ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸梅屋敷・逆井の渡し跡

2016年05月02日 08時26分30秒 | 歴史の小道

5月1日はメーデー祭典でしたが、昨年に続き今年も体調が悪く代々木公園まで出かけることができませんでした。リハビリで周辺を少し散策してみました。最近自宅の近くにできた亀戸梅屋敷に寄ってみました。

明治通りの亀戸駅から蔵前橋通りまでは昔から日曜日歩行者天国で歩行者に解放されています。

明治通りと蔵前橋通りの交差点のところに亀戸梅屋敷が再現?されています。

★ランドマーク亀戸梅屋:「敷浮世絵師歌川広重が描いた「梅屋敷」。江戸時代、亀戸に実在したこの屋敷と庭園をモチーフにした複合商業施設。約400坪の敷地に建てられた純和風建築の施設内には、亀戸物産店をはじめ「買う」「食べる」「楽しむ」「休む」を満喫できる約25店舗のショップや、観光案内所、江戸切子や浮世絵など地元の工芸品を展示しているギャラリー、伝統工芸実演コーナー、休憩所などが揃う。東京でははじめて路線化される水陸両用バスの発着地や、観光案内場も設置」とるるぶの観光案内に書いてありました。

もともと有名なのは歌川広重の書いた浮世絵の亀戸梅屋敷です。

半蔵門線の錦糸町駅の壁画にも書かれています。いつも駅でこの絵に引き付けられいました。ネットで調べたらこんな評が載っていました。

日本絵画史上最高の風景画家のひとり歌川広重の類稀な傑作『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』。本作は広重が最晩年に手がけた故郷江戸の名所を百図以上版画に起こした絵師自身最大規模の揃物の中の1点で、江戸で高い人気を誇る梅見の名所地であった≪亀戸の梅屋敷≫の情景を描いた作品である。超近景的に画面中央へ梅の木が配されているが、極めて近接的に描かれているにも関わらず、不思議と野卑たる印象や小煩さは感じられない。それよりむしろ唐突として現れる梅の木の構図的軽妙感が観る者を驚かせ、同時に目と心を強く惹きつける。これは画面全体に占める近景(梅の枝)の絶妙な面積配分と画面上部の開放的な空間構成による部分が大きく、広重の類稀な構成力と均衡感覚を見出すことができる。そして中景としては梅屋敷に咲く梅の木々が、遠景には梅見をする見物人たちが配されており、観る者を奥へと惹き込む要素配置がおこなわれている。(中略)なお本作は後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホによって模写(模写作品『日本趣味 : 梅の花』)されたことから、外国でも広く認知されている。http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_kameido.html

以前見た「亀戸あさくさ古道」を辿ってみました。

常光寺や亀戸水神を抜けて、亀戸中央公園から旧中川の河川に入り、都営新宿線の東大島駅の先まで行ってみました。

鳩が集団で餌を食んでいました。

スパー堤防になっている都立公園大島小松川公園に上がって逆井の渡し跡に向かいました。

都立公園大島小松川公園は、江東地区の防災市街地再開発事業により、設置された公園です。江東デルタ地域の東端に位置し、平常時はレクリエーションの場と して利用され、災害時には避難広場となります。運動施設を中心としたスポーツ広場、季節の広場、風の広場、わんさか広場が開園されています。

逆井の渡し跡です。

江戸川区側に二はこのように書いてあります。

  逆井の渡し跡

 中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・
江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。
  江戸川区

 

中川には今も昔も鷺が住んでいます。これは先月撮ったものですが、

昨日は写真は撮れませんでしたがアオサギが2羽いました。

今は橋がかかっています。上は高速道路です。

ここは堅川と中川の合流地点です。

この道については以前散策した様子がこのブログで見られます。

http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/5dd10707bc8758a9ab381bea0b3c712a

元佐倉道(千葉街道)の記念碑です。

千葉街道はこのまま堅川に沿って錦糸町の方に向かっています。亀戸あさく古道は千葉街道から分かれて右手に折れて

浅間神社の裏側を通っています。

翌日亀戸から錦糸町のところの旧千葉街道を通ってみました。

旧千葉街道から横十間川を渡る橋は旅所橋をです。

旅所橋は、江東橋四丁目から江東区亀戸一丁目に架かる橋。創架は万治二年(1659年)で現在の橋は昭和51年製です。本所開拓のため、この横十間川が掘られましたが、その時墨田区内はこの旅所橋と天神橋そして柳島橋の三本が架けられました。はじめこの橋の名は無かったのですが、寛文年間(1660~70年代)に東詰めに亀戸天神のお旅所(おかりや)が出来たときに旅所橋と名付けられました。お旅所とは、祭礼の時に御神輿が本宮から渡御して仮に暫く留まる所を云うのだそうで、本所二丁目の若宮公園には今なお、牛島神社のお旅所があります。
 

墨田区に入ると馬車通りと書いてありました。

「この通りは両国から旅所橋までの直線道路で、明治の中ごろ菊川町2丁目に乗合馬車の会社がありました。菊川から両国橋を渡り九段までを営業し、市電の出来る明治35~6年までの間、ずいぶんと繁盛しました。この道がその経路の一部だったので、その名前が残っています。」ということのようです。

次の橋は憧木橋跡というのが大横川親水公園の終点、堅川と交差する手前にありました

時の鐘跡(撞木橋跡しゅもくばし)
ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋1丁目より、同緑4丁目の大横川に架けられました
 最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年(1330)7月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年(1987)10月に撤去されました。
 なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。
 平成11年(1999)2月

堅川と横川の合流付近に、本所・深川のまちまちに時を告げる「時の鐘」がありました。鐘を打ち鳴らす撞木(しゅもく)から近くにあった北辻橋、南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」と名づけられたが、昭和63年(1988)に撤去されました。

ここで疑問なのですが、逆井橋は堅川かわ北に1本目の道路で、江東区内の五の橋のところも一本目となっています。

墨田区の馬車通りは二本目となっています。江戸の古地図を買うので調べてみます。

 

 

 

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