磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XIX

2008年03月19日 | 読書日記など
『原爆前後XIX』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1973年

--長崎の如己堂。
永井隆博士のことを思い、同時にしみじみ当時のことを思い出されている人の文章もありました。下「」引用。

「お互いに終戦後の衣・食・住の不自由な時代の苦労が胸によみがえり、低回去るに忍びない思いであった。」



「あとがき」書かれてあります。下「」引用。

「この十九巻について、特記したいことが二つある。ひとつは、当時手不足の工場に動員されて来ておられた学徒の方、それらの方々の監督に来られた先生、さらには三菱がはじめた女子青年学校に勤められておられた方、それらの合計六人の学園関係の方々の御手記が掲載されていることである。-略-もうひとつは、当時の三菱製鋼の工務部長・安中昌吉さんに、あの当時の同氏の日記の一部を発表さして頂いたことである。」


三菱女子青年学校というのがあったという。下「」引用。

「長崎の対岸、旭町の市営桟橋で船をおりて、三菱電機の方へ二、三分歩きますと、海岸沿いに大きな煙突がある学校がありました。もと水産学校だったそうで、戦時中は三菱女子青年学校でした。丸尾町三の三、長第三○八工場・女子青年学校が正式の名称です。-略-工場にも高等小学校を出た女の工員さんが現場で働いておりました。この人達に女子の教養を身につけさせるため開設されたのが女子青年学校です。」

その学校に大きな防空壕が作られたという。下「」引用。

「長崎にも敵機が来襲するようになってから学校の校庭を掘って大きな防空壕が出来ました。授業の途中警報が鳴ると、クラス毎に防空壕に入り、やっと解除になって出たかと思うと、また空襲警報が鳴るというようで、出たり入ったりして授業があまり出来ぬ日もありました。学校には目じるしになるような大きな煙突があるし、地面を掘っただけの防空壕ではとても危険だろうとのことで、三菱電機の裏手の山を掘った横穴式の防空壕まで生徒を並ばせて走りました。人員をかぞえて防空壕に入れ、解除と共に走って帰えり人員をしらべて授業をするのですが、生徒も教師もくたくたにつかれました。」

そして、戦争はさらに負けていく……。下「」引用。

「人手薄になってくると、挺身隊員にも従業員に替わる仕事を委せられる様になった。」

地下壕に重要書類は移動。下「」引用。

「長崎にも空襲警報が頻繁になり、重要書類は道路の向いにある鉄筋の建物である技術部の地下室へ移され、一日のうち何度も地下室へ往復しなければなりませんでした。」

戦後、フライパンを持って……。下「」引用。

「戦後しばらくして、勤労課の係長をしていられた陣内さんが、父の開業していた医院へ診察に来られた時、「この頃は兵器も、こんなものをつくって息をつないでいます」といって、フライパンを持って来て下さいましたが、その後間もなく不帰の客となられたと聞き、これも忘れ得ぬ想い出となりました。」

挺身隊の一員……。下「」引用。

「昭和二十年、当時私は県立長崎高女専攻科に在学し、学徒報国隊として三菱電気製作所に動員されておりました。戦局の緊迫と共に父も南方戦線に出征し、友もまた学業を捨てて銃をとっていた時ですので、女子学生としても一途に戦の渦の中に若き情熱を打ち込んでおりました。
 三菱電機は私共のほか、熊本高等工業、熊本女子師範、鶴鳴高女の報国隊と鹿児島女子挺身隊が配属されておりました。」

長崎の平和の折鶴会というのがあるそうです。下「」引用。

平和を祈る子の像の所へ行った。
 これは、被爆者の救援を続ける長崎の平和の折鶴会が、被爆二十周年記念事業として広く内外の世界永遠の平和を願う少年少女の共感と支援によって設立したもので、昭和四十二年八月九日除幕、台座には赤・白・青・黒などの色とりどりの国内国外の石に飾られているが、すべて原水爆禁止を願う平和の石として贈られたものである。」












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