『いいたかことのいっぱいあっと』
江口保・著/クリエイティブ21 1998年
著者は、「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰しておられましたね。
著者が生まれたころ。下「」引用。
「私が生れたのは一九二八(昭和三)年、金融恐慌のあらしが吹き荒れていた頃で、造船の街である長崎も決して例外ではなかったと思われます。そんな中、八人兄弟の次男として、今思えば大変な大家族の中で私は育ちました。-略-」
進学先ないので助教に。下「」引用。
「-略-当時、各学校に募集がきており、まず書類選考があったので、その段階でだめだっのではないかと思います。
助教になったのは、希望ではなく一方的な命令でした。-略-」
大学進学は理科系のみ。下「」引用。
「学校へ行ったのは、陸軍士官学校・海軍兵学校とか、予科練といった人が多かったのです。新しい就職先もなく、進学しない人は、そのまま軍需工場へ行くほかなかったのでした。大学進学は理科系のみに許されていたのでする」
助教で軍事教練担当、週に3回だったという。
「昭和二十年八月九日午前十一時二分「私には記憶がないのです」」
しかし、傷跡が……。下「」引用。
「私が原爆によって受けた傷は、鼻柱を砕いた左眼の横の傷と口の右側の数条の裂傷や胸へのやや中央部に約二十センチメートルの木切れが刺さったものの他に、右眼の下に小さな木片が刺さり、前歯が一本すっかり抜けてなくなり、顔面と上半身一帯に無数のガラス片が刺さっており、また左の上腕部と左脇腹とにつながる形で火傷を負っていました。その後、いろいろなデータを見ると、爆心八百メートルの所で、爆風をおよそ秒速二百メートル。熱線は一平方センチあたり一キログラム、熱はこの近くで八百度、八百度の中でなぜ木造であったのに校舎が燃えなかったのか不思議ですが、とにかく火はつかず、それが今日、私が生き残っている理由です。」
佐賀で療養、リヤカーで3キロの道を通院、髪が抜けたという。
「死んでしまいたい」 下「」引用。
「まだ十七歳の、本来ならば青春真っ盛りにある少年です。それが、「お化け」のような顔になり、何も知らない子供たちの笑い者になったのです。本当に、いやな思いをしました。「死んでしまいたい」とも考えました。しかし、実際、そんな勇気も気力もありませんでした。今にして思えば、あの頃の苦しみにもよく耐えたものだと思います。」
自宅から通える距離にある佐賀師範学校(現在の佐賀大学教育学部)に入学。
就職、そして同僚の教師と結婚。
「「これ以上、原爆に関して学ぶ必要はない」「こんなふうに考える人がいるから戦争が始まるんだ」」
「定年前に退職し、広島に単身赴任」1985年。
広島のアパートは2Dで、関係者が泊まる。下「」引用。
「以前、修学旅行でお世話になった旅館から夏用の夜具を二組、詩人の原民喜さんのご遺族から三組、といった具合にの、多くの方のご協力を得て、アパートの部屋は素泊まりには充分のり簡易宿泊所になりました。」
index
ABCCについて、坂本文子さんから話をきいたという。下「」引用。
「私は、もともとABCCについては良い話は聞いていなかったので、他の病院に行くことを何度かお薦めしました。
そのうち、広島大学の付属病院にかわられましたが、その時の診断ではガンということで、病状はかなり進んでいたようでした。
私は病院にお見舞いに行きましたが、まもなく退院され、家で休んでおられるようになりました。-略-」
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ビデオ『広島に川は流れる』(広島国際会議場に保管)のナレーション。下「」引用。
「西ドイツの子どもたちが、修学旅行で一度はベルリンを訪れ、あの厚い壁や監視塔の前で平和や祖国について考える機会をもつように、日本の修学旅行生も必ず広島を訪れ、平和やヒューマニズムや人類の将来に目を向ける日が来ることを、私太田川は心から願い、望みます」
そして、そうあるようなヒロシマであって欲しい、と私は切に願います。」
証言の「機械化」 下「」引用。
「-略-貴重な臨場感があふれる被爆体験やその後の体験を通してどのように生きてきたかという証言者の生き様が、話の一部になってしまっているような感じを受けることさえあるのです。
そのために、だれの話を聞いてもみな、流れは同じ、という証言の画一化とでもいうべき現象がおこっています。証言の「機械化」ともいえるでしょう。-略-」
加害責任をもとめられた語り部。下「」引用。
「被害者の痛みを心に刻みつけることが、戦争への憎しみ、加害に対する怒りの原点となると、私は確信しています。
それは、加害・被害の間に、人間の痛み・優しさというもの介在させることであると思います。」
「教師のみなさん、業者まかせでなくもっと勉強をして下さい」
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江口保・著/クリエイティブ21 1998年
