の歴史を概説した記事(筆者Bill Hoshizaki氏)を見つけました。以下はその要約です。

①明治政府の移民政策のもとカナダに移住した日本人は1901年現在約4,500人。

②1904~1907年の4年間に11,529人が大量移住し、人口は一気に4倍に増大。殆どが独身男性労働者で、バンクーバー周辺での漁業、造船業、林業に従事したが、反アジア感情が高まるなかでの差別を受け、苦難の日々を経験。

③反アジアの気運の高まりに抗し切れず、カナダ政府は日本からの移民枠を年間400人に制限したため、1908~1925年17年間の移住者は約10,000人に留まった。その中の多くは1908年以前に移住した独身男性相手の「写真花嫁(Picuture Brides)」であった。

④沿岸部での反アジア気運の高まりを受け、沿岸部からBC州奥部への日系人移動が始まり、Vernon近郊のCold Stream Ranchでの就労日系人が増大した。

⑤1920年頃にはオカナガン地方中央部で農業に従事する日系人人口が相当数に昇った。

⑥女性の移住が進み、世代交代が進む中で日系人のいわゆる「男社会」が徐々に変化。「一攫千金を得て故郷に錦を飾る」夢を捨て、「永住してカナダを故郷とし、自分の土地を手に入れて成功する」夢にシフトして行った。

⑦1941年に23,000人いた日系カナダ人のうち、90%以上がBritish Columbia(BC)州の海岸線から100マイル以内の沿岸部に居住していたと思われる。

⑧残りの10%約2000人は全国に散らばっていて、一箇所にまとまった人数が居住していたのはOkanagan地方とアルバータ州の一部に限られる。

⑨戦時中の1942年に太平洋岸の日系人は内陸部へ強制移動させられ、財産を没収された苦い経験を持つ。戦後強制収容所を出た多くの日系人がトロント、モントリオール、カルガリーなどに定着して、移住者分布状況は戦前とは様変わりした。

⑩戦時中の不幸な体験を通じて、日系人はアイデンティティー、ルーツを求めての「魂探し(Soul searching)」を余儀なくされた。

⑪海岸線から300キロ以上奥まったオカナガン地方の日系人は強制移動、強制収容を免れたため、1900年代初頭から培われた蓄積が損なわれることなく根付き、定着させることができたのは幸いである。オカナガン地方の日系人は他の地方の日系人よりもカナダへの愛着、愛国の情が強いのではなかろうか。

およそこのような内容の記事でした。

つくづく思うのは、こうして日系カナダ人が100年にわたる労苦と辛酸を積み重ねて作り上げた日本人の評判と名声があるからこそ、我々のような短期滞在の日本人もカナダ人から穏やかに、親しく接してもらえるのだと言うことです。先達への感謝なしでは一日も過ごせません。心の底からそう思います。

「オカナガン地方」とは、南はアメリカ国境と接するOsoyoosから始まり、北はオカナガン湖の北端に位置するVernonまでに点在するコミュニティーの総称で、その中心に当たるのがケロウナです。時間があったら下のサイトで確認してみてください。
http://www.britishcolumbia.com/regions/towns/?townID=3986

日系社会の実情を更に詳しく知りたい方は下のサイトがお勧めです。
http://www.najc.ca/

 


ケロウナ便り(26) 大山巌とケロウナ(3)

2006年08月12日 19時41分28秒 | Weblog
第二次大戦後、日本の軍人の銅像は軍国主義の象徴としてことごとく壊されたそうですが、九段坂公園の大山巌の銅像のみが唯一残ったそうです。壊さないよう指示したのがあのダグラス・マッカーサー元帥で、当時大国ロシアを破った大山はナポレオンと並び称される英雄であり、マッカーサーも大山巌に心酔しており、自室に大山巌の肖像画を飾るほどのファンだったようです。したっがて、なにかの折りにマッカーサーがwinfieldに立ち寄った際、尊敬するOYAMAを町名につけたのか、あるいはカナダの高名な軍人に同じように大山に心酔した人がいて、その人が命名しちゃったんじゃないでしょうか…という推理はいかが?
 
これは、私のブログの隠れた愛読者S先輩の推理です。マッカーサーは冗談としても、大山巌に心酔したカナダ人が名付け親であるとの推理が見事に的中しました。鹿児島県人会をイメージした私が甘かった!
 
