磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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検証-シベリア抑留

2010年08月18日 | 読書日記など
『検証-シベリア抑留』
   ウィリアム・F・ニンモ(著)/
     加藤隆(訳)/時事通信社1991年

原書名 Behind a curtain of silence



攻められる前のハルビン。下「」引用。

「その夜、ソ連軍が攻め込んでくるといった情報はかけらもなかった。
 ハルビンの街は、特権階級の酔っぱらいで、その夜も遅くまでにぎわっていた。戦争遂行の一翼を担っている大会社への政府の惜しみない助成金のおかげで、お金が湯水のように使われた。夜も遅くなると、にわか成金がキャバレーからキャバレーへと渡り歩いた。自分たちがいったいどんな金の使い方をしているか気づいてもいないのだろう。政府の役人たちも金持ちだった。ほとんど無制限の遊興費あるいは交際費を持っていた……深夜までドンチャン騒ぎをしていた連中は、やがて慰安所に、あるいは芸者屋に眠り場所を求めていった。ハルビンに静寂と睡眠とがやってきたのである。
 -略-だが、その晩、外蒙古のちょう報員からせったく、ソ連の攻撃が切迫していると警報する重要連絡が入ったにもかかわらず、特務要員が留守のため、だれにも見られることがなかった。関東軍はまさに、情報戦の失敗によって寝込みを襲われたのである。」

第一便……、引き揚げ。下「」引用。

「引き揚げの便は一九四六年十二月、大連を出航した。引き続き数カ月間にわたって遼東半島から日本人一般人を次々と帰国させる船が出ていった。引き続きがピークに達したのは一九四七年三月で、八万二千人の住民が日本に向けて発った。そして四月までの四カ月間で合計二十一万八千人にのぼった。だがソ連はなお七千五百人の専門技術を持った人々を、ほとんどは医師、看護婦、技師とその家族たちをさらに二年間引き留めた。そして最後の日本人が大連を離れたのは一九四九年十月に入ってからだった。」

引き留められた専門技術者たち。下「」引用。

「ソ連は一般日本人をも強制的に引き留めたが、しかしそれ以上に、専門技術者を北朝鮮に引き留めるためもつときたない手を用いた。ある避難民の話によると、ソ連は、在日アメリカ占領軍が「ソ連占領下の朝鮮にいる日本人はみんな共産主義に染まってしまい、好ましくない存在である」と感じている--このようなうわさを広めていたという。ソ連は、自分たちとしては全日本人の引き揚げを願っているのだが、アメリカの政策に協力するつもりなら、ソ連政府が日本国籍の者すべてを引き留めるのが一番よい方法だと思う--と発表した。その通達には「日本人の滞在をできるだけ快適にするため、ソ連軍は日本人が北朝鮮に家を持ちたいと希望するならできるだけ援助する」と書かれていた。日本人のなかには残ろうと決めた人もいた。咸興(ハムフン)にいた約千四百人の技術者たちは引き揚げを拒否し、自分たちの日本人たちは快適な家に住んでいるし、食料も十分手に入っていると語った。」

擬装・七三一部隊。下「」引用。

「陸軍第七三一部隊の元陸軍技官・秋山浩は一九五五年の『文藝春秋」の記事のなかで、彼の研究施設は大きな医療部隊のように擬装され、実験はコレラ、ジフテリア、チフス、その他の疫病の病原菌をつくるために行われたと述べている。ハルビンの北四十キロにあった陸軍第七三一部隊は秘密につつまれており、中国人、朝鮮人、ロシア人の捕虜を「人間ギニー・ピック(訳注・マルタ)」として実験に使ったといわれている。秋山の仕事は野生のラットから細菌を抽出しては増殖することだった。そして一九四五年八月の初めごろには大規模な実験が続けられており、秋山によれば、一九四五年八月九日だけで千五百~二千人が犠牲になって死んだという。ソ連はハバロフスクの裁判で、細菌の実験により三千人が殺されたと論告している。」

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『日本新聞』 下「」引用。

「『日本新聞』はMVDの政治将校が、編集の経験がある日本人POWの助手と一緒に制作していた。主なニュース・ソースはタス通信の配信と日本のラジオ放送だった。-略-」