著者は、「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰しておられましたね。
著者が生まれたころ。下「」引用。
「私が生れたのは一九二八(昭和三)年、金融恐慌のあらしが吹き荒れていた頃で、造船の街である長崎も決して例外ではなかったと思われます。そんな中、八人兄弟の次男として、今思えば大変な大家族の中で私は育ちました。-略-」
進学先ないので助教に。下「」引用。
「-略-当時、各学校に募集がきており、まず書類選考があったので、その段階でだめだっのではないかと思います。
助教になったのは、希望ではなく一方的な命令でした。-略-」
大学進学は理科系のみ。下「」引用。
「学校へ行ったのは、陸軍士官学校・海軍兵学校とか、予科練といった人が多かったのです。新しい就職先もなく、進学しない人は、そのまま軍需工場へ行くほかなかったのでした。大学進学は理科系のみに許されていたのでする」
助教で軍事教練担当、週に3回だったという。
「昭和二十年八月九日午前十一時二分「私には記憶がないのです」」
しかし、傷跡が……。下「」引用。
「私が原爆によって受けた傷は、鼻柱を砕いた左眼の横の傷と口の右側の数条の裂傷や胸へのやや中央部に約二十センチメートルの木切れが刺さったものの他に、右眼の下に小さな木片が刺さり、前歯が一本すっかり抜けてなくなり、顔面と上半身一帯に無数のガラス片が刺さっており、また左の上腕部と左脇腹とにつながる形で火傷を負っていました。その後、いろいろなデータを見ると、爆心八百メートルの所で、爆風をおよそ秒速二百メートル。熱線は一平方センチあたり一キログラム、熱はこの近くで八百度、八百度の中でなぜ木造であったのに校舎が燃えなかったのか不思議ですが、とにかく火はつかず、それが今日、私が生き残っている理由です。」
佐賀で療養、リヤカーで3キロの道を通院、髪が抜けたという。
「死んでしまいたい」 下「」引用。
「まだ十七歳の、本来ならば青春真っ盛りにある少年です。それが、「お化け」のような顔になり、何も知らない子供たちの笑い者になったのです。本当に、いやな思いをしました。「死んでしまいたい」とも考えました。しかし、実際、そんな勇気も気力もありませんでした。今にして思えば、あの頃の苦しみにもよく耐えたものだと思います。」
自宅から通える距離にある佐賀師範学校(現在の佐賀大学教育学部)に入学。
就職、そして同僚の教師と結婚。
「「これ以上、原爆に関して学ぶ必要はない」「こんなふうに考える人がいるから戦争が始まるんだ」」
「定年前に退職し、広島に単身赴任」1985年。
広島のアパートは2Dで、関係者が泊まる。下「」引用。
「以前、修学旅行でお世話になった旅館から夏用の夜具を二組、詩人の原民喜さんのご遺族から三組、といった具合にの、多くの方のご協力を得て、アパートの部屋は素泊まりには充分のり簡易宿泊所になりました。」
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ABCCについて、坂本文子さんから話をきいたという。下「」引用。
「私は、もともとABCCについては良い話は聞いていなかったので、他の病院に行くことを何度かお薦めしました。
そのうち、広島大学の付属病院にかわられましたが、その時の診断ではガンということで、病状はかなり進んでいたようでした。
私は病院にお見舞いに行きましたが、まもなく退院され、家で休んでおられるようになりました。-略-」
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ビデオ『広島に川は流れる』(広島国際会議場に保管)のナレーション。下「」引用。
「西ドイツの子どもたちが、修学旅行で一度はベルリンを訪れ、あの厚い壁や監視塔の前で平和や祖国について考える機会をもつように、日本の修学旅行生も必ず広島を訪れ、平和やヒューマニズムや人類の将来に目を向ける日が来ることを、私太田川は心から願い、望みます」
そして、そうあるようなヒロシマであって欲しい、と私は切に願います。」
証言の「機械化」 下「」引用。
「-略-貴重な臨場感があふれる被爆体験やその後の体験を通してどのように生きてきたかという証言者の生き様が、話の一部になってしまっているような感じを受けることさえあるのです。
そのために、だれの話を聞いてもみな、流れは同じ、という証言の画一化とでもいうべき現象がおこっています。証言の「機械化」ともいえるでしょう。-略-」
加害責任をもとめられた語り部。下「」引用。
「被害者の痛みを心に刻みつけることが、戦争への憎しみ、加害に対する怒りの原点となると、私は確信しています。
それは、加害・被害の間に、人間の痛み・優しさというもの介在させることであると思います。」
「教師のみなさん、業者まかせでなくもっと勉強をして下さい」
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