磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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子孫におくる劫火の跡

2007年08月05日 | 読書日記など
『子孫におくる劫火の跡』
    甲田町被爆者の会s60年

広島県高田郡甲田町役場民生課内に、甲田町被爆者の会はあるようです。その方たちの文章が集められています。



今では、高田市になっているようです。

・あの日のこと
・焦土に肉親を探して
・救護活動に参加して
に、それぞれの文章を分類してありました。

「原爆の子の像」というのも、いつくかあるようです。下「」引用。

「妹は十三才でした。妹は原爆の子の像となりました。」
当時、妹の芳子さんは三篠国民学校挺身隊として楠木町の工場で働いていたという。

ピカという方は、光を見て気を失ったから、近距離。
ピカドンはそれよりも離れていたという。
ドンピカという人もおられます。下「」引用。

「当時原爆はピカドンと言っていたが私の場合はドンピカだった、それもそのはず白島町は軍人将校さんの宿舎が多く、その豪華な建物でピカの熱線だけは遮られて私は運よく土塀の下敷になっていた。又乗っていた自転車が支えてくれていたので案外と楽にはい出ることが出来た。」


京都の市電を思い出しました。下「」引用。

「行く途中、市内電車が一定の間隔をおいて立往生して焼けており中に乗っていた多くの人が焼け死んでおられました、路上にもたくさんの人が倒れて焼け死んでおられました。」

ラッシュのとき、京都の市電も次々に来て、一定間隔にきれいに並んでいた感じでした。

「看護婦の使命」というタイトルの文章。
--40年前のことを思いだす。
当時、吉田病院に勤務。
窓ガラスが振動、一瞬何が起きたのか?
しばらくして「広島に爆弾が落ちた」
救護班として派遣される。
医師1名と、看護婦2名。
トラックに乗り、可部町へ。
可部警察で一時負傷者の処置、夕方祇園国民学校に移動。
そして、負傷者の処置をされたという。

「婦人会の看護活動」
原爆投下後、2、3日以上してからだろう……。
甲立国民学校に、広島からの負傷者が収容。
看護を手伝ったという……。








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