これが歓迎?……。下「」引用。

「一九四九年六月JCP中央委員会書記局が各地の地方組織あてに出した指令書を帰国兵を歓迎する方法を具体的に指示していた。
1 すべての駅で帰国者を歓迎する。
2 列車が通過するさいには赤旗を振る。
3 労働組合その他の組織を動員する。
4 茶菓の接待をする。
5 『アカハタ』新聞を配る。
6 引き揚げ者一人一人に接触して本人が望むなら入党させる。
7 引き揚げ者の求職、住宅捜しの援助を積極的に行う。
8 引き揚げ者への学校教育の準備をする。」

共産党員のおかげ! 下「」引用。

「引き揚げ兵たちは彼らの降りるあらゆる駅にJCP党員が出迎えに来ているのを見た。党員たちは東京の品川駅で彼らに向かい「あなた方が長い間シベリアに抑留されていたのは日本政府が引き揚げ促進のために何もしなかったからだ。あなた方が祖国へ帰れたのはほかならぬわれわれ共産党のおかげなのである」と吹聴した。党員たちはまた日本政府が引き揚げもののために十分な対応をしていないと非難するとともに、JCPが平和で民主主義的な日本建設のため、いかに戦っているかを宣伝するビラを配った。札幌駅では約五十人の引き揚げ者が日本政府とアメリカ占領軍に対する抗議デモを行った。国鉄当局は彼らに対し列車に乗らないとあとの旅行については無料乗車券の権利を喪失することになると警告した。列車は彼らを残して出発、そのあと延々二十四時間にわたり彼らを定期列車に乗せる切符を支給するかどうかをめぐり議論が行われた。最終的には無料乗車券が支給されたが、しかしほかの列車は騒ぎを避けるため札幌を通らなかった。似たような出来事が日本中で起こったが、なかでも注目すべきものが一つあった。
 ほとんどの引き揚げ列車は全国各地へ分岐して行く前に舞鶴からまず近くの京都へ向かった。長い間左翼政治活動の中心だった京都は一九四九年には引き揚げ者と警察との激しい対立の場だった。-略-」

京都駅事件のリーダー。下「」引用。

「京都駅事件のリーダーだった一人は家に帰ってから三カ月後、完全に共産党と絶縁した。彼は「共産主義はわれわれを救うことはできない」と語り、自分のつらかった経験を通してほかの引き揚げ者の目を覚ましてやりたいという気持ちを持っていた。」

自殺した菅季治。下「」引用。

「JCPの徳田書記長がPOW引き揚げの優先順位を決めるうえである役割を果したとしての問題で一九五○年、国会の委員会に証人として喚問された。徳田は反動的なPOWはシベリアに抑留しておき、引き揚げるのは真に民主化された者だけに限るよう要求する手紙をソ連当局に出したといわれていた。この調査は引き揚げ者の古傷に触れるものだったが証明する必要があった。徳田はこの訴えを否定したが、元POWたちはMVDの将校から徳田の手紙につてい聞いたと証言した。国会の委員会では「共産党が参議院の委員会で証言した引き揚げ者やこれから証言しようとしている者の家族を訪問して、反民主的な行動をすれば恐ろしい結果になると脅迫している」という指摘があった。菅は重要な証言者だっため猛烈な圧力をかけられていた。引き揚げ者のなかには、菅がカラガンダ収容所で戦犯の疑いがある仲間の元将兵の逮捕に協力していたと非難する人々もいた。そして一九五○年四月初め、国会の委員会が進行しているさ中に、こうして有罪となったPOWがナホトカから帰途についていた。心配のあまり菅は一九五○年四月六日、東京・西部郊外の吉祥寺駅で進入してくる通勤電車に飛び込んだ。同じくカラガンダ収容所にいた荒巻安彦は、「(帰国した人たちが)詰問に押しかけることは必定で、おそらく気の小さな菅氏はこのことを一番苦にしていたのではないかと思う」と語った。国会の委員会は徳田に対する告発は真実であるという結論を出したがの、しかし彼に対して何らかの法的措置がとられる前にこのJCPの指導者は姿を消してしまった。」

徳田要請問題

もくじ

「暁に祈る」事件につついて書いてありました。

ショックを受けたソ連人。日本兵が残した建物はすばらしかったが……。下「」引用。

「「(ソ連人は)あの音に聞こえた関東軍のなれの果ての姿に、非常にショックも受けている。極めて従順であるし、卑屈であるし、平気でおもねるし、ヨーロッパ人とは全然違う。ここからは日本民族に対する尊敬の念は生まれない」というのだ。」







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