磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ガイドブック ヒロシマ 被爆の跡を歩く

2008年05月16日 | 読書日記など
『ガイドブック ヒロシマ 被爆の跡を歩く』
   原爆遺跡保存運動懇談会・著/
     原爆遺跡保存運動懇談会・編/新日本出版社1996年

ガイドブックなので、モノクロの写真が豊富です。原爆遺跡保存運動懇談会の人たちが書かれているので、その部分もきっとりと書かれてあります。



きちんと伝えられなかった時代もあり……。下「」引用。

「1945年7月25日にトルーマン大統領は原爆投下命令を下ししました。その命令書には、爆撃の結果を「観測器で観測する」こと、そして「(原爆投下に関する)一切の情報発表の権限は、陸軍長官(*スティムソン)および大統領だけに存する」と記しています。驚くべきことに、原子爆弾の効果について言論統制まで明示していたのです。」

核戦争、核兵器保有をしたい政治家、企業家、学者たちにとっては、都合の悪いものでもあったようです……。

この本では、こう書かれています。下「」引用。

「現在でも、「原爆が戦争を終らせた」「核兵器で平和が保持されている」「ならず者に対しては核兵器の先制使用も許される」など、一方的な見方が世界にふりまかれているという不幸な現実があります。」

これを『原爆神話』という人たちもいます。

index

合理化があるという……。下「」引用。

「原爆遺跡は戦後つぎつぎに消されてきました。それが、核兵器の開発や保有、さらには使用さえ合理化しようとする意図にもとづくものであることはいうまでもありません。」

合理化という表現はあっているのかボクには疑問です。

隠蔽化なら理解できます……。

原爆ドームについて……。下「」引用。

「戦後しばらくは、廃墟となったドームの壁面に、瀕死の被爆者が書いた絶筆や、行方不明の家族への伝言などがたくさん見られました。また、肉親を失った原爆孤児たちがいつか住み衝くようにもなっていました。そうした状況をとらえ、「汚い」「見苦しい」「嫌な記憶は早く忘れたほうがいい」などの口実で、ドーム撤去の動きが始りますが、原爆の被害を語ることさえ許されなかった占領下の1949年11月に市が行なった世論調査(発表は50年2月)では、ドーム「保存」を望むものが62%、「撤去すべき」という意見は32%という結果が出ています。」

原爆供養塔のある場所は「慈仙寺の鼻」と言われていたそうです。下「」引用。

「デルタの中島地区の先端に当たるこの付近に慈仙寺というお寺があり、人びとはここを、「慈仙寺の鼻」と呼んでいました。」

本川小学校平和資料館があるという。下「」引用。

「この本川小学校には、現在も地下室のある旧校舎の一部が平和記念館として残されています。先の証言者居森清子さんは、この地下にあった靴脱ぎ場で被爆したと思われます。
 この貴重な遺跡は、見学者にも公開されており、ここに入れば、地下室で焼け落ちた当時の配電盤などの遺物が見られるうえ、さまざまな資料に接することもでき、被爆の状況を知る助けとなるでしょう。」

広島城本丸広場には、大本営と第五師団司令部があったという。下「」引用。

「広島にあった「第五師団」の各部隊が訓練用に使用した東練兵場も終戦が近づくと演習はほとんど行われず、さつまいも畑になったり、機関車や列車の待避壕が造られており、食糧増産のために動員された中学生などが働かされたりしていました。」

御幸橋は、「ながはし」と言われていたという。

「京橋川最南端にかかるこの橋は1885年に木橋として掛けられ、94年、日清戦争にともなう明治天皇の来広に際して「御幸橋」と命名されました。しかし、地元の人々はその後も、市内で一番長い橋という意味で、それまで親しんだ「ながはし」の通称で呼びならわしていました。広島市中心部と宇品港とを結ぶ大動脈で日清戦争以来、多くの兵士がこの橋を渡って宇品港から「出征」していきました。」

被爆直後の御幸橋(撮影・松重美人)」の写真が有名ですね。

「残り少ない被爆橋」下「」引用。

「山門から猿猴川に出ると被爆当時の姿を残す〈猿猴橋〉、〈荒神橋〉が、少し西に行くと〈京橋〉があります。被爆当時の市内主要架橋は49橋でしたが、1996年現在当時の面影を残しているものはこの3橋を含めて7橋にすぎません。」



旧(軍用鉄道)宇品線跡











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