ヨーロッパを初めとして日本、中国等からの移民が流入して辺境の開拓が進んだ19世紀後半、地名を正式に決める機関としてGeographic Board of Canadaが1897年に設立され、以後変遷を経て現在のGeographical Names Board of Canada(GNBC)に至っています。この機関が町の名前をつけるに際しての一定の基準を示し、インディアンの名前を用いる場合の母音と子音の関係、発音にまで口を挟むようになったのは1920年代頃からで、OYAMAの命名された1906年には影響力は限られていたようです。インディアン言葉を語源とする地名はカナダには数多くありますが、日本名を起源とする名前は極めて稀で、「良くぞ付けてくれた」と今にしては思います。
 
図書館で見せてもらった資料には命名の経緯と編者の見解とが、およそ次のように書かれていました。
 
①この地に1906年1月に郵便局が開設され、Henry Irvine氏が初代局長として就任。
②1904~1905年の日露戦争で大国ロシアに勝利した、卓越した日本軍人・大山巌の名前からIrvine氏が命名。
③開設時の候補名としてOYAMAの他にChilutsus, Railroad,  Interlakenの三案があった。編者の意見ではChilutsusがベストである。
④Kelowna, Okanagan, Naiagara, Ottawa, Toronto等、すべてインディアン語に由来するが、カナダの国の成り立ち、歴史から妥当なものである。それに比べてOYAMAは違和感あり、命名者の見識を疑う。早期の改名が望ましい。
 
資料の詳細までは確認しませんでしたが、発行年は1940年代と思われ、カナダの地名に日本名が採用されていることに「命名者の見識を疑う。早期の改名が望ましい」なんて記述があり、「この野郎!余計な事を言うな!」と腹立たしくもあり、当時の命名者の勇気と見識に改めて敬意を表したくもなりました。
 
それにしてもカナダの山奥の地名に、よりによって日本軍人の名前をつけるには、それなりの時代背景もあったのでしょう。郵便局長さんの個人的な好みだけで、如何に山奥の田舎とは言え、町の名前が決まるとは思えません。「陸の大山・海の東郷」と並び賞賛された東郷平八郎の名前を冠した北欧のビール「TOGO」とは少々レベルが違います。そもそもヨーロッパ各国の移民政策の裏には、大国ロシアによる度重なる圧迫から逃れて国力を維持する意味も当然あったはずで、ヨーロッパからの移住者が日本の勝利を祝い喜ぶ気持ちは、我々の想像をはるかに超えた大きなものだったのかもしれません。Lake Countryに移住して開墾に従事していた多くのヨーロッパ人にとっても大山巌はナポレオンの再来であり、移住者からの強い圧力を受けて局長さんも断りきれなくなったのかも知れませんね。
 
Irvine氏が郵便局長に就任した頃、実はLake Countryで活躍した小林伝兵衛さんはじめ日本人開拓者の何人かとIrvine氏が友達になり、優秀で勤勉な日本人移民と大山巌とが重なって、迷うことなく「OYAMA」に決定した、なんてのが実は隠された事実だったんじゃないかと私は未だに我が仮説を捨てていません。しつこいですねぇ!
 
いずれにしても、オカナガン地方に移住して刻苦勉励、日本民族の優秀性を身をもって証明した先達がいたからこそ付いた名前であることには間違いなかろうと思っています。ついでに言えば、Irvine氏はその昔大国ロシアに苦しめられた小隣国からの移民であったろうことも想像に難くありません。このこともOYAMA誕生に幸いしました。歴史って面白い!
 
 
 
 

ケロウナ便り(25) 大山巌とケロウナ(2)

2006年08月12日 11時55分43秒 | Weblog

およそ日本と縁のなさそうなケロウナに何ゆえに大山巌から名付けた町があるのか?

前回の第一次探検では大山の「おの字」も浮かび上がってきませんでした。ひるむことなく、第二次探検に出かけました。目指すはLake Country第二の町Okanagan Centre。ここにLake Country Museumがあることが調査の結果分かったのです。国道97号線をWinfieldで左折してオカナガン湖の東岸に沿って北上すると間もなくOkanagan Centreの集落です。名前から想像して、Lake Countryの中心であった時代を思い描いたら大間違い。あっという間に通り過ぎました。「The Store」の看板を掲げる古い木造の建物がどうやら唯一の店らしいので、そこに立ち寄り尋ねたら「すぐそこの小学校の跡地が博物館」「Okanagan Centreの現在の人口は800人程度」との答え。センターじゃないじゃん!OYAMAより小さいじゃん!

博物館(というよりも日本でもよく田舎町で見かける「資料館」をウンと小さくしたもの)にはLake Countryが開拓された1900年代初頭からの生活古民具等が展示され、裏庭には1906年に建てられた小さなキャビンが移築されて公開されています。壁には古い新聞の切り抜きも貼られ、この地域に入植して成功した日本人移住者の記事、写真等も展示されています。20世紀初頭に長野県から移住した小林伝兵衛さんという先達が、この地域での日本人移住者のリーダー的存在であったことも分かりましたが、まだまだ大山巌との接点が見出せません。

私の推理では、鹿児島からの移住者が当地に最初に入植しそれなりの成功を収めて、郷土の英雄「大山巌」さんの名前を拝借して土地に命名したというものですが、なかなかその仮説を立証する材料が出てきません。

第二次現地探検では思わしい材料に出くわさなかったので、仕方なしに図書館で調べてみることにしました。1905年に誕生したケロウナ市は昨年生誕100年目を迎えました。その時に発行された記念誌の一頁に興味深い記事を見つけました。題して、「History of Okanagan Japanese-Canadian is published」。この地方に移住した日本人の足跡を纏めた「The Vision Fulfilled」という本が発行されたことを伝えるとともに、カナダへの日本人移民の歴史が簡潔に記されています。これはまた別の機会にご紹介したいと思います。大山巌への言及を期待して探しましたが、これまた残念ながら見つかりません。

いよいよ最後の手段です。図書館の司書のオバサンに事情を説明したら、地名の由来の載っている資料を紹介してくれました。それによると「OYAMA」は、私の推理とは違って、1906年にこの土地の初代郵便局長に任命されたHenry Irvineなるオジサンの好みで名付けられたらしいことが分かりました。私の夢がもろくも崩れ去った瞬間でした。

1904~1905年の日露戦争で大国ロシアを破った小国日本の「大山巌」の名前は、当時のカナダの新聞でも連日紙面をにぎわせていて、このオジサンの脳みそにしっかりと刻み込まれていたのでしょう。

OYAMA命名の経緯の詳細は次回の報告といたします。


ケロウナ便り(24) 大山巌とケロウナ

2006年08月08日 15時24分48秒 | Weblog

我が家から国道97号線を10分ほど北上するとケロウナの隣町Lake Countryと呼ばれる地域に入ります。周辺に大小多くの湖が点在し、夏場の水上スポーツを初めとするアウトドア好きのメッカと銘打ち、人口1,000人から5,000人程度の四つの小さな町で構成されています。果樹栽培が盛んな土地で、カナダのりんご生産量の35%をここLake Countryが占めているとのことです。

Lake Countryの中心は一番大きなWinfieldという町で、ここには警察、郵便局のほかスーパーマーケットもあり、我が家からも一番近いので日常の食料品はここで買い求めています。Lake Countryの四つの町のなかで一番小さい、人口1000人程度の町(というより「集落」と言ったほうが適当ですが)の名前が「OYAMA」なのです。

日本の名前「大山」に似ていると思ったら、なんと「大山巌」の「大山」からつけた町の名前だというからビックリです。そうです、幕末の薩摩藩士、明治政府の元勲、初代陸軍大臣、西郷隆盛の従兄弟、山川捨松の旦那・・・・、あの大山巌さんです。

日本人にはおよそ縁の薄いと思われるケロウナと大山巌を結びつけるものは何なのか?興味が尽きません。野次馬探検隊の出番です。国道沿いのコーヒーショップで訊いたら、「どこそこに小さな資料館があるからOYAMAの歴史が分かるはず」とのご託宣。早速走り回ったものの、小さな「何でも屋」やAntiquesとは名ばかりのガラクタ屋はあるものの、それらしい資料館なんて見当たりません。あっという間に集落を通り過ぎてしまい、引き返そうかと思案していたら「Lake OYAMA Resort」の看板が目に入りました。集落の名前だけじゃなくて湖にまで大山巌の足跡があるのかと、いささか興奮気味に一路リゾートを目指し、わが愛車サイドキックちゃんに直行を指示したこと言うまでもありません。

Not recommendable for general vehicles. Drive at your own risk. との表示にビビリながら、舗装されていない山道をサイドキックの四駆を文字通り駆使して走ることおよそ30分。たどり着いた入り口にCongratulations! You've made it! Welcome to Lake OYAMA Resort!となんとも大袈裟な看板がかかっています。道中の難儀を慰労した看板をサイドキックちゃんが読めないのが不憫でした。

山奥に静かに横たわるLake OYAMA。はるか対岸に釣りをするボートの影が小さく見える以外は静まり返った、のどかで平和なたたずまいです。ロッジを管理する人にOYAMAの由来を訊いても「???」。ここまで来ても大山巌も大山捨松の影も形も全く見えてきません。

今日のところは「OYAMA」が「大山巌」に由来することだけを確認して、更なる探検は後日の第二次探検に委ねることにして帰路につきました。今日の殊勲車、埃まみれのサイドキックちゃんを褒美に綺麗に洗ってあげたことでした。