『勝海舟-写真秘録-』
尾崎秀樹、小沢健志・著/講談社1974年
前半は写真が掲載され、後に文章……。
--写真は勝海舟だけに限らない。
JINに登場した火消しの新門辰五郎の写真もあった……。
勝海舟に学ぶもの=自主の精神。下「」引用。
「一九七○年代の日本に、海舟の精神がよみがえるとすれば、それは何だろう。彼からまなぶべきものは一体何か。率直いって、それは独立独行の気概であり、何ものにもとらわれない自主の精神だと考える。状況に耐え、生き抜く意識は、玉砕精神から生まれない。生き抜くということは、けっしてカッコ良いことではないのだ。海舟は死ぬことではなく、生きることをみずから実践した人間だった。そこに私は、現代の日本にとってひとつの教訓を読む。
これからの日本が歩み道は、平坦なものではないだろう。日本が幕末から明治にかけてたどった同じ(いやそれ以上にきびしい)試練が待ちうけているかもしれない。政治的人間への志向は、必然のものなのだ。海舟に学ぶものは、その生き方にある。」
きわどい一線をみごとに生き通した勝海舟。下「」引用。
「-略-それは生命の危機といった緊急の事態をふくめて、何度か彼がくぐり抜けたものであり、きわどい一線をみごとに生きとおしている。黒船来のとき、彼はすでに三十歳をこえていた。激情につき動かされる若さではなく、ある程度の思慮をもった年齢に達していたことも、彼のそれ以後の方法を決定づけているし、早くから蘭学を学んだこと、そして安政の大獄の嵐の時代を長崎の地で過ごしたこと等々、かぞえあげるときりがない。貧しい御家人の家に生れたということ自体、海舟の人格の形成に大きく作用している。」
海舟の父・小吉……。下「」引用。
「小吉が勝家の養子に行ったとき、すでに養父母は亡くなってた。わずかに祖母と娘のお信がいるだけだった。そのための勝家の者は男谷家にひきとられて世話をうけた。小吉は養子にいったものの、同じ家に住んでいたわけであり、亀沢町へ移ってからも同様だったので、ほんとんど気持の変化はみられなかった。」
坂本龍馬とのことが書かれてあった。
火をつけた勝海舟……。下「」引用。
「龍馬の中にはすでに新しい方向への模索がはじまっていた。海舟訪問はそれに火をつけたのだ。そう考えないかぎり、この対決の意味は理解できない。龍馬が海舟と会見したり時期は文久二年十月、その二月後に海舟は、小笠原長行について順動丸で大阪へ向うが、そのおり龍馬や千葉重太郎、近藤長次郎らも同行している。
龍馬はこの時期、海舟だけでなく大久保忠寛にも会い、公議政体論について教えを得たものと思われる。その内容につていは伝わっていないが、忠寛はすでに公議政体の構想を抱いており、龍馬の人柄を見抜いて胸襟を開いて語ったのであろう。」
目次
海舟の庶民性……。下「」引用。
「勝海舟の庶民性は父親の小吉から受けついだものだった。この父親の江戸っ子ざむらいぶりと生活の環境が、海舟の人格形成に大きな影響を与えていたことについてすでにふれた。海舟自身、新門辰五郎や薬罐の八、幇間君太夫、踊りの師匠の花柳寿輔、料亭八百松の主人や松源の婆さん、それに青柳のおかみなどといつた市井の人々を、“一番の友達”だったと称している。」
敗戦後にも続けられた連載……。下「」引用。
「ほとんどの新聞連載小説が敗戦によって打ち切られた中にあって、この「勝海舟」だけは戦中から戦後へ書きつがれ、多くの読者に愛読された。海舟が生きた幕末の時代相は、ちょうど敗戦を契機にして日本の国民が体験した秩序や価値の転換とも照応するものであった。おそらくこの作品を読みつづけた読者たちは、そこに描かれた歴史の諸事実が、ひとごとでなく思われたに違いない。」
もくじ
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尾崎秀樹、小沢健志・著/講談社1974年
前半は写真が掲載され、後に文章……。
--写真は勝海舟だけに限らない。
JINに登場した火消しの新門辰五郎の写真もあった……。
勝海舟に学ぶもの=自主の精神。下「」引用。
「一九七○年代の日本に、海舟の精神がよみがえるとすれば、それは何だろう。彼からまなぶべきものは一体何か。率直いって、それは独立独行の気概であり、何ものにもとらわれない自主の精神だと考える。状況に耐え、生き抜く意識は、玉砕精神から生まれない。生き抜くということは、けっしてカッコ良いことではないのだ。海舟は死ぬことではなく、生きることをみずから実践した人間だった。そこに私は、現代の日本にとってひとつの教訓を読む。
これからの日本が歩み道は、平坦なものではないだろう。日本が幕末から明治にかけてたどった同じ(いやそれ以上にきびしい)試練が待ちうけているかもしれない。政治的人間への志向は、必然のものなのだ。海舟に学ぶものは、その生き方にある。」
きわどい一線をみごとに生き通した勝海舟。下「」引用。
「-略-それは生命の危機といった緊急の事態をふくめて、何度か彼がくぐり抜けたものであり、きわどい一線をみごとに生きとおしている。黒船来のとき、彼はすでに三十歳をこえていた。激情につき動かされる若さではなく、ある程度の思慮をもった年齢に達していたことも、彼のそれ以後の方法を決定づけているし、早くから蘭学を学んだこと、そして安政の大獄の嵐の時代を長崎の地で過ごしたこと等々、かぞえあげるときりがない。貧しい御家人の家に生れたということ自体、海舟の人格の形成に大きく作用している。」
海舟の父・小吉……。下「」引用。
「小吉が勝家の養子に行ったとき、すでに養父母は亡くなってた。わずかに祖母と娘のお信がいるだけだった。そのための勝家の者は男谷家にひきとられて世話をうけた。小吉は養子にいったものの、同じ家に住んでいたわけであり、亀沢町へ移ってからも同様だったので、ほんとんど気持の変化はみられなかった。」
坂本龍馬とのことが書かれてあった。
火をつけた勝海舟……。下「」引用。
「龍馬の中にはすでに新しい方向への模索がはじまっていた。海舟訪問はそれに火をつけたのだ。そう考えないかぎり、この対決の意味は理解できない。龍馬が海舟と会見したり時期は文久二年十月、その二月後に海舟は、小笠原長行について順動丸で大阪へ向うが、そのおり龍馬や千葉重太郎、近藤長次郎らも同行している。
龍馬はこの時期、海舟だけでなく大久保忠寛にも会い、公議政体論について教えを得たものと思われる。その内容につていは伝わっていないが、忠寛はすでに公議政体の構想を抱いており、龍馬の人柄を見抜いて胸襟を開いて語ったのであろう。」
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海舟の庶民性……。下「」引用。
「勝海舟の庶民性は父親の小吉から受けついだものだった。この父親の江戸っ子ざむらいぶりと生活の環境が、海舟の人格形成に大きな影響を与えていたことについてすでにふれた。海舟自身、新門辰五郎や薬罐の八、幇間君太夫、踊りの師匠の花柳寿輔、料亭八百松の主人や松源の婆さん、それに青柳のおかみなどといつた市井の人々を、“一番の友達”だったと称している。」
敗戦後にも続けられた連載……。下「」引用。
「ほとんどの新聞連載小説が敗戦によって打ち切られた中にあって、この「勝海舟」だけは戦中から戦後へ書きつがれ、多くの読者に愛読された。海舟が生きた幕末の時代相は、ちょうど敗戦を契機にして日本の国民が体験した秩序や価値の転換とも照応するものであった。おそらくこの作品を読みつづけた読者たちは、そこに描かれた歴史の諸事実が、ひとごとでなく思われたに違いない。」
もくじ